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亀歩当棒録005.仁右衛門島の島主夫人と話したこと(2010年5月)

 千葉県最大かつ唯一の有人島で,個人所有の島でもある仁右衛門島(千葉県鴨川市太海浜)。島主である平野家のお屋敷は,観光客のためにその一部が開放されている。渡船で島に渡り,少し歩いて“平野仁右衛門”の表札がかけられた門をくぐると,そこには年代ものの木造家屋が佇んでいた。

 手入れの行き届いた庭には観光客相手に屋敷の説明をしている,いかにも品のよい物腰柔らかなご婦人の姿が。もしやと思って声をかけてみる。ひょっとして平野家の方でいらっしゃいますか?

 「ええ。わたし,平野仁右衛門の家内です」

 ああ,やっぱり!今日は貴重な家屋を拝見させていただきまして,本当にありがとうございます。素晴らしいお屋敷ですね。

 「もともとはもっと下(海に近い場所)にあったものなんですけどね。1703年の津波(元禄16年の元禄大地震によるものらしい)で壊れてしまって。でも,柱とかをもう一度集めて再建したんです」

 そういえば座敷の前の立札に宝永元年(1704)に立て直したって書いてありましたね。再建してからでも300年以上も経っているんですから,やっぱりすごいです。

 「ありがとうございます。一時期は新しいものばかりもてはやされたものですが,最近になりまして,こういう古いものがいいんだって,おっしゃる方がずいぶん増えてきているんですよ」

 あはは,そうですか。じゃあ,わたしもそのクチです。そういえばこの島は本土から電線が延びていますね。水道はどうなさっているんですか?

 「それが昔から天水なんですの」

 へぇ,そうでしたか。お子さんが学校に通うときは渡船で?

 「子どもといっても,もう定年を過ぎた息子が二人ですけど。その昔は,毎日,船で向こうまで渡って学校へ通っていましたのよ」

 定年過ぎ…といいますと,じゃあもう39代の仁右衛門さんは決まってらっしゃる?

 「上の息子は家はちゃんと見守るけど継がないって。弟のほうはいろいろ手伝ってくれているのですけれど,さてどうでしょうねぇ」

 あれこれお話しを伺っているあいだにも入れ替わり立ち替わり観光客がやってきて(かくいうわたしも観光客),うっかりすると人の流れを止めてしまう。島のソテツやアシタバのこと,家屋の間取りや土間の有無,まだまだ聞きたいことはたくさんあったけれど…

 すいません,すっかり話し込んじゃって。そろそろお暇いたします。いろいろなお話しをありがとうございます。それでは!

 かつて民俗学者・宮本常一はこう語った。

 自然は寂しい。しかし人の手が加わるとあたたかくなる。

 千葉県唯一の有人島で感じた「あたたかさ」は,きっと“平野仁右衛門”一族が手を加えて守り続けてきたゆえのものなのだろう。300年以上も前からこの島に一軒だけある古い屋敷をあとにするとき,すでに姿が見えなくなっていた島主夫人に向かって,わたしは深々と頭を下げるのだった。

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