動物権規定を憲法に盛り込むことは実現可能か?

動物権を認めた憲法を持つ国家は現状一つもない。

近い部分で言えば、ドイツは憲法にあたる基本法にて、動物保護を明文化している。しかし、この条文は国家に動物保護に関する施策実施の義務を与えてはいるが、真っ向から動物の権利を認めたものとは解されていない。

しかし、ドイツは動物愛護の観点、さらには動物の権利に関する法学上の最先進国であると言えるから、ドイツの事例を元に動物権の憲法における可能性について考えてみたい。

西欧は、未だに思想分野、または社会成熟的な側面で世界の先進であり続けている。

みなは経済的な側面、文化発展的な側面から、ヨーロッパよりもアメリカ、中国、日本などをそれらよりも超越した存在に見做しがちであるが、国家において最も重要な側面は社会思想的に成熟した文化を持っているか、ではないかと私は考える。

著名な哲学者と世界有数の富豪のどちらが人として優れているか、というのと同じかもしれない。人によって答えは分かれうることは認める。

日本においては、あまり先進的な法制などは見られず、いつの時代も西欧に遅れ、西欧の振りを見て我が振り直すの精神から脱却できないような感じがして、個人的にはこれからの日本の法制的主導性に期待したいところである。

発展途上国は置いておくにしても、経済的には先進国の地位を占めるはずの国家、特にアジア国家が、西欧諸国のような先進的な思想を生み出し、社会に取り込むことのできない理由は、(無論要因は多岐に渡るとは思うが)アジア人特有の集団主義的な思想にあるのではないかと思っている。私たちの周りを見ていると、みな歳を取るにつれて、普通が良いという病にかかっていき、独創性や奇抜性というものを嫌い、排除しようとしていく。現実性や社会適合性ばかりが重要視され、気がつくと通り一遍の会社員生活を終え、定年退職するというわけだ。それも幸せの一つであり否定するつもりはないが、どんなにいい教育を受け、どんなに素晴らしい才能があっても、この画一的な社会構造に嵌め込まれて人生を終えてしまうという日本社会の構図では、斬新な発展性が涵養されないのではないかと心配になるところである。

しかしながら、上記、動物愛護に対する先進的思想を有するドイツにおいて、ある日その思想が急に勃興し、人々に伝播したのかと言えば、どうもそうではないらしい。ドイツにおいて動物愛護、動物保護の思想が法制度として組み込まれたのは本当に偶然的な出来事であったのだということを最近感じた。

☆ドイツの動物立法について☆

世界で最初の動物保護法は、ドイツで発布された。この立法者は、悪名高きナチス政権である。

先の大戦では散々ユダヤ人やポーランド人、障害者やLGBT連中を大虐殺したような悪人たちが、なぜ犬っころなどのために法律を作ったのだろうか??

答えは簡単。

ヒトラーが犬好きだったからだ。
アドルフ・ヒトラーは実は大の犬好きと知られている。(真偽の程は、彼の分析伝記本でも参照してほしい。彼の犬好きエピソードは多数ある。)

ヒトラーの生涯を辿ってみるとわかるが、彼は人嫌い、社会嫌いの側面があり、言ってしまえば極度の社会不適合者だ。

彼の演説の才能を認め、その思想を称賛する政党がもし存在しなかったとしたら、彼はホームレスとしてその生涯を閉じていたに違いない。それくらいに社会への適合性には弱い人物であったと思う。

だが、社会不適合的なある種の精神疾患を持ち、多くの挫折を経験したものが達するある境地がある。

それは人間の否定、人間社会への強烈な疑問、そして人間社会で虐げられる動物の本質的な素晴らしさへの理解、である。

言葉にするのは難しいが、人間嫌いにとって、動物が人間に劣等する存在ではないという確信を持つことは難しいことではない。

よって、あれほどまでに人間の命を軽視したヒトラー、ナチス政権が動物保護の立法を行うが如きは矛盾するようで、実は合理的なのである。

しかし、動物保護立法がこうして成立したのは非常に奇跡的であると言える。

動物保護法とは、つまり人間の動物利用等を制限するもので、基本的には人間社会において人間以外の利益を想定し得ない立法行為において、動物の利益を優先する立法は(特に戦前では)基本的に成立不能である。

黒人、アジア人、奴隷に対してさえ、ある一定の権利を付与するのに膨大なエネルギーを費やしたことを考えれば、声を上げ、デモを起こすこともない動物の利益など誰も興味がなく、誰も興味がない立法を政治家が行う意味もないのである。

だが、①人間嫌いにより人間の利害を一切考慮しない(ヒトラーは極度の民族主義者であり、アーリア系民族の利益については誰よりも考慮したことは付言しておく)人物が、②ほぼ100%の支持率で国政を掌握したこと、この①②の事実が重なってはじめて、世界で最初の動物立法は成立し得たのではないだろうか。

私はそう推測する。

だが、動物保護方は所詮一法令である。動物保護をより強い効力で打ち出すには、やはり憲法への規定が必要である。

ドイツ基本法において、動物保護が追記されたのは、直線的な動物愛護思想というわけではなかった。

あらすじは以下である。

ドイツは、西欧でも多くの移民を受け入れる国家である。そして、特にイスラム教徒のトルコ系移民が増加している。(サッカードイツ代表で言えば、エジルやギュンドアンなど)

ドイツでは、戦後もナチスの動物保護法が引き継がれた。動物の屠殺に際して、動物保護法は動物に苦しみを与える屠殺方法を禁止し、ドイツの屠殺では麻酔処置を施すのが一般であったという。

一方、イスラム教では、戒律として、死肉を食べることを禁じるという。つまり、死んだ動物を解体して採った肉を食べられないということだ。ではどうするか?

生きている状態で切り刻んでいくのである。
さながら、中国の凌遅刑のような様相を呈するわけである(犯罪を犯したわけでもないのに)。

動物愛護の精神が浸透しているドイツ国民は、勝手に移住してきたイスラム連中に、そんな野蛮なことは辞めろ、宗教戒律がなんであれドイツにするのであればドイツのやり方に従うべきである、と言った。

つまり、このハラールに準拠した動物の生き殺し肉加工をドイツのある州の裁判所は違法と判断したのだ。

それに対して、勝手にドイツに入ってきたトルコ人どもはなんと言ったか。


ドイツ憲法には信教の自由の規定がある。イスラム教ではこれが正当なのだ。生き殺しを違反だとする裁判所の判断は違憲だと主張したのである。

信教の自由は、日本国憲法では精神的自由権に属し、人権の中でも最上位に保障される権利の一つである。ドイツでの位置付けはわからないが、おそらくドイツにあっても信教の自由はかなり保障の強い権利なのだろう。

イスラム教徒どもに対して、ドイツ人は少々分の悪さを感じはじめた。

なにせ、憲法上の権利と、一法律に過ぎない動物保護法の保障では、裁判では勝負にならないのだ。

だが、もちろんドイツ人さんも、ああそうですか、とはならない。

よそもんに残酷なことを国内で大っぴらにされてはたまったもんじゃない。

世論は、動物保護の規定を憲法に盛り込むことで、奴等に応戦しようではないか、ということになってきた。

実際、憲法に動物保護規定を入れる議論は、世論的に大きな賛同を得ていたようである。

そして、晴れて世界でも最初の憲法上の動物保護規定がドイツ憲法に誕生したということである。

つまり、動物を保護したいという純粋な思想の勃興というよりは、

好しがらざる移民の蛮行に対する憎悪と国家をそうした蛮行文化から守護しようとするイデオロギーのようなものが大きな原動力になって、この憲法改正は実現されたと言って良い。

つまり、ドイツほどの国家であっても、なんらかの事件がないと動物立法は議論として立ち上がらないのだ。

最初に動物権規定を憲法に盛り込む国は、法学上の意味で世界の法制をリードする存在になるだろう。
日本がそうなってくれると私はとても嬉しいが、日本の法制の出足の遅さをみるに、期待値は低い。

動物権規定の議論になるときに障害となりそうな反応について、ここでは提示に留めて、また別の機会に考察してみたい。
この議論にどう反駁していくかが、これからの動物権認容の鍵となるだろう。

動物権議論のみならず、さまざまな差別撤廃主張の障壁として私たちの前に現れる反論的論理。
☆①極限事例の抗弁
トロッコ問題などが有名であるが、極端な例によって人間の本性を引き出そうとする議論。例えば、動物権を認めるという主張の場合、トロッコの前には猫が2匹、切り替えレールには人が1人いるとして、猫も人も命が同価値ならば、レールを切り替えるべきなのか、などといった議論が提起されるのではないだろうか。しかし、極限事例に遭遇したとして、人は理性的且つ合理的に権利や命の価値を判断して意思決定するだろうか。正直、こうした議論は倫理学の深淵を覗きたいものだけがニヤニヤしながら研究室で思索すれば良く、全く現実的ではないので考慮するに値しない又は万が一私たちがそうした状況に陥ろうともそれは特殊な状況であり、権利性などの議論の基礎にはならないと思われる。

☆☆②現実的・実務的限界の抗弁
こちらは事情判決のようなものである。つまり、動物には権利があるということは間違いないと人類社会も認めているとしよう。しかし、現実的に社会体制の基礎として動物権を認容することはできない。なぜなら、あなたが猫を殺したとして、それは刑法99条と同等の犯罪として計上されるのか、それではハエを潰したときもそうなのか、人と動物の命の価値は倫理的には同じとしても社会的に同じとすることは現実的ではないだろう、というものである。そして、現実性はそれなりにあったとしても、行政実務として動物権を想定した場合の全面的法改正の必要性、予算の増大、人員の確保など、実務的な意味で動物権を全ての動物に保証するのは不可能である、といった反論が考えられる。もちろん、経済的な面など、さまざまな観点から、この現実的・実務的限界の抗弁は主張可能なので、現状強力である。人間が勝手に作り上げた動物差別の体制であるが、それが構成されて上手く機能していることを逆手にとって、現状維持による利益を重視する思想であるとも考えられるだろう。

私たちが政治に対してよく憤りを覚える、老人たちの保守的な思想と同様のものである。本来であれば、社会をより良くし続けていくためには、常に革新を志向し、試行錯誤を繰り返す必要があるのに、現状の自分たちが享受している心地よさを崩したくないがために、その他の利害、特に次世代の幸福や生活を犠牲にしても構わないという思想である。

世界はそれでも、動物権の自然性に気付きはじめ、多くの学者や活動家が動物権を主張し始めている。

日本はどうであろうか?
特に、世界的に見て、動物愛護的な思想を持っている民族、国家とも言えないだろう。
そして、上記の通り、集団主義的なので、自分たちでアクションを起こすというよりは、どちらかというと、西欧の成功例を見て少しずつ動くという感じになるのではないかと思う。

一方で、ある科学的なアンケートでは、日本の若者の動物愛護意識は世界でもトップレベルであると言うデータも出ているそうではある。が、しかしそれと同時に日本の若者は世界でもトップレベルに社会への主張力も弱いので、社会に磨かれた資本主義の権化おじさんたちに動物愛護の主張を展開できないと言う難点もある。彼らが資本主義に磨かれることなく、新しい日本に動物愛護の精神を普及されることができれば、あるいは日本にも倫理的一等国としての活躍を期待できるかもしれない。

どちらにせよ、人種であれ、性別であれ、障害であれ、性的嗜好であれ、そして生物種であれ、それを根拠とした差別について、今の世の中は日に日に疑問を呈し、先代の思想に対して、強い抵抗と新しい価値観を提示しつつある。

老人たちにはこの新しい価値観の登場を感知できないし、この価値観に適応することも容易でない。

時々、そうした時代錯誤な老人が差別的な発言をして職を追われたり、晩節を汚すケースを見かけるが、哀しいかな彼らにはそこまで悪意を持ってした行為でないのである。彼らにとって、差別は社会の一部なのだ。それが、なんだか下の世代では普通じゃないらしく、自分の知らない常識によって、社会的制裁を受ける格好になっているのである。正直、幾ばくかの同情を禁じ得ないが、もともと善を照らして誤った思想が社会に蔓延していて、それが自然的な作用によって時代を経て是正されただけであり、本来私たちは善に照らして物事を判断すべきだったと言うだけの話ということである。

社会、と言うものに出ると、若者は「常識おじさん」に出会う。社会の常識というものを叩き込まれ、強制される。先ほどの例ではあるが、社会の常識とは、全く社会の常識ではない。それは、「常識おじさん」の極小コミュニティでまことしやかに採用された常識という名の決まり事を「常識おじさん」が自身の頭の中で曲解したものを発話の形で伝えられただけのものである。

本来、人間のルールは法律しかない。慣習は、本来的な意味では従う義務のないものなのである。社会の常識は、法律に明文化されていないものが多く、慣習ということはできても、慣習というには通用範囲が狭すぎるのである。(東京の常識が、鹿児島では通用しない、といったことはよくあるだろう)

私たちは、資本主義や、国粋主義や、お客様は神様主義や、頭の悪さから来る乱雑な思想体系に己の身を落としてはいけない。社会というものに放り込まれる若者は、そういった闇に己の身を焦がしてはならない。本当に正しいことはなんなのか、その軸を持って、時に他の主義主張と闘い、争いながら、個人の持つ最高の善を志すべきである。

人間の本来的存在意義は、従属にはなく、独立と自由にある。

人間の本来的存在意義は、金になく、善にある。

日本がこれから経済的に傾いていくだろう。経済的な余裕がなくなっていくということは、私たちはこれからますます自分の利害を重視する思想に変容していくことになると思う。それは、動物権の議論にとっては痛い変化になるだろう。

それでも、世界的な権利志向、反差別志向の潮流を受け取り、個人中心主義、ひいては人間中心主義に陥らず、貧しさの中にも正しさを重んじる、なんとも古武士的な思想(彼らの正しさに動物愛護精神はなかったのかもしれないが)が芽生えることを願ってやまない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?