自分史的なクリッピング史料

西島秀俊、芦田愛菜主演の日曜劇場、「さよならマエストロ〜父と私のアパッシオナート」を楽しく観ている。前回放送ではウィリアムテル(ロッシーニ作)の演奏を舞台曲にしていたけど、クラシックの名曲が部分的でも流れ、ドラマと融合していくという形は何とも言えずワクワクする感じでもある。西島秀俊の役はマエストロ、指揮者だ。ちょっと滑稽で面白い役柄。今日は音楽に関わりのある記事を2つ。

2023年5月12日 朝日   プレミアシート 揺らぐ "正義" 戯画的に  TAR /ター
2023年10月1日 日経 The STYLE / Culture  欧州クラシック音楽界の挑戦
民主主義の守り手をうたうには政治的正しさにこだわらざるを得ない

最初の記事は男性優位なオーケストラの世界でベルリン・フィルで初めて首席指揮者となったリディア・ターという人物を主人公とするフィクション映画の話。主人公は権威的に傲慢で、今の時代ではハラスメントと評されても仕方のない態度だったと始まる。自らはレズビアンであることを公表し、女性パートナーと養女を育てているものの、自分以外には興味はないといった気質だった。映画ではジュリアード音楽院での授業のシーンが印象的だと記されている。生涯に複数の妻と20人の子供をもうけたバッハについての生徒同士の会話シーンの回想。バッハを許容できないという男子生徒を喝破し容赦なく罵倒するというシーン(観てないから分からないけど)。彼女のそうした姿がSNSで拡散され、彼女は不寛容な怪物のようだとされてしまう。映画評論家が記すこのシーンは、「戯画的に対象化した場面に見える」と語っている。作品の価値と作者の人格を同一視する考え、言動問題によって鑑賞を拒否する選択をしてしまうという傾向。そうした最近の傾向、即ち、SNSによる支配と搾取構造を作品で捉え直しているのではないかと。一方で正義とは何かを炙り出している様相でもあると。映画評論家(筆者)の洞察・解説は鋭く意味深いと思ったりして。リディア・ターは実存しないが架空のモデルを指揮者で表現したこの映画はいずれ観たいと思った。

一方で後者は実在の人物。ウクライナ出身のオクサーナ・リー二フ。権威の象徴でもあるバイロイト音楽祭で、過去150年近く著名な巨匠・マエストロが登場してきた中、2021年から3年続けて登板した女性指揮者の話。

自身の成功を家族も含め誰一人として信じていなかった。指揮を学んでいた頃にも周りは男性ばかりで、悩みを分かち合うこともできなかったとある。オペラ歌手など女性の存在が多く知られているが、作曲家や指揮者は男性が圧倒的。作曲家モーツァルトの姉、シューマンの妻などは優れた音楽家だったものの「二流として扱われた」とリー二フさんは言っている。

性別に関係なくその地位を獲得するチャンスが現代ではあると確信している様子。同音楽祭の総監督もカタリーナ・ワーグナーさんで女性だ。なんとワーグナーのひ孫。女性の指揮者を登用する歌劇場も増えているというけど、まだまだ途上。舞台演出の担当も男女で棲み分けが残っているらしい。女性の能力とチャンスは均衡していないというのもクラシック音楽界だけでなく多くの領域で残っているのも事実。メジャーかマイナーかの境界線はいつまでも曖昧にしか引くことはできないのだろう。モーツァルトの「魔笛」は黒人奴隷が悪役。これを文化の継承・伝統という抽象的な正しさでオブラートに包まれているという指摘をメルボルン大学の教授がコメントしている。

でもそうした潮目は変わりつつあるらしい。背景は欧州社会の変化だ。リベラル思想が広がって、ポストコロニアリズム(植民地主義への批判)が浸透してきているし、長年の「欧州中心主義」への自己批判も聞こえるようになっていると。民主主義の守り手をうたうには、政治的正しさにこだわらざるを得ないと。

ロシアのウクライナ侵攻によって、プーチンと蜜月だった世界的指揮者・ゲルギエフが欧米の音楽界から事実上追放されたとも記されている。こういう話を聞くと、個々人の思想・思考・信条を簡単にその是非を問うことはできないけど、少なくとも芸術はリベラル、中立であって欲しいという思いもある。でもその時々の潮流もあって、今では許されない背景簡単には払拭できない。

今日はさよならマエストロの放送日。ドラマ中の西島秀俊のセリフでは、偉大な作曲家を呼ぶときに、「ベートーベン先生」、「バッハ先生」と常に○○先生とつけるところにユーモアだけではなく、音楽そのものを、作品そのものを愛する感情が吹き出しているようで、それだけにドラマに惹きつけられる魅力がある。


 


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