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愛と神聖な儀式

以前、人を愛するのが苦手で、でも自分のことは愛して欲しくてたまらない人と話した。
愛というのは、その人のことが可愛くて食べてしまいたくなるような気持ちのことじゃないの? と言うと、その人は、「明子さんの恋人はさ、明子さんより18も年上で、言っちゃ悪いけど対等な大人として見ていないから明子さんのことをそんな風に思うんんじゃないの?」と言うのだ。まったくもって分かってないやつだなぁと私は呆れた。何しろ18も年下の私の方だって、恋人のことを食べてしまいたくなるほど可愛いなぁと日々思うのだから。おぼろげな記憶の中で、数年前、恋人になる前の恋人は、どこからどう見ても落ち着きのある素敵なおじさんだった。ところが恋人になってからというもの恋人は、少年に見えたり、同世代のようにも見えたり、ときにはお父さんのように見えたりすることもある。そんな風に感じられる、のでなくて、どの角度から見ても、どう疑いをもってして見ても、どうにもそんな風にしか見えないのだ。私の目なんて、つくづく節穴だなぁと思う。

今日は一日原稿の仕事をした。

芸術家、内藤礼さんのドキュメンタリーを観て以来、ないところからものを生み出すことは、少なからず神聖さを伴うものだと感じるようになった。誠実でなければ。そう思うと途端になんにも書けなくなって、ここ数日、ひとつの仕事がまるで仕上がらなかった。

生み出したそばから消費され、翌日にはほとんど忘れられるものをつくることが私の今の主たる仕事で、しかし本当はそれではいけない。そうでないものを作らなくてはならない。翌日以降もだれかの記憶に残り、誰かを救うもの。だれかの体験として残り、誰かを幸せに導くものを、つくろうとし続けなくてはならない。と、思うけれど、今の仕事のスタイルをどこにどうシフトさせていけばそうなるのか、今はまだ見当がつかない。ただ少なくとも、自分の書くものから極力自我を切り離していくこと、作品を、より多くの人の乗り物に近付けていくこと、そのための努力をしなければと思う。

一日、ご飯も作らず、シャワーも浴びず、ぶつぶつ唸り、もがき苦しみながら汚い格好でパソコンに向き合う私というのははたから見れば本当に悲惨で、そんな私の姿を見ても微塵も動じない(少なくとも)ふりをして、部屋を片付けたり、繰り返しコーヒーを淹れたり、オン・デマンドで頼もしい胸板を貸してくれる恋人。煮詰まってうわーーっとなったとき、厚い人にしがみつくことほど癒され、心安らぐことってちょっと他にない。でも本当はきっと、つくっている途中でそうやって逃げたりしてはいけないのだ。

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