自分史的なクリッピング史料

今日は次第に天気は回復するとの予報通り、次第次第に空の明るさは広がってきている。早々に犬の散歩を終えて、といっても2回行くので次は夕刻。
昨日は近所で警察ざたがあった。と言っても凶悪事件ではなく、どうやらメンタル障害のある若い女の子が保護されるというもの。自分の家の前でどうも騒がしいと思っていたところ、あまりに長い時間続くのでどうしたのかなぁ?と思いつつ、結局警察が来て漸く解決。新聞を読んでいると、どうやらあらゆる場面でメンタル・リハーサルが必要な人や場面は幾多あまたあるようだ。それでも昨日の様子を見ていたら、勿論、可哀そうだなという当たり前の感情はもとより、どうしたらメンタルって強くできるのだろう?と後で考えていた。今さらという自戒もあるけど。

2024年5月15日 朝日(夕) 宗教は必要ですか?
救いになる 信者と個の関係大事
世界宗教者平和会議日本委員会理事長 戸松義晴さん

次男である自分は母方の墓を守っている。母は、自分が大学2年の時49歳で亡くなった。でも亡くなる以前、2~3年は入退院を繰り返していたので、まともに会話できたのは大学に入ってすぐくらいが最後だった。母方は誰も親族がなく、結局母方の墓を次男である自分が必然的に守ることになった。その後我が子も2歳で亡くすこととなり、そのお墓に納骨している。現役バリバリだった頃だから、その時の悲しみは何とも簡単に言い表すことができない。決して宗教心に篤かった訳ではないけれど、それ以来、宗教的な著書を選んで随分と読み、その習慣は今でも続いている。仏教だけではなく、キリスト教の本も随分と読んだ。

この記事が目に入ってきたのも普段があるから。冒頭で、戸松さんは、年収500万円以下の宗教法人は全体の約7割にも及ぶと言及されていると共に、ごく一部の富裕層に該当するような宗教団体はその改善を自主的にすべきだと主張されている。要は宗教者の贅沢というのは誰もが快く思わず、宗教とは欲望を拡大するのではなく、「足るを知る」こそが本質であると。

修行を積んで、贅沢でもなく貧しくもなく「中道」を求めることこそ宗教者たる所以があると。宗教法人は非課税法人だけど、宗教法人から給料をもらっていれば、所得税も住民税も払っているので、一般の給与所得者と一緒だとも。

一方で、宗教法人の透明性を確保する意味でも収支や事業計画、事業報告などを公開すべきと。但し、情報公開で信教の自由が侵害されてはならないとも。個別ごとのお布施の内容や名前を公開することはおかしい。何をしてもいいわけではないけど、非課税の恩恵を受けている以上、透明性の確保は社会的責任であると語られている。

NHKの意識調査では墓参りの習慣自体は1973年以降変わらずに、むしろ確実に減っているのは礼拝やお勤めなどの宗教的なおこないだそうだ。お守り、お礼、祈祷、墓参りは信仰の有無に関係なく習慣づけられているものの、伝統的な法要や日々のお祈りなどの宗教行為とつながらず、法事の形の簡素化が進んでいるとの指摘。法要も以前の昭和前期の人たちの間では必然的行為ではあったものの、自分も年齢を重ねて考えていくと、息子たちの考えなどからは、そうした継承は難しいのではないか?と考えるようになっている。

東日本大震災のような事件があると宗教への救いを求める人たちは増加するものの、死に直面した時に誰を頼りにするかと言えば、家族や医者は上位にくるものの、宗教者は下位に甘んじるという調査結果もあるという。即ち宗教は救いになるのに、多くの人には宗教者の顔が浮かばないということ。日常的に宗教者とのコンタクトもないので選択肢には入らない。

宗教者側でも自分たちの宗教教義の解釈ばかりの内向きな議論は得意だけど宗教的ではない人たちとの接点を持とうとはしていないということが問題の様子。教義や信仰を強く押し付ける宗派もあるという事実もあって、宗教側の主体性ばかりが強調され、檀家や信者、その他一般の人たちが置き去りになっているとコメントしている。これからは個とのつながりを希求していかなければならないとの考え。

AIを始めとした科学の進歩に今後宗教はどう対峙していくのだろうか。ロボットしかりで、その人を科学という手段で実質的に永遠性を確保できるようになった時に、それを存命している人たちはどう思うのだろうか。人間とは何かが問われている。今ではもうすぐその課題に取り組まざるをえない状況が迫っている。

仏教は生老病死という生まれてから死ぬまでのつながりをうたい、過去も未来もすべて今に集約されている。今をどう生きるかが未来につながる。でも全てを完全に成し遂げようと思うと負担になるし、理想は破綻することもしばしば。大切なのは、今の自分を肯定的に捉え、半ば「まあ、いいか」の精神を持った方がいいとも。完璧を求めず、何もせずということを肯定せず中道が良いのだと説いておられる。多様な価値観の人々と共に生きること。それこそが肝要だと。

確かに宗教者の言葉は、自分の置かれた瞬間瞬間の喜怒哀楽に呼応するような時に妙に感心・感服することがある。基本は宗教関連の書を手にしてみると、どの本にもなるほどなぁという蘊蓄が開示されていたりする。宗教者側の意見として記事は掲載されているけど、こちら側でも、現実に誰もが直面する葬儀等を執り行う時に、宗教との関わりはどうするのか?どうすべきなのか?を真剣に考えなければいけない時代なんだと思っている。自分は檀家でもあるので、お墓もあり、墓の維持費なども少額ながら納めてもいる。でも間違いなく日常性はない。家の仏壇に家内はお線香を焚いているけど、それも自分には習慣化はされていない。墓参りの時だけは、否応なくなくなった子供のことをしのぶという気持ちになるけど、それでいいのか?とついつい猛省することしきり。でも少なくともそろそろ考えをまとめておいた方がいいだろうと思っている。

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