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踏み外さない脚

私は私が思うほど、死を求めていないのかもしれない。

痛いくらいに頬に打ち付ける嵐の中。
3メートル先が見えない霧の中。
少しでも踏み間違えれば、滑り落ちて帰ってこれないような足場の中。

そのような環境を自分に与えた時、
寧ろ私の心中は高揚感に支配されていた。

生の悦びが溢れる事など特に無い世界の中で、
困難な状況に置かれていく程に不可逆的に生を感じる場面を経験していくと、
「何故、仕事でそうならない?」
と自問し続けている。

報酬系を刺激できない自己回路が見ている先は、最期にある「無」だけだと判断した時から、
悦びは「私のもの」ではなく、宇宙のものとなり、
その同質量の元素から発生する人間が理解する直線状ではない円環する時間(3次元以上)の周期の存在と諦めている。

だからこそ、終わりは予定調和の中にあり、
私が消える事も折り込み済みの未来があるのが心地良いと思えたからこそ、死を求めても居るはずなのに。

死への可能性が目の前に与えられた時、
何故か頭の中には死への選択肢が微塵も現れなかった。

「何故」は問いかけられたが、
「何故」は問いかけてもいない。
問いかけようがないのだ。

その理由は非日常は日常では無いからである。

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