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深掘り・楽典講釈#1 はじめに

 楽典の勉強の前に、音楽を学習するものにとって非常に重要なことがあります。それは、私たちの接している音楽が「西洋音楽」だと言うことです。

「音楽」とは 

 「音楽」という言葉は「西洋」の音楽を指しています。

「音楽の授業」や「音楽やろうぜ!」とか、「音楽好きですか?」で使われている「音楽」という単語は、クラシック音楽だったりポピュラー音楽だったりしますが、いずれの場合も「西洋」由来の音楽を指します。
「音楽やろうぜ!」と言って尺八やお箏などの邦楽を演奏することなどは、まずありえません。つまり、日常的に使っている「音楽」という言葉は暗黙の内に「西洋音楽」を指しているのです。

 まずは、この認識を持ってもらいたいのです。
音楽は、西洋音楽のことであり、ほぼ外国語と同様な事物であることを強く認識してもらいたいのです。

音楽の故郷イタリア

 さらに、私たちの学ぶ「音楽」は、西洋、つまり「特定の時期と地域の文化」を指しています。私たちが演奏をするクラシック音楽の領域はバロックまでです。それも、ヴィヴァルディ(1678-1841)、スカルラッティ(1685-1757)、バッハ(1685-1750)など、今日演奏されるのは音楽史の区分としては「後期バロック」あたりまでです。

 1600年代からの初期のバロックでは、それ以前の「ルネサンス期」の音楽要素を色濃く残しています。
 3声部以上の対位法的技法を活用したポリフォニーの声楽曲です。メディチ家がイタリアで隆盛を極めたルネサンス期、音楽に限らず、芸術や社会はイタリアで開花しはじめたのです。そうした隆盛の中に音楽もあり、そのため、音楽用語はイタリア語が現在でも使われているのです。

 こうして誕生した「イタリアの文化」としての音楽のもとは、その後、モーツァルトの時代にまで続きます。映画『アマデウス』の中でも、「音楽家=イタリア人」という公式が明確に描かれています。しかし、その後音楽史上では、その中心地がドイツに移り、ベートーヴェンによって大きく発展していきます。そして、「音楽家=イタリア人」の公式は、その後、音楽の広がりとともに薄らいでいきます。ちょうど、私たちの国の「柔道」と同じです。オリンピックの種目になれば「日本のお家芸」柔道も国際化し、それと共に柔道は世界中に普及していったのです。


西洋音楽の流入

 では、この「西洋」の音楽はいつ頃日本に入ってきたのでしょうか?

 大きな出来事は2つ。
 まず1つ目の出来事は、1549年にフランシスコ・ザビエルによってキリスト教が持ち込まれたときです。このとき、キリスト教儀式に付随するものとして、西洋音楽が宣教師達により持ち込まれました。また、同時に、それらを伴奏する楽器も持ち込まれています。
 キリスト教の布教に力を貸した織田信長に対して宣教師達は、1582年、安土城大広間で感謝の意を込めた音楽会を開催した記録が、『信長公記』や、宣教師フロイスの『日本史』第34章に記載されています。ただ、どちらにも何の曲を演奏したかは記載されていません。演奏者が宣教師であったと言うことを考えると、宗教曲を中心に、当時流行っていた世俗曲も何曲か演奏されたと推測できます。
その点において、織田信長は日本で初めて本格的な西洋音楽に触れた人物と言えるでしょう。

 本当の意味で、日本に「西洋音楽」が持ち込まれたのは、1853年、浦賀にペリー代将の率いる黒船が来港したときです。これが2つ目の出来事です。
ペリー代将の上陸に先立ち、軍楽隊が先導します。ペリーの移動の度に先導する軍楽隊の大音響が、当時の江戸市民の間でも噂になったという記録が残っています。ここから日本人の「ブラス好き」がはじまったという研究もあります。

 1868年の明治維新の後、富国強兵でよく知られる鉄鋼業などだけではなく、明治政府は、人々の内側から西洋に追いつかせる精神を育む政策として「医学」と「音楽」に力を入れました。なかなか良い政策だと思います。
 しかし、それまで鎖国をし、西洋文明を敵視していた人々を、突如180度変えることは無理と考え、国民全体に西洋化を普及させるのではなく、何の先入観も持たず、次代を担う子供達の教育に西洋を普及させ、西洋化を加速させようと考えました。その目的ため、1879年、現在の東京藝術大学音楽学部の前身となる音楽教育機関「音楽取調掛」を設立し、1887年には「東京音楽学校」となりました。その第1の目的は全国の尋常小学校の音楽科教員の養成でした。
 たとえば有名な瀧廉太郎(1879-1903)もそのひとりです。

 瀧は東京に生まれ。その後、父親の赴任にともなって大分に移り住みます。東京音楽学校本科と研究科を修了し、優秀な成績のため、文部省の国費でドイツ・ライプチッヒ音楽院に入学します。しかし、到着間もなく結核が発病したため、わずか1年ばかりで帰国。その1年後、故郷大分でなくなっています。
 瀧のような優秀な人物は、東京音楽学校でさらに後進を教育していたと思います。そうして、教育を受けた音楽学生は全国の地元に戻り、小学校で音楽教師を務め、西洋化への重要な一翼を担っていました。

音楽にとって重要な宗教

 西洋との間には、言語をはじめとした大きな隔たりがあります。
社会習慣、特にその根本となる「宗教」の存在があります。日本では現在、全国民の約1%しかキリスト教徒はいません。西洋音楽が、おもにキリスト教の上に成り立っていることを考えると、本当の意味で西洋音楽を理解できているのか疑問です。
 たとえば、キリスト教には、バチカンを総本山とする「ローマ・カトリック」、マルチン・ルターの宗教改革により誕生した「プロテスタント」、そして、キリスト教初期を形成し、その後東方へ進出していった「正教」系の3つに大きく分類することができます。まず、この知識が日本人にはありません。

 そこで質問です。
「大作曲家、そして生涯を教会に捧げたバッハは、どこの宗派(?)に所属していたのでしょうか?」
 日本の音楽家は、この簡単で、重要な質問に答えられません・・・。
 海外の教会でコンサートを開こうとした音楽家や留学生が、宗派の違う作曲家の曲を演奏しようとして断られるシーンを多く見ます。バッハはプロテスタントに所属しています。カトリックでは演奏されません。さすがに大バッハはカトリック教会でも若干は演奏され、カトリック信者の演奏家も少しは演奏しますが・・・。


そして・・

 このように日本は「音楽」を約150年前に本格的に受け取りました。
その際に、急いで翻訳する必要があったので、楽典としてまとまっていた雅楽の用語を使い、残りは意味も考えず直訳で対応したのです。しかし、キリスト教文化も西洋的な音楽習慣もない日本では、デラシネラで、意味も分からず訳されたものが今でも多く存在しています。(広く言えば、そうしたことは楽典の範囲だけではなく演奏や解釈、作曲や研究にまで存在しています。)

 真の音楽を求めるのならば、音楽自体の学習と同様に、語学や宗教に対する学習(体験)も必要となります。

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