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自己分析#16「時間をください」

前回の記事を書いてから1年以上も時間が過ぎていることに驚いた。

思えば日々仕事に追われ、休みの日も予定が詰まっていたり、シンプルに心身を休めることに費やしていたりで、自分の気持ちや考えと向き合うことから逃げていたところがあったかもしれない。

一番最初の記事であれだけ自己分析が好きであると書いておきながらね。まぁ同時に「『思い付いた時に思い付いたまま自由に書く』というゆるっゆるのルールのもと、ぼちぼち、気長に続けていけたらいいなと思っています。」とも言っているのでね。かけるべきは保険ですわ。ありがとう過去の自分。


と、前置きはこのくらいにして。

今日は久々に自分の気持ちを言葉に直して整理したくて書き出している。ちなみにあの記事の中で思っていたこと、概ね今の私も変わらず思っていることなので、ちょっと嬉しい。


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「今決められないなら決められる時が来るまで決めないでおく」

私が大事にしている考え方だ。


そして今、どうしても現段階では決められないことについて非常に悩んでいる。文字に起こすと改めてナンセンス。でも考えたいのだ。

もしかしたら今後の人生や生き方が変わるかもしれない、いや確実に変わるであろう大きすぎる決断について。


学生の頃の授業で「ライフプランを立ててみよう」といった時間があった。その頃の私が具体的に何歳で何をしたいと考えていたかまでは覚えていないが、アラサーど真ん中の今の私が見れば、あまりにもぶっ飛んだ、子どもならではの豊かすぎる発想に基づいていたことだけは確かだ。

おそらく20代前半まで、私のなかで「大人=27歳」という方程式がなんの根拠もなしに成立していた。子どもの頃はずっと、そのくらいの年齢で結婚するものだと思っていたし、長年相手がいなくとも「私と似たような母が結婚できたんだし、いずれ私もそうなるんだろう」とこれまたなんの根拠もなしにぼんやり思っていた。


自分がとんだぼんやり野郎だと思い知るのは、実際に27歳を迎えてみてからのこと。当時の私は看護師を辞めて早2年、プー太郎ライフも板に付き、しかしながら流石にこのままではいけないと焦り始めていた。職探しすらままならないのに、お相手探しなんて非現実的にもほどがある。世間一般的に言う「出会いがない」とは根本的に意味が違うのだから。

その頃から自然と「私はきっとずっとひとりで生きていくんだろうな」と思い始めていたのかもしれない。事実私は充分幸せだった。時々寂しさを感じつつも、好きな音楽があれば、それだけでどんな時もなんとか生き延びられていた。


ところが最近、そうでもなくなってきたようなのだ。正直まだ自分でも分からない。だってまだ何も始まってない。だけど、もしかしたらそうなる可能性があるのか…?という方との縁ができた。

(ただ、私がこのように自分の考えをオンライン上で綴っていることをその方は知らないため、ここでお相手の詳細を書くのは控えておく。そうできているか不安であるが。いつか「この時の私、どんなことを書きたかったんだっけ?」と思った未来の私はメモに残した下書きを読みなさい。)


さて、その方との間で私が今何に悩んでいるかというと。つい最近、おそらく一番大事であろう、とある価値観が真逆であることを知ったのだ。

自分と他人は違う生き物。ひとりとして同じ人間はいない。たとえ違う部分があったとしてもそれはそれで良いと思うし、認め合いや擦り合わせができる関係性を築けられれば問題ない。そう思っていた。ただ私の個人的な心の動きとして、「違う」ということがこんなに苦しいものなのかと驚いてしまったのである。

まあでも、早いうちにお互いの考えを知り合えたのは良かった。ただ、まだ始まってもない段階でする話ではなかったかもしれないし、つい物事を考えすぎる私だ。真面目な話のなかで、深刻な雰囲気を醸し出してしまった感は否めない。いわゆる「やっちまった」である。


ちなみに今これを書くにあたって、少しの間連絡頻度が落ちてしまうかもしれないということを伝えてある。要は思考の整理をしたいので時間をくださいということだ。私としては前向きに待ってもらえたら嬉しいところなのだが、さあどうなるかな。正直返事を見るのもちょっと怖い。大丈夫大丈夫、今私がそういうモードなだけ。すぐ見れるようになるよ。大丈夫。


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今回の記事のタイトルを考える時、自然と浮かんだ言葉がこの「時間をください」だった。きっとあの人に今一番伝えたい言葉なんだと思った。

「今決められないなら決められる時が来るまで決めないでおく」
私が大事にしている考え方だ。

(本記事冒頭より)

そう。そうなのだ。正直まだ「私はきっとずっとひとりで生きていくんだろうな」のほうが優勢である今、そしてまだ何も始まってない今の段階で、その先、俗に言う「ゴール(だなんて思っちゃいないが)」について決断することはできない。なんとなくの想像はできても、まだまだ現実的ではない。


だから今後もし、それを前提とした申込みの機会を与えていただけたならば、その時にまた悩んでみようと思う。

その時のヒントになるか分からないが、期間を設けてみるのもありかもしれない。一定期間を経た時に、もう一度私の気持ちを確かめてほしいと。そこから改めて真剣に考えてみないかと。私も私で、前向きに変化できるように努めるからと。それでも良いのならと。


その機会が訪れなければ、そしてそこから先に進めなかったならば、お互いにそれまでということだ。未来の自分へ厳しいことを言っているかもしれないが、そのくらいの覚悟を持っていないと、私のために人生の貴重な時間の一部を使ってくれている相手に失礼である。まぁ既にあの人からしてみれば「私の変化待ち」みたいなところがある以上、さらに待ってほしいと言っている時点で無礼を働いているのだけど。

私も私よね、この先変わるかもしれないけれど現状その気がないのに一時の感情で繋がって、いざ現実を目の前にして動揺して。自分が嫌になる。こんな私にこだわる必要ないよって、今ならまだ引き返せるよって言いたくなる(というか既に言っている)。


でも考えてもみてほしい。絶対にひとりじゃ叶えられないあなたの夢において、その大役を全面的に担う(であろう)のが私だってこと、分かっているのかしら。そりゃ深刻にもなりますよと。言いすぎかしら。どうかしら。


とはいえ、なんだかんだ「もうやーめた」と投げ出していないところを見ると、私はまだあの人との間に生まれたせっかくの縁をぞんざいに扱いたくないようだ。それを知れただけでも収穫だ。


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あの人に伝えるなかで気付いた、私にとって必要で大事なはずだった自己分析の時間。1年以上ぶりに頭の中を掻き出して書き出して、かなりスッキリできた気がする。そうだよ、私はいつも言葉に直すことで整理してきた。大事なこと、忘れかけていた。


「今決められないなら決められる時が来るまで決めないでおく」

結論を先延ばしにする、逃げてばかりの幼稚な人間と思われるかもしれない。だがこれが私なのだ。私は基本的に私のことが嫌いだが、そんな私のことを分かってくれるのもまた私だけなのだ。私がそれでいいと思えたら私は嬉しいのだ。


次にこの記事を読む時、私は何かしら決断できているだろうか。できれば前向きに、自分の心も相手の心も大切にできる選択をしていたいものだが、どんな未来になっていようが、これを書いている私はその時の私の決断を支持するよ。大丈夫。


ではまた。

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