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大切なことに限って言葉にならない


 どうでもいいことだったらいくらでも話していられるのに、重要なことについては口に出すのも難しい。というか、考えたくもないので遠回りする、追いつかれる、もっと早くに手を付けておけばよかったとか後悔して、でも今がそのタイミングなんだなって自分をなだめる。

 のも、全部バレてる気がする。傍目八目的な意味で。

(暇なんだね、って君は言うと思う。また余計なこと考えてるの、って。だけど、今、自分にはこれが一番重要で、このためならどんな重要な仕事もキャンセルするつもりだ。願わくば、最終的に宛先もわからないラブレターとか無機質な変容としての恋だとかそういう物語のプリクエルになってほしい)

 この文章何のために書いてるのか良くわかんない。でも、なんのためとかましてや誰のためとか、答え合わせはいちいちしなくてもいいんじゃないかなとか思う。少なくとも、自分のため。それでいい。

 疑いを持ったり、自身を喪失してからまた悪あがきし始めたり。そこからが本番なのかもなんて思ったり。自分じゃなくても別にいいけど、自分には自分しかないし。 上手に説明できることは大抵嘘だ。
 だから、びしっと決まってる説明を淀みなくデキる人は詐欺師だと思う。というか、自分も詐欺師みたいなものだ。心の底からどうでもいいとおもってたら、こんなふうに言葉にしようともしないくせにどうでも良くないから諦めたふりをしたりするのに。本気で正直に書こうとしたらとっ散らかる。だけど、文章だけで言いたいことが全部表現しきれるんなら、絵も音楽もやる必要がないだろうとも思う。その分ストイックじゃないとも言えるだろう。まあ、たしかに格好良くは無いね。
 でも、本当に思っていることは自分にもよくわからないだろうし、全部話す必要なんて微塵もない。やりたいからやる、に尽きる。
 臓器も自分という輪郭に収まっているからなんとなく自分だと思っているだけで、思考も脳も足も、その他諸々自分じゃない。自分は中学生の時、見えるものが総て平面で自分が自分じゃなく、家族も赤の他人に見えてずっと気持ち悪かったし、体は鉛みたいで、吐き気がしていた。だから、そもそも自分が自分であると思ってないし、アイデンティティは崩壊しっぱなしだ。
 あざとい、といわれたけど、自分を例えるならシャボン玉だ。
シャボン玉はシャボン液から呼気を入れられるまで未分化で色も常に違う。自分は自分の顔をよくわかってない。毎日別の人に見えてる。だからずっとこの世界に慣れないままだ。そういう人間がいることは意義があるかもしれない。全員同じ認知機能を兼ね備えていたら、全員同じ方法で崩壊するだろうから。実験用のモルモットみたいなものかもしれない。生きていくのに何ら問題は無い。シャボン玉みたいに自分が儚く美しいと言いたいわけでは全く無い。というか、シャボン玉がきれいだとか思ったことは桜をきれいだと思わないのと同様に無い。ありきたりで手垢のついた比喩だ。わかりやすいから出してみた。ただそれだけだ。
 他者に関しても見え方は似ている。みんなバラバラだ。手も足も。
ゲシュタルトなんて崩壊しっぱなしだ。家族は毎日機嫌が違ったし、言ってることも毎日変わった。契約で家族の中の人間すら変わる。今日の総理大臣は明日の極悪人で政治家をやめればただの人であるように、母親は母親でなくなる。だから、契約じゃない関係は美しいと思う。とりあえず、諸行無常だなんてもんじゃない。何が本当かなんてずっとわからない。だから、刹那を生きていくしか無い。選択する限り人生はギャンブルだ。
 途中までは誰かの言葉を自分のものみたいに振りかざしてなにか言ったような気になることもあるだろう。それを思い返して恥ずかしくなる瞬間とか、借り物であることすら自覚してなかったり。
 業みたいなものだと思えば楽なんじゃないかな。どこまで行っても切り離せないから、気が済むまで憎めばいいんだ。ここまでタイピングした言葉だって気が変わったら全部消すことだってできる。消そうが消すまいが一度言ったことは取り返しがつかないし自分にとっては意味があることでも他の人からは解決済みかもしれない。
 祖父の遺髪が入ったネックレスをここ数年つけっぱなしにしてた。昨日初めて外した。体が軽くなった気がした。物理的にネックレス分が軽くなったとかそういうことじゃなくて、自分ひとりになった感覚。だけど、いつまでも外せなかったのは、それが怖かったからだ。忘れることが一番怖いからネックレスという形に頼りたかったし、鎖の重さは常に背負っていたかった。でも、それでちゃんと現実に向き合ってたのかと自分に問うと、逆に逃げていたんだとも思う。記憶を外部化したかっただけと解釈することもできる。
正直、未だに悲しい、という感情を掴みきれてない。人が死んで悲しい、っていうのはやっぱり単純すぎると思う。ずっと世話になっていた人がいなくなる。死という形の別れと同級生に帰り際バイバイ、って言うのと大きな違いは無い気もするのだ。だから、出会っていないこと、曖昧なままのつながりを自分は大切にしたい。関係性に名前をできるだけつけたくない。その役割分担以上に繋がりがあったはずでも言葉による呪縛で変容するだろうから。

 毎日何かしらの墓標が建っていく。嫌な考え方かもしれないけれど、床に一本ずつ増えていくペットボトルとか、髪の毛とか、そういったモノ。そっちのほうが自分の本体みたいに思えるくらい生々しい重量感がある。

 輪郭を掴むためには、外堀から埋めていく必要がある。自分はよくそういうセコいやり方で外部のモノと距離を詰めていく。獲物との正確な距離を測るみたいに計算したい。狡くていい。傷つけないため、傷つかないための礼儀作法みたいなものだ。
 その外堀を埋める過程で自分を変えていく。それは成長とも呼べるかもしれないけれど、悪趣味だし潔くない。でもそれ以外のやり方はよくわからない。他人を頭の中で切り刻んで、要素に分解して、そのうちの好きなところを自分似合う形に変容させて飲み込んでいくこと。そうやって生きてきたし、これからもそうやって生きていくんだろう。他のやり方が都合が良くなったらその方法を採るだろう。対象にふさわしくなりたい、と思うのはエゴだけれど、同時に礼儀じゃないだろうか。演技、といえば聞こえが悪いが、あえて正当化するならば誰しもいくつもの仮面を持っているではないか。

一番言いたいことは、もしかしたら口に出すべきじゃないのかもしれない。その瞬間に嘘が混じって、鮮度が落ちてしまうから。本当はもっと違う物語で語ってみたいけれど、今はこういう形式でしか描けない。まどろっこしく、重複も多々あり、どもったり、不格好で。もっと上手いこと言ってる人はたくさんいると思う。ここまでを一言で言い表せちゃう人もいると思う。

だから、ずっとわからない今が一生分ある、ハズ。今は今しかない。過去も今はない。またこうやって逃げてる。いいたいことなんて初めから無かった気もしてくる。ずっと同じことを言ってる気もする。思考がカタツムリくらいの歩みなんだもん。しかも、同じところグルグルしてるし。螺旋階段って、そういう暗喩なのかな。

う〜ん。

またね。

そういえば、ケータイの待ち受けヘレナ・ボナム=カーターにした。スチームパンクとか、ゴスとか好きなのだ。ティム・バートン作品楽しい。


2024/07/09

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