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世界の国々シリーズ(3)バスク国

バスク国とは?

料理や音楽について調べているとちょいちょい「バスク」という言葉が出てきます。「バスチー」の名でコンビニストアでも販売されているバスクチーズケーキにもついている「バスク」という言葉。バスクというのは、何なのか?

概要

バスク地方とは、歴史的な領域としてのバスク地方は、バスク人とバスク語の歴史的な故国を指す概念です。英語では「Basque Country」となり、「地方」というより「国」という概念が近くなります。

場所

フランスとスペインの間にあるバスク地方
https://nael.cymru/news-blog/blog/why-the-basque-country/

ピレネー山脈の両麓に位置してビスケー湾に面し、フランススペインの両国にまたがっている地域です。スペイン側には、バスク州の3県とナバーラ州の計4領域があり、フランス側には、フランス領バスクの3領域があります。バスク・ナショナリズム運動の中で「サスピアク・バット」(7つは1つ)というスローガンが掲げられ、7領域からなるバスク地方の地理的範囲が示されました。

バスク国の旗

バスク地方の国旗
Daniele Schirmo aka Frankie688, CC 表示-継承 2.5, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=437465による

バスク地方全体の旗として、イクリニャ(スペイン語: Ikurriña、バスク語: Ikurrina)があります。またバスク地方のシンボルとしてラウブル(バスク語:Lauburu)があります。ラウブルは、バスク十字とも呼ばれています。

ラウブル

ラウブルは、ケルト人やゲルマン人のような他のヨーロッパの民族の芸術的表現において多く見られるだけでなく、西ゴート族の絵画や彫刻でも見られます。また、アストゥリアス州やガリシア州の穀物庫であるオレオにも残されており、この場合は単にテトラスケレス(tetrasqueles)と呼ばれています。ラウブルは、アラゴン州ではクアトレフエーリャス(cuatrefuellas)またはレリガーダス(religadas)と呼ばれています。

ラウブルは現在、バスク人にとって最も有名でバスクを象徴するものと認識されてますが、歴史的に用いられてきたことはないようです。たとえば、文化的にバスク国とみなされる土地のいずれの紋章にも旗にも、ラウブルが描かれたことはありません。

サンタ・クルス侯爵夫人ホアキナ・テリェス=ヒロンの肖像、フランシスコ・ゴヤ画
画中のリラにラウブルが描かれています。


バスク地方の地域区分

バスク国の構成
Unai Fdz. de Betoño, based on User:Willtron - http://commons.wikimedia.org/wiki/Image:Mapa_provincias_Euskal_Herria.svg, CC 表示-継承 1.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=5019213による

歴史的なバスク地方は、南バスクまたはスペイン・バスクと呼ばれるスペイン領土の4地域、北バスクまたはフランス領バスクと呼ばれるフランス領土の3地域の計7領域から構成されていますす。バスク地方全体の面積は20,947 km2であり、2005年から2011年の調査に基づいた人口は、約308万人、人口密度は約149人/km2(スペイン全体やフランス全体の人口密度と同程度)。

ピレネー山脈

ピレネー山脈

ピレネー山脈(英:Pyrenees)は、ユーラシア大陸西端部のイベリア半島の付け根付近をほぼ東西方向に走る、長さ約430 kmの褶曲(しゅうきょく)山脈。

ビスケー湾

ビスケー湾
SVG conversion by User:Decora, original map File:Bay_of_Biscay_map.png by User:NormanEinstein, November 7, 2005 - Bay_of_Biscay_map.png, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=14568127による

ビスケー湾(英語:the Bay of Biscay)は、イベリア半島の北岸からフランス西岸に面する湾。

ガリシア州

スペイン、ガリシア州
Mutxamel, subido por Rastrojo (D•ES) - File:EspañaLoc.svg, de HansenBCN. Modificada por User:Mutxamel., CC 表示-継承 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3354123による

ガリシア州(Galicia)は、スペインの自治州の1つ。スペイン北西に位置し、南はポルトガル、東はアストゥリアス州とカスティーリャ・イ・レオン州に接し、北と西は1490キロメートルの海岸で大西洋とカンタブリア海に面しています。州都はサンティアゴ・デ・コンポステーラ。自治州政府はシュンタ・デ・ガリシア(Xunta de Galicia)。

バスク語

バスク語は、スペインとフランスにまたがるバスク地方を中心に分布する孤立した言語で、おもにバスク人によって使われています。スペインのバスク州全域とナバラ州の一部ではスペイン語とともに公用語とされています。約66万5800人の話者がバスク地方に居住しています(2006年)。

バスク地方(バスク国)の歴史

動画ではこちらでバスク国の歴史が30分にまとめられています。


古代

紀元前3世紀には、カルタゴ人がピレネー山脈の麓に到達しますが、征服や植民を行うことはなくバスク人との関係は良好であり、多くのバスク人がカルタゴ人の傭兵となりました。この頃のバスク人たちは、長老会議や戦士団を持ち、女性は農業を、男性は狩猟や略奪を行いました。何らかの言語を話していたものの、その言語を文字にすることはありませんでした。

紀元前133年のヌマンティアの攻囲戦でローマ人ケルト人を破ると、紀元前75年にはポンペイウスが自身の名に因んだ都市ポンパエロ(現パンプローナ)を建設し、ピレネー山脈に向かう際の強力な防衛地点として使用しました。ポンパエロには神殿、公共浴場、邸宅などが築かれてローマ的な都市となり、バスク地方南部ではオリーブや小麦やブドウなどローマ的な農作物が生産されるようになりました。土地がやせている北部では、鉱山や避難港などがローマ人に利用されていました。この頃のバスク人はいくつかの部族にわかれて広い領域に分布しており、カエサルはポンペイウスの軍隊を解散させて近ヒスパニア全域の統治を確立しました。

パンプローナ(スペイン語: Pamplona)は、スペイン・ナバーラ州のムニシピオ(基礎自治体)。ナバーラ州の州都。かつてはナバーラ王国の首都でした。

紀元前1世紀には、バスク地方にもローマ人が到着しましたが、、アウグストゥス(ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス)は、バスク人が住むピレネー山脈の山岳民やアクイタニアを平定させることができず、これらの地域はローマ法、ラテン語、キリスト教などのローマの影響をほとんど受けませんでした。ローマ人とバスク人は協力関係にあったとされ、イタリアのブレシアには「すべてのバスク民族はローマと友好関係を保ち、直ちに兵士としてローマ軍に加わった」と刻まれた1世紀の石碑が残っています。ローマ人は、バスク人をヴァスコニア(Vasconia)と呼んでおり、バスク人は自らのことをエウスカルドゥナク(バスク語を話す人々)と呼んでいました。ヴァスコニアは、現在のバスクという統一的な名称の創始であり、またガスコーニュという地名の語源にもなっています。

3世紀末には、バスク地方南部の都市にキリスト教が伝播されますが、ローマ時代にはキリスト教は浸透せず、太陽・月・天などケルト文化の影響を受けた自然崇拝が主流でした。

中世

中世前期
5世紀には、西ゴート族がバスク地方に侵入し、バスク地方にいた種族は連合して異民族に抵抗しました。

714年には、ウマイヤ朝のイスラーム勢力がバスク地方に侵入し、718年にはパンプローナが征服されますが、732年にはフランク王国の宮宰カール・マルテルトゥール・ポワティエ間の戦いでイスラーム勢力を撃退し、イスラーム勢力はイベリア半島南部に戻りました。11世紀までは、断続的にバスク人とイスラーム勢力との間で諍いが起こりましたが、おおむね平和に共存していました。

7世紀以降には、フランク族のメロヴィング朝の家臣によるヴァスコニア公爵領が存在し、西ゴート族、イスラーム勢力、フランク王国に対してピレネー山脈の両側のバスク人は連合しました。778年のロンセスバーリェスの戦いではカール大帝軍に勝利します。この戦いは、叙事詩『ローランの歌』のモデルとなりました。ヴァスコニアは西ヨーロッパの人々によって野蛮性が強調され、「破壊者」「浮浪者」「略奪者」などと呼ばれました。

バスク人は基本的に山岳地帯の散村で生活していたことから、広い領域との関わりを持たず、バスク人全体を統一する権力者は長らく登場しませんでした。

北バスク
封建時代初期の北バスクは、3つの独立した組織体で構成されていました。東部(現スール)は、ガスコーニュ公爵とビゴール伯爵の支配下にスール子爵領がありましたが、1078年にベアルン子爵の支配下にはいりました。中央部(現バス=ナヴァール)は、11世紀初頭になってアルベルー、オスタバレ、オッセス、シーズ、ミクス、バイゴリの封地が確立しましたが、13世紀には、ナバーラ王国の一地域としてウルトラ・プエルトス代官区を構成しました。西部(現ラブール)は、11世紀初頭にナバーラ王国のサンチョ3世に質権(しちけん:債権の担保として質権設定者から受け取った物を質権者が占有し、その物について他の債権者を差し置いて優先的に弁済を受けることができる権利)が渡されていましたが、1033年にはガスコーニュ公爵の庇護化に入りました。この3地域のいずれも自由地として自治権を有しており、農奴制の範囲外でした。1155年には、イギリスのプランタジネット朝のヘンリー2世がアキテーヌ公爵を兼ねるようになりましたが、ラブールスールの諸権利が譲渡されたことをバスク地方の貴族は好まずに敵対し、12世紀末リチャード1世(獅子心王)バイヨンヌを攻囲して占領する結果となりました。1204年にはカスティーリャ王アルフォンソ8世がラブールとスールに進攻してバイヨンヌを焼き払ってしまいます。14世紀初頭には、スールでフランス人の子爵がイギリスに反旗を翻しますが、子爵に占領された領土はナバーラ王経由でイギリスに返還されました。

南バスク
824年、イニゴ・アリスタらがフランク王国のルイ1世(敬虔王)に勝利したことでパンプローナ王朝(後のナバーラ王国)が誕生し、その息子のガルシア・イニゲスアストゥリアス王国との戦いの後に和平を結びました。イニゴ家の起源については定かでないものの、ピレネー山脈北部から出てナバーラのサラサール谷に定住していた可能性があるようです。イニゴ・アリスタ朝は3代続き、905年にはヒメノ家のサンチョ・ガルセス1世がパンプローナ王となってヒメノ朝が開始されました。922年には、アラゴン伯領を保護領とし、924年には後ウマイヤ朝のアブド・アッラフマーン3世によってパンプローナが略奪・焼き討ちに遭いますが、937年には、アストゥリアス・レオン王国と同盟を結び、939年にはシマンカスの戦いに勝利してイスラーム勢力を撃退しました。フランク王国のカール大帝によって自然崇拝が禁じられていましたが、パンプローナに修道院や司教区が設置されるようになったのは9世紀になってからであり、11世紀になってようやくビスカヤやギプスコアにも修道院が急増しました。

1004年に即位したサンチョ3世(大王)はバスクの諸地域を次々と従えました。ラブールバス=ナヴァールの質権を受け取り、婚姻によってビスカヤとアラバを併合し、スールも間接的にナバーラ王国に従属していました。サンチョ3世の死後、正嫡の長男が王国を相続すると言う当時のイベリア半島の慣習に反して、ナバーラ王国はサンチョ3世の遺言どおりにアラゴン、ナバーラ、カスティーリャ、ソブラルベとリバゴルサに分割されて4人の息子たちに与えられましたが、兄弟は敵対して領地争いが起こってしまいます。ナバーラ王国は、1076年にはアラゴン王国の一地方となったが、ガルシア6世(復興王)が王位に就いた1134年にはアラゴン王国から独立して再び主権を建てます。1212年にはサンチョ7世(不屈王)がキリスト教連合軍の一員としてラス・ナバス・デ・トロサの戦いに参加し、レコンキスタにおける重要な役割を果たしましたが、1234年に死去したサンチョ7世には正当後継者がいなかったため、シャンパーニュ家のテオバルド1世がナバーラ王となり、フランス王朝が始まりました。11世紀以後には、ナバーラ王国内部をサンティアゴの巡礼路が通るようになり、いくつかの都市が巡礼路沿いに建設されました。巡礼路は、バスク地方のキリスト教化に貢献し、15世紀末にはバイオナ司教区、オロロン司教区、ダックス司教区、イルニャ司教区、ガステイス司教区の5司教区がバスク地方を所轄していました。

バスクの他地方を見ると、9世紀にはアラバビスカヤの名称が、11世紀にはギプスコアの名称が初めて文献に登場しました。アラバはナバーラ王国内の領主領や伯爵領として9世紀中頃から独立を保っていましたが、1076年にアラゴン=ナバーラ連合王国に吸収され、1200年にはアルフォンソ8世によってカスティーリャ王国に併合されました。ギプスコアはいったんカスティーリャ王国の支配下にはいましたが、1076年に分離独立し、1180年にはサン・セバスティアンがナバーラ王国のサンチョ6世からフエロ(中世から19世紀のスペインにおいて、習慣や慣習に由来する社会的慣行が法的価値を持つようになった規範、または国王などの統治者が所与の領域を治めるに際して当該領域やその住民に譲与した特権のこと)を得ていたものの、1200年に再びカスティーリャ王国のアルフォンソ8世によって併合されました。ビトリア=ガステイスやサン・セバスティアンだけでなく、1330年代前半にはアラバとギプスコアのほぼ全領域がカスティーリャ王国に飲み込まれています。ビスカヤは、11世紀半ばからナバーラ王国のビスカヤ領主による封建体制が続き、1379年にカスティーリャ王国に併合されました。カスティーリャ王国は、トレビニョを除いたアラバ、ビスカヤ、ギプスコアにフエロ(特権)を認め、バスク3地方は政治的独立、国税免除、兵役免除などの権利を得えました。カスティーリャ王はビスカヤ領主に就任するとゲルニカに出向き、ゲルニカのオークの木の前でフエロの遵守を宣誓する義務を負っていました。1483年カスティーリャ女王イサベル1世がゲルニカの木の下で宣誓を行ってから、1839年まではこの宣誓なしには、ビスカヤ領主として認められませんでした。1181年にサン・セバスティアンが建設されたのを発端として、オンダリビア、ゲタリア、サラウツ、ベルメオなどの港湾都市が誕生し、1300年には14世紀後半以後にバスク地方の中核都市となるビルバオが建設されました。

1030年頃のイベリア半島。ナバーラ王国(濃橙)の最大版図。



近世

近世とは
近世
は、西洋史上では、15世紀 - 16世紀前半の東ローマ帝国の滅亡及び、ルネサンス・宗教改革・大航海時代あたりから、18世紀後半 - 19世紀初頭の市民革命・産業革命の時代の前あたりまでを指す。

1512年には、カスティーリャ王フェルナンド5世の軍隊がナバーラ王国に侵攻し、首都パンプローナをはじめとするピレネー以南のナバーラ王国領を占領して併合しました。ナバーラ王国は、カスティーリャ王国の副王領となりましたが、立法・行政・司法の各機構はナバーラ王国に残されました。ピレネー以北のバス=ナヴァールはナバーラ王国から分離し、フランス王国と連合するなどして1620年まで政治的独立を保ち、1620年フランス王国に編入されて州となりました。少なくとも16世紀初頭には、バスク人が、北米大陸のニューファンドランド島沿岸まで航海して捕鯨や遠洋漁業を行っていたことが判明しています。バスク人は、スペイン帝国の植民活動で重用され、航海中に死去したフェルディナンド・マゼランの後を継いで史上初めて世界一周を達成したフアン・セバスティアン・エルカーノは、バスク人で、メキシコのサカテカス銀山やボリビアのポトシ銀山を主に開発したのもバスク人でした。多くのバスク人聖職者が、新世界で布教活動を行っており、イエズス会の創始者であるイグナチオ・デ・ロヨラフランシスコ・ザビエルもバスク人でした。1545年には、ボルドーで司祭のベルナト・エチェパレがバスク語最古の出版物である『バスク初文集』を刊行し、同年には、バスク地方初の大学としてオニャティ大学が創設されました。1545年以後のトリエント公会議は土着の言語での布教を推奨しており、1571年にはラ・ロシェルでヨハネス・レイサラガが新約聖書のバスク語訳を刊行しました。バスク地方には、王立造船所があり、この造船所で建造された船がカスティーリャ王に献上されました。ビルバオは、カスティーリャ王国の羊毛の積み出し港であり、16世紀前半には、ビルバオに海事領事所が設置されました。

17世紀には、カスティーリャ王国の衰退が顕著になりますが、ビルバオでは造船業や海運業が繁栄し、ビスカヤとギプスコアではヨーロッパに輸出する武器製造業が発展しました。

1659年に結ばれたフランス・スペイン戦争の終戦条約であるピレネー条約では、スペインとフランスとの国境がほぼ確定し、バスク地方は北バスクと南バスクに完全に分断されました。

18世紀初頭のスペイン継承戦争後には、スペイン各地でフエロが撤廃されましたが、ブルボン家に味方したバスク地方ではフエロの存続が認められ、特にアラバ、ビスカヤ、ギプスコアの3領域は一体性を喚起する枠組みが与えられました。

1728年には、王立カラカス・ギプスコア会社が設立され、金・銀・タバコ・皮革・カカオなどを取引する新大陸貿易で大きな利益を得えました。18世紀後半のバスク地方では、農業と牧畜業の均衡が崩れ、伝統的な製鉄業は産業革命を経たイギリスに後れを取って競争力を失いましたが、それまでに経済活動で蓄積していた資本が経済復興に役立ちました。1765年には科学・技術・芸術を通じて経済振興を目指すバスク地方友の会が創設され、「イルラク・バット」(3つは1つ)をスローガンに3領域の一体性を主張しました。

近代

近代とは
近代(英語: modern period)とは、封建主義時代(19世紀初頭)より後の資本主義社会・市民社会の時代を指す。「近代」という語は、「現在の政体や国際社会の時代(現代)の一つ前の時代」という意味を伴っています。この為、アジア史では、第二次世界大戦終結(1945年)を境にして「近代」と「現代」に分けられています。一方、ヨーロッパ史では、第一次世界大戦終結(1918年)を境にして「近代」と「現代」に分けられていましたが、近年では東欧革命(1989年)を境にして「近代」と「現代」を分ける見方も増えています。

フランス領バスク
1789年に開催された三部会(全国三部会を指し、これはフランス国内の三つの身分の代表者が重要議題を議論する場として、中世から近世にかけて存在した身分制議会のこと)において、ラブールとスールから参加した代議員は地方特権廃止に票を投じ、北バスクが享受してきた自由や特権は廃止されました。北バスクは、フランスという集合体への融合を受け入れ、バス=ピレネー県(現ピレネー=アトランティック県)に統合されていきます。

18世紀末には、ピレネー山脈を挟んでフランスとスペインが衝突し、1794年にはフランス軍がナバーラ県北部とギプスコア県を占拠し、1795年にはアラバ県とビスカヤ県を占拠しました。1807年にはナポレオン・ボナパルトとカルロス4世がフランス領バスクで対決し、半島戦争(スペイン独立戦争)中の1813年から1814年にはウェリントン公爵アーサー・ウェルズリー軍とナポレオン軍の対決します。19世紀前半以降、フランス領バスクでは、ビアリッツの海岸やカンボ=レ=バン鉱泉などのリゾート化が進行し、フランス有数の避暑地・保養地として発展しました。外部資本によるサービス産業が基幹産業となり、海岸部には非バスク語話者が流入しました。ナポレオン3世は王妃ウジェニー・ド・モンティジョのためにビアリッツに離宮を建設し、この離宮は現在では高級ホテル、Hôtel Du Palaisとして使用されています。


スペイン・バスク
19世紀
のスペインでは国民国家形成が進められ、中央集権化と均一化が図られるとともに自由主義的な改革が試みられました。同じ王国内にありながら法域が異り、関税がかかる状況を改めることは、バスク側にとっては中世以来のさまざまな協定や慣習によって守られてきた権利や独自性を脅かすものにほかなりませんでした1833年には、社会制度や経済構造の維持を唱えるカルロス5世と、自由主義を標榜するイサベル2世との間での王位継承問題を発端とする第一次カルリスタ戦争が勃発し、フエロの維持を求めるスペイン・バスクは旧体制を支持して自由主義勢力と戦いましたが、1839年に敗北が決定してスペイン・バスクのフエロは縮小されました。1841年にはナバーラ県のフエロが撤廃されます。その結果、数百の町がスペインに統合され、ナバーラのスペイン化が完了しました。その後第二次カルリスタ戦争を挟んで第三次カルリスタ戦争が起こり、1876年7月21日法でバスク地方のフエロは実質的に撤廃されました。バスク地方は、スペイン国家の中の一地域に位置付けられ、納税や兵役の義務が課せられることになりました。関税境界はバスクとスペインの境界からスペイン・フランス国境に移動し、スペイン・バスクとフランス領バスクを分断しました。

バスク民族主義の父」と呼ばれるサビノ・アラナはバルセロナ大学で学ぶうちにカタルーニャ・ナショナリズムに共感し、ビスカヤ地方の精神的独立の復活を訴えて政治活動を開始しました。アラナは「血族、言語(バスク語)、統治と法(フエロ)、気質と習慣、歴史的人格」の5つをバスク民族の独自性を定義づける要素に挙げ、特に血の純潔によってバスク人はスペイン人に優越するとしました(危険ね)。1895年には、バスク民族主義党(PNV)が設立され、アラナの主張は近代的工業化から除外された中小ブルジョワ層に受容されました。アラナは、分離主義者ではなく地域主義者であると主張し、名称(エウスカディ)と旗(イクリニャ)を持つ、7地域 がひとつにまとまった国を提起しました。初期のバスク・ナショナリズムは反工業化を唱え、第一次世界大戦後には近代化の余波が及び始めた農村部にも伝播していきました。初期のバスク・ナショナリズムはバスク地方の独立や分離を訴えましたが、やがてスペイン国家内での地方自治の訴えに変化していきました。

1931年には、第二共和政が成立し、バスク民族主義党はカトリックを基調とし、バスク4県をほぼ独立した国家として扱うエステーリャ憲章(バスク自治憲章案)を採択して国会に提出しますが、特にスペイン社会労働党(PSOE)による反対運動で廃案となりました。この一方で、1933年には、カトリックを基調としないバスク自治憲章案がナバーラ県を除くバスク3県の住民投票によって承認され、バスクの歴史上初めてアラバ、ビスカヤ、ギプスコアの3県が法制的にまとめられました。第二共和政下では各政治勢力の主張が交錯し、バスク民族主義党は、アラバ県やナバーラ県の支持を取り付けることに失敗したことで、バスクの地方自治の実現が遅れたと考えられています。1932年には「祖国の日」が制定され、バスク地方では例年復活祭と同時期にバスク国の復活が祝われています。1936年には、共和国議会でバスク自治憲章の公布が認められホセ・アントニオ・アギーレをレンダカリ(政府首班)とするバスク自治政府が承認されました。バスク自治政府は、バスク大学の設立に着手し、グアルディア・シビル(治安警察)やグアルディア・アサルト(治安突撃隊)を解体してバスク警察を設立し、バスク軍を再編しました。1930年代後半スペイン内戦では、ビスカヤ県とギプスコア県のバスク民族主義党は共和国側に立ってフランシスコ・フランコの反乱軍と戦いましたが、アラバ県とナバーラ県は反乱軍に味方しました。ナバーラ王国を継ぐナバーラ県はバスク地方の中心的存在でしたが、ナバーラ県内の住民投票でもバスク3県への併合を拒否してバスク3県から分離されました。1937年4月にはバスクの自治の象徴であるゲルニカが、反乱軍と組んだドイツ軍によるゲルニカ爆撃を受け、1937年6月にはバスク軍最後の拠点であるビルバオが陥落しました。バスク自治政府は支配領域をすべて失い、政治的独立の試みが頓挫して亡命政府となりました。

スペイン内戦では、15万人以上のバスク人が難民となり、その後のフランコ政権下ではバスク語の使用禁止やイクリニャ(バスク国旗)の掲揚禁止などの政策が取らました。

1946年には、アギーレがニューヨークでバスク亡命政府を編成し、亡命政府のバスク民族主義党が主導したビスカヤ県での労働争議は功を奏しましたが、反共産主義の立場を取る西側勢力はフランコを容認するようになり、1960年のアギーレの死もあってバスク亡命政府は政治的影響力を低下させてしまいます。1952年に地下組織として結成されたEKINは、バスク民族主義党青年部から分離したグループなどを加えて1959年バスク祖国と自由(ETA)に発展し、バスク語の民族語としての擁立、バスク大学の創設などバスク民族の政治的自立や民主的諸権利の認知を訴えました。発足当初のETAは、民族文化復興運動団体の色彩が強かったのですが、やがて政治的独立を掲げる集団が主流派となり、1968年には武力闘争が開始されて世界的に知られるようになりました。それまでは、穏健派のバスク民族主義党がバスク・ナショナリズム運動を独占していましたが、ETAの登場で状況が変わりました。1960年代末には、全国的にフランコへの反体制運動が高まり、1970年代になるとバスク民族主義党が保守層の支持を背景に組織を拡大しました。

現在

フランス領バスク
フランス領バスクは、19世紀から1980年代まで経済が低迷しており、若年層を中心に人口が都市部に流出しました。1945年には、北部バスク地方自治憲章案が策定されて自治権を求める動きが発生しましたが、バスク・ナショナリズムの発現度は南バスクに比べて低いものでした。1981年のフランス大統領選挙では、バスク県設置とバスク語使用の擁護を公約に掲げたフランソワ・ミッテランが立候補しましたが、いざ就任するとバスク県設置の公約は反故にされてしまいました。しかし、その後もフランス政府は、地方分権化に積極的であり、1990年代後半以降には「ペイ」(pays=地方、地理的・文化的・経済的・社会的なまとまり)が法的に制度化され、1997年には地域整備政策上の行政区分単位として「バスク地方」が定義されました。しかし2013年には、フランス領バスクにおける地域振興事業が満了し、「バスク地方」という行政区分は消失しました。

スペイン・バスク
1975年
フランコが死去するとスペインでは民主化への移行が開始され、1978年には国民投票が行われて、スペイン1978年憲法(現行憲法)が制定されました。憲法には、スペイン国家の不可分一体性が明記され、バスク人は民族を構成するには至らない民族体と位置付けられましたが、1979年にはスペイン国会でゲルニカ憲章(バスク自治憲章)が承認された後に住民投票でも承認され、アラバ、ビスカヤ、ギプスコアの歴史的3領域の自治組織としてのバスク自治州が発足しました。憲法の規定でナバーラ県は、バスク州への統合が可能とされていましたが、結局1982年に単独でナバーラ州に昇格しました。バスク人とナバーラ人の分離はスペイン政府の意図するところであり、バスク地方とスペイン国家の係争解決に向けた大きな障害となっています。ETA(バスク祖国と自由:バスク地方の分離独立を目指す民族組織)は、1968年の暴力活動開始以後に800人以上を殺害し、1990年代頃にバスク経済が一定程度回復するとテロリズムの克服がバスク地方最大の懸念事項となりましたが、2000年代後半以降には軍事的・政治的に弱体化したとされています。2003年には、バスク民族主義党のフアン・ホセ・イバレチェがゲルニカ憲章改正案をスペイン国会に提出してバスク地方の自治拡大を狙いましたが、スペインの不可分一体性を崩しかねないこの案はスペイン下院に否決されました。


バスク由来の人物

モーリス・ラヴェル

1925年のラヴェル

ジョゼフ・モーリス(モリス)・ラヴェル(Joseph Maurice Ravel)(1875年3月7日 - 1937年12月28日)は、フランスの作曲家ですが、バスク系フランス人。『スペイン狂詩曲』やバレエ音楽『ダフニスとクロエ』、『ボレロ』が有名。


参照





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