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朴 沙羅 家(チベ)の歴史を書く

著者の朴沙羅さんは現在ヘルシンキ大学に赴任されているとのこと。済州島出身の親族のファミリーヒストリーの本です。

学術的な概説もありつつ著者の家の歴史が面白い。こちらに登場される方々が語りによって顕になる。面白いのですがその背景には済州島四・三事件があります。
著者は聞き取ることで「空白」を埋めていきます。自分たちにとってはそれこそが過去であるが、他の人にとっては空白である世界。誰かにとっての「空白」を聞き取ることにより埋めることの面白さと凄みを感じる本です。

「空白」とはある側では知らないことです。全く知らないこと、「何ひとつ知らないこと」に気づくことは自分がマジョリティであことであり社会的に有利な立場に置かれているからにほかならない。この点を気づける本だと思います。

著者はこう言います。「私は私に話をしてくれた人々の体験には、今の日本社会の政治状況が仮にあらゆる人々にとって理想的な状態であったとしても、聞き取られ、残され、読まれ続けるべき価値があると信じています」
なぜなら、価値のない人など存在しないからです。
なぜなら、人間は社会と歴史を生み出すものだからです。

例えば著者の俊子おばさんにとって何が一番辛い経験だったのか?
「字がわからんがどんだけつらいか。人には言われへん。」この章は圧巻でした。

著者はこう続けます。
「関心はあくまで、自分以外のものに向くべきなのです。今のこのくだらない、問題だらけの、ドブの中のほうがずっとましのように見える社会にたしかに存在する、美しく輝く、自分以外のものたちに」

著者はこの本を歴史を書き上げるまでに様々な葛藤があったようです。

「語られたことをどう理解したらいいかわからない」という問題。
この問題は「個人が過去を回想して語ったことと過去の事実を書くこととの関係から生まれてくる。過去を語るときの形式の問題」だそうです。
体験は記憶の中で溶け合って想起される。その語りをどうやって編集すればよいのか?「学問的にも、政治的にも、深刻な問い」そして記憶は保存されるというよりも想起される。
つまり、過去が回想して語られるときは、その回想を聞く人や記録する人が、その場に必ず存在している。だから、「聞き手(書き手)はどうしても、回想のされ方に影響を及ぼす。」語るわけですがから語られる者の存在もありつつ聞くこと自体も双方向から影響される。

語られないことの問題。
「過去の記憶は常に一面的であり、どうしても「語られないこと」が発生する。」これをどう捉えるのか、これは必ず発生する「漏れ」である。
人は毎日圧倒されるような情報量にさらされる。「わけがわかる」ように理解するためには情報を取捨選択する。
だから、「異なる立場の人々の証言や複数の資料を集めなければならない。」語り得ないものではなく「言葉でははなせへん」と発話されるものをを どう理解すればよいのか?
どう何かに関連づければよいのか?

そんでもって岸政彦、星野智幸推薦で解説は斎藤真理子さん!

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