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亀歩当棒録012.伊豆大島のヒイミサマ:序(2006年2月)

 伊豆大島の泉津地区をぶらついていたら,なにやらそこだけ雰囲気が異なる空間に出くわしてしまった。目の前には「ヒイミサマの伝説」と書かれた案内板。

ヒイミサマの伝説
往昔 泉津に暴政を行う者があり これに耐えかねて義憤に燃える泉津の若者二十五人が正月二十四日の夜陰に乗じてこれをうち殺し その夜のうちに波治加麻神社の境内の杉の木を切り倒して作った丸木舟に乗って島を脱出した。近くの島に逃れたが後難を恐れて容れられず いずこともなく海上に行方を絶った。毎年正月二十四日の夜はその二十五人の霊が 五色の旗を押し立てた舟に乗って泉津の沖に現れると言い伝えられ泉津では今日でも 毎年正月二十四日を中心に この二十五人の霊をまつる行事が行われている。当時の泉津村は釜方三ヶ村の主村的位置にあったため年貢の宰領をする代官手代の厳しい管理下に苦汁を重ねていたが ついにこの村の負うた宿命的な苛政と重圧からの解放を村の若者たちが求めたものであろうか。      平成元年十二月 泉津文化財保存会

 どうやらそこは,のちにヒイミサマ(日忌様)と呼ばれる存在になった泉津の若者たちが,島抜け船を造るための樹を切り倒した場所だったらしい。周囲は独特な空気感で「確かにここで何か良くないことがあったのでは?」と不安定な思いにさせられる,そんな場所だった。

 その後もしばらくヒイミサマのことが頭から離れなくて,あれやこれやと調べていると,伊豆大島だけではなく,広く北部伊豆諸島に“正月下弦の来訪神”の伝承が存在することを知った。

  伊豆大島→ ヒイミサマ(日忌様)
  利 島→  カンナンボーシ(海難法師)
  新 島→    〃
  式根島→    〃
  神津島→  ニジュウゴンチサマ(二十五日様)
  三宅島→  海難法師(あるいは海南法師とも)
  御蔵島→  キノヒノミョウジン(忌の日の明神)

 島によって呼び方や習俗内容は異なるものの,概ね正月(本来は旧暦の正月)24日の夜から25日の朝にかけて,恐ろしい神さまが島の周辺海上に現れるため(あるいは島へ上陸するので),夜間の外出を厳に慎み,その間は決して海を見てはいけないというものだ。いったいこれは何を伝えようとしたものなのか?

 ちなみに,かの南方熊楠(1867-1941)も,ヒイミサマについて言及していた。

『郷土研究』四巻二九六頁,尾佐竹猛氏,伊豆新島の話に,正月二十四日は,大島の泉津村利島神津島とともに日忌で,この日海難坊(またカンナンボウシ)が来るといい,夜は門戸を閉じ,柊またトベラの枝を入口に挿し,その上に笊を被せ,一切外を覗かず物音せず,外の見えぬようにして夜明け
を待つ。島の伝説に,昔泉津の代官暴戻なりし故,村民これを殺し,利島に逃れしも上陸を許されず。神津島に上ったので,その代官の亡霊が襲い来るというのだが,どうも要領を得ぬとある。…(中略)…新島の伝説もこの通りで,代官暗殺云々は全く事実であろう。代官の幽公が来るのを懼れて,戸を閉じ夜を守ったも事実であろう。                 (南方熊楠『十二支考』「蛇に関する民俗と伝説」より)

 ここでいう『郷土研究』4巻は大正5年(1916年)の発行。熊楠の生年は慶応3(1867)年なのだが,博覧強記で知られる彼でさえも「事実であろう」と当て推量しているくらい,伝説の原型はすでに不明瞭だったようだ。

 この旅行以降(2006年以降),伊豆諸島を訪れるたびに,ヒイミサマの伝説についての“断片”は残っていないかと探し回っていたのだが,やがて偶然それを目にすることになる。その“断片”は,北部伊豆諸島ではなく,南部伊豆諸島の八丈島にあった…が,長くなるのでこの続きはまた別の機会に。

 

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