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父を偲ぶ(2024年5月24日)

2024年5月24日、父の4回目の命日を実家で過ごした。特にこれといったことはしていない。お墓参りして、珍しく実家でビールを何本か飲んだくらい(献杯的な)。あとは普段通り、仕事をしたり、猫をかまったり、蟹洗温泉でまったりしたり。そんな感じで今に至る。

私は小さい頃から父のことが苦手で、怖くて、そのうち思春期に突入し折り合いも悪くなり、しかもそれは上京してからもしばらくは変わらず(その理由、事情はいろいろとあるんだけれど割愛)、まあ、だいぶ暗黒の時期を経た上で、良好な関係を築くことができた。この暗黒→良好の間には理不尽や葛藤も当然あったけれど、時が経つにつれて自然と落ち着くところに落ち着いたように思う。でも、努力はした。理解をしようとする努力。家族でいるための努力。向こうも、不器用ながらもきっとそうだったんだろう。自分以外の人間と関係を継続していくためには、血縁だろうが何だろうが(時と場合によっては)必要なことだと、私は思う。少なくとも、当時の私(たち)にとっては必要だった。

結果、良かった。

そうして良好な関係を築き上げた父と私の間には、やがて信頼というものも生まれ、それは酒と煙草という共通のマストアイテムによってますます強固なものになっていった。時には意見が噛み合わずバトルも勃発したが、酒が進むうちに「やっぱ俺たちファミリーだよなぁ〜乾杯!ウェーイ!」というオチも多かった(途中、母の「先に寝るね(呆れたため息)」が入る)。もちろんそうならないときもあったけれど、それでもいいから、そういう時間をもっと過ごせたら良かったなと、今でもずっと思っている。と、同時に、そうはならなかったからこそ、今の自分が在るんだとも思う。きっと、変わった。父の死を経て。そんなことをよく、考えている。こうしてぐるぐると考えごとをしているときや、悩んだり落ち込んだりしているとき、父はよく「おまえ、暇なんじゃねえの?」と言った(心無いのかよ)。恐らく今も「あいつ、暇かよ」と思っていることだろう。生きていても、亡くなってからも、あなたの影響力はとどまるところを知りません。良くも悪くもですけどね。

母と猫3匹(全員いる)が、隣の部屋ですやすやと眠る中、なんとなく寝付けずに煙草をふかしながら想いを綴った。写真は、2016年。実家の畑にて。割と気に入っている写真だよ。

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