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戸谷 洋志SNSの哲学: リアルとオンラインのあいだ

戸谷 洋志
SNSの哲学: リアルとオンラインのあいだ (シリーズ「あいだで考える」)


「哲学とはあくまでも「考えたい」という思いに導かれたものであるべきだと考えます。」
考えることの自由さの楽しさを訴えかけてもらった気がします。

興味深かったのはハッシュタグ的連帯に関する考察です。

ハッシュタグ的連帯
・あくまで「私」(個人)として私
な言葉のままで 「みんな」 と連なる。
・主語は「私」であり、「私たち」 と語ることは (擬似的にしか) できない。

個として連なることはできる。ここには大きな魅力と可能性があるように感じました。著者である戸谷 洋志さんはアーレントの思想を軸に考察を重ねられました。

政治とは、「さまざまな問題を『みんな』 の問題として考え、それをもとに現実に働きかけて、何かを実現したり変えたりしていくこと」と定義して、具体的に選挙やデモ活動などに行くこと捉えています。 その上でアーレントが考える政治の分析は、本質をもっと掘り下げたものだと論じています。

アーレントは人間が生きる世界を、私的領域と公的領域に区別して厳密に説明していると論じています。
私的領域とは、「私たちが生きていくための生活をする場です。

そして公的領域とは、「人間が私的領域の必要性を乗り越え、自由に語りあうことができる場」として位置付けられると論じています。
私的領域は家事や労働することなどが属する営みです。この営みは生きるためにすることだと言えます。働くのはお金を得るため、突き詰める生きるためにすることとなります。生きることと直結しているため、私的領域のは、それが「必然性」に支配される特徴を持つと言えます。

戸谷さんは、この必然性は、「やらないことができない」ということ、「そうしたいわけではなくても、しないわけにはいかない」ことであると説明されます。この「必然性」から解放されている場、「人間が私的領域の必要性を乗り越え、自由に語りあうことができる場」が公的領域であると論じてます。大変興味深いです。戸谷 洋志さんは哲学対話の実践もされている研究者とのことで、この公的領域と対話の場との比較やそれぞれの捉え方を伺いたいです。

私的領域では、私たちは利害に基づいて行動しており、「私にとって必要かどうか」が、行動原理となります。このあたりは、使える使えない、経済合理性が価値判断の基準となっている今の風潮からも実感があると思います。
この私的領域の必要性を乗り越え、
自由に語りあうことができる場が公的領域である位置付けています。

この点を踏まえた上で、アーレンの「活動」の概念が説明されています。

戸谷さんは本職で「活動」―新しいことを始めることと説明されています。
本来の政治 =個人の自由な 「活動」であると論じてます。

私的領域の必要性を乗り越える、自分の生活や利害から離れて、「みんな」 にとって望ましいのかどうかを議論する。この視点から物事を考えられるようになったとき、はじめて人は本当の意味で自由を獲得し、他者との議論の場に加わることができる。
公的領域に加わる事ができる。
この領域に加わった上で、他者と議論を重ねながらも、他者と連帯し、ともに活動することが、現実に対して働きかけ、何かを変えていく運動と結びついたのが政治的な「活動 action」である。アーレンはこの活動は新しいことを始める営みとして説明したとしています。

戸谷さんは「それまで誰も予想していなかったこと、誰もやったことがなかったことを開始すること。それがアーレントの考える「活動」にほかなりません。」と続けています。

希望が持てるのではないでしょうか。
むしろ私的領域の必要性を乗り越えられなければ、連帯も新しいことを始まらない。閉塞感、生きづらさといったことのネッコにはこの「私的領域の必要性」が存在しているのかもしれません。
こちらの本を読み、最も興味深く感じたのがここからです。

なぜ人間にはこうした「活動」が可能なのか?なぜ人間は、新しい 「活動」を始め、それまでの社会に新しい風を吹きこむことができるのか?
アーレントはその答えを次のように説明しているそうです。

「それは、「この世界にはひとりとして同じ人間が存在せず、ひとりひとりがちがった存在であるから。それゆえ、ひとりひとりがそれぞれに、世界に新しい始まりをもたらす存在であるから」です。」
そしてこう論を重ねます。
「アーレントはこうした人間の本質を「複数性」と呼びます。」
ステキです。アーレンとの人間の条件も読みつつ戸谷さんの論考を噛みしめました。

ボクの雑な理解では、人間が私的領域の必要性を乗り越えることは『経済的利害から自由な、あるいは、利害を問題にしないで、人が互いの違いを認め、共同で語り合うこと』です。
どちらかと言うと、「人が互いの違いを認め、共同で語り合うこと」が政治的な活動であり、この活動を通して「人間にとっての意味」を感じることが、人間としてユニークな存在であると実感できる経験でないかと考えています。
この経験は人間のありかたにそのものに大きな変容をもたらすと考えています。政治の捉え方を考えていきたいと思います。戸田さんもですが、アーレンも普段ニュースなどで眼にするような、利害調整の政治はここで言う「政治」とは異なると考えていると思います。人間の本質を「複数性」についても共同で語り合う人と人のとの間にで現れることだと考えます。
アーレントの人間の条件にある「話し合いによってこそ人間は政治的な存在となる」をどう考えるかです。

この点がボクにとっての「哲学とはあくまでも「考えたい」という思いに導かれたもの」です。

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