自分史的なクリッピング史料

今日は晴れ。うっとおしい雨もおさまり、散歩にはもってこいの様子。今年に入ってから実はありとあらゆることをノートに手書きで記すようにしている。もともと簡単な日記はつけているものの、どちらかと言えば健康管理が目的のダイアリーで、食べたものを記載することがほとんどで非常に簡単なもの。そこで、パソコンに手慣れてしまった自分は随分と書くこと、或いは漢字の記憶などが遠く彼方に行ってしまったことに少々危機感を覚えてとにかく書くという行為を日課として課している。その中でも記憶喚起の為に、いかに正確にかつ確実に最大限本質のみを何とか拾おうと努力している。

2024年5月14日 新聞記者の文章術 「音楽」を書くこと5
書く 人を、人生を愛するため

これは今日の記事だけど、このコラムの記者である吉田さんの文章を結構読んだりしている。もともと、彼女はピアニストであったと略歴にあり、その後音楽ライターを経て、朝日新聞に入社して貴社になり、別のコラム「日曜に想う」も担当している一人。キャリアが面白いと思ったのが始まりで、彼女がどんなコラムを書くのかを注目している。

本日の記事では、記者は演奏中にもメモをとるのか?という質問への回答から始まる。よほど急ぎの原稿がない限り、音楽が流れている間は心をそらすことなく集中して聴いているとのこと。音の風景はそこにとどまることはないから見逃すわけにはいかないという気持ちからの様子。
常に今に集中するその時間の積み重ねの先に、実感を携えた言葉が芽生えるとも。ながら的に音楽のメロディーを何となく聴くってこともあるけど、演奏者や指揮者の素振りを見ながら音と調和させることだったり、目を閉じて音だけに集中するっていう感じもとてもいい感じだ。

では書くということはどんなんだろうか。吉田さんは、書くということは、自身の無意識を掘り起こし、嗜好を顕在化させることでもあるとしている。
吉田さんは2023年1月8日のコラムで、Adoの音楽が好きで、あの爆発的な歌唱に常識を打ち破り、新時代を信じるというポジティブなメッセージを感じ取ったとコメントしていたそうだけど、本当の目的はこのコラムの先の文章にあると。即ち、シンガー・ソングライターの上田知華の死去を伝えることだったと。これは以前、自分もこのnoteで記した。上田知華のファンでもあったから。吉田さんは、ある時俳優の大方斐紗子さんが自らの壮絶な生い立ちをピアフ(シャンソン歌手の様子)に託して歌うという話を取材したけどそのプロデュースをしていたのが上田知華だったと。

吉田さんは上田知華について、商業主義の世界に背を向け、深い人生の刻まれた本物の歌を渇望していた彼女の純粋さを、強さを評価している。そういう音楽だったと。

吉田さんが記者として幸福を感じる時というのいは、偶然のように映る世界にも必然や本質をみつける瞬間だという。これは何も記者に限らずのことだと思う。偶然にも必然を見出すこともできるかも知れないという期待値があるからだと思う。この瞬間から記者は取材を始めると記している。自分の主張のために事実を強引に集めてくるのは、そこで自分自身を閉じてしまうとも。気付きが広がる機会を失わせてしまうということに等しいと。普通の日常にもその気付きの機会はどこにでもある気がする。

詩人の吉増剛造や音楽家の高橋悠治の文章は、読後に何か得体のしれない重い石のようなものが胸の中に残り、それがある日突然新たな視座をもたらしてくれたりすると記している。何かを書くことは、人を、人生を愛するためのレッスンだとも。このあたりは芸術家的なコメントだろうか。結びで、同じ時代を生きる人、もうこの世にいない人、これからこの世を生きる人、こうした人たちを連綿とつなぐ役割は書くことにあると記している。その通りだと思う。コマーシャル的にどうだという価値観は別として、書くことで物の本質や真実を見出す工夫を凝らすことで、何かがつかめるかも知れない。そう自分をencourageしながら、今後も書き続けようと思う。


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