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ショートショート「幸運の矢」

 男は丘の公園に立ち、夕暮れに染まる町を見つめていた。

 小さな家々の合間に、大学病院の棟がどっしりと構え、夕日を遮っている。

 男はその両腕の筋肉が膨れて震えるほど、力を込めて大きな弓を引いていた。

 学生の頃から弓道で使い慣れた道具。その矢先をどうして住み慣れた町に向けているのか、男自身も分かっていなかった。これはとても曖昧な夢だった。


 矢先の標準を病院の前の横断歩道を渡る長い水色のスカートの女性へ合わせる。ゆらゆらとした人影を、男は細めた目で見据えている。

 このまま右手を離せば、矢はひとっとびに女のもとへ飛び、その体に突き刺さるのだ。
 絶対にこの手を離してはならない。
 矢を人に向けておきながら、男の心はそう強く念じていた。 男の頭の中に、しわがれた婆の声が響いた。
 「矢を放て。放たねば死の病がお前の体をどこまでも虫喰むであろう」
 男は病院の部屋の一つへ目を向けた。望遠鏡を覗いた時のように視界が膨らんでゆがみ、めまいがする。やがて慣れてくると、病院の壁が透け、ベットに横たわる人影が見えた。それは男自身だった。青白い顔で酸素マスクをつけて眠っている。
 「そんな……。私の命はどうなるのです」
 「そなたの蝋燭の火は、まもなく消えよう。しかし矢を放てば別だ。助けてやる」
 声がはっきりと聞こえ、男は焦った。これは悪夢だ。だがもし正夢となれば、本当に死は近いのではないか。 
 早まる脈拍は緊張のせいなのか、病室にある本当の体の中で、今この瞬間もも心臓が死に向かって急いでいるせいなのかは分からない。
 男はついに、弦を引く右手を離した。
 ばちん、と弓がしなり、白い羽のついた矢が、男の頬をかすめて飛び出す。
 ぐんぐんと伸びやかに進んだ矢は、夕暮れに染まる家々を越えて遠く、女性のもとまで飛んでゆき、胸に深々と刺さった。

 「ああ、やってしまった……」

 思わず男は両手で目を覆った。しかし指の間から見えた光景は驚くものだった。
 女の胸に突き刺さった矢は、光り輝いた。きらめく粒子はふわりと女性の周りを自由に漂ったかと思うと、そのまま体の中に吸い込まれるように消える。そのまま何事もなく散歩を続けるスカートの人影を見て、言葉を失った男に、婆の声はは朗らかな笑いを響かせた。 

 「命中じゃ。お主は弓の名人じゃの。矢はまだまだあるぞ」

 気づけば右手には十数本の矢が入った矢筒が握られている。矢のひとつひとつが、しなやかな竹で出来ており、白い羽根の毛並みがつやめく。矢先は鋭く、美しい。

「これは一体何の矢なのですか」

「ふつうの矢ではない。幸運の矢だ」

「……幸運」

 男は吐く息をふるわせ、両手に均一な力を入れて、矢をつがえて弓をひいた。

 きりきりと弦と弓が悲鳴をあげる。
 標的を定める。次は、病院前を通りかかった大型犬連れの男の背中。

 「命中じゃの。実に見事じゃ」

 射抜かれた人間は、やはり無傷でぴんぴんとしている。犬連れの男は、先ほど矢が刺さった水色のスカートの女と、病院の前の道でかち合った。射抜かれた二人は、出合い頭に、ぴったりと寄り添って腕を組んだ。その仲睦まじい様子を男は羨望の気持ちで見つめ、それからはっと気がついた。

 「そうか。これは恋の矢じゃないだろうか。僕は弓道の腕を買われて、キューピッドの命を受けたわけですね」

 頭の中にもう声はしなかった。
 残りの矢は十数本。男は思案すると、矢を無駄にすることなく、全てを人に当てきった。




 「久々の外はいいでしょう。晴れて良かったですね」 

 看護師に車いすを押されて、男は病院の中庭へ進んで太陽の光に顔をしかめた。柔らかな風を感じて、気分が良い。

 病状が少し軽くなったのは、あの夢を後からだった。

 ふと、中庭の端のベンチで座る水色のスカートの女に見覚えがあり、男はそちらを凝視した。
 隣に座るのは、今日は犬を連れていないが、射抜かれた男に違いない。 

 ふたりは仲睦まじく手を取り合い、微笑み合っている。
 「沢山のお見合い相手の中から私を選んでくれてありがとう。私が退院したら結婚式ね。楽しみ」
 「楽しみだな。僕は勤めている動物病院の医院長になるように理事長に言われたところなんだ。結婚式までに仕事をある程度片付けるよ」 

 恋の矢の効力はすさまじい。

 男は何度も看護師の顔を仰ぎ見た。

 あの夢が本当なら、花のようないい香りがする彼女に刺さったはずの恋の矢が、そろそろ男と彼女を結びつけても良いはずだった。
 「あの、」
 何か言いづらそうにする可愛らしい声に、男は看護師を見上げた。とうとう、矢の効力が出始めたか。

「私はあなたの担当を今日限りで外れます。実は、看護師長に昇進しまして……」
 思っていたのと違う。男が身を固くすると、白衣の医者がこちらに歩み寄ってきた。
「ここにいらっしゃったのですか。

 実はあなたの病気に効くかもされない試験薬が開発されまして。テスト段階なので副作用もあるかもしれませんが…」

「副作用は嫌です、痛いのですか」

「当然痛いですが、これは不治の病と言われた病気を治療できるようになる、歴史的な一手になるかもしれないのですよ!あなたなら若いし体力もまだまだある。あなたの意思を尊重しますが、ぜひ、この大役を引き受けていただきたい」


 男は金色に輝く矢が自分の胸に刺さっているのを見た気がした。

 そうか。これは、恋の矢ではない。白羽の矢だ。

 我ながらあっぱれな程に、胸に真っ直ぐに刺さっている。

 男は医者の前で、渋々と頷くしかなかった。

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