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憧れの「土喰う生活」

 昨日、映画「土を喰らう十二カ月」を見てきた。それ以来、なんか私は焦っている。小説家の水上勉さんの晩年のエッセイ『土を喰う日々』を元にした物語で、二十四節季に合わせ、若くない小説家の日々が淡々と描かれていた。
 水上勉さんの短編集『寺泊』などは私も読んだことがあるが、それほどの強い思い入れもなく、ただ予告編を見て気になったので、何の下準備もせずぼんやりと見ていたのだが、途中から、座禅の警策(きょうさく)で、背中の後ろからバーンと叩かれたような気がした。そして、じりじりじりと焦ってきた。なんだろう、この焦燥感。
 というのも、最近、なんか料理がめんどくさくなってきて、特に焼き魚などは行きつけのスーパーの総菜を買って温めるようになっていた。じぶんで焼くより焦げもなく、ふっくらしておいしく、なんといっても魚焼きグリルの片付けがやっかい。今、書きながら気がついたのだけど、八月、九月と、長い旅行に出て、外食が続いたせいかもしれない。それならいいけど、あるいは、脳がゆっくりと衰えているとしたらコワイ。
 食事の支度はさまざまな能力を使う。献立を考え、食材を買い、あるいは旬の食材を見て献立をひらめき、家計も考えて材料を買い、それらを調理し、後を片付ける。頭も使うし身体も使う。実は、我が母も、年をとるにつれ、できあいの総菜を買う比率が増えていった。料理が得意で、父が亡くなってから、五十代で調理師とふぐ取り扱いの免許をとり、さまざまな飲食店で働いた人がである。膝が悪くなったせいだと本人が言うのを信じていたが、思えば、あれが母の老年の始まりで、私があれっと思った最初だったかもしれない。
 それ以上に焦るのは映画の主人公の暮らしぶりに対してである。家庭菜園で野菜を育て、山に入って、春は山菜、秋はきのこを取りに行き、おくどさんで米を炊き、拾った梅で梅干しを漬ける。しぜんと身体が動き、お腹が減る。自然の中で生かされて生きる。そんな理想的な人間の暮らし方を映像で見て、いい大人になって、毎食、楽をしようとしているじぶんはダメだと思った。雑な暮らし方をしているから、書くものも底が浅い。先日、新潟日報の「甘口辛口」という長く続く名物コラムを書かせてもらったが、映画を見ているうちに、背筋に冷たいものが走った。
 映画館を出たあと私はにわかにスイッチが入り、地場産のうまいものが置いてあるキタマエというありがたいお店で鯖の一夜干しとむかごを買い、スーパーウオロクで鷹の爪を買った。何度も挫折しているが、またぬか漬けに挑戦しようと、これまたにわかに思ったのだ。浅はかである。
 それにしても、映画に出てくる主人公の家は、そのまま住みたいような、私にとっては理想の住まいだった。実際は長野は新潟市内の比ではなく底冷えがするし、これから年をとるにつれ、雪かき不要のマンションでないと私はおそらく暮らせない。五十代でそういう選択をしたのだけど、やはり、理想の生き方を目の当たりにすると、これでいいのかと考え始める。
 ラクすることは決して楽しいことではない。じぶんの生き方を、それでいいのかと警策で背中をどやされた感じが、まだ続いている。やれやれ。

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