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わかっちゃいなかった

関東もとうとう梅雨入りをした。
雨の日はあんまり好きじゃない。
晴れていると何となく安心する。
雨の日って、気持ちがざわざわしてしまう。

若い頃はこんなことはなかった。
雨の日はもちろん通学や通勤が大変だったし、特に雨の日の満員バスの匂いが嫌いだった。
それでも雨が降り始めた時の空気の匂いが好きだったし、傘に当たる雨の音も好きだった。

今は雨の日にはすべてが停滞してしまう気がする。
やる気もなくなるし、いろいろと変に考えてしまったりもする。

昨日のように身内からのちょっとしたクレームメッセージから、数年前のあれやこれやが次々と思い出されて、自分のやっていることが何一つ生産性のない意味のないことのように思えてきたりもして、いても立ってもいられないような気持ちになる。

こんな時思い出の中に、前に勤めていた時のご利用者の言葉や顔が浮かんで来ることがある。

「年を取るとね、さみしいのよ、周りの人がだんだん少なくなって…なんで残っちゃったのかなぁって」

表現は違えども、意味は同じであろう言葉を数人の方から聞いた。
その時、私はそういう心境を自分なりに想像して、うなずいていたかもしれない。
自分の拙い人生の中から共感できる経験を引っ張り出してきて、何か言葉を発していたかもしれない。

「さみしい」という一つの言葉に、その人生のステージごとの意味がある。
私はそのことを「何もわかっちゃいなかった」のだ。
私が発していた言葉はきっと本当に軽かったはずだ。
思いに寄り添おうといつも必死ではあった。
それは大事なことだと思う。
思うけれどやっぱり、わかっちゃいなかった…。

「光陰矢の如し」という意味も勉強したけれど、それも本当のところわかっちゃいなかった。
子供の時にはゆっくりだった時間の流れが、年齢を重ねるごとに早くなっていく。
子供の時は三輪車の時速くらいだったのが、きっと今は高速道路を走る車くらいになっているだろうと思う。

矢なんでものではないけれど、最近になって少しずつこの言葉がわかってきたような気がする。

これが、新幹線になり、ロケットになって最後は月に行くんだろう。

自分にとっての生きる目標って何なのかなぁ…って時々考える。
考えてなかなか見つからない。
子供の時は「大人になって楽しく暮らしたかった」し、若い頃は「仕事をできるようになりたい」「結婚して家庭を持ちたい」と思った。
家庭を持ってからはずーっと「子供を育てる事」が目標になっていた。

子供が大人になって、だんだん母親を必要としなくなった頃から、目標迷路で迷子になってしまっている気がする。

父が亡くなる前は、父が少しでも元気になって自宅に帰ってくるのが私の目標になっていた。
それは叶わないまま、今は母が少しでも元気になることが私の目標になっている。
これを目標に置くとしんどくなってくる。
根本的に良くなることはない。
以前の母はもう戻ってこない。
今、母に会えるのはうれしいけれど、少しずつ安定はしてきているけれど、そこに向き合うのがしんどいときがあって、日によっては食事介助から帰ってくるとぐったりと疲れてしまう。
それでも、この先にするかもしれない後悔を少しでも減らしたくて食事介助に通っている。


目標を見いだせない人生はなかなかさみしいと思う。
やっぱり、私は「わかっちゃいなかったんだ」とそこに思いが戻ってきてしまう。

明日明後日は雨。水曜日くらいから太陽が戻ってくるかな。
晴れれば少し気持ちが持ち直すと思うのだけど…。



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