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『ココア共和国』2020年7月号の感想

 前号の感想はこちら。

  前回の投稿からずいぶん時間があいてしまった。誰かに頼まれてやっているわけではないからマイペースでいいのだろうけれど、僕はこれを書くことを自らに課している節がある。実を言えば、僕は自分が詩の良い読者ではないという自覚があって、だからこそ、こうやって定期的に詩を読み、感想を書くことで読み手としての目を養いたいという思いがある。毎月応募される作品の一つひとつに丹念に読み、それを選ぶ選者の方々には尊敬の念しかない。

 そして、詩を読むということに関連して、最近とても興味深い本を読んだので、ここに載せておく。本書は、(本があらゆる人に対してひらいている、ということは大前提として)普段から詩(特に現代詩)を読まない人に対して書かれていると思うけれど、とても勉強になる点が多くあった。

 前置きが長くなってしまった。今回も引用箇所はすべて、『ココア共和国』2020年7月号の電子版による。読んでいない方はぜひ先に一読していただきたい。


・「バス停」104hero
 四連で構成される詩で、共通するのは興味深い括弧の使い方で連が終わっているという点。

何か言おうとしても頭の中が赤いんです
(真っ赤って)
 (ほどじゃあ)
  (ないけれど)
あっという間にボクの頭の中に入り込むんです
(頭の中心 に)
 (ってわけでも)
  (ない けれど)

 このように前半二連における括弧のなかの詩句からは、自らの状態や自分が置かれている現状から数センチ浮いているような印象がする。「ボク」の頭の中はすでに真っ赤だし、「ビルの窓に住み着いている人の話」や「朝日で光るどぶ川の色」は頭の中心まで入り込んでいるのに、それを拒否するでも受け入れるでもなく、その現実からぼんやりと遊離しているような、そんな感じだ。

ボクは見知らぬ街のバス停に立っていたんです
タイヤをなくしたバスをずうっと待ちながら
(四日目からは)
 (数える のを)
  (やめたけれど)
イルカに食べられずに済んだ海の上の夕陽が
ずっとボクを染めるから明日もここで待っています
(昨日も同じことを)
 (言ったような気が)
  (す るけ れ ど)

 そして、「ボク」はバス停でバスを待ち続ける。その時間はループ構造を形づくっているようだ。しかも、「ボク」は後半連の括弧のなかで、それを受け入れているのである。僕はこれを、現実から遊離した「ボク」の意識がバス停(およびバス)の影響下にあり、この〈場〉に定着しているのだと考察した。バスは一日に何度も同じ道を走るし、それ自体が目的地になることがないという点から、生活のなかにありながらも少しだけ生活から浮いている。そのような象徴性が「ボク」の意識と共鳴したのではないかと想像した。


・「六十歳になってみろ」金曽和子
 一読して、恐ろしくなった。表現の素晴らしさはもちろんあるのだけれど、それが些末なことに感じられてしまうくらい圧倒的な内容である。

人は一人では生きていけないなんて
信じてきたからだめなんだ
人は一人で生きていかなくてはいけないんだ

 この、綺麗ごとでない現実。六十歳になって、(おそらく作者とイコールである)作中主体は、この現実に直面する。見て見ぬふりをすることも、誤魔化しも通用しなくなることが直接的な表現によって書き連ねられてゆく。

 僕は正直、むき出しのまま描かれているこの現実に竦み上がってしまった。はっきり言ってしまえば、歳をとるのがこわいとすら思うほどに。けれど、作中主体は最後に「まだ坂道を登りたいなら」と力強く人生を生きようとする。あらゆる辛苦を受け入れて、より力強く進もうとする姿勢は、とても美しく感じられた。


・「つがい」遠藤健人
 フロッピーディスクのなかから動物が現れるというシュールな情景と、性的なモチーフが奇妙に響き合っていてとても面白かった。台詞なども改行せずに一つの連で詩を完結させ、それなのに文章の途中でばっさりと作品を終わらせてしまうラストにも痺れた。

 一番長い角を持つ動物が「私」の掌を角で突き刺し、流れた飴色の血を一番短い角を持つ動物がそれを舐めとる。すると、「私」は激しい性欲を感じる。動物たちは角の最も長いものと最も短いものから順につがいになっていくが、「私」はその関係性からは断絶されている。もしかしたら、「私」の順番もやってくるのかもしれないが、その前に詩は終わってしまっている。

 また、「飴色」のモチーフに注目すると、動物たちは「飴色の鳴き声」をしていて、「私」はそれに不快感を感じている。しかし、先述したように「私」の血は「飴色」である。飴色が動物性の象徴だとすると、「私」も本質的には動物であるが、それを忌避しているように感じられる。それゆえに「私」はつがいに加わることができないのかもしれない。それは人間性の良さなのか、あるいは牙を抜かれてしまった、というやつなのだろうか、僕には断言することができない。


・「Summer time」滝本雅博
「裏焼きされたフィルムの汽車」に乗る作中主体は、「着色された景色」のなかを運ばれていく。ここには、作中主体が世界に触れることができず、世界を見ることしかできないような感覚がある。しかも、作中主体は「本を読んでいる振りをしている」のだ。

 次に、「綿花畑はすくすく育つ」がその直前で「血が流れ」る。また、草原を走る子どもたちが描写されるが、彼ら彼女らはすでに死んでいる。子守唄は鎮魂歌のような響きをしているように感じられた。このように、穏和な風景が描写されるのと同時に、残酷な詩句が続くのである。

Summertime, and the living is easy ――
(夏になって 暮らしは穏やか)

 先述したような前提があるから、英語歌詞の引用とその翻訳であるこの詩句も、どこか不穏である。まるで、穏やか風景が残酷な出来事によって下支えされているようだ。

 そしてこの作品には、作中主体の存在が明記されない。一人称が省略されているのだ。それはおそらく作中主体が、この残酷な光景が見え隠れする平穏な世界の当事者でないからだ。歴史を振り返ったり、映画を観ているように、決定的にこの作品世界に介入することができない。最後に現れる「傍観者にだけ許された赤面の荒野」が作中主体の、そして私たちの居場所なのかもしれない。

(あえて、感想を書き終えてから、歌詞の引用元である曲を聴いた。歌詞の内容を意識して読むとさらに詩の内容に深みが生まれた)


・「水べ」向坂くじら
 一連目から三連目までの「〜ない」で結ばれる詩句がとても美しい。

つねにどこかにいないといけない
どこにもいなくなることはできない
またひとところにいないといけない
どこにでもいることはできない

 ここで表現されていることは、固有の存在を持つ私たちにとって、まぎれもない事実だ。でも、当たり前すぎてわざわざそれを主張する人はほとんどいない。だからこそこうやって明文化すると、とても真に迫るものがある。

 一方で、水は形を変えながら地球上をめぐり、その循環には人間も含まれている。俯瞰してみたとき、目の前にある水も、その循環の一部であり、固有の存在とは言えないのかもしれない。そんな水を私たちは内包して生きている。

見ず知らずの母子が
わたしの水面に
ちいさな舌をつけにくる

 詩のラストで、「母子」が登場する。前触れもなく現れるが、違和感はない。飛躍しているけれど、間違いなく必然性がある。「母子」からは血の繋がりのようなものを連想する。ならば、「わたしの水面」とは何だろう。人間を、水を内包している肉体であるとすると、陸を生きるための身体はそのまま陸を象徴していると言える。つまり、水と陸の属性をあわせ持つ「わたし」の存在そのものが「水べ」であると言えるだろう。そして「母子」はその水面に口をつける。それは、存在の固有性からの解放であるように思える。静謐で美しいシーンだ。


 今号の感想はこれで終わる。

 最後に私事をいくつか。本号の電子版には拙作「あるわたしたち」が掲載されている。良ければ読んでいただきたい。また、2020年7月に私家版詩集『あるわたしたち』を発行した。『現代詩手帖』や『ユリイカ』、そして『ココア共和国』に掲載された作品をまとめたものである。多くの方に読んでいただきたいと思っている。興味がある方はぜひ。

 詩集の詳細は以下のリンクから。

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