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実の娘にブスと言い続けるとどうなるかの話

親に「ブス」と言われたことがある女の子が世界中にどれくらいいるんだろう。

私の親は結構な毒親で殴る蹴る金を盗るは当たり前にしてきたが、私に唯一「ブス」とだけは言わなかった。「クソ女が」「アバズレクソビッチ」とかは日常茶飯事だったが、母親の顔が割と良かったのでそこだけは自信を持っていたのだろう。

ブスと言われ続けた結果、ぶっ壊れた人間を知っている。


私には父方に四つ下のいとこがいて、名前をMちゃんと言う。

Mちゃんは私の父親の姉の娘で、運動が得意な活発な子だった。「えなしゃん」と私を呼んで、とても慕ってくれた。私も彼女が大好きで、二人で会う時はいつも笑って、別れる時は涙を流していた。

Mちゃんの母である叔母は随分変わった人で、若くて綺麗な私の母親を酷く嫌っている器の小さな女だった。弟の結婚式に「アルバイトだから」といって休むようなイカレ具合であった。

しかし30代半ばで結婚すると人が変わったように子煩悩になった。まあ、閉店時間までパチンコ屋の駐車場で宿題をしていた私と比べたら随分と幸せな家庭っぽかった。

転機は、彼女に妹ができたことだ。たしか5つほど下だった気がする。

妹は、お世辞とも綺麗とはいえない夫婦から生まれたとは思えない美少女だった。鷹がトンビを生んだのである。

乳児の頃からこぼれ落ちそうな目とぱっちり二重を持っていた。インド人とのハーフのような感じだなぁどっかの男と浮気でもしたのかなぁ太ったら崩れそうと思った私と違い、祖母と叔母は狂ったように溺愛し、鼻高々になり、オーディションなども受けさせ、皆に自慢しまくった。

反対になぜか、姉を疎むようになった。「ブスのくせに」と当たり前のように口にしているのを聞いてしまったのが証拠である。

私は子供が好きな設定だったので、妹も普通に可愛がっていた。可愛がると叔母と祖母の機嫌が良かったのが1番でかい。

その姿を見てMちゃんは言ったのだ。「えなしゃんも妹の方が可愛い…?」と。

当時まだ5つか6つである。私はカーテンに隠れて泣きじゃくりながらそう言ったMちゃんをたぶん一生忘れられない。

私は彼女だけを可愛がることにした。Mちゃんだけが可愛い、Mちゃんだけが大好き。私だけはMちゃんが1番だよとひたすら言い続け、少しでも自尊心を取り戻せないかと努力した。叔母や祖母や妹の怒りを買おうが、私にはMちゃんだけが愛しかったのでなんの関係もなかった。Mちゃんは私の前では明るかったので、少しは落ち着いたかと安心してしまっていた。

しかし、小学校高学年あたりになると、親戚の集まりにも顔を出さなくなっていった。叔母の話によると、部活動が楽しいと言っていたので、まあそうなんだろうなぁと思っていた。

それから何年かして、祖母と祖父が叔母の家に住み2世帯住宅を始めた。そして事態は明るみになる。

なんとMちゃんは不登校になっていたのだ。

彼女はブスと言われ続けた結果見事に自尊心が崩壊し、顔面を人前に晒せなくなった。人前に出られなくなった。いじめなどでは無い、ブスと言い続けた親が彼女を殺したのだ。

何が部活動が楽しいだ。頭のおかしい叔母の言い分を信じ、放っておいてしまった自分を恥じた。

祖母の話はなにをしても聞いてくれず、やむを得ず私に助けを求めてきたので初めて事態を知った。

まずは会おうとしたが、叔母が私を嫌って合わせてくれなかったので、祖母に騙すように連れ出してもらった。

明るくて元気だった彼女はいなかった。

顔を隠すための貞子のような髪型をし、目は完全に死んでいた。話す時に目を合わせてくれなくなり、常にマスクとサングラスをしていた。

なんなんだろうこれは。一体彼女が何をしたんだ。彼女だってずっと綺麗だ。なのに実の親がこんな風にしていいのか。

泣きそうになるのをこらえ、私はとにかく明るく彼女に接した。全く会話はなかったが、少しだけ嬉しそうにしたのと、携帯を手にしていたので連絡先を交換できたのがせめてもの救いだった。

受験期だったが、私は極力彼女に会うようにした。その結果、私の前だけは笑うようになってくれた。

私と会うようになってからか、Mちゃんはあれほど嫌がっていた病院に通うようになった。案の定醜形恐怖症と診断され、抗うつ剤や睡眠薬を渡され、体のサイクルはめちゃくちゃになっていった。それでも、私と会う日は眠い目をこすりながらもきちんと来てくれたのが幸いだった。

その時期、ちょっと色々あって私は父方の祖母祖父に喧嘩を売り、ほぼ絶縁状態になった。祖母の協力が得られず会えない期間が長引き、2年後に祖父が死に、Mちゃんとはようやく葬式で顔を合わせた。

彼女は薬の副作用で10キロ以上太っていたが、私を見ると笑顔を見せる姿は健全だった。ただやはり学校には行けず、顔をマスクと前髪で覆うのは治っていなかった。

私はとにかくたくさん話をした。大嫌いな祖父の葬式なんてどうでもよかったので、とにかくこの機会を逃してはならないとたくさん話をした。高校生活が楽しいということと、大学への夢、趣味のこと、友達のこと。少しでも彼女が明るくなってくれればよかった。私のお気に入りの洋服を沢山押し付けてファッションショーをして、可愛い可愛いと褒めちぎって全部押付けた。飼っている犬も見せた。Mちゃんの妹には構うことなく、葬式の寿司を食べながら沢山話した。

マスクをいちいち浮かせて食べていたので、食べずらいだろうと別室で食べさせたら、すごく嬉しそうにしていた。

「親にはこの癖を怒られるから」

「親の元にいたらダメになること、気づいてる?」

「うん」

「早く独り立ちして迎えに行くからね」

「…うん」

「そしたら2人で暮らそうよ、きっと楽しいよ。冷蔵庫には食べ物たくさん詰めるし、本棚には新刊を入れるから」


楽しかった葬式が終わり、また会えない期間が続いた。

それからまた2年経って、私は家を夜逃げならぬ昼逃げをして出ていった。二度と帰らないつもりで。

「家出した✌️」とLINEをしたら、シンプルに「嘘でしょ?」と返ってきた。親が関係なくなったので会うことになった。

相変わらず彼女は前髪とマスクのスタイルだったが、バッグにアニメの缶バッジをつけたり、ホーム画面がすきなゲームの画面だったので趣味ができたことに内心喜んでいた。


変化はそれだけではない。彼女は定時制の高校に通い、本屋でアルバイトをしていたのだ。


「えなしゃんが高校は楽しいって教えてくれたから」

「えなしゃんが医療関係に行くって言ってたから、私もそれに近いものを目指したくて」


嬉しくて泣いたのはこれが初めてで、私は秋葉原のメイドカフェのトイレで声を殺して泣いた。そのあと嬉しさを食欲にぶつけて、デカすぎるご飯パフェをぺろりと平らげたら少し引かれた。


昨今、ブスという言葉をよく耳にするが、口にする人はどういう意味合いを持つ言葉なのかを理解して発して欲しい。1人の人生を潰すほどの威力を持つ言葉なのだ。彼女はようやく前を向いて歩き出したが、うしなわれた小学6年生から中学3年生までの期間は取り戻せない。

私が行った可愛い可愛いと言いまくり差別化をはかる治療方は多分気休めのようなもので、このような症状に悩んでる方は専門医に相談をして欲しい。たぶん、妹との仲を壊したのは私だ。覚悟を背負って差別をしたつもりだ。


私は今、就職活動をしている。すぐにMちゃんと一緒に暮らすのは無理かもしれないが、逃げれる家が欲しいので、一人暮らしも始めるつもりだ。

家出をしたと言ったら「そんなに辛い環境にいたのに気づかなくてごめんね」と涙を流してくれた。そんな心優しいあの子は、今日も私と同じように生きようと必死にもがいている。







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