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こどもを野に放て!


身体や感覚を軽視する現代社会
自然の中で身体を動かすことや、その中で、自分たちのいのちが自然や地球とつながっているということをリアルに体感することが大事。

現代社会は、感覚から入るものを軽視しがちで、勉強すれば何でも頭に入ると思っている。

感覚や感性が十分に養われていれば、知識はあとからでもキャッチアップできる。


エビデンスより「自分でやってみる」
明治以来のおとなしく座らせる教育で、どこまで学習というものが成り立つのか、疑問。
結局、こどもを集めて静かにさせておくのが楽だからということだと思いますが、元来、こどもはじっと静かにしていられない。

こどもたちを学校という人工的な箱の中にずっと閉じ込めておくのではなく、教室を出て、自然の中に連れて行く。

自然の中で身体を動かすことで無意識に教育を受けている。



同じ方を見て、ともに学ぶ姿勢
教室での向き合い方と自然の向き合い方には、大きな違いがある。自然の向き合い方は、人と人が対峙するのではなく、自然に対して一緒に並んでいる。

学校の教室では、基本、教師と生徒が、一対多で対峙している。

自然に対して一緒に向き合い、互いに感じたことやよろこびを共有し合う。

自然の中では、「教師」は人間ではなく自然。自然や環境の変化の中きら感じたり、自分を合わせていく。

生まれてきたことに感謝し、二度とない人生の奇跡性を感じる瞬間が、自然経験の中にはたくさんある。いのちの原初的な感覚は、生きることを尊いものにしてくれる。



無駄の大切さ
巡礼には、人間の最たる特徴のうちの二つが凝縮されている。
特徴の一つは、直立二足歩行で長距離を歩くことができる。これだけ長距離を歩くことができるさ生物は、人間だけではないか。
もう一つの特徴が、祈り。誰かを思うとか、自分の存在を超えて何かを思う、願うことができる生物は、人間だけではないか。

生きるということはプロセスなのだから、生きることそのものが巡礼。

今の社会は、結果だけを見ていて、そういうプロセスが消えてしまっている。
今、遊びや無駄、余白といったものが、どんどん社会からなくなっている。

無駄に英知がある。



「どんな職業に就きたいか」よりも「何をしたいか」が重要
経験しなければ、自分で意味を見出すことはできない。

なりたい職業がなければ、自分で勝手に職業や肩書きをつくって名乗ればいい。
やりたいと思ったら、周りや社会が求めてくる意味など気にせず、とことんやってみたらいい。

生き方は車輪のど真ん中で、職業は車輪の外側。収入や肩書きも、車輪の外側。車輪の外側に自分の軸を置いてしまうと、車輪が回転する度に浮き沈みが激しくなる。でも、車輪のど真ん中に生き方や大切にしたいと価値観を据えておくと、社会や状況がどんなに変化しても、振り回されることはない。好きや、わくわくする、衝動といったものを車輪のど真ん中に据える。

どうしてもやりたいとか、自分のいのちがときめくようなことが「好き」の中心にある。
迷いはあっても、どうしてもやりたいと思ったら、どんどんやればいい。
三日坊主でも、他人がなんと言おうが、社会的に意味のない行為とされていようが、やりたいと思ったら自分でまずはやってみる。経験してみる。

今の社会は意味を問い過ぎている。
ときめきに素直に生きていると、後々その経験が意味になり、いずれはその人の仕事になる。 




「自分探し」という行為について
自分なんてなくしてしまった方が、よっぽど生きやすくなる。
矢印の出発点を自分に置き、その矢印の行き先。世界に向けること。
いのちを世界に開き、世界とつながっている経験を、多くのこどもたちにしてほしい。


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