辛亥革命を支えた日本人
250年以上も長きにわたり、中国に君臨した清王朝。
当時、中国で絶対的な権力を敷いていたその王朝にチャレンジした革命家がいた。
孫文だ。
彼は日本、アメリカ、イギリスと、飛行機もない時代に世界を飛び回り、
各地での遊説で革命同士を集め、
辛亥革命を成功させた。
中国初、民主主義の国「中華民国」ができあがった。
歴史の表舞台では、
清の皇帝が独裁する中国で、
国民が政治の主役である民主主義を実現させるための革命を孫文が成し遂げた、
で終わってしまうかもしれないが、
実は、陰ながら孫文の革命を支えた日本人がいたんだ。
梅屋庄吉。
孫文のことを人は「中国革命の父」と慕うが、
彼は、梅屋のことを「賢母」と称えた。
孫文が表立って革命を先導した父なら、
梅屋は革命を資金面で援助し陰ながら支えた母というわけ。
梅屋が共感した孫文の考えは、
「東洋を再び興そう。」というもの。
当時、中国はアヘン戦争で、日本は黒船来航で、
西洋の脅威にさらされていた。
清王朝も江戸幕府も自らの権威を示すほどの力は既に失っていた。
そして、
孫文の「日中両国がともに西洋に対して努力し、大アジアを復興しよう」という熱意に、梅屋は突き動かされる。
梅屋自身もとてもアクティブな実業家だった。
朝鮮への米の輸出、
東南アジアでのプランテーションの経営、
そして当時は高級品だった写真を撮影する仕事に落ち着く。
写真を撮影することができたのは、当時は裕福な貴族や政治の要人ばかり。
香港で写真館を経営していた梅屋は、孫文と出逢う。
彼は、資金面で孫文を支援しようとした。
その資金は革命の兵力や武器と、大きな力になる。
梅屋はより多くの資金を得るために、新しいビジネスにも乗り出す。
当時ではメディアの最前線、映画産業だ。
梅屋は人々が求めるものを追い求め続けた。
初代首相伊藤博文の葬儀や未だ見ぬ南極大陸など、
すべては日中、そしてアジアの再興のために奮闘した。
そして、運命の決戦。
1911年10月10日、武昌での蜂起に始まった辛亥革命は、一気に中国全土へ広がり、
見事、長きにわたる支配者だった清の皇帝を追い出し、
国民が主役の国、中華民国を樹立することができたんだ。
2人の夢が実った。
こうして、中国と日本が手をとりあって、
ヨーロッパに負けない東洋を実現できる、そう誰もが思った。
しかし、ふたりの想いとは裏腹に、時代は動いていく。
孫文の後を継いだ袁世凱は、中国で再び独裁政治を始め、
日本からは、1927年山東出兵によって中国に兵を送り、
満州事変、日中戦争とつづいていく。、
現在にいたっても、
お隣、中国との仲は決していいものとは言えない。
でも、日本や中国のような ひとつひとつの "国" として捉えるのではなく、
"東洋" という大きな視野で未来を見ていたふたり。
彼らを知ることで、
今の僕たちが目指すべき未来は一体何なのだろうか、ということを考える。
歴史には、まだまだ知らないことばかりが隠れている。
それを知れば知るほど、今の自分のちっぽけさに気づき、
未来へ突き動かされる。
そして、未来への活力になる。
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参考:
NHK 歴史秘話ヒストリア「激闘!中国革命に賭けた日本人 孫文と梅屋庄吉」
アカデミア世界史 時代と地域の羅針盤 (浜島書店)
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