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スタディ通信 23年8月号

なんか先月に「夏バテでヘロヘロになってるだろう」と書きましたが、そんなこともないです。けっこう毎日体調よく過ごせています。
これもいろんな方が毎日心から私の幸せを祈ってくれているからなのでしょう、感謝感謝。



スタディのふりかえり

さて、感謝とかどうでもいいのですが、昨夜は『諸相』スタディで神秘主義と12ステップの関連性について取り上げました。

『宗教的経験の諸相』では数々の神秘体験の体験談が引用されますが、昨夜は祈りという行為における神秘的体験の話でしたね。
そして昨夜のセッションは以下の引用のような結論で終わりました。

ジェイムズは祈りを、「神的と認められた力との、あらゆる種類のない的な交流や会話」[VRE 416]だと言う。また別の箇所では、祈りは「私たち自身を開く措置」[VRE 461n]とされ、あるいはF・マイヤーズの言葉として「開かれて真剣な待ち構えの態度」[VRE 418]という表現が挙げられている。つまり、ジェイムズの言う祈りとは、自発的に自己を開放し、交流が起こるのを待つことなのであり、この時の自己の解放を「神的な力にまかせること」だと見るなら、これは先に見た回心の場面を思い起こさせる。
回心と祈りは一見、別の種類あるいは逆方向の経験のように見える。しかしこうしてその内容をつぶさに見るなら、回心における「自己の明け渡し」と祈りにおける自己の開放は同様の事態である。そしてこれがうまく働いた場合に、「意識の神秘的状態」が生じるのだと考えられよう。
さて、ここまで見てきたように、ジェイムズの議論においては回心や祈りといった救済の経験に際して、神的な存在との出会いがある。この存在の真理性については判断が保留されているのだが、交流の経験自体は当人にとってまぎれもない事実である。したがって、考察できる範囲内では、救済の源泉を「交流の経験」に見てよいであろう。

(林 2021 : 46-47)

林先生がまとめられているように、『宗教的経験の諸相』において祈りは救済(AA的にいうと霊的体験・目覚め)の一つの体験として取り上げられています。では、なぜそれが12ステップと繋がるのか。

12ステップのステップ11では自分を超えた力に日々の生活の中で祈り黙想をすることが提案されています。
その祈りと黙想の中には、ジェイムズの言う神秘主義の要素、つまり自分を超えた力と直接にふれあい、体験し、一体になる(合一)ような要素があります。


私たちは「○○をください」とか「○○になりますように」とか「欠点や恨みを手放せますように」などと祈ることがあるでしょう。しかし、それは祈りと黙想のほんの一部に過ぎません。

AAのアル中がステップ11に取り組むことは、広大な「祈り」という領域の入り口に足を踏み入れることです。
しかし私たちはすぐに「祈りとはこういうことだ」と祈りを定式化、端的に言えば矮小化してしまいます。祈りとはミーティングで話すこと、黙想とは仲間の話を聞くこと、、、、それらも祈りと黙想という広大な領域のほんの一部に過ぎません。

AAの恩人であるユング博士はビル.Wにこのように書き送っています。

アルコールへの渇望は、深いレベルで、全体性を求める、古くさい言葉で言い換えるなら神と一体となることを求める、私たちの存在のスピリチュアルな渇きに等しいのです。

心の家路 「ビル・Wとカール・ユング医師との往復書簡

祈りと黙想において、アル中が抱える「神と一体になる」という神秘的な欲求が満たされる。ユング博士の言葉からステップ11を解釈するならば、そのようにも言えます。
それは「恨んでいる人のために」とか「仲間のために」などの祈りとは、質の異なる深みがある祈りと言えるでしょう。

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次回は神秘主義のまとめを片付けて、「哲学」へ入る予定です。お楽しみに。

参考文献

林研(2021) 『救済のプラグマティズム』 春秋社


リンク

れまでのスタディ通信の一覧はこちら。


『諸相』スタディのシラバスやスケジュールなどは、下記公式サイトから。