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自己分析#13「温泉に浸かりたい」

周期的に気分やら体調やらが落ち込みやすいタイミングで、偶然目に留まった精神的負荷のかかりそうなコミュニティを自ら積極的に覗きに行ってしまい、案の定心がぐーーっとなってしまった鹿です。何故。

まあここに書き出せている時点である程度穏やかな心を取り戻せてはいるんですけども、それでもたまにやってしまうんですよね。消耗することなんて分かっているのに何故止められないのか…うーむ。

ということで今日はここらへんの整理をしてみようと思います。


【心のバランスを保つ術】

比較的心が元気な時は、ざわざわしそうな話題には“触らぬ神に祟りなし”のスタンスでそっ閉じムーブを繰り出せるんです。だけどちょーっと弱っていると何かスイッチが入ったかのように半ば中毒的に見入ってしまう。そういう時こそ休めばいいものを。だけどそういう時ほど引っ張られやすい。危ないなぁという自覚はある。

しかもこれ、大体が自分に直接投げかけられているものではないんですよ。なのに、勝手に自分事にして、勝手に病んで、勝手に落ちる。ほんと、何故。

あれですかね、普段から甘ったれなぬるま湯生活を送ってしまっている自覚があるから、戒めとしてこういうところでダメージを受けに行って心のバランスを保とうと……うん、今日はこのくらいにしておこう。

でも以前は「落ちる時はとことん自分を傷付け蔑み落ちるとこまで落ちきる」という方法でもって心のバランスを保っていたんです。生きるなかでちょっとずつ見つけてきた鬱々とした気持ちをここぞとばかりにかき集めて自分にぶつける。あれ?これって実はものすごいエコなことなのでは…?自分以外誰も傷付けないなんて、この上ないピースフルな行為なのでは…?

というのは半分冗談で、私がとことん落ちれるのは、落ちた先で受け止めてくれる存在があるということを知っているから。受け身のとり方を知っているから。そしてその後ゆっくり起き上がって、浮き上がって、次第に大丈夫になっていけたという経験則があるから。

まあこれは今でも変わらないし、やっぱり私はこういうことでしか心のバランスを保てないから、この先もまた勝手に落ちたりするんでしょうけども。

はは、結局何一つ解決していないという(笑)
まあ解決することを目的に書いていないのでね、あくまで整理。あくまで自己分析。

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でですね、今日なんとなく、私の心がぐーーっとなるポイントが分かった気がする(いや本当は多分もっと前から分かっていたんだろうけど今日はなんか言語化できる気がする)のでちょっとそこも書いてみます。

念を押すようですが、ここに書いてあることはあくまで自己分析ですのでね。誰かをどうこうしようという意図はございませんのでね。そしておそらく自分のことは棚に上げていると思いますのでね。


【特定の顔が浮かんで…ぐぐぐ】

このSNS時代、怒りや憤りなどの感情に付随する尖った言葉ってそこらじゅうに溢れているじゃないですか。人間ですからそれを吐き出すなというのは無理な話だと思うんです。現に私も逃げ場としてこのアカウントを作ったようなものですし。

ただ、その言葉の中に特定の顔が想像できてしまうとちょっとしんどいかもしれないです。あくまで私は。

はじめの方にも書きましたが、何でもかんでも勝手に自分のことにしてしまう私ですから、特定の誰かに向けた言葉なんかも全て吸収してしまうんですね。良くも悪くも影響を受け(すぎ)やすい性格をしているんだと思います。

だから反対に私が何かを発する際には「固有名詞を用いるのは、(その対象となる人や物や何かに迷惑がかからない内容の)ポジティブな発言をする時のみ」という独自のルールを設けたりしています。ここだけの話ですけどね。

訓練できていないのでまだ推敲ができる、気付けたら引き返せる“文字”での発言に限ったことですけども…。うっかり変なこと口走っちゃうなんてもう昔っからやらかしております。日々反省会。そしてこの文字での発言も、意識していてもちゃんとできてるか自信ないです。

そしてこういうのはきっと心の中だけに留めておくほうが格好良いんですよね。でも私はちっとも格好良い人間ではないので書いちゃいます。またこれはあくまで“今の”私のルールなのでね、いつかの自分のためにも記録を残しておきましょう。


【距離の近さで変わるかも?】

そして書きながらもうひとつ分かったことが。同じ尖った言葉でも、距離の近い、親友だったり家族だったりが発するものならまだ自分と切り離して、他人事として「そうかそうか、そうだよねぇ」と聞ける気がするということ。それが良いことなのかそうではないのかは分かりませんが、事実としてそうかもしれないなぁと。

というのも先日、初対面の方から30分ほどノンストップで誰かしらの愚痴を聞かせられr…これこそ愚痴っぽくなってしまっていますが…まあそういう機会があったんです。そんなこと記憶にある限り初めてのことだったのでかなり面食らってしまいまして。自ら精神的負荷を受けに行くのとはまた違ったしんどさがあったなと。

これが親友や家族なら、その人の性格や背景をある程度理解しているつもりだから、そこから出てくる言葉もおおかた受け止められる気がする。

一方でよく知らない人による尖った言葉は、その人をよく知らないからこそ、その言葉が持つ印象がそのままその人の印象に直結してしまう。さらにその言葉の中に特定の顔が浮かぼうものなら、その対象にすら芳しくない印象を抱いてしまう。それがね、とても怖いんです。

大昔に、よく知らない人たちによる“私の好きなもの”に対する尖った言葉(※私に直接投げかけられたものではありません)の影響を受けすぎて、私自身がその好きなものから離れてしまったことがあるんです。これはいまだに後悔している出来事でして。それを今ちょっと思い出しました。(このような心の動きを私は「好きが揺らぐ」と表現するのですが、これに関してはまた別の機会に改めて書き出せたらなと思っています。)

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ふぅ。だいぶボリューム増しちゃいましたね。そろそろ私自身救いが欲しくなってきたので、冒頭でぐーーっとなっていたところからどうやって抜け出せたのか、どうやって穏やかな心を取り戻せたのかを書いて締めようと思います。

今日は小一時間ほど見入ってしまったんですかね。誰かによる誰かへ向けた尖った言葉をずっと読んでいると、ふと某芸人さんの持ちギャグのような「ちょっと何言ってるか分からない」状態になる瞬間があるんです。急に識字力が低下するというか…。そこでやっと「ああそうか、これは私が受け取る必要のない言葉なんだな」と認識できる。それで正気に戻ってフッと断ち切れる。あとは温かい食べ物を食べたり、好きな音楽を聴いたり、優しい作品に触れたりしてふふっと笑顔になれたらほぼ大丈夫。

まあこれはあくまで(何回言うんや)私のやり方なので私にしか効かないんですけどね。私のために書いているのでいいんです。もうそういうことにしたい。


心に座標というか目盛りというか、そういうものがあるとするなら私の心は平常時でも基本的にはマイナス側にあるんだと思います。(凍えているというよりは、暗くて深いというイメージ)

ですが最近は自分の心の温度を温泉のような心地良さにまで持っていって、できることならそこに浸かり続けたいと思うようになってきました。いや、やっぱりぬるま湯かな。どうかな。

どっちにしろ平常時の居場所をマイナスから0に近いところまで持っていけたらいいなと思っています。プラスまで上げるのはおそらく生まれ持った性格的に無理なので、できる範囲で、ほどほどに(笑)

そうするためにはやはり訓練が必要だと思うので、試行錯誤しながら、居心地の良い生き方を探していけたらなと。

あとそろそろ実生活でも温泉に浸かりに行きたいものですね。いつ行けるかな。見出し画像に使った写真は約4年前に浸かった足湯なんですが(お見苦しくてすみません…これくらいしか“ぽい”写真がなかったんです…笑)、足湯もいいな。旅行したい。

毎度結びの言葉に悩んでしまうんですが、今日のところはこのへんで。

ではまた。

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