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スタディ通信 24年10月号

スポンサーシップにフォーカスしたスタディも2回目が終わりました。これをあと1,2回すれば、1-2日分のスライドができますので、オフラインでスポンサーシップにフォーカスしたスタディ・ミーティングが開けます。
そちらは来年になる予定。スポンサーやってる人のみを対象としたミーティングなので、スポンサーやってねえ人は関係ないです、知らん。



ふりかえり

今回のスタディでは、「聖徳」と「聖徳の価値」の講に基づいて、スポンサーシップにおいてスポンシーにどのような変化が起きなければならないか、をはっきりさせました。
なんか私がAAに来てかれこれ5年、スポンサーシップまでどんどん「なんでもあり」になっています。そして本来の効果を失っているという。これじゃ助かる人も助かりません。

スポンサーシップはフレンドシップでもなけりゃ、カウンセリングでも福祉でもありません。それは宗教実践の側面を本質として持っており、それを否定してはAAのスポンサーシップではなくなるのです。

『諸相』スタディ図番一覧より

『諸相』スタディでは上記のような図で、12ステップを『宗教的経験の諸相』の文脈を踏まえて明示しています。

ステップ1,2は「自分で自分を救うことはできない」という自己絶望であり、ステップ3-12は「自分という存在は信じるに値し、自分のことは自分でできる」という自律的信念の積極的放棄です。その結果として得られる性質は「受動性」です。

この「受動性」でこんがらがる人がけっこういるようです。以前も「受動性ということは、何もせずに寝転がっていればいいということか」という珍奇なご質問をいただいたことがあります。
まぁ、それならばブラックアウトして倒れているアル中は宗教的な高みの体現者となるでしょうね。んなわけあるかい。

受動性とは、生きる上でのさまざまな不条理や理不尽に対して、それらを自分を超えた存在との関係性において前向きに受け止め、そこに自分の生きる意味を見いだすような積極性をもった概念です。
ジェイムズは「受動性」、つまり回心を経て得られる聖者性について、以下のようにまとめていました。

一、この世の利己的な卑小な利害関係から成る生活よりももっと広大な生活の中にいるという感じ。そして、理想的な力 Ideal Power の存在を単に知的に知るばかりでなく、いわば感覚的に感じているという確信。キリスト教の信仰においては、この力はつねに神として人格化されている。しかし、抽象的な道徳的理想でも、市民的または愛国的ユートピアでも、あるいは神聖または正義に関する内的ヴィジョンでも、やはり、私が見えない者の実在に関する講義の中で述べたような仕方で、私たちの人生の真の主であり拡大者であると感じられることができるのである。

二、理想的な力と私たち自身の生命との間に親愛な連続性があるという意識、そしてこの力の支配に対して進んで自己を放棄しようという気持ち。

三、閉鎖的な利己心の外郭がとけてゆくにつれて、無限に意気が高まり自由になったという感じ。

四、感情の中心が調和のある愛情へと、つまり、非我のもちだすさまざまな要求に対して「ノー」を言わず「イエス、イエス」と答える愛情に移っていくこと。

ジェイムズ (1970) : 29-31

四、にあるように自分を超えた存在の要求に対して「イエス」と答えるようなおおらかな積極性がそこにはあります。

逆を言えば、スポンシーにそれが見られないのならば、12ステップの効果は得られていないということ。もしそうならば、そこでスポンサーはステップを引き返すか、スポンサーシップを中断するかするといいでしょう。
まぁ、スポンシーさんは次のスポンサーで上手く行くかもしれないので、引き際が大切です。

・ ・ ・

ほんでなんだっけ、あと「英雄主義 heroism」というジェイムズが最も重要視する受動性の現れかたも強調しました。
ここはジェイムズ宗教論のプラグマティックな白眉といえるポイント。

英雄主義の中にこそ人生最高の秘密が隠されている、と私たちは感ずる。どんな方面であれ英雄主義の素質を全然もっていないような人間を私たちは我慢することができない。それに反して、ほかの点でどんな弱点をもっていようとも、ある人間が、自分の選んだことのためには喜んで死を賭そうとするならば、そればかりか、そのために壮烈な死を遂げるならば、その事実そのものがその人間を永久に聖化するのである。あれこれの点で私たちに劣っていても、私たちの方は生命に齧りついているのに、彼のほうは生命をまったく顧みず、「一本の草花でも投げ捨てるように生命を投げ捨てる」ことができるとしたら、私たちはその人間を、もっとも深い意味において、生まれながら私たちより優っているものと考える。私たちはめいめい、高潔な心で生命に無頓着であることは、自分のすべての欠点を償うであろうことを、みずから感じているのである。
このようにして、かかる形而上学的な神秘、すなわち、人間を食物にする死を食物にする人間こそ、もっとも高くすぐれた意味で生命を所有し、宇宙の秘密な要求にもっともよく応ずる人であるという神秘は、常識によって認められているもので、この真理のために禁欲主義は忠実に戦ってきたのである。十字架の愚は、知性には不可解なものであっても、あくまでも不滅の重大な意味をもっているのである。

ジェイムズ (1970) : 162−163

自らの身をなげうって宗教的な何かに殉じようとする姿勢、自らの本能を充足させることを超えて利他へと進むその姿勢をジェイムズは heroism と呼び、受動性の現れである聖者性の性質のなかでも特別に評価します。

そりゃそうです。この社会は利潤動機が大きな力をもっており、富の消費と蓄積が称賛されます。しかし回心を経た者はそれを完全にはよしとせず、自らの不利益をあえて選択し自分の信じる神の概念に従う。それは自己犠牲の姿であり、プラグマティックに高い価値のある実践です。

スタディのなかではコルベ神父を紹介しました。

第2次世界大戦中、コルベ神父はナチス批判の咎によりアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に収容されました。そこで餓死室送りになる収容者の身代わりになり、処刑されました。
「私が彼の身代わりになります、私はカトリック司祭で妻も子もいませんから」という言葉が伝わっています。彼は死後、ローマ教皇パウロ6世から聖人に列福されました。

彼の行為は人間の持つ全ての生存本能に逆らう行為です。彼の自らを身代わりに差し出す行為は、宗教的自己犠牲そのものでしょう。

私が最近のAAで流布する許せないフレーズのひとつに「自分を大切にする人だけが、他者を大切にできる」というものがあります。
AAの外でそのフレーズが語られるのは関知しませんが、AAは宗教とジェイムズの『諸相』から学んだheroism をその核に持った団体です。共同創始者のビル.Wもドクター・ボブも、極めて不完全な人間ではあっても彼らの自己犠牲を貫いて、無名のままAAで財をなさず死んでいきました。

コルベ神父のような、またそれよりずっと見劣りはしますがビル.Wやボブの示した自己犠牲が「自分を大切にするため」のものだったのでしょうか。まぁ、彼らが自分を大切にするなら、自分に課せられた十字架なんぞほっぽって安楽を求めたでしょうよ。
何が「自分を大事に」ですか、恥知らずもほどほどにするべきです。自分を大事にせずとも、AAのプログラムは実行可能です。いやむしろ、自分を大事にする人間に12ステップは、特にステップ12はできません。

夜中にアル中からの電話で叩き起こされたり、成果の出ない活動に身銭を切ったり、人生の貴重な時間を名声にもならず理解もされない活動に投じる。それらの自己犠牲なしに12ステップの実践は不可能です。
それらの実にならない自己犠牲を支払った人間が謙遜の実践として「これは自分のためにやっているのです」と言い、AAで自分を救ってくれた偉大な力に栄誉を帰すのです。ここがわからず「自分を大事に」なんていう輩は、ただの恥知らずです。恥じ入りなさい。

・ ・ ・

という感じでいつも通り私の嫌味と皮肉でスタディは終わりました。
図説するとこうなります。

『諸相』スタディ図番一覧より

上記は、心の家路さんの図にステップ12を加えて図を更新したものです。

現在地、つまりアルコホリズムという死に至る病にいたアル中が12ステップを経て目的地、つまりアルコホリズムからの解決である霊的体験・目覚めを得ます。
しかしAAプログラムはそこで立ち止まるものではありません。自分が得た解決を、今苦しむアルコホーリクに伝えるために、その人はAAを作っていくのです。その様子は、ビッグブックの第7章に活き活きと描かれている通りです。

そのステップ12、つまりAAを作る道のりはその人の得た信仰の証しとなります。この「証し works」はもともとキリスト教の言葉ですので、詳しく知りたい方は下記著作をどうぞ。私はまだ読んでないけど(小声

はっきりと言えばステップ12とは証しという自己犠牲を核にした宗教実践なのです。福音伝道と言い換えてもいいでしょう。
かといってAAは宗教ではありません。AAには特定の神概念は存在せず、教義も礼拝も聖職者も礼拝施設もないからです。しかし、そこには宗教の持つスピリチュアリティが本質としてあるのは否定しようのない事実です。

だからみんなやらないのです、啓発活動や社会活動で映えないから(だからAAの回復ができない)。
しかし、スポンシーが何らかの小さな自己犠牲を払いながらAAのメッセージをAAの外に届けないならば、そのスポンサーシップはやはり失敗です。スポンシーさんに霊的体験・目覚めは起きていないということです。この点も強調しました。
AAの霊的体験・目覚めは、それを得ると今苦しむアル中にそれを手渡そうとする意欲が生まれるものです。

さて、ここまで踏まえるとAAの「12の伝統」もよく理解できるでしょう。
「12の伝統」の伝統5と12には何と書いてありますか?そこには無名性という自己犠牲に留まりながら、AAの解決を届けて行く(ステップ12)ことの意味と意義が明記されていますね。
これは福祉にも医療にも包摂されることのない、AAの持つ大切な資産です。

5.アルコホーリクス・アノニマスの各グループは、いま苦しんでいるアルコホーリクにメッセージを運ぶことだけを本来の目的とした、霊的共同体であるべきである。

12.最後に、アルコホーリクス・アノニマスの私たちは、無名であることには霊的にはかり知れない重要性があると信じている。それは個人よりも原理が優先していること、本物の謙遜が実行されなくてはならないことを、いつも私たちの心にとどめてくれる。それは、私たちが受けた偉大な恵みに決して甘んじることなく、私たちすべての者を導く神への感謝の思いのうちに、永遠に生きるためである。

AA12の伝統(長文のもの)

自分を捨てて命を得るのがAAメンバーです。忘れないようにしましょう。

参考文献

ジェイムズ, ウィリアム (1970) 『宗教的経験の諸相 (下)』桝田啓三郎 訳, 岩波文庫


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『諸相』スタディのシラバスやスケジュールなどは、下記公式サイトを確認してください。