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スタディ通信 22年9月特別号

昨夜はAA東京ビッグブック・スタディ・グループさんに呼んでいただき、出張『諸相』スタディでした。参加してくださったみなさん、ありがとうございました。



棚卸しの主目的

さて、昨夜のスタディではジェイムズの描く「回心現象」を取り上げました。そして、その現象はステップ3〜12とも関わりがあることを提示しました。

僕はステップ4,5の棚卸しにおいて「恨み、恐れ、罪悪感や後悔」といった悪感情を発見して、それをなくしていくことが棚卸しの目的だと考えていた時期があります。
アル中は気分が悪いとすぐ酒に走るので、たしかにそういった悪感情に対処していくことは、飲まないで生きるためには必要なことです。

しかし、スポンサーをやって他の人の棚卸しを見ていくうちに、恨みや恐れを見つけて取り除くことは棚卸しの主目的ではないことに気づきました。

ステップ3で決心したとおり、ハイヤーパワーを自分の人生の中心にするのに、邪魔になっているものを見つけるのがステップ4,5の主目的のはずです。たとえ恨みや恐れが少なくなっても、ステップ3の決心が実現していないならば、棚卸しの効果も得られていないということでしょう。

私たちはステップ3で、私たちの人生の中心に神を置こうと決心した。

ジョー(2007) : 94


しかし、私たちはステップ4,5になると、この決意をすっかり忘れてしまって、自分で自分を良くしようとしはじめることがとても多いですね。
ハイヤーパワーどこへ行っちまったんだ?という。


回心現象とその条件

さてさて、では、具体的に棚卸しではなにをすべきなのでしょうか。それを昨夜は、ジェイムズの回心現象の叙述と関連させて話しました。

ジェイムズは回心という現象を下記のように描いています。

さて、感情的な関心には大きな振幅がありうるし、焦点は、パッと燃え上がった紙を突っ走る閃光とほとんど同じように、素早く移動することがありうる。そのような場合、私たちが前講でいろいろと聞き知ったような自己の動揺ないし分裂があらわれるのである。あるいはまた、興奮と熱との焦点、目的を設定する観点が、恒久的に或る体系の範囲内にあるような場合もありうる。その場合、その変化が宗教的なものであるならば、そしてことにそれが危機 crisis によって、あるいは突如として、起こる場合には、私たちはそれを回心と呼ぶのである。
私たちは今から、人間の意識の焦点、つまり、人間がそれに自己を献げ、人間の活動の源となるような観念群のことを語る場合、それを人間の人格的エネルギーの習慣的な中心と呼ぶことにしよう。人間のもつ諸観念のこの群が彼のエネルギーの中心であるか、それをもあの群がその中心であるかは、人間にとってたいへんな相違をきたす問題である。そして、人間の所有するどんな観念群にしても、それがその人間のなかで中心を占めるか、末端にとどまるかは、大きな差異を生む問題である。ある人間が「回心」したと言うことは、これらの用語を用いて言えば、それまでその人間の意識の周辺にあった宗教的観念がいまや中心的な場所を占めるにいたるということ、宗教的な目的がその人間のエネルギーの習慣的な中心をなすにいたるということを意味するのである。

ジェイムズ(1969) : 297-298 


つまり、人格の中心が宗教的観念(ハイヤーパワー)に入れ替わることが、「回心」の本質なわけです。
ステップ3で行った「私たちの人生の中心に神を置こう」という決心は、このことを指していると理解できます。

ですが、私たちの人格の中心にはこれまで自分が培って握りしめてきた信念や確信といった「考え方」がどっかりと居座っていますし、それが正しいと思っています(多くの場合、自分を神に祀り上げているような考え方をしていることにさえ気付いていない)。

それをこんなアニメーションにしてみました。


まず、自己というものの中心には今まで抱いていた信念や確信(考え方)といったものがあります。それらを抱きしめたままでは、それらが邪魔をして、人格の中心点にハイヤーパワーに入ってもらうことはできません。

しかし私たちは、ステップ3でこれらの人格の中心点にある信念や確信といった考え方(私たちの意志)をハイヤーパワーに委ねる決心をしたのでしたよね。

私たちの意志 = 私たちの考え

ジョー(2008) : 49


なので、「人格の中心点の変化(回心)=人格の中心にハイヤーパワーにいてもらうこと」を得ようと願うならば、人格の中心点に居座っている、役に立たない信念や確信(私たちの考え)を捨てなければなりません(邪魔だから)。

ジェイムズは回心における自己放棄の必要性について、このように書いています。

第九講 回心
もっとも随意的におこなわれる種類の再生のなかにさえ、部分的な自己放棄の何節かがさしはまれている。そして大多数の場合において、意志が切望される完全な統一の実現に最大限度の力を尽くした場合でも、最後の一歩そのものは、意志以外の力にゆだねられねばならず、意志活動の助けなしに成しとげられざるを得ないように思われる。その場合には、どうしても自己放棄が必要になってくるのである。スターバック博士は言う、「個人的意志は放棄されなければならない。多くの場合において、人間が反抗することをやめるまでは、すなわち、人間が行こうと望んでいる方向に向かって努力することをやめるまでは、救いは頑として来ることを拒むのである。」

ジェイムズ(1969) : 313-314 


自己放棄(self-surrender)とは、自分が握りしめていることに直面し、そしてそれを放棄していく(否定していく)ということです。
自己放棄が成し遂げられると、神的な存在(ハイヤーパワー)と人は相互に交流するという、霊的体験(回心)が起こるという枠組みですね。

これが棚卸しを含めたステップ3〜12で、もっとも大切なことです。
確かに恨みや恐れはアル中に酒を飲ませますから、それに対処するのも大事なのですが、恨みや恐れを手がかりにして自分の自己中心性に直面して、人格の中心点に居座っている「自分のことは自分でできる」「人の努力で結果は得られるはず」などの自律的な確信や信念にヒビを入れていくことのほうが大切です。

それはジェイムズの言葉で言う「危機(Crisis)」を棚卸しや埋め合わせで意識的に引き起こしていくことにも繋がるでしょう。今まで自分が握りしめていたものの役に立たなさに直面するというのは、人格にとっては危機的なことです。しかし、それを避けるわけにはいかないのが12ステップです。
我々は、人格の中心に神にいてもらうことによって起こる霊的目覚め(ゆっくりとした回心)を目指しているのだから。


握りしめているものを捨てていくプログラム

上記のポイントを外して「恨みが、恐れが」と言っても、けっこうすぐ限界が来るように感じています。

日々気づきを積み重ねていったり、語りを積み重ねていったりするやり方は、12ステップの捨てていくやり方とは違うものなのでしょう。
また、自分の意志力や耐えざる自己啓発で、恨みや恐れをゼロにしても、それはまた12ステップの目的地とは違うでしょう。

けっこう、ここらへんの落とし穴にはまって動けなくなっている人は多いような気もしていますが。

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さて、人格の中心点にある古い確信や信念とは、どのようなものなのでしょうか。それは人それぞれニュアンスは違うと思うのですが、共通するポイントはあるようです。

それは、上記でも少し書きましたが「自分のことは自分でできる」という自律の考え方のようです。
私たちは「自分のことは自分でできて当然」といったような信念と確信で神を遠ざけてきたし、自分の不完全性からは目を背けて、他の人の不完全性ばかり裁いて恨み、恐れてきたはずです。
また、自分の不完全性から目を背け、自分には手に負えないこと(自分の人生や他者の人生をも指揮し・コントロールしようとすること)をしようとしてきたはずです。

そうやって、自分も他者も同じように不完全だし、自分を超えた力を必要としているのだということに直面することから逃げてきたわけですね。
そのような生き方をビッグブックは「神を演じようとする生き方」と表現していました。

そのような状態から、「自分のことすら自分でできやしないじゃないか」という事実に直面し、「自分のことすら自分でできないから、ハイヤーパワーを頼ろう」となるのが、自律(自分で自分の生き方を決める)から他律(ハイヤーパワーに意志と生き方を導いてもらう)への移行であり、回心現象(霊的目覚め)のキモです。
これは「受動性」という言葉で表現できます。

さて、ここまで見てきたように、ジェイムズの議論においては回心や祈りといった救済の経験に際して、神的な存在との出会いがある。この存在の真理性については判断が保留されているのだが、交流の経験自体は当人にとってまぎれもない事実である。したがって、考察できる範囲内では、救済の源泉を「交流の経験」に見てよいであろう。
ジェイムズはこの交流が、「能動的かつ相互的なときに現実化する」[VRE 417]と言う。しかし一見能動的な祈りも、その意味するところは自らを開くことであるから、その行為は能動的であっても、そこで生じるのは受動的な態度である。回心についても、「自己の明け渡し」という自らの行為によって受動性を生み出すということができる。すなわち、回心も祈りも、受動性を能動的に生み出すという点で同じ構造をもつものであり、それは結果として、神的なものとの交流によってより高い生を得ることにつながるのである。

林(2021) : 47


そして、ビル.Wが強調するように、霊的体験・目覚め(回心)というのは、敗北とそれを認めることを前提としたものです。

幸運はさらに続きました。エビーが『宗教的経験の諸相』という題のついた本を持ってきたので、私はそれを貪るように読みました。心理学者のウィリアム・ジェームズによって書かれたこの本は、回心の体験が客観的実在性を持ちうることを示唆しています。回心の体験は、人の動機を変え、半自動的に以前のその人には不可能だったあり方と行いを可能にするのです。ここで重要なのは、明白な回心の体験の大部分は、人生の主要な領域において完全な敗北を経た人に起きているということでした。確かにこの本はそうした経験が多様であることを示しているものの、それが明るいものであれ、暗いものであれ、あるいは大変動であれ、穏やかものであれ、あるいは神学的なものであれ、理知的なものであれ、そうした回心には共通の特徴がありました。それはそうした経験は敗北した人々を完全に変えてしまうことです。現代心理学の父であるウィリアム・ジェームズがそう宣言しました。その靴は私にぴったり合ったので、それ以来、私はその靴を履くように努めています。

ビル.W (1985)「アルコホーリクス・アノニマス、その始まりと成長」 心の家路


敗北という受動性を認め受け入れることにより、新しい自由が与えられる、これはAAの偉大な逆説なのでしょう。
私たちが取り組んでいるプログラムは、何かを得るよりも今あるものを捨てていく(否定していく)プログラムだということです。

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今の自分が握りしめているものを捨てていき(少しずつ否定していく)、ハイヤーパワーの助けを願い求めることによって、霊的体験・目覚め(回心)という現象は時には急速に、そしてほとんどはゆっくりと起きていくでしょう。
それが起きれば、私たちは、ハイヤーパワーの力によって、酒を飲まずに生きられるようになります。

それは多くのAAメンバーの実体験が証明していることです。

追記

なのでスポンサーは、スポンシーの恨みや恐れそのものばかりを見るのではなく、その裏にある古く役に立たなくなった考え方(確信・信念)をさがし出して、それにスポンシーを直面化させて上げる必要があるということですね。
またステップ10の日々の棚卸しでも、同様です。

これら完全にできた人はいませんが、目指す目標はそこだということです。

参考文献

ジェイムズ, ウィリアム (1969) 『宗教的経験の諸相 (上)』桝田啓三郎訳, 岩波文庫
ジョー・McQ (2007)『ビッグブックのスポンサーシップ』 依存症からの回復研究会
—— (2008)『回復の「ステップ」』依存症からの回復研究会
林研 (2021) 『救済のプラグマティズム』 春秋社


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