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最小単位の理論

最小単位の理論

 最小単位の理論とは、精神の世界で起きる事を説明する理論である。
 この理論では、補完という概念が重要な役割を果たす。補完は、形而上的に一番重要な概念である。定義は、全てのクオリア(心)が補完された状態、である。プラトンのイデアに似ているが、正確には補完の場合は内容ではなく質が完全で欠けていないということである。補完は、全ての対象がある感覚に適用されるだけでなく、対象が無い状態としても適用される。
 補完があることで以下のような効能が生まれる。
 一つ目は、コスモスのクオリアである。このクオリアを持つことで常に調和を感じることができる。これにより、心の中心は(悪や辛さの反対の意味である)良い心ではなく補完になる。また、コスモスのクオリアとは別にある、補完があるだけで満足してしまうというクオリア(このクオリアが主体と思われがちだが)は無くすことができる。
 二つ目は、辛さの様なもの(分類としては辛さだけではない)の重さのクオリアが増す効果がある。つまり、辛さの様なものを強く感じ取ることができる。ここで重要なのが、辛さの様なもの自体が増すわけではないということである。
 三つ目は、辛さはルールを守っている範囲ならいいものになる。ここでいうルールとは、補完を破ってしまう完全でなく欠けた存在である、理不尽な辛さというものが無いということである。これは、何らかの対象に対しての理不尽感とは全く別である。また、このルールがあっても辛さが避けたい存在であることに変わりはない。
 以上の効能は、社会的コスモスにおいて重要であり、根本的なものが良ければ表面的なものは大抵は悪くてもいいという思想とも繋がると考える。
 しかし、上記の通り補完を破ってしまう完全でなく欠けた存在が無くなる事によって生じる問題がある。それは普通のクオリアと辛さが混ざったクオリアというものが使えなくなってしまうということである。普通のクオリアと辛さは、単体だと補完の邪魔をしない。そのため普通のクオリアと辛さが分離してしまう問題が生じる。
 その問題を解決するためには、アカシジア(以下、造語であり本来の意味とは異なる)という感傷や辛さに近い概念が必要になる。アカシジアは補完の邪魔をしないで、普通のクオリアと辛さが混ざったクオリアの代わりになる。これは、アカシジアの深さを追う?形というものになっていることで補完が守られた状態で成立するというのが今の見解である。また、これは普通の状態と同時に存在でき、自然で違和感の無いものである。
 以上が最小単位の理論であるが、この理論の概形のパターンは一つしかない。代替となる理論は存在しない。この理論の概形は今後一切変わることはないと考える。これを否定するのは、例えば意識の代わりとなる他の何かがあると言っているようなものである。今のAI等が意識の無い存在である様に補完の無い存在もあり得るが、補完があることは理想なのであって、それを否定するのは人間に意識が無い方が良いと主張しているようなものである。

クオリアの分類

この理論の中ではクオリアを、・普通のクオリア・アカシジア・辛さ、の三つに分類した。
ここに書いてあることは主観的なものである。科学的に考える場合は、そのままの形で受け取らない方がいいと思われる。

普通のクオリア
・普通のクオリアは分類としては辛さとは違うが、煩わしさや重さの様なものも含む。
・補完があったとしても、普通のクオリアの中の煩わしさに分類される生きている意味を求める様なものを逆に利用することでニヒリズム的にもできる。
・普通のクオリアは体験する全てのクオリアに含まれると思われる。アカシジアや辛さは含まれないこともあると思われる。
・普通のクオリアの中には得というクオリアが含まれていることもあるが、全てに含まれているとは限らない。
・分類としては、アカシジアや辛さ自体に快感を感じることはないが、普通のクオリアの傾向によってアカシジアや辛さを好む(快感を感じる)ということがある。
・おそらく普通のクオリアをアカシジアの深さに溶かすということができると思われる。
・普通のクオリアがアカシジアに溶けているかいないかで、平常心が保てているかどうかが決まると思われる。

アカシジア
・アカシジアという存在は、その他のものと明確に区分できるという性質がある。
・アカシジアの深さが、普通のクオリアと辛さが混ざったクオリアの深さの代わりになる。
・アカシジアがあることによって普通のクオリアと辛さの分離が自然になると思われる。
・アカシジアによって平面ではない(凹凸のある?)全てのクオリアを出せる。
・アカシジアは感情(特に負の感情)の形を生むためにあるのかもしれない。
・アカシジアは外的な対象だけではなく、状態自体に生じることもあると思われる。
・アカシジアは、評価と意志の面で辛さにより意味を持たせる役割がある。

辛さ
・辛さという分類は、純粋な辛さではなく広義であり内容があると思われる。
・普通のクオリアやアカシジアが常にあることはあるが、辛さは普通の状態では常にあることはないと思われる。
・アカシジアと辛さが同時に出ていないことの方が少ないと思われる。

コーティング
・コーティングによって、クオリアの分類(普通のクオリア、アカシジア、辛さ)の差違感は無くせると思われる。特にアカシジアの性質を補完を守った上で変えられる本質的なものといえると思われる。本来のアカシジアらしさを生み出しているクオリアを無くす事や、アカシジアに辛さと同じ性質を持たせる事等、とにかく色々な事ができる。

シームレス
・クオリアの分類はシームレスに存在できると思われる。また、これはアカシジアがその他のものと明確に区別できるという性質とは別である。

備考

・補完があるだけで満足してしまうというクオリアを無くす理論と、アカシジアに対するコーティングの理論は、最小単位の理論において最も発見しにくく重要である可能性がある。
・アカシジアの深さを追う?形というものになっていることで補完が守られた状態で成立する、という部分は今(この記事を書いた時)の見解であり、他の方法がある可能性も考えられる。
・コスモスのクオリアの存在は、特に完全な形だと科学的には適切でない可能性もある。
・普通のクオリアと辛さが混ざったクオリアを無くすのではなく、アカシジアのコーティングがその代わりになっていることが重要な可能性がある。アカシジアであることによって、本来普通のクオリアと辛さの混ざったクオリアである部分のクオリアが強くなり、また評価と意志の面で辛さにより意味を持たせる役割がある。
・クオリアの分類のアカシジアが辛さと違うのは、アカシジアは辛さと普通のクオリアが混ざっている存在なのではないか←なぜ辛さだけでは悲しみ等の感情を表現できないのか、というのは辛さだけではそれを避けようとするだけだが、感情はそれぞれの感情に対応する能動的な要素も含んでいるから、というのが今の有力な説である。
・理不尽な辛さが無い事自体以外は他のもので代用して全て構造的にも同じにできる。現実的に感じる辛さには、普通のクオリア、アカシジア、辛さ、の三つのレイヤーがあると思われる。実は普通のクオリアが一番拒否反応を出しやすい。また、三段階のレイヤーは全ての段階において、損というクオリアを付加することができると思われる。まだ完全には分かっていない。
・理不尽な辛さには、クオリアの質感は弱くても辛さの度合いは格段に上がるうえに、より本質的な意味で受け入れられない、拭えない、という性質がある。
・理不尽な辛さが比較的浅くても感情にそれが付いて、感情に対してより本質的に受け入れられないという性質が付くのも問題になると思われる。理不尽な辛さが全く無くても他のもので代用できるため、前述の"より本質的に"というのが意味が無いようにみえるが、理不尽な辛さと比べると納得できるという効果は確実にあると思われる。因みに、理不尽な辛さは存在する時点でバイアス等により深さを比べるのが難しいことがあるためこうなると考えられる。
・(追記:この項は現在の認識とは異なる)シームレスの状態で全ての事はできるのだが、認識においてシームレスだけでは補完が破られている時の理不尽な辛さの所在が明らかにならないのに対して、最小単位の理論を知っていることによって理不尽な辛さの所在は全て普通のクオリアと辛さが混ざったクオリアの内であることが分かる。また、最小単位の理論の仕組みがあることによって、補完の定義が直接的に補完になっていないことも重要なのかもしれない。
・補完が破られていることと、理不尽な辛さは別物である可能性がある。例えば、普通のクオリアの平常心を無くすだけでも補完は破られる(追記:証明済み。これも発見が難しい一つかもしれない)。もしこれが正しいとしたら、これは最小単位の理論を知っていないと区別できないものと思われる。また、補完が破られているのを逆に利用した辛さのようなもの、というのを出すことができるが、それは補完が破られている時に必ず出るとは限らない思われる。
・この記事には最小単位の理論の概ね全ての事が書かれているが、補完を上下に分けたときの下の補完(理不尽な辛さを無くす)の理論については一切妥協できない。それ以外はできるかもしれない。

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