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亀歩当棒録002.頭ヶ島の片隅で(2007年11月)

 新上五島町にある重文指定の教会が見たくて頭ヶ島(かしらがしま)へ出かけたのは,まだ教会がユネスコ世界遺産の暫定リストに入ったばかりの頃だった(正式には2018年6月に「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」として世界遺産登録。頭ヶ島教会は「頭ヶ島の集落」景観に包括する扱いで決着した)。頭ヶ島は五島列島最東端の島で,新上五島町の中心部にあたる中通島からわずか海を隔てて東北に位置する,周囲8.2キロ,面積1.88平方キロの小さな島だ。

 頭ヶ島教会は西日本では唯一の石造りの教会で,現在ある聖堂は1910(明治43)年に着工,1917(大正6)年に完成した。材料である石の切り出しや運搬は,この小さな島の当時わずか四十数戸の住人たちの手によるもので,文字どおりの献身的作業だった。一般的な説明では,頭ヶ島に人が定住するようになったのは江戸時代末期の1859(安政6)年で,中通島・鯛之浦地域のキリシタンたちが迫害を逃れるためにこの島を開拓し,そのまま入植したとされる…が,しかし。

 実はそれより早い6000年前~2500年前(縄文前期~晩期)の居住跡である白浜遺跡が,頭ヶ島教会のすぐ前の浜辺で見つかっている。おそらくは6300年前に起こった喜界カルデラ大噴火から逃れた九州縄文人の小集団が暮らしていたと思われる。巨大災害から生き残った縄文人。弾圧から逃れたキリシタン。九州本土から数十キロ離れた小さな島は,身を隠すのにはうってつけだったのかもしれない。何とも因果な話しではあるが。

 「五島へ五島へと皆行きたがる 五島はやさしや土地までも」

 かつて故郷を追われたキリシタンたちはそう謡いながら,五島を目指したという。九州の西,つまり当時の日本の最西端は五島であり,彼らにとってその島々はカトリックの聖地ローマに最も近い場所だった。頭ヶ島の白浜集落。その名にふさわしい美しく白い砂浜には,彼らの祖先の十字の墓が静かにたたずんでいた。


 

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