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スタディ通信 23年7月号

暑くなってきましたね。
私は暑さよりも湿気にやられています。こう書いて気づいたのですが、年がら年中、気候のなにかしらにやられていますね。まぁ、虚弱なのでしょう。しゃーなし。



スタディのふりかえり

7月1日の『諸相』スタディでは「神秘主義」という広大なテーマを扱いました。
「神秘的体験」とはどのような要素がある体験なのかを定義し、それらの内実に接近するジェイムズの議論はなかなか刺激的で、この講は私も大好きな講です。

さてさて、AAの中でも「霊的体験・目覚めとはこのような体験である」というさまざまな定義があります。
ふと思いつくだけでも「人格の変化」「神を意識すること」「道徳的な自分になる」「愛を感じるようになる」などなどなど、人によってさまざまです。

私はそういった定義をあまり真面目に相手はしないのですが(どうでもいいから)、定義をつけたいときはジェイムズが引用しているJ・トレヴォーアという人物の手記を援用しています。
こんな文章でした。

「霊的生命は、」と彼は書いている、「それを生きている人々にとっては当然のことであるが、それを理解しない人々にはどう言えばよいであろうか? 少なくともこれだけのことは言えよう。すなわち、それはその体験がその所有者にとって事実において現実的であるような生命である。なぜなら、その体験は、それを客観的な現実の生活と緊密に接触させたときにも、決して失われずに残るからである。

(ジェイムズ 1970 : 210-211)

なので、私が誰かに「霊的体験・目覚めとはどんな体験なのですか?」と聞かれたら「体験すりゃわかるよ、しなきゃわからないよ」と答えるでしょうし、実際にそう答えています。

神秘主義の講でもジェイムズによって強調されていたように、その体験は全てを言語化することは不可能なのです。

1 言い表しようがないということ ——
私がある心の状態を神秘的として分類する場合に用いるいちばん手近な標識は、消極的なものである。この状態を経験した人は、すぐに、それは表現できない、その内容にふさわしい報告を言葉であらわすことはできないと言う。そうすると当然、その性質がどんなものであるかは直接に経験しなければわからないことになる。それは他人に伝えたり、感応させたりできないということになる。この特性から見ると、神秘的状態は知的な状態よりもむしろ感情の状態に似ている。ある感情を一度ももったことのない人に、その感情のほんとうの性質や価値を説明することは誰にもできはしない。あるシンフォニーの価値を知るためには、音楽的な耳をもっていなければならない。恋人の心の状態を理解するためには、自分自身で恋の経験をもっていなければならない。心情(ハート)や耳を欠いていては、私たちは音楽家や恋人を正しく解釈することはできない。そればかりか、音楽家や恋人のことを柔弱だとか愚かだとかと考えかねないのである。だから現に神秘家は、私たちのほとんど全部が彼の経験に対して一様に不当な扱い方をしている、といっている。

(ジェイムズ 1970 : 183-184)

まだ霊的な経験をしたことのない人は、それがどのような体験か知りたがるものですし、それは自然なことです。期待や不安が入り混じった感情を持っているのでしょう。私もそうでした。
ですが、カレーを食べればカレーの味を食べたことのなかった頃のように気にすることはなくなります。さまざまなバリエーションがあるにせよ「カレーというのは大体あの味」ということが経験として理解できるからです。
この経験による直接性が大切ですね。

しかし、カレーはカレーであり、刺身はカレーにはなれませんしなる必要もありません。カレーをカレーたらしめている要素、それはなんなのか。
そしてその要素が、どのようにアルコホーリクの回復に関わってくるのか

そんな12ステップにも深く関係するテーマを次回も扱います。
たぶん、夏バテでへろへろになってると思うのですが。


参考文献

ジェイムズ, ウィリアム (1970) 『宗教的経験の諸相 (下)』桝田啓三郎訳, 岩波文庫


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『諸相』スタディのシラバスやスケジュールなどは、下記公式サイトから。