ぼやいて、聞いて。


 共感、という安い言葉でこの気持ちを形容するのも憚られるけれど、エッセイの感想を一言で言うならこの他に見つからない。

 一つ、今まで私が誰にも言わず自室で巡らせてきた、もしかしたら断片的につけた日記にでも残っているかもしれない思考や言葉たちと本書の言葉が合致したこと。
 そしてもう一つはナイツのラジオを異常なまでに聞いてきて思い描いている、塙さんの人間像、こういう人なんだろうな、というある種の偏見の答え合わせ。やはりこういう人だったという納得感。
 この二つが私に強烈なエンパシーを生み出したといえるかもしれない。

 好きな人を「自分に似てる!」といって喜ぶのもなんだか痛々しいファンのようで(実際そうなんだけど)、そして相手を型にはめているようで嫌なのだが、ここでは私という誰でもない一個人と比較するという形で、この本にうけた感銘を記録しておこうと思う。

 私は気にしいである。多分最近流行りのHSPとかいうやつだが、繊細と言われるのもなんだか被害者面しているようで気に食わないので気にしいを自称している。だからすぐ泣く。ちょっと注意されるだけでも泣くし、他人が注意されている時も、誰かの機嫌が悪い時も、この状況だったらこの人機嫌悪くなっちゃわないかなとかいう推測だけでも、なんなら穏やかな面談でも泣く。最近はさすがに大人になったと思っているが、小学生の時なんて週一くらいで泣いていた。別に悲しいわけでもなくて、ある種の緊張感で胸がいっぱいになると泣く。もちろん悲しい時もあるし、怒った時も、感動した時も、理由がわからない時もある。ちなみに言うと地下ラジの時にチャットが荒れるのもめちゃくちゃ嫌だし、それでチャットが閉鎖されたという事実も本当は少ししんどい。

 これを母と私は「人の雑念に弱いからね」という(母も私と似たようなものである)。驚いた。塙さんおんなじようなこと言ってる。

 「雑念の多い人間だから、その分、相手の雑念にも敏感になってしまう体質」

 私はそれが普通ではないのか、ということがショックだったから、気にしていることを他人にバレないようにしたかったし、必要以上に鈍感なふり、覚えていないふりをしたりもした。相手に気を遣われたらこちらも気を遣うから、私は気を遣っている素振りを見せないほうがいいだろうと思ってどこまでやればいいのか訳がわからなくなったりもした。優しいと言われるのが嫌だった。

 それでも塙さんは、きちんと相手の気持ちを受け止めた上で、相手に気を遣わせない優しさを持っているように見える。やりすぎ感や恩着せがましさの全くない、けれど温かさは伝わる優しさを持っていると思う。きっと表に出ている優しさはほんの一部で、見えないところで色々な考えを巡らせて、色々なものを飲み込んでいるのだろう。別に飲み込んでいるのが可哀想とかではなくて、取捨選択という話。

 人付き合いの得意そうなこの人の言う「人付き合いが苦手」というのは、こういうことなのではないかな。というのが最初にこの本のコピーを見た時の感想だったし、それは読んでからも変わらない。人付き合いに要する過程、選択肢の多さみたいなものを感じた。


 ついでに、自分の雑念についても話しておきたい。
 おそらく人間は皆雑談でできているし、行って仕舞えば世界は全て余談で構成されていると思う。私だって馬鹿みたいなことを朝から晩まで考えている。その中で私が塙さんに特に共感するのは、雑念の非線状性のようなものを認識しているという点である。

 人間は二つの音を一度に出せないし、文章は一直線に並ぶ。そこにパラレルは存在しない。しかし頭の中では、いくつものことを同時進行で考えることができる。そこに完全な文脈はなくて、あっても複数のことが一つにまとまったり、一つのことからいくつもの気づきが同時に得られたり、規則的ではない。これに関してtwitterの下書きに私の意見があったのでここに残しておこうと思う。おそらく一、二年前のものである。

 思ったまま綴るって無理じゃない?頭の中は順番も何もなく絵みたいになってるのに、それに順番をつける時点で整理してるってか手を加えてるし中途半端に手を加えるくらいならより正確に表現したい欲が出てくるし、結局考え抜いた何かを公表することになるのよ
 前にタモリさんがありのままになれるのは一瞬だけなんだ、って言ってたけどこういうことだと思うんだ、隙あらば自我が介入してくるもんね
 でもこんなこと考えないでだらだら脳味噌の中身垂れ流せる人は存在するわけじゃん、それならその人と私の違いはなんなんだ?となる
 今もこう文章にしている時点で既に流れにそぐわないから切り落とされているさまざまがあるわけ、でも書き終わる頃にはもう忘れてんだよね、作り終わった文章がそれっぽく纏まって見えるからさ

 だいぶヤケクソみたいになっていて読みづらいのだが、これはこれで私なのでこのままにしておくことにする。

 まあこれがあるから人は、自分も他人も完璧に理解できないのだろう。だから塙さんについても、どれだけ追っても本を読んでもわかった気になって驕ってはならない。とオタクとして思う。それでも言語を介して伝える努力は無駄にならないし、そのために漫才だったり演劇だったりさまざまな形が生み出されてきたのだろう。人間生活に関わる全てを濃縮する形で全ての文化は成り立っている。

 それでいうと、スーパーの例えはまさに「人間生活」だといえるのではないだろうか。私は海外のスーパーが好きである。これも母とよく話す。海外のスーパーっていいよね。
 アルカンポは、赤い鳥がトレードマークのチェーン店である。幼い私はそこで売っている女児向けの洋服を眺めたり、スポンジボブのファイルを買ってもらったり、柔軟剤のファーファがスペインでミモシンと呼ばれていることを知ったりした。フランスに旅行に行った時にもアルカンポがあって、そこではオーチャンと呼ばれていた。プライベートブランドのサラダか何かと、そこで売っている鶏肉が美味しかった気がする。身が黄色いやつ。 

 ともかく、スーパーは人のさまざまが詰まった場所であると思う。コンビニともまた違う。その土地を知りたかったらスーパーへ行けなんて言葉も聞いたことがあるような気がするが、それを雑念の集合だとする塙さんの表現になるほど確かに、と納得させられた。

 他にも、奢られるのが嫌い(というか人に借りを作りたくない)とか、ラジオCMってヤケクソみたいなの多いよね、と思っていた私にとっては、それと一言一句違わない例えを出して説明する的確さはさすがだと思ってしまった。


 塙さんは、めちゃくちゃ変でめちゃくちゃ常識的な人間だと思っている。それは持ち前の変わった性格と、優しさと、真面目さの賜物だとも思っている。
 少なくとも私は利己的な人間なので、人に迷惑をかけないのも自分が嫌な思いをしないためだし、人に貢献するのも自分がしたいからだろう、しないでおくのが気持ち悪いからだろうと思っている。だからこそ、途中でやめても「まあ私のためだったし」と妥協できるし、そうしがちなのである。
 しかし塙さんは、自分のためと言いながら続けられる人間であると思う。自分のためだと言って周囲を守り続けられる人間であると感じる。それは本の中でも言っていたコンプリート欲のようなものに起因しているのかもしれないが、結局は根の真面目さと他人への優しさだと思っている。
 いや、他人が介入することで投げ出せなくなる優しさを無意識で自覚していて、自らその方法をとっているのかもしれない。ブログだって誰かが見ているから続けられると言っていたし。

 私は文章を書いたり何か言語化したりするのが好きなので、番組を見たりなんだりするとすぐここが…!とか言いたくなってしまうのだが、漫才を見た時はどうにも何も言葉にできない。死ぬほど笑うし大好きだし、最高だな!と思っているのだが、ここがどうこうというのも野暮な気がしてしまうし、そういうことを気にしなくてもなんだか良さを言葉にするのが難しい。
 しかし本書の中で、「お客さんは笑うことでアウトプットする」と塙さんが表現していたのを読み、なるほど!!と思った。面白いという気持ちは、ネタが終わる頃にはもう自分の中で表現し終わっていたのだ。なんだか救われたような気がした。ここにも、私は塙さんの優しさを感じた。



 長くなってしまったが、私はこのエッセイを通して塙さんと、人生と脳内の見せ合いっこをしたような気持ちになった。ニーチェが「この人を見よ」か何かで、読書とは他人が横で話しているみたいなものである、というようなことをもう少し高尚な言葉で言っていた。私はこの言葉がとても好きだし、このエッセイのテーマにもぴったりだなと思う。偉人の言葉というものは、健康な時に聞けば当たり前のように受け入れられるのに、疲れている時には異常に感心してしまうものである。そんな時にはまた、塙さんに私の横でぼやいてもらおう。



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