自分史的なクリッピング史料

昨日は鳥山明先生の訃報に多くのファンが国内外で衝撃を受けた。何といってもドラゴンボールとドクタースランプという代表作が直ぐに思い浮かぶ。クールジャパン構想の中でも漫画(マンガ)はその中心にある一つのコンテンツとして世界に冠していることは誰もが知るところ。子ども(小学生)の頃、余りマンガを読む機会がなかった。一つは中学受験をしたこと、もう一つは親がまったく買ってくれなかったこと。だから、教室での会話についていけなかったことも多く、ちょっと寂しいというか悔しいというかどちらか言えば傷心という感じだった。キャラクターに彩られた文房具も買ってもらえずだったし。唯一キン肉マン消しゴムだけは何故か買ってもらえたことだけは覚えている。

2022年12月10日 朝日 中条省平のマンガ時評
戦争も力石も ちばてつやの死生観とは

ちばてつや先生と言えば、「あしたのジョー」。でも自分的には「ハリスの旋風」が大好きだった。勿論「あしたのジョー」も観た。記事の掲載時には83歳(現在85歳)のちばてつや先生は、ビッグコミックで『ひねもすのたり日記』を連載しているとリード文で紹介されている。

この作品・『ひねもすのたり日記』は7年ほど前(記事掲載当時から)老いてマンガ家として第一線を退いたちば先生が、自分の日常を毎回4ページで淡々と描くエッセーマンガとして始まった。マンガ家はこうして絵と文で圧倒的な表現ができるところも魅力的。ちば先生がこの連載を始めた動機が自分よりも17歳も年長の水木しげる先生が90歳を超えて日記マンガの連載を始めたことに背中を押されたと紹介されている。ところが、連載を決めてまもなく、水木先生が93歳で亡くなってしまい『ひねもすのたり日記』は連載の3回目で、水木先生の思い出と死を語ることになってしまった。水木先生との接点は何と言っても『ゲゲゲの鬼太郎』。再放送でよく観たっけ。

中条さんは、「そこで発揮されたちばてつやの生と死を等価に見つめるまなざしの包容力が、この作品の根源にあるものなのです」と記している。そしてちば先生の話題は、ちば先生が4~7歳だったときの旧満州・奉天(現・瀋陽)での生活と引き揚げの体験に移っていく。

ちば先生の両親は乳飲み子を含む4人の息子とともに、敗戦で奉天から逃げ出して引き揚げ船が出るコロ島港に辿り着くまで1年近くかかったとある。
戦時の(他者の)記憶はこうして語り継がれない限り、どんどん疎遠になっていく。マンガというメディアもその大きな役割を果たすのだろう。『はだしのゲン』が教科書での紹介記載が無くなったことも話題になったけど、戦時戦中の記憶を伝承していく人がいなくなる時代になってきたのには、意味があると思う。無くせというのではなく、それがどれほどの苦難だったのかを次代の人たちに伝えていくことはとても大事だと思う。総論では皆そう思っている筈。でもどんどんその色は薄くなっていく。他人事になってしまっている。戦後、戦中派ではないけど、戦後生まれとしては少なくとも親たちはその時代の人たちであった。この引き揚げの苦労話は、淡々とした老後の日常生活とまったく変わらないトーンで描かれていて、「それを背後で支える平常心が偽もののドラマ化を剥ぎとって、不思議な感動をひき起こす」と中条さんはコメントされている。

戦争で亡くなった人たちへの悲しみに思いを馳せることよりも、「ただ生き延びた人々の日常の生のほうに暖かい日が差すような感謝の気持ちがそっと差し向けられている」と中条さんは解説。「魂の静かな救済とよぶことも」できると。

ちば先生の作品では、引き揚げから戦後、そしてマンガ家人生とゆっくり進み、ついに「あしたのジョー」の創作が語られていく。ここでも秘話を明かすというよりは、「戦争で亡くなった方々へのまなざしと同じように力石徹の死のことが回想されている」と解説され、そのコメントの意味を探った。そして、ちば先生もマンガを描きながら死を迎えるのかと所感をおっしゃっている様子こそがマンガに込められた思いの深さがあると結んでいる。

自分の仕事を生涯に渡って追求するということはサラリーマン人生ではなかなか想像できない。定年を迎えオーナー社長でもない限り、死の間際まで自分の仕事を全うできないし、もしそれができたらどんなに素晴らしいかと同時に、そういう思いを特別視してはいけないのではないかと思う。自分が自分であったと思える最期、生を全うするということの意味を追求できたらと思いつつ、何気ない日常に感謝しつつ最期を迎えられたら、それだけでも素晴らしいことなのかもしれない。でもなかなかそう簡単にはいかないのが現代人の悩みなのかなぁ?

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