雑記

(※一応、公的な役職に就いた場合の弁明として。この記事では私が人間嫌いであるとの話をしますが、正確に言えば権力的人間、つまり「強い」人間が嫌いなのです。強さの定義は敢えてしません。自分よりも弱いものに対し、実力を行使する局面における強者の全てを嫌悪します。そして、平時より強者として存在する全ての人間を嫌悪します。私の思い描く動物権は動物全てに与えられる権利であり、人間も内含されています。そして、権利とは弱者が強者の搾取を受けないための保護機構として用いられる概念的制度、又は倫理的自制機能です。なので、私は全ての人間を嫌いというわけではなく、何らかの理由で社会に虐げられる全ての動物は私の愛するべきところなのです。)

なぜ動物権思想に目覚めたか。

特別な経験や背景があるわけではない。
動物と強い関わりがあったわけではない。
家にはワンコがいるが、それも全く特別なことじゃない。

でも、なぜか自分はワンコが家族になったことによって、無意識的に動物権思想を観想するようになり、その考えが絶対的に正しいことに自信があるから、この探究を進めてみようと思った。

大人になって痛感することがある。
人間社会は平等じゃない。

顔が良くなければいけない。
背が高くなければいけない。
運動ができなければいけない。
頭が良くなければいけない。
人の輪に入れなければいけない。
体力がなければいけない。
精神力が強くなければいけない。

人はなんでも持っているわけではない。
何かが欠けると、欠けた部分の弱みをいつも誰かが突いてくる。

欠いても生きていける要素はあるが、
生存に不可欠な要素もあるだろう。

人の輪に入れず、体力もなく、精神力もない人がいれば、彼はおそらく普通に労働することができない。つまり、収入を得ることが難しいのだ。

そう言う人のために生活保護があるが、あれだって条件がいろいろあるので、誰でも受給できるわけじゃない。

何かを成し遂げても、また次、もっと次と、成し遂げるべきことが提示され、それが達成されないと周囲から小言を言われる毎日。

人間社会の中で、私はあまりうまく行かなかった。

京大に首席で入学した。
人生はもう勝ち確定だと思っていた。

だが、違った。
就活では(留年していたこともあるとは思うが)、意中の優良企業には内定をもらえなかった。
最初に入った会社はクソ職場な上に、最高につまらなくてくだらない仕事の連続で、この会社はただ「労働者」を求めているだけで、個人の適性を見たりはしないんだなと言うことを悟り、アホらしくなってすぐ辞めた。

短期間での退職だったので、転職では非常に不利で、ちゃんとした会社への転職はほぼ無理だと言うことになったし、フルタイム勤務でまたくだらない仕事だったらどうしようという不安が強かった。バイトなら嫌になったらすぐ辞めるが、正社員ともなると、辞めるのも面倒である。転職活動してみるにはしたが、本当に転職する気は実はあまりなかったかもしれない。

新卒就職を初動でミスった人間には、労働市場での成功がほぼクローズされる。まぁ、一度の大きなミスでキャリアが閉ざされるのはどこでも同じなので、この部分でギャーギャー言う気はない。

そして、就活時もそうだったが、転職時も頭を擡げる志向が、「したくもない仕事を毎日朝から晩までする理由は何か」という問いである。
(多分就活生ならば誰もが一度はぶつかる哲学ではなかろうか?大多数の人はこの哲学を乗り越え、サラリーマンへと進化していく。毎日一生懸命働きながら、昇進や結婚、子供が産まれ、家を買い、子供を良い大学に入れ、気づいたことには定年だ。これが日本における「幸福人生モデル」だったと思う。しかし、皆がこの理想を手に入れられるわけではないし、このモデルの通りの人生を歩んでも、定年後にアホみたいにレジャーに精を出す老人、地方移住したがる老人を見るところ、本当はもっと違う理想が心の中にあったのではなかろうか、とも思ったりするのだ。)

生きるお金のため?
(扶養家族はいないので、家族を守るためというオプションはありません。多くの就活生はそうでしょう。扶養家族のある人は自分を犠牲にして過労死寸前まで働くべきです。)

でもそんなに生きたいわけじゃないし、、、
自殺する理由もないんだけど、生きる理由もそこまでないという状態、

まるでふわふわ浮いたクラゲのように人間社会に漂っていた

いや、自殺だって考慮していた。(そのために登録販売者という薬の資格取って、致死自殺法を探っていた時期もあった。)

もし、何の苦痛もない自殺法が開発されたなら、、、
多くの人が自死を任意に選択する、

そんな時代だって来るだろう。
(スイスにはそんな機械があるそうで)

人間社会における強烈な挫折、疎外感、

自分勝手な人間たち、横柄な人間たち、

社会に出て初めて分かったこと、

人間は醜くて、欲深くて、くだらない生き物だと言うこと。

びっくりするほど、愚かで、自分勝手で、意地悪な人間が多い事に、私は驚愕し、失望したものだった。

育ちだけは良かったので、周りにはあからさまに性格の悪い奴がほとんどいなかった。
だから、「社会」と言うものに出て初めてクソみたいな人間共を大勢目の当たりにすることになった。耐性がなかったのだ。

ただ、全ての人間をここまでクズに成り果てさせる最たる物はお金だともすぐに見抜けた。

悪いのは資本主義なのだ。

資本主義は人間をより狡猾に仕立てている。

「嫌人思想」、反資本主義の思想を脳内に形成した私は、すでに人間社会で通用する人間ではなくなりつつあった。

そして、そんな社会でなおも生き続ける理由もなく、天と地の間に宙吊りになったまま、日々どうしようもない思索などをして過ごしていた。

ある日、家にワンコがやってきた。
動物はどちらかと言うと苦手だった。
汚いし、野生的だし、何より知性(理性)のない愚かな生物に過ぎない。と勘違いしていた。だから、苦手だった。

だが、小さなワンコがやってきて、こいつはこれからこの家で暮らしていかないといけないのか、と思うと、こいつも人間社会の犠牲者なのだ、と憐憫の情が湧き、とりあえずこいつが毎日楽しく過ごせるようにしてやる事だけは自分の義務だとも思った。

どちらかと言うと、自分は動物は人間の下位存在だと思って疑っていなかったし、

オーストラリア留学時には、捕鯨食鯨に反対的なオーストラリア人と少し意見をやり合わせたりもしたくらいだ。(鯨を捕獲して殺して食べる、これは日本の伝統であり、牛や豚を食べる君たち西洋人に批判される謂れなどないのだと。君たち西洋人は他の文化の無理解者で、文化破壊者であり、そして常に優生思想的であると確信していた。)

だが、ワンコと暮らすとわかることがある。彼らは非常に直線的で純粋である。そこには欺瞞も悪意もない。目はいつも澄んでいて、視線は真っ直ぐである。ああ、他の動物もそうだ。猫も牛も馬も豚も。みな、暴力的な欲望を原動力に悪の限りを尽くし、そのことに鈍感なまま幸せそうな顔で死んでいく大勢の人間よりも、その他多くの動物の方が存在としてよっぽど素晴らしいじゃないか。

そう思えた。

ヒトよりも優れている。

しかし、

ヒトの自分勝手なルール、法律とやらによると、

彼らはモノだと言うのだ。

モノだから、所有権が発生し、


所有者はモノを破壊(殺害)、放棄(遺棄)、売買が自由にできると言うのだ。

やっと長年苦しんだ答えを見つけた気がした。


ああ、やはり自分は正しかった。

ヒトとは間違いなのだ。
ヒトの関わる事は間違いなのだ。

間違いがこの地球の支配権を握ってしまった事、これは地球、その中の自然、生物にとってナチス期のユダヤ人の境遇と同様の不幸なのだ。

そう理解した瞬間、長年頭のどこかに突っかかっていたものが取れた。
自分の生きる理由はこれなのだと。
人間の間違いを正すための何かを為すために
自分は存在させられたのだと。
その日から急に目的意識が眼前に現れ、
生きる活力が湧いてきた。

(適宜割愛)

人権という概念があるが、動物にも権利を認め、人間と同等まで引き上げる。
それにより、モノ扱いをされてきた動物たちをまずは人間から保護する事。
そのための理論を構築すること。
それが自分の存在に意義があるとすれば、唯一のものである。

否、理論は構築するものではない。
もう存在している。

ルソーやロックなどよりもはるかに崇高で精緻な動物権思想体系はすでに存在している。

言語化されていないだけである。

私はそれを言語化していく作業を進めていく事にした。
だが、進捗は思わしくない。
必ずしも、考えて進めるものではない。

歩いていたり、自転車を漕いでいたりする時に無意識に浮かんでくる思想をどう言葉にすれば良いか勘案しながらスマホにメモを取る。

それだけでも足りない。
動物権思想体系に私は大まかな章分けを施し、章下もさらに節、項を想定はしているが、全体像自体に未知なので、思想だけを断片的に受け取る状態では言語化のみが可能なだけで、体系内での位置付けを正確にできない。また、同じような思想分野でも時が経てばさらに洗練されて受け取ることがある。完璧主義者の私は、今の段階が完全形であるとの保証がない限り、もっと正確な、説得的な、または先進的な思想が、言語化がありうるのではないかと疑心してしまい、作業を進めない。

それでも、時間は有限なので、不完全でも進めないといけないとも思う今日この頃だ。

やる事が他に出てくるとそう思う。
雄大な思想は雄大な有閑にこそ生まれる。

ギリシアで哲学が発展したのは、人類史上稀に見る有閑階級の発生があったからである。(それを支えたのは奴隷だったので、現代において真の意味で哲学を成しうるのは労働の必要性のない有閑階級や労働を免除された非補助階級のみかもしれない)

雄大に理論を展開するために、私にはもっと心を落ち着け、地球自然や宇宙にまで意識が届く環境(こぢんまりした都会ではなく)、ある程度お金の心配がなくなる半名誉職的な地位、不労所得のような収入源が必要かもしれない。面倒ではあるが、そう言ったものを作ることも今後の目標として考慮に入れたい。

「普通」の人生はもうとっくに詰んでいるので、私らしく、私なりの行程を踏みたいと思っている。自己のためよりも、他者のために。これがなかなか難しい。他為業務を行うこともあるが、お金が発生するビジネスの一環である場合、お金の発生なしにやってあげる事が難しくなる。自分には造作もない行為、最初から持っている知識、それを授けることには何の労力もないとしても、ビジネスではそれをタダで提供することは許されないだろう。当然なのだろうが、その辺も自分にとっては業務の最初の葛藤ではあるのだ。

個人事業をしているが、ビジネス観念が著しく低レベルなので、早くこの状態から抜け出す必要があると思う。もっと戦える役職が欲しい。もっと伝統や固定観念、差別や迫害と(実質的な)対決ができる役職が欲しいと思う。それが何なのかはよく分かっていない。これなのかな、と言うものはあるが、なってみないと実情も分からないのが、人間社会の常なので。

今年の目標
①動物権思想体系の理論構築にもっと注力する
②合理的でない条件を付けず、チャレンジできるのならば、チャレンジする

以上





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?