あなたのとなりの国文学科

毎日がシェイクスピアなもんで、

⇛いきる
 しぬ

の選択。

一日のうちに、ああ今日終わろう、2週間はもちそう、あと2ヶ月はいけるな~って寿命が伸び縮みした日があった。

ちょうどその夜ともだちから電話がかかってきて、でもあんまりにも先の話をするもんだから、わたしはね、きょうあと2か月は生存することにしたんだよ、とたまらず言った。
したらすかさず、6月ならのこの日とこの日が空いてる。と詰めてきて、もうちょい動揺とかしろよとめっちゃ笑った。

思えばこの冬、わたしは雪山に埋もれるつもりだった。
のに、いざ降り立ってみるとひとかけらの雪もなく、「もう梅が咲いていますね」などとほころぶ笑顔。
溜めてあった薬もすっかり持ってき忘れ、ただただふつーにたのしい旅行になった。喜劇~。

そのへんに発生してるんです~、と指させるくらいの距離に消えたい気持ちを置けている。ああそれね、と見られてもこれならそんなに怖くないし、すこしだけ持ち寄ったりもできる。持ち寄るとふわっとする。この感じを覚えていたいな。


大学生と話すとたまに授業をつまみ食いしてる気分になれる。
日本語は「ʌ」と「æ」を区別しない、なんて言いますけどー
と聞いて思い浮かんだ「あ」が「æ」になった世の中は、クレヨンを溶かして描いたくちばしつきのギャルとギャル男の絵柄になった。ぱーりない。

・**・*・**・*.

『その後の不自由』読んだ。

がんばって他人のせいにしてぐちをつくる、とか、相談の研究など
「嵐」のその後を生きるのに必要なことがわかりやすく、でも突き放さない言葉で書いてある。

被害者の秘められた攻撃性について言及してくれているのも良かった。
私が「正しさ」へ激しく疎外感を感じるのはこのせいだなと腑に落ちた。
「被害と加害は対極にあるというより、分かちがたく結びついている」
一筋縄では助かってくれないこの思いを書いてくれてありがとう、という気持ちです。

中盤にある体験談はとても痛くてつらいお話だったが、10代の頃はこういう苦しい文章を読み漁ってたことを思い出し、あの頃はきっと麻痺していたんだなーと思った。

人との距離感を保ったり確認しあえるようなワークショップとかゲームみたいなものはないのかな、と一時期探していたが、出てくるのは距離感を縮める方法ばかり。そんなに近づいてどうするのー?と思うほど。
この本の「応援団をつくる」はヒントになりそう。

やろうやろうと思いつつやってなかったリソースマップ、かこうかな。

さて、夜は寝なければ。

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