見出し画像

ハムレットの苦悩と運命への問い ─反復する神話と人間らしさ

『ハムレット』を久々に観劇してきた。
シェイクスピアの名作に改めて触れて感じた事を雑多に書きます。あくまで素人の書いていることなので、誤読などあればコメントでご指摘を願う。

まずはシェイクスピアにおいて最も有名な台詞に注目するところから始める。

生か死か

To be, or not to be, that is the question:
Whether 'tis nobler in the mind to suffer
The slings and arrows of outrageous fortune,
Or to take arms against a sea of troubles,
And, by opposing end them?

Hamlet ACT III Scene I

生か、死か、それが疑問だ、どちらが男らしい生きかたか、じっと身を伏せ、不法な運命の矢弾を堪え忍ぶのと、それとも剣をとって、押しよせる苦難に立ち向い、とどめを刺すまであとには引かぬのと、一体どちらが。

『ハムレット』福田恆存訳. 新潮文庫 p.79

"To be or, or not to be" が「生か死か」と訳されている。それぞれが何を意味するか、それは後を追う台詞が説明する。

❶ 生⇨じっと身を伏せ、不法な運命の矢弾を堪え忍ぶこと
❷ 死⇨剣をとって、押しよせる苦難に立ち向い、とどめを刺すまであとには引かないこと

❶❷どちらが "noble" か、これをハムレットは問うている。同訳では、「男らしい」と訳されているがこれは当時の世界観では "noble"と「男性性」が繋がっていたことを含意しているのだろう。現代的に解釈すれば、「尊い」「高貴な」という意味合いが適切だろう。

現王であるクローディアスが、自分の父を暗殺することによってその地位を手にしたことをハムレットは知っている。彼は❶じっと身を伏せ、不法な運命の矢弾を堪え忍ぶ、❷剣をとって、押しよせる苦難に立ち向い、とどめを刺すまであとには引かない、このあいだで苦悩している。

この苦悩は〈運命〉〈内・外〉いうキーワードで図式化できないだろうか。

〈運命〉に従い、復讐心を内的に留める
〈運命〉に抗い、復讐心を外的に表現する

自分の思いを内的に留めていることは〈運命〉に抗うことにならないというのは、示唆的なように思う。他人に認められなくてもいいという価値観へのアンチテーゼとして読める。他人の評価をに目を向けず心内世界に籠ってしまった人間の没落を描いた作品は枚挙に暇がない。(他人を評価を気にする/しないという二元論で考えるのは他者を均一化する故に起きる悲劇だ)〈運命〉に抗うためには内的にとどまっていてはいけない。では、〈運命〉とは社会的なもの。他者のいる場に変化を起こさなければ〈運命〉には抗えない。

キリスト教における復讐-汝の敵を愛せ

〈運命〉に抗うには他者がいなければならない。ここで少しハムレットが抗おうとした〈運命〉とは何だったのか問うてみる。キリスト教の世界観における復讐とはどのような位置づけだったのだろうか。

目には目、歯には歯人の目をつぶした者は自分の目で、人の歯を折った者は自分の歯で、つぐなわねばならないと命じられたことを聞いたであろう。しかしわたしはあなた達に言う、悪人に手向かってはならない。

『新約聖書 福音書』塚本寅二訳 岩波文庫 Kindle位置 No.4283

キリスト教の世界観において個人による復讐は御法度である。悪人は神が裁くからである。現在の裁判という制度が神の裁きというアイデアから実装された歴史を踏まえても、個人が他者を裁くことはあってはならなかった。それはハムレットが抗う〈運命〉の文脈として意味があっただろう。

寄り道 〈運命〉に従い、復讐心を内的に留める生き方としての『ヴェロニカは死ぬことにした』

少し寄り道をしたい。
〈運命〉に従い、復讐心を内的に留めるという選択肢がいかに苦しいか。行為と心が引き剥がされることの不健全さを説いた作品がパウロ・コエーリョ『ベロニカは死ぬことにした』である。
主人公のベロニカは睡眠薬を大量に飲んで自殺を図ったが、死にきれず精神病院で過ごすことになった。その中で彼女が変わっていくという話だ。
私は、精神病院の医者のセリフが忘れられない。

人が自分の本質に逆らうのは、人と違ってもいいという勇気にかけるからで、そうしたら、器官はヴィトリオル、というか、その毒としてよりよく知られる、憂鬱を生み出すんだ。

『ベロニカは死ぬことにした』. 江口研一訳. 角川文庫. p.206

人と違ってもいいという勇気にかけるから、人は他者と同じように振る舞う。ハムレットで言い換えれば、運命に従う。自分の振る舞いが自分の本質に逆らうと人は憂鬱になり、ベロニカのように死に向かう。

先ほど、ハムレットの苦悩を〈運命〉〈内・外〉いうキーワードで図式化したが、〈内・外〉を分離して、操作できるという❶の選択肢はベロニカの辿った道である。〈内・外〉は分かち難い。外的振る舞いは、内に侵食し、内なるものは外へ漏れ出す。

運命に抗おうとするハムレットはどこまでも運命論者である

人文知を学ぶことは、自分を相対化し続けることだ。「教養は人を自由にする」といった決まり文句がある。それは自身が囚われていた価値観から教養が「それは絶対ではない」と解放してくれるからだ。ただ全ての価値観が相対化された中でも人は意思決定をして生きていかねばならない。なんて不自由なことだ。

自分に何か信念があったとして、それは必ずしも正しくないことだと人文知は語る。その緊張の中で私たちは生きる。
自分の信念が強い程にその妥当性を検証する自分が激しさを増す。

これは神を失った近代的苦悩だと換言できる。ハムレットに見出されるのは、そのような苦悩だ。

ハムレットは物語最終盤で仇であるクローディアスを殺害する。運命に抗い、外的な表現として復讐を実現したのである。ただハムレットという人物は物語を通して、運命論に貫かれている。だからこそ、それを乗り越えたのかと思わせるほどである。

My fate cries out,
And makes each petty artery in this body
As hardy as the Némean lion's nerve.

Hamlet ACT I Scene IV

おのれの宿命がはじめて目をさましたのだ。体内の血管は力に満ち溢れ、ニミアの獅子のごとく、それ、このように張り詰めている。

同訳 p.35

Till then sit still, my soul: Foul deeds will rise,
Though all the earth o'erwhelm them, to men's eyes.

Hamlet ACT I Scene III

が、それまではじっと心を落ちつけて。どんな悪事も露顕する。硬い大地が結束して、それをひたかくしに隠そうと、所詮はむだだ。

同訳 p.25

クローディアス殺害後、ハムレットも毒の剣の深傷によって生き絶える。
今際の際でハムレットは、こう語る。

Heaven make thee free of it! I follow thee.
You that look pale and tremble at this chance,
That are but mutes or audience to this act,
Had I but time (as this fell sergeant, death,79
Is strict in his arrest), O, I could tell you,—
But let it be. Horatio,
Report me and my cause aright
To the unsatisfied.

 Hamlet ACT V Scene III

天も、その罪を、お許しになろう! あとから行くぞ……(倒れる)もうだめだ、ホレイショー。かわいそうな母上、さようなら! どうした、みんな、顔色を変えて震えているではないか、黙劇の役者よろしく。それともこの大芝居の幕切を見物しようとでもいうのか。ああ、もう間にあわぬ。死の使いが情け容赦もなくおれをせきたてる。話しておきたいこともあるのだが──どうともなれ。ホレイショー、もうだめだ。せめて、お前だけでも、生きて、伝えてくれ、事の次第を、なにも知らぬ人たちにも、納得のいくように、ありのまま。

同訳 p.182

"But let it be"、この台詞は運命に身を委ねているように読めないだろうか。ハムレットならここで、饒舌に語って死んでもよかったように思う。運命に抗うか否か苦悩したハムレット。そして運命に抗い復讐を果たした。その全てが何故か運命的であったように思えてくる。

この物語は神話的である。王子の受難、それを乗り越えることが共同体の再生に繋がる。それはクロノスを討ち取ったゼウス、ライオスを殺し自らの目を潰したオイディプスにも見れる神話的構造の反復である。

運命に抗うことも運命に回収される。この袋小路は再三指摘されてきた人間の在り方である。それは『進撃の巨人』のような漫画をとってもそうである。

運命に抗うから正しい。そして間違える。
ハムレットとエレンの神話的反復

運命に抗うこと、それも終わってみれば運命だった。人間が抗えず反復するもの、その結果が悲劇であろうと喜劇であろうと、それは運命的と言われるものだし、神話的とも言えよう。

繰り返される神話は現代でどう語られているのか。社会学者、批評家である宮台真司は、漫画『進撃の巨人』の中に神話の構造を見ている。

最後にエレンがミカサに介錯かいしゃくしてもらうのは何故か。それを僕らが納得しながら受け容れるのは何故か。そう。自分は「仲間のために」最終解決を行うが、にも拘わらず、否、だからこそ間違っているからだ。これは、普遍の摂理を徴候的に──もやもやとした未規定な形で──示す神話だ。繰り返す。これはどうとでもあり得る物語ではない。神話なのだ。

『進撃の巨人という神話』. 宮台真司. blueprint. p.23

エレンは「仲間のために」地ならしを起こす。世界を敵に回す。その強い受難があったからこそ世界は再生する。彼は正しく、だからこそ間違っている。レヴィ=ストロースの神話分析で言えば二項対立を中和する媒介物である。ハムレットは、「父のために」叔父クローディアスを殺す。運命に抗い、壊れた世界の因果を戻そうとする。その彼の受難があったからこそ共同体は浄化される。彼はキリスト教世界における掟破りだ。だからこそ間違っているし、だからこそ正しい。ハムレットの苦悩を近代的な苦悩の萌芽と形容もできる。ただこれは人間が社会的な存在である限り反復され続ける脱歴史的な神話なのではないだろうか。

遡行的に訂正される運命-魔術の正体

運命に抗う、ただそれも運命であった。何故そんなことが起きるのか。運命とは常に遡行的そこうてきに見出されるものだからである。これも運命だったのだと。事後的に見取られるも、まるで今までもそうであったかのように。だから抗った行為が運命で〈あった〉と後からの言及になるのだ。

ただ、運命ないし神話的反復は一定のパターンを持っていることも確かである。何でも運命だったと言われるわけではない。ただそれが運命の名で呼ばれるかは後になってみなければ分からない。

私はハムレットの苦悩に見えるパターンは脱歴史的な神話だと書いた。脱歴史的というのは、言い換えれば普遍的ということだ。人文知を学ぶことは、自分を相対化することだ。この神話的反復が普遍的という言葉を担えるかどうかは勿論検証の余地がある。ただ今の私には、オイディプス王ーハムレットー進撃の巨人と時代を超えて描かれているこのパターンは人間の普遍的側面を描いているように思える。主人公の受難、その乗り越え、それが正しくも誤っているというこの構造をいま、事後的に神話的であり、普遍的であると私は読んでいる。これは私なりの提示である。

幸福に生きること、人間的に生きること

生か、死かの話に始まり。『ハムレット』における運命に抗う苦悩とそれを回収する事後的に見取られる運命、その構造が反復される神話だとここまで書いてきた。
人間は他者と共に生きるしかない。共同体の中で生きること。君が抗うのは、いつだって他者、共同体にあるものだ。
「一番の敵は自分自身」と言ったりするが、それは自分に内化している他者のことを言っているのではと思う。ただ一方で自分なんてかっちりあるわけではない。自分がどういう人間かだって、事後的に見出されるに過ぎないじゃないか。そして見出すのは他者だ。そんな世界で苦悩せずに生きるのは難しい。ただ苦悩し続けることが、人間的に生きるということなんだと。




この記事が参加している募集

今月の振り返り

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?