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自己分析#15「ミモザのクッキー、今日のところは自分で食べる」

個人的に今日はちょっと勇気を出したかった日だったんだけど、結局最後までタイミングも掴めず勇気も出なくて、なんだろ、いつもなら最終的には「まあいっか」で流せるんだけど、今日はそうできない感じがちょっとある。


今もずっと分からないままだけど、やっぱりそういうことなんだろうか。


例えば自分の好きなものについて聞いてくれる(語らせてくれる)人がいるとして、同じ話でも「この人が聞いてくれるから嬉しいんだ」という場合と、「好きなものの話をするという欲求が満たされるならまあ嫌な気はしないよね」という場合がある。じゃあこの違いはなんだろうかとさらに分析していくと、受け止め(てもらい)方の柔らかさに差があるのかなと。


否定せずに、(馬鹿にするとかいう意味で)笑わずに、そういうのいいねと言ってくれるだろうなという人にする話と、ヤバい奴認定しながらにやにやと聞いてくるんだろうなという人にする話とじゃ、そりゃ、違いますわな。そもそも後者のような態度を取る人には私がこれまでずっと大切に大切に連れてきた「好き」を開けっ広げにしたくないんだけどね。話さざるを得ない状況だから仕方なく話している、に近いくらい。


そして両者へのこの「~だろうな」は、今までその人と私との間で積み重ねられてきた関係性によるもので、そう思えば大きな括りとしての自分の気持ちははっきりしているんだと分かる。


ただ、その気持ちを細分化した時に、本当にそうなのかな?と思う。というか必ずしもそういう枠に嵌め込まなければいけないのかな?嵌め込みたいのかな私?


まあ昔から「そうなんだな」と分かるまでに時間がかかる方ではあったし(※年単位)、だから経験値もたいしてないんだけど。


じゃあなんで今ちょっと泣きそうなんだろう。水槽に一滴絵の具が落ちた程度のブルーな気持ち。どんより濁りきった気持ちではないけど、かといってまっさら透明な気持ちというわけでもない。ちょっぴり切ない。絵の具一滴分、切ない。


一度決めたことをやり遂げられなかった悔しさ?そうすることによってひょっとすると変わるかもしれなかった何かへの期待感と、一瞬でもそう思ってしまった気持ち悪い自分への羞恥心?分からない。


私には「今決められないことは今はまだ決める時ではないのだろうから今決めない」「今分からないことは今はまだ分かる時ではないのだろうから分からないままでいい」そんな持論がある。


よって今回も分からないまま先送りしてみる。未来の私、任せたぞ。もしかしたら明日の私なら勇気が出るかもしれないし。そうだ、来年の今日ここに来てみようか。これを読む私はもう分かったのかな。教えてほしい。その時の私がどんなでも、これを書いている私は受け止めてみようと思っているよ。


まあここに書き留めよう(自己分析しよう)としている時点で、だいぶ執着しているんだろうけれど。


ひとまず今日のところは、「こうできたらいいな」を抱いていた昨日までの私にごめんねを。ごめんね今日の私がヘタレなばかりに。ヘタレついでにここでこっそり言わせて。おめでとう。


ではまた。


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