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亀歩当棒録008.波郷が詠んだ妙見島を歩く(2008年1月)

 江戸川区と浦安市の境を流れる旧江戸川に浮かぶ,南北およそ700m,東西およそ200m,面積8haほどの島。それが妙見島(江戸川区東葛西)。葛西橋通り浦安橋から測道を降りれば即到着の,自分の足で歩いて渡れる島である。東京23区内に島はいくつもあるものの,人工島ではない,自然島は,現在この妙見島くらいだという。コンクリート護岸で囲まれ,まるで要塞のような島内は,ほとんどを企業の工場で占められ,大型ダンプカーがひっきりなしに行き交うため,常に周囲に注意を払っておかなければ危ない…

 さて,その妙見島。

 決して多くはないものの,この島について書き残している作家は幾人かいる。その代表は石田波郷(1913-1969)だろう。

 波郷は昭和を代表する俳人のひとりで,中村草田男や加藤楸邨らとともに人間探求派と呼ばれた。昭和21(1946)年から33(1958)年まで江東区北砂に住んでいたため,江戸川区内にもたびたび足を運んでいる。

 4,5年前に汽艇で小名機川を抜けて放水路に出,船堀門をくぐって新川に入り,新川口から江戸川に出たことがある。
 いきなり広い水面に出て右折すると正面に川を二つに分けて近づく島があった。これが妙見島をみた最初で,その後,浦安橋の上から,川に浮かんだ島の全貌をみたり,江戸川の岸辺を歩いて,新川口の橋の上から,川水に侵され削られてゆく島の先端を眺めることが幾度かあった。
 冬は蕭条と,夏は葦や真葭が青々と風になびき,幾つかの工場の煙りが流れる姿を見て,一度島に渡って見たいと思ってゐた。         (石田波郷全集 第9巻 随想11「葛西散歩」)

 19世紀半ば,昭和30年代の妙見島は,すでに工業島化していたようだが,それでもまだ「冬は蕭条と,夏は葦や真葭が青々と風になびき」といった自然度が残っていたらしい。失われようとしていた風景に波郷は強い関心を抱いた。

 江戸川口に近い浦安橋の下から上流に向かって長々と妙見島が浮かんでいる。南風が河口から吹いて,島のわずかな木々がなびき,葭や真菰が青々と波うつ。東京油脂,江戸川造船,まるはち佃煮材料,カネカ貝灰の4工場と7,8軒の民家が,この長さ9町弱、広さ20町歩程の島で仕事に励んでいる。…(中略)…北の方にいくつも白々と盛上がった貝殻山が目立つ。肥料や貝灰(しっくいにする)の材料である。近づいてみると浅蜊,青柳,蛤等貝殻の巨大な堆肥だ。カネカ貝灰の臼井英太郎さんは昭和初頭からの島住みで30年貝殻を焼いて暮らしてきた人だが,私に古いことをきかれて感慨深げにつぶやいた。
 「そのころの私の家は今は川の中ですよ」
 江戸川の水流が島を削りとってゆくのである。           (江東歳時記 「貝殻山 南風のポプラの片靡き」 江戸川妙見島で)

 妙見島は護岸が行われるまでは川の中州だったため,「流れる島」と呼ばれ,少しずつ形を変えたり,下流に移動していたと伝わっている。波郷の残した文章のおかげで,それが事実であったことが今回改めてわかった。かつての妙見島の姿やそこで生計を立てていたひとの暮らしぶりが浮かんでくるようだ。

 芋嵐 貝殻山を削り吹く

 妙見島を詠んだ波郷の句である。「芋嵐」とは秋の季語で,芋の葉をひるがえすような強い風をいう。葛西の海にほど近い旧江戸川沿い,強い風が吹き付け,それが貝灰の原材料である貝殻の山を(そして中洲の島である妙見島そのものも)削ってゆく。その失われてゆく光景,そして寂寥感。

 島の周りをコンクリートで固められた現在の妙見島の,その在り様は,もはや風でどうこうということはないだろう。「俳句はなまの生活である」と語った波郷が,もしいま江戸川区にある“23区唯一の自然島”を訪ねたとしたら,いったいどんな句を詠むだろうか。

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