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あの音楽を聴きたくなる短編小説

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音楽から着想を得て書いたショートストーリーズ。あなたも聴きたくなってくれたら、とてもうれしい。
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#短編小説

あの音楽を聴きたくなる短編小説1

我らをゆるしたまえ -Forgive Us- (1)  その日は土曜日だったが、マキシンはこれがニックと過ごす最後の週末になるだろうと思っていた。  二人ともこれからのことを思うと気が滅入るのだが、やけになっているニックと違い、どちらかというと楽観主義であるマキシンは差し当たって次の行動に考えを巡らせていた。 「そうだわ、ニック。天気もいいことだし、車で海まで行ってみない?」  マキシンがキッチンから声をかけたとき、ニックは洗面台で手を洗って

あの音楽を聴きたくなる短編小説2

旅人たち -Our Journey-  郵便受けをのぞくと、今日もアニーからの手紙が届いていた。夫あての手紙と一緒に家に持ち帰り、封を開けて四つに折られた便せんを開いた。中にはさんであったのは、うすい紫色の小さな押し花。彼女はまた私の知らない街を訪れているらしい。  学生時代からの親友であるアニーからの手紙が、この数年来の私の楽しみだった。生まれ育ったこの街から出たことのない私は、いつもの変わらない毎日を過ごしながら、度々届くアニーの手紙を読むことで彼女と一緒の旅を夢想し

あの音楽を聴きたくなる短編小説3

光について -Into The Light-  オレンジ色の外灯の下、胸に手を当てたビル・アシュレイは、長らく訪れることの無かったその店の、あの頃より少しだけ古びたドアの前に立っていた。  それは数年前のこと。ランチを共にした音楽好きの同僚が、サンドウィッチのツナをこぼしながら言った。
 「すげえシンガーを見つけたんだ。今晩ライブがあるんだけど、一緒に観に行かないか」  その週に大きめの商談を控えていたことあって、夜の、それも月曜日からの外出にあまり乗り気でなかった

あの音楽を聴きたくなる短編小説4

ドゥ・ユー・リメンバー・ミー? (トム・ウェイツに捧ぐ) -Do you remember me?-  重たい赤褐色のドアを押し開くと、開店直後の店内はまだ前日の淀んだ空気をはらんでいた。薄暗い照明、天井で回る大型ファンのめまいにも似た振動。ほこりをかぶったエアコンはハーモニカのような吹き出し口から、生ぬるく、ヤニ臭い息を吐き出している。  男は足を引きずるように店内へ入ると、カウンターの店員に一瞥をくれ、何を言うでもなくその前を通り過ぎ、入口から一番遠い角の席を今夜の

あの音楽が聴きたくなる短編小説5

甘いミルクと シナモンシュガー -Forget all- 「太陽が昇ったからと言って、ベッドから出なければならない法はない」  十九世紀の詩人オズワルド・ホーンズビーが自宅のトイレットペーパーに書き記した言葉だが、実際のところ彼はそのころ鉄道会社に勤めていて、週の半分は日の出とともに起き、十キロ先の仕事場まで重いワークブーツを引き摺りながら出勤していた。  時は流れて二十世紀半ばのある朝、モーテルの一室。ダニー・マクベインはベッドではなく、毛のまばらなカーペットの上でそ

あの音楽が聴きたくなる短編小説6

口唇の荒れた女 -Her Chapped lips-  仕事帰りの乗客のため息で満たされた夜のバスの車内は、水槽の中にも似た青い光が沈んでいた。窓ガラスの向こうの暗闇に、電球で囲まれたガソリンスタンドの看板が小さく揺れていた。  私の隣りの席の女からは濃密な夜の匂いがした。オイルを塗ったかのように光沢のある黒い肌と黒い髪。大きな目をさらに誇張する原色のアイライン、張ったほお骨にラメのはいったチーク。ノースリーブのショッキングピンクのシャツの胸元がVの字に開き、胸の谷間があ

あの音楽が聴きたくなる短編小説7

黄昏は朱く燃えて -Sunset Glow- (1)  私の父、ハワードのことを振り返って真っ先に思い出すのは、バンパーの曲がった車から漂う油の匂いと、彼のさみしそうな笑顔のことだ。  父は結婚する前からずっと土木現場で働いていたのだが、私が小学校の高学年になったあたりで体調を崩し、仕事を休みがちになっていた。月に何度かは病院へ通い、朝、元気に出勤したかと思えば、青い顔をして昼過ぎに帰ってきたりした。夕飯前に仕事から戻った母が、ポーチに脱ぎ散らかされた泥だらけの作業ブーツ