20240217

最も美味しいところを味わえるのは収穫したものの特権なのだ。

前回僕はこう書いたのだけれど、よくよく考えてみるとあまり正確ではなかった。

詳しい文脈は読んでもらうとして、ある言葉の質感、というこの発想は「収穫したもの」というよりも「実っている状態」と表現した方が相応しいような気がする。「収穫」してしまうと、その果実はあり方が変化してしまう。つまり、「収穫」とはそのまま言語化・具体化のことなのではないか。そう思ったわけだ。

では、「実っている状態」はどのようなあり方なのか。このとき、発想は「もの」ではない。あくまでも「状態」であり、あり方なのだ。同時に、僕のものになっていない。僕はそのあり方を所有することができない。間違いなく僕の主観の内部にあるのに、所有しようと「収穫」(つまり言語化)すると、それはもとのあり方とは別物になってしまう。

前回の内容から逸れた話が、同じ結論に至る気がする。前回、僕はこの発想が「錯覚」であるとも言った。この感覚は、主観の内部にあるのに所有することができないという点に由来しているのだろう。あ、もう一つ飛躍を予感したので、そのまま書いてみる。「僕のもの」ではない発想が、それでも僕の主観の内部にある。これはつまり、発想というやつは「僕である」ということになりはしないか。僕は「僕であること」を触ることができない。限りなく「僕のもの」に接近した「僕であること」、それが発想というやつなのかもしれない。

こういう思考の流れに身を任せて書くのは楽しい。理屈に粗があるかどうかはあまり問題でない。こういうのは運動に近い。スポーツでもない。ある出発点から自由に体を動かして、満足したらおしまい。満足したので、今回はここまで。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?