琉球筝曲・七つの段物の真実・琉球筝曲七つの段物とグレゴリオ聖歌

諸田賢順制作・使用の筝・多久市郷土資料館所蔵
立葵蒔絵螺鈿『鳳凰』の筝・賢順の弟子・多久千鶴姫使用の筝
多久市郷土資料館所蔵
諸田氏系図表紙・多久市郷土資料館所蔵

琉球筝曲の真実

        琉球箏曲七つの段物とグレゴリオ聖歌
グレゴリオ聖歌と琉球箏曲七つの段物との比較研究により解明された成果 

琉球箏曲
1、 瀧落管撹・一段  『アヴェ・マリア・Ave Maria』
2、 地管撹・二段  『めでたし元后・サルヴェ・レジナ・Salve Regina』3、 江戸管撹・三段  『麗し救い主の御母・アルマ・レッデムプトリス・Alma Redemptoris』

4、 拍子管撹・四段  『天の元后・レジナ・チェエリ・Regina caeli』
5、 佐武也管撹・五段 『めでたし憐れみ深い御母・サルヴェ・マーテル・Salve Mater 』

6、 六段管撹 信仰宣言・クレド・Credo』【原曲と推測される・陽旋法】
7、七段管撹『ミサ通常文第1・聖母マリアの祝祭日より・キリエ・Kyrie』

琉球箏曲の歴史
琉球箏曲の始まりは『中山世譜』という琉球王朝の歴代の王の系譜を記した書物の附巻に、1700年(元禄13年)稲嶺盛淳(いなみねせいじゅん・1679年7月25日~1715年9月2日・37歳)が薩摩に派遣され、薩摩藩士・服部清左衛門政真、武右衛門政寛父子から八橋流箏曲の演奏法を学んで帰国したのが始まりと記されている。服部清左衛門政真父子は京都に於いて、八橋検校(1614~1685年)の弟子・吉部(よしべ)座頭に学んだと伝えられている。

この時、稲嶺盛淳が服部清左衛門政真父子から学んだものは『段物』(声楽なし)7曲と『歌物』(歌詞付)3曲の、合わせて10曲と言われている。 

『段物』は『菅撹(すががち)』と称せられて7曲が伝えられている。

一段・瀧落管撹(たちうとぅし)、二段・地管撹(ぢ)、三段・江戸管撹、四段・拍子管撹、五段・佐武也管撹(さんや)、六段管撹、七段管撹、 

歌物は3曲が伝えられている。この3曲は現在では沖縄にのみ伝えられている。沖縄に於いて伝承されているのは『船頭節』『対馬節』『源氏節』の3曲である。 

本来ならば,本土でも八橋流に伝承されていた同じ3曲が、時代の変遷を経る中で消滅していったと考えられる。琉球ではこれらの歌を土台として歌三線の伴奏楽器として発展していき、中本興嘉(1784~1851年)・興斎(1804~1865年)父子へと継承されて、興斎が1838年、尚育王冊封式典で三線音楽の伴奏楽器として演奏して、18世紀年代にその地位を確立したとされている。その後,興斎の高弟だった手登根順寛(生没年不明)が箏譜(箏工工四)を編集したと言われている。 

*『康煕三十九年庚辰、寛陽院公の七回忌の進香のために、翁氏稲嶺親雲上盛淳を薩州へ派遣した。』『中山世譜』(原田禹雄注、榕樹書林、201頁)康煕三十九年庚辰は1700年、寛陽院公とは薩摩藩主・島津光久公の事である。この記述により稲嶺盛淳が王命により、薩摩に派遣された事が解る。 

*『(略)翁氏稲嶺盛淳親方家系譜に依れば、薩州の士に服部清左衛門政真、其武右衛門政寛なる者あり、父子曽て京都に赴き八橋検校の弟子吉部座頭に付いて琴曲を学び其奥伝を得て帰る。時に稲嶺盛淳王命を奉じて鹿児島府に使し父子に就いて之を学び、後再び出府せし時更に学んで秘書五巻薀奥神秘之二巻を授けられて帰る。』
*琉球箏曲興陽会『琉球箏曲工工四』の世礼国男の序文より 

*『世礼国男の序文は、稲嶺盛淳が薩摩から八橋流筝曲を琉球に伝えたことを具体的に述べている。ここで重要なことは、吉部座頭が八橋検校(1614~1685)の直弟子であることである。服部父子は京都でこの吉部座頭から八橋流を学んだ。』
*琉球箏曲の研究 仲嶺貞夫著 74頁 琉球箏曲の伝来 

琉球箏曲の特徴
琉球箏曲とグレゴリオ聖歌の比較研究,解析の結果、琉球箏曲の全てが、本土では失われたと思われていた『聖母マリア讃歌・聖母マリアのための交唱と讃歌』だったことが音楽の視点から解明され証明された。有名な『聖母マリア讃歌』は6曲あるが、そのうちの5曲の伴奏譜が琉球箏曲の中に存在していたことに驚いた。 

聖母への結びの交唱(Antiphonae finales)は終課(現:寝る前の祈り)の結びに歌われる聖母讃歌。終課の歌は、詩編3編(共通の交唱付)、讃歌、「私たちは光の消える前にお願いします・Te lucis ante terminum 」、「シメオンの讃歌」(交唱付),終課終了後に聖母への交唱を1曲歌う。下記の4曲の聖母讃歌は、1568年、ローマ聖務日課書で歌われる時期が定められた。 

『麗し救い主の御母・アルマ・レッデムプトリス・Alma Redemptoris Mater』
待降節から2月2日の聖母マリア潔めの祝日までの間に歌われる。

『めでたし天の元后・アヴェ・レジナ・Ave Regina caelorum』
2月2日から聖週間(復活祭のための週)の水曜日までの期間

『天の元后・レジナ・チェエリ・Regina caeli』
聖土曜日(復活祭の前の土曜日)から三位一体主日までの期間

『めでたし元后・サルヴェ・レジナ・Salve Regina Mater misericordiae』三位一体主日後から待降節第一主日の前の日までの期間
(1568年、ローマ聖務日課書で歌われる時期が定められた) 

これら4曲の『聖母マリア讃歌』はベネディクト会が定めた聖務日課の最後の祈り(就寝前の祈り)、終課の最後で歌われる聖母マリアを称える歌、ラテン語の表題は『聖母マリアへの結びの交唱』である。この聖務日課は朝課、一時課(午前6時)三時課(午前9時)六時課(正午)九時課(午後3時)晩課(午後6時)終課(午後9時)、暁課から構成されていて、詩編の唱和が中心となっている。終課の最後で歌われる聖母マリアのための交唱歌は4曲あり、教会暦の季節ごとに異なった美しい交唱が歌われる。

『アヴェ・マリア』
聖母マリアへの祈り。3節より構成されていて、1、天使ガブリエルがマリアへの受胎告知をした際の祝詞(ルカ1:28)2、マリアを迎えたエリザベツの祝詞(ルカ1:42)3, 聖母マリアへの執り成しの願い。現在の祈りは6世紀から15世紀にかけて形成された。
祈りの前半(上記1,2)の原型は6世紀の東方教会の典礼書に見られ、西方教会では7世紀のローマ典礼書に待降節主日の奉献唱として記載されている。15世紀以降、後半の3の聖母マリアへの執り成しの祈りが付け加えられた。 

『めでたし慈悲深き聖母・Salve Mater misericordiae』
13世紀から歌われ始めた聖母マリア讃歌。この曲は上記の5曲とは違い、1節のみで作られていなくて、(A)『めでたし慈悲深い聖母・Salve Mater misericordae 』を始めに歌った後、再度、同じ(A)旋律を繰り返して(B)『めでたし、童貞の母よ、あなたは天の父の右に座して、天と地と大空とを司られる御方は、あなたの御胎内に身ごもり給う、おおマリア。』と、(A)の後に (B) の5節の有節が続く。形式表にすると(A)1回、(A)+(B)5回の繰り返し。 聖母マリア讃歌の中では、比較的長い曲に属する。 

しかし、ロレンソ了斎がフランシスコ・ザビエル(Francisco Javer) から洗礼を受けた1550年からトーレス(Cosme de Torres) 神父の許で修道士として活動し始め、山口から府内へ教会を移した1555年頃は(1568年、ローマ聖務日課書で歌われる時期が定められた)その様な規定はなく、琉球箏曲に於いて証明された聖母讃歌をもっと自由に選曲して歌っていたと推測される。 

琉球箏曲にはない『めでたし天の元后・アヴェ・レジナ・Ave Regina caelorum』
(2月2日から聖週間(復活祭のための週)の水曜日までの期間)は、本土の箏曲七段にある。本来ならば、琉球箏曲の七段菅撹が『めでたし天の元后・アヴェ・レジナ・Ave Regina caelorum』であるはずだが、代わりに七段管撹には『ミサ通常文第1・聖母マリアの祝祭日より・キリエ・Kyrie』が入っている。瀧落管撹・一段『アヴェ・マリア・Ave Maria』、地管撹・二段『めでたし元后・サルヴェ・レジナ・Salve Regina』、江戸管撹・三段『麗し救い主の御母・アルマ・レッデムプトリス・Alma Redemptoris』、拍子管撹・四段『天の元后・レジナ・チェエリ・Regina caeli』、佐武也管撹・五段『めでたし憐れみ深い御母・サルヴェ・マーテル・Salve Mater 』 

六段管撹『信仰宣言・クレド・Credo』、七段管撹『ミサ通常文第1・聖母マリアの祝祭日より・キリエ・Kyrie』、以上がグレゴリオ聖歌と琉球箏曲の比較の結果、琉球箏曲の原曲と推定され、これらは対比楽譜からも証明することができる。 

琉球箏曲の伝達の経緯
琉球箏曲の段物7曲の原曲が、グレゴリオ聖歌の『聖母マリアへの讃歌』と判明したので、だれが、いつ、どのように段物を作り、どのような人物を経て伝えられたのかを考察したい。 

【問題点】
1、何時、だれが、どのような必要のもとにグレゴリオ聖歌に伴奏を付けたのか?
2、作曲者はその伴奏譜を、だれに伝えたのか?
3、なぜ原曲のグレゴリオ聖歌が歌われなくなり、伴奏譜である楽曲が段物として残されたのか?
4、伴奏譜である段物が、だれに伝えられ、どのような経緯を経て、琉球へ伝えられたのか?

ロレンソ了斎(作曲者)
諸田賢順の豊後府内滞在中の1555年5月~1569年12月の間に、諸田賢順にグレゴリオ聖歌とその伴奏を教えることのできる人は限られている。その人はグレゴリオ聖歌も歌えて日本音楽【5音階旋法】を身につけていて何らかの楽器を弾きながらグレゴリオ聖歌に伴奏を付けることができる条件に当てはまる人は、ただ一人、ザビエルから洗礼を受け日本人で初めてイルマン(修道士)になった盲目の琵琶法師ロレンソ了斎しかいないことが判明した。 

1550年、フランシスコ・ザビエル(Francisco Javier)からグレゴリオ聖歌を直接習ったロレンソ了斎の頭と心の中で初めて日本の音階【5音階旋法】とグレゴリオ聖歌【教会旋法】が出会ったはずである。 

ロレンソ了斎が二つの異文化の音楽を一つに融合させてグレゴリオ聖歌に琵琶で伴奏を付けて歌いだした。ロレンソがザビエルから『洗礼』を受けた時期については、1551年5月頃から、トーレス(Cosmede Torres) 神父が平戸から山口に赴任する9月10日までの4カ月の間のことと考えられる。 

『ロレンソ』という名前は、洗礼の時にフランシスコ・ザビエルが与えた名前で、ロレンソの日本名【本名】は判っていない。『了斎』は【斎名】すなわち修道生活に入ってから選んだ名前である。出家する人の習慣に従ってイエズス会に入った日本人はしばしばそのようにした。 

山口のキリシタン教会・大道寺に訪れる人々の数は増え、教えを受ける人々の数も増した。その中にあって、ロレンソ了斎はザビエルを模範にして、ザビエルから直接に教えと指導を受けながら、修道士フェルナンデスの助けも受けながらキリスト教教理の学びを深めた。新しい信仰についても知識を増し加えると同時に、修道生活を学びながら祈りの生活を味わう日々が続いていた。この時期から、カトリック教理の学びと共にグレゴリオ聖歌を習い歌い始めたと考えられる。ザビエルの指導の下の数ヶ月の共同生活で修道士の道とは何なのかを学び、使徒職の熱意も受け取ったロレンソ了斎は、フェルナンデスの語る説教や教理の教え方などのすべてがロレンソ了斎の以後の伝道の仕方の基礎になった。 

【推論】
ザビエルが山口を去った後、ロレンソ了斎はトーレス神父の指導のもと修道生活を始めた。山口の教会に於いての組織的教理の学び、説教の方法、仏教とキリスト教の比較宗論の方法、グレゴリオ聖歌(教会音楽)等、修道士の学びに修練するかたわら、実践的に伝道に携わり説教をしたり教理を教えたりした。また宣教師たちの話すポルトガル語を理解して、通訳が出来るまでに上達していった。この時期、山口の教会には楽器が無く、グレゴリオ聖歌を歌う時は斉唱していたと考えられるから、ロレンソ了斎はグレゴリオ聖歌の旋律を覚える時に、ロレンソ了斎の得意とした琵琶を弾きながら独自に日本的5音階旋法で伴奏を付けてグレゴリオ聖歌の旋律を暗記していったと考えられる。ただ単にグレゴリオ聖歌の旋律を繰り返し歌って暗記するのではなく、ロレンソ了斎の得意とする琵琶で日本音階の和声の伴奏を付けることによって、ロレンソ了斎は明確に、旋律の中の重要な言葉(ラテン語)に対しては、その言葉の意味する内容を把握して、それを音に置き換えて琵琶で表現している。 

毎日繰り返すグレゴリオ聖歌の歌『主の祈り・パーテル・ノステルPater Noster』『天使祝祷・アヴェ・マリアAve Maria』『信仰宣言・クレドCredo』『めでたし天の元后・サルヴェ・レジナSalve Regina』等にロレンソ了斎は自分の感性で伴奏を付けて歌うようになったと考えられる。毎日教理を教える時に、何度も伴奏を繰り返すうちに、やがてロレンソ了斎の中で作り上げた伴奏が確立され固定化していき、教理【後のドチリナ・キリシタン】を学びに来た人々に『主の祈り』『アヴェ・マリア』『クレド』『サルヴェ・レジナ』等を教える時にも、ロレンソ了斎は琵琶で伴奏を付けて歌って教えていたのではないだろうか。 

『同宿』という言葉はまだ使われていなかったが、ロレンソ了斎の働きを見れば日本の教会で立派な活躍をした最初の同宿となった。この時期、トーレス神父の指導のもとにロレンソ了斎は伝道士、修道士、祈りの人として育てられた。 

諸田賢順(採譜・記譜、段物の構成をした人物)
賢順、鄭家定について明の音楽を学ぶ(1556年5月下旬頃~11月 )
賢順は明国使節の楽士であった『鄭家定テイカテイ』について「善鼓・琴」「五音六音の音階や、三・五・七・十三・二十五弦の琴」「伏義・神農・黄帝の時代から伝わる古代中国の古事」更に「文武の宮廷上古の曲譜」等を学びその真髄を会得したと『諸田系志』は記している。
この時、古代より伝わる中国の琴の音律,漢詩(古詩)及び楽譜の書き方や箏の制作方法も教授され、賢順はそれらを学び習得した。 

賢順、ロレンソよりグレゴリオ聖歌を学ぶ(1556年12月~1557年8月頃 )その後、賢順は大友義鎮(宗麟)から、府内にいるキリシタンのイルマン(修道士)で、琵琶で伴奏をしながらグレゴリオ聖歌を歌う盲目の琵琶法師ロレンソ了斎のことを聞いた。明国の音楽を学んだ後、賢順にとって初めて聴く西洋音楽を求めて賢順は府内にあるキリシタン住院を訪ねた。

イルマン・ロレンソ了斎は訪ねてくるすべての人々の質問に答えていた。それがロレンソ了斎の教会での役目だった。『イルマン・ロレンソは我が主の御教えについては深い知識を持っています。ミサの後、洗礼の準備をしている数人に、また、受洗したばかりの他の人にも1時間ほど、または必要な時間を費やして話をします。または質問してくる信者の疑問にも答えます。』

ロレンソ了斎の歌うグレゴリオ聖歌と琵琶の伴奏は、賢順にとっては初めて聴く音楽だった。ロレンソ了斎が弾くグレゴリオ聖歌の琵琶の伴奏は、ザビエルに出会って洗礼を受けて以来6年の間に確立され、すでにロレンソ了斎の中で組織体系化されていた。 

『主の祈り・Pater noster』『アヴェ・マリア・Ave Maria』『めでたし天の元后・Ave Regina caelorum』『めでたし慈悲深き聖母・Salve Mater misericoriae』『麗しい救い主の聖母・Alma Redemporia Mater』『クレド・Credo』『めでたし元后、憐れみ深き御母・Salve Regina Mater misericordiae』 

いくら時間が掛かろうとも、ロレンソ了斎は賢順に一音一音を丁寧に教え続けた。おそらく、ロレンソ了斎がグレゴリオ聖歌の旋律を歌いながら琵琶を弾き、賢順自身も琵琶を弾きながら覚えていった。賢順は習った音を、数ヵ月前に鄭家定から学んだばかりの明の記譜法を使って書き取り記譜していった。ロレンソ了斎と賢順の二人して向き合う真摯な音楽に対してのこの作業がいつ始まりいつ終わったのか、何ヵ月掛かったのだろうか、賢順はこの学びでキリシタンになったのだろうか、これらすべては歴史という時間の中に埋却してしまったが、賢順によって残された楽譜が真実を語ってくれるであろう。ロレンソ了斎の府内滞在中、賢順は幾度となく、ロレンソ了斎の許を訪ね、グレゴリオ聖歌と琵琶の伴奏を習ったと考えられる。ロレンソ了斎が歌いながら琵琶で伴奏を付けた伴奏譜が、賢順によって記譜されて残され整理編集されて、段物と呼ばれる7つの箏の独奏曲として徳川時代の厳しい禁教をかいくぐり、実に460年間を生きていた。 

ロレンソ了斎と賢順が豊後府内において出会えた期間について
第1回 1556年5月~1557年8月・9ヵ月
ロレンソ了斎がトーレス神父の命により山口から比叡山に遣わされ、交渉に失敗して山口に帰ったが、山口が戦火のためにトーレス神父たちは豊後府内に避難し,それに伴いすべての教会の施設を移転させたために、ロレンソ了斎も府内に移ってきた。この頃、賢順も大友義鎮の出仕命令により、葛岳城の戦いに参戦、工作をしたようだ。その後、戦いでの功績により大友義鎮に召し抱えられ、一族を連れて英彦山より府内に移住した。

当時、臼杵に来航し、臼杵の海蔵寺に滞在していた明の使節・鄭舜功の使節の楽士、鄭家定を大友義鎮より紹介された。賢順は早速臼杵に行き、鄭家定に師事、明の音楽、箏の音律、箏の製作法等を明の使節が帰国する11月までに修得した。この期間は5月終頃~11月の5ヵ月間と考えられる。 

臼杵より府内に帰った賢順は、大友義鎮より、ロレンソ了斎という盲目の琵琶法師が、教会にいてグレゴリオ聖歌を歌いながら琵琶で伴奏を付けて歌っていることを知らされ、西洋の音楽を知るために学びに行った。ロレンソ了斎が歌うグレゴリオ聖歌は、賢順にとって、初めて聴く西洋の音楽だった。新しい音楽の全てを学ぶために、ロレンソ了斎は琵琶で伴奏を付けながら歌うグレゴリオ聖歌を、賢順も一音一音、忠実に学び、鄭家定より学んだばかりの、明の記譜法を用いて記譜していった。この期間は1556年12月頃から~1557年8月頃の9ヵ月と考えられる。 

第2回 1558年5月~1559年9月2日・1年4ヵ月
ロレンソ了斎が平戸で布教した時、ヴィレラ神父がキリスト教に改宗した人々の持っていた仏像や経典を俵に詰めて海岸に運び、うず高く積んで焚火とした。ヴィレラ神父の熱烈な伝道方法は、仏教徒たちとの間に衝突を引き起こし、そのために自分たちの命が危険に曝されることになった。領主・松浦隆信はヴィレラ神父に立ち退きを迫り、ヴィレラ神父はロレンソ了斎と共に博多を経由して豊後に帰った。ロレンソ了斎は、府内の教会で説教をしたり教理を教えたりした。また新しく着た宣教師に日本語を教えた。この時期にガーゴ神父の著した25ヵ条のカテキズモ・教理書の翻訳を完成させている。この期間、ロレンソ了斎は賢順と、どの様な会い方をしていたかは不明だが、おそらく、前回と同じように、賢順が教会を訪ねて、ロレンソ了斎からグレゴリオ聖歌等を習っていたと考えられる。この期間は1558年5月~1559年9月の1年4ヵ月 

第3回 府内滞在(1558年5月~1559年9月2日・1年4ヵ月)
第4回 府内滞在(1565年3月~6月・3ヵ月)
第5回 府内滞在(1568年2月頃~1569年2月頃・1年 )
 

ロレンソ了斎は盲目であるために記譜ができない。ロレンソ了斎が演奏するのを同じ琵琶を弾く諸田賢順が聴いて記譜をした。二人とも豊後府内(現大分市)に同じ時期に滞在していた。

正確にはロレンソ了斎は京都、山口から府内に1556年6月に来て~1559年9月8日府内から京都に戻っている。但し、1557年夏ごろからヴィレラ神父と共に平戸へ行き、平戸の白石の両親をキリシタンに導き洗礼を授けている。また35歳と若いヴィレラ神父はキリシタンに改宗した元仏教徒の平戸の寺社の仏像を集め、うず高く積み上げて焼き払うという暴挙に出ていて、領主の松浦家や仏教の僧侶達またその支持派の武士達から立ち退きを迫られ、1559年の早春、平戸を追放されて府内に帰っている。その後、1566年1月にアルメイダと共に五島に渡り、5月以降一人で宣教していたロレンソ了斎は1568年2月頃五島より府内に戻り、フィゲイレド神父と共に布教に1569年3月まで従事。3月に堺にルイス・フロイス神父と共に布教するために上京している。上記の様に飛び飛びだが豊後府内滞在の約3年の期間にロレンソ了斎が歌うグレゴリオ聖歌の伴奏を、諸田賢順が採譜し記譜をしたと考えることができる。

諸田賢順も府内に1556年5月から1569年12月まで住んでいる。諸田賢順について書かれている『諸田系志』は、諸田賢順は豊後府内滞在中に明國の『鄭家定テイカテイ』について、「善鼓・琴」「五音六音の音階や、三・五・七・十三・二十五弦の琴」「伏義・神農・黄帝の時代から伝わる古代中国の古事」更に「文武の宮廷上古の曲譜」等を学びその真髄を会得したと記している。この時期に古代より伝わる中国の琴の音律,漢詩(古詩)及び楽譜の書き方や箏の制作方法も教授され、賢順はそれらを学び習得したと考えられる。当時豊後府内には倭寇の取り締まりを要請するために明國使節代表『鄭舜功テイシュンコウ』と言う人物が1555年~1557年に掛けて来航滞在していたと豊後の記録にある。諸田賢順に中国の琴の音律、箏の制作方法を伝授した『鄭家定』は『鄭舜功』の兄弟、あるいは身内かとも思われるが明細は不明。 
この仮説が音楽から、楽譜(段物とグレゴリオ聖歌の比較譜)から立証・証明されれば、キリシタン研究において、ザビエルの残した遺産、伝えたグレゴリオ聖歌が日本人イルマン盲目の琵琶法師ロレンソ・了斎の中で日本音楽とグレゴリオ聖歌が1551年に山口で出会い、昇華された形としてグレゴリオ聖歌の伴奏として演奏され、1556~1559年、豊後府内においてロレンソ了斎と出会った諸田賢順がそのグレゴリオ聖歌の伴奏の演奏を器楽演奏の楽譜として書きとめ、1614年の禁教令以後にグレゴリオ聖歌の教会旋法から伴奏形態だけが整理され、日本の旋法・平調子に書き改められ、キリシタン迫害時代とその後の460年を純器楽音楽として生きてきたことが証明される。箏の楽譜を5線譜化して、グレゴリオ聖歌の旋律を箏と同じ調性にして比較検討した結果、琉球箏曲7つ全ての段物がグレゴリオ聖歌の伴奏譜であることが上記のとおり460年の時を超えて証明された。 

この『ロレンソ了斎』をおいてほかには、当時の初期キリシタン関係者には、音楽、特に日本の5音階旋法に精通していて、グレゴリオ聖歌に伴奏を付けることができる人物がいない。 

豊後を出た1570年以降は、諸田賢順にはキリシタン関係者との長きに渡る接点がない。それと1580年時代以後になると、キリスト教会側の音楽の教育体系が整ってきて、当時の西洋音楽・グレゴリオ聖歌を中心とした音楽だけが教会の中で教育され演奏されるようになってきた。そうなると、もっと日本音楽、つまり日本の5音階旋法と西洋音楽の接点が無くなることは歴史的にも証明されている。 

琉球箏曲は1550年、日本音楽【5音階旋法】とキリスト教音楽【教会旋法】が初めて邂逅した結晶でもある。琉球に伝えられた7つの段物は本土では1700年以降には消滅してしまった。信仰的見地から考えれば、神は1550年に初めて日本に伝わったグレゴリオ聖歌に付けられた伴奏譜を箏曲の中に隠されたのだと思考している。460年前の1550年の初めから神は計画されておられた。ロレンソ了斎が諸田賢順に伝えたグレゴリオ聖歌の伴奏譜が、整理され段物に姿を変えて、本土で伝えられた13の段物の半分が1700年以後本土ではなくなることを知っておられたが故に、1700年に琉球王朝に伝え琉球箏曲として1段から7段までを秘曲として琉球王朝に託されたのだと考えている。本土では琉球箏曲の1段から7段までは伝えられなくなり消えてしまった。しかし残りの5段から9段まで、12段が残され伝えられてきた。12段も10段と形を変えてしまい、本当のことが分からなくなってしまったので、もとが12段だったのか、はじめから10段だったのかの論争が起きてしまった。

しかし今回元歌だった『主の祈り』の旋律に添って和声的に解釈した結果、もとは12段の形であったことが分かった。信仰がなければとても信じられる話ではないが、これが箏曲の13の段物の辿った460年の歴史の真実の姿だと考えている。 

諸田賢順と玄恕
玄恕の誕生と賢順の許での修行
1608年(慶長13) 賢順74歳
賢順の弟子と言われている玄恕は、俗名を『宮部典譽』と言い佐嘉で生まれた。玄恕が『宮部氏』ならば賢順が豊後から引き連れてきた家系の係累に属する。賢順の弟たちの孫か従兄弟の孫の世代に属すると玄恕の誕生年から推定される。佐嘉で生まれたとなれば当然、宮部郷の親戚は賢順を頼って三根の東津に来ているので、玄恕は三根の東津に生まれたはずである。玄恕がいつ頃から賢順のもとで箏の修行に入ったか定かではないが、賢順が善導寺に入ったと同じ7歳の年(1615年・元和元)頃から多久の賢順(81歳)のもとで修業したと考えられる。賢順が多久領主の妻『千鶴夫人』以外に、玄恕に箏を教えたのは、宮部の血縁関係があったからであろう。賢順は孫のように若く幼い玄恕を可愛がり愛した。玄恕は賢順の家に住んで、寝起きを共にして賢順から箏を学んだ。賢順は箏を教える時には一人の教授として玄恕に厳しく教えたであろうことは事実であろう。『賢順、弟子、玄恕なる者を得』と『諸田系志』には書いてある。

【重要問題点】
賢順は玄恕に段物を伝えた時、段物がキリシタン聖歌の伴奏曲だと伝えたか?
賢順が53歳の時、1587年(天正15)、多久安順より多久に招かれて、安順の妻『千鶴姫』に箏を教授する役目を仰せつかり、多久梶峰城の下に屋敷が与えられ住むことになった。
しかし、時代はキリシタン禁教に向かって徐々に進み始め、キリシタン信仰の故に殉教する人達が増えてきた。これらの殉教報告を受けて、賢順はロレンソ了斎から学んだグレゴリオ聖歌の伴奏譜の取り扱いをどの様に考えただろうか?

*当時のキリシタン殉教の記録
1597年2月5日、長崎西坂、26聖人が磔に掛けられて殉教
1603年12月、熊本八代、6人殉教
1605年8月、山口、2人殉教
1609年2月、熊本八代、4人殉教、11月、長崎生月、3人殉教、
1612年8月6日、江戸幕府がキリスト教禁令を発する
1613年10月、島原有馬、8人殉教、12月23日、徳川家康、伴天連追放令を発布
1614年11月、多くの宣教師、高山右近等、長崎からマカオ、マニラに追放、
1619年10月、京都、52人殉教、(京都の大殉教)
1622年8月、長崎西坂、55名殉教、(元和の大殉教)

上記の殉教報告は代表的事例だけだが、これらの殉教報告を聞いた賢順は、自分の受け継いだ音楽がキリシタンと深く関係していることを知っているが故に、玄恕に段物の本当の意味を知らせることは、幼い玄恕にとって命を危険にさらせることになる故に、段物と言う音楽の形だけを継承させたと考えられる。この時までに賢順は、ロレンソ了斎から習ったグレゴリオ聖歌の伴奏譜を独自に編集して、段物として演奏できるように、音と音の間隔を詰めてひとつの段物の作品として演奏できる形に作り替えたと思われる。 

諸田賢順斎、多久の地に没す
1623年(元和9)7月13日 賢順90歳
『元和九年、癸亥の年の七月一三日卒。享年九○。法名賢順養晋』と『諸田系志』『諸田氏系図』に書かれている。また多久市北多久町大字小侍339・1、諸田稔氏所持の『諸田賢順位牌』にも表『賢順養普庵主』裏『元和九年癸亥七月十三日 享年九十』とある。 

玄恕についてのその後
賢順が90歳で没した1623年(元和9)7月13日、玄恕はまだ15歳。当代きっての稀有の箏曲の大家、筑紫箏の創始者、諸田賢順斎が亡くなったので玄恕は教えてくれる人を失ってしまった。賢順を失った後、それから玄恕は佐嘉の南里の正定寺に入ったのではないかと推測される。玄恕が正定寺に入ったときまでに、玄恕は賢順からすでに7,8年は箏の指導を受けていて、玄恕の腕前は相当な水準にまで達していたと考えられる。もちろん、賢順から習った段物12曲も含まれている。

玄恕略伝
1608年(慶長13)誕生
賢順の弟子と言われている玄恕は、俗名を『宮部典譽』と言い佐嘉で生まれた。玄恕が『宮部氏』ならば賢順が豊後から引き連れてきた家系の係累に属する。賢順の弟たちか従兄弟の孫の世代に属するであろうと推定される。佐嘉で生まれたとなれば当然、宮部郷の親戚は賢順を頼って三根の東津に来ているので、玄恕は三根の東津に生まれた。賢順74歳 

1615年(元和元)頃 玄恕7歳頃
賢順が善導寺に入ったと同じ7歳の年(1615年・元和元)頃から多久の賢順(81歳)のもとで修業したと考えられる。賢順が多久領主の妻『千鶴夫人』以外に、玄恕に箏を教えたのは、宮部の血縁関係があったからと推測される。

1623年(元和9)玄恕15歳
賢順が90歳で没した1623年(元和9 )7月13日、玄恕はまだ15歳。当代きっての稀有の箏曲の大家、筑紫箏の創始者、諸田賢順斎が亡くなったので玄恕は教えてくれる人を失ってしまった。賢順を失った後、それから玄恕は佐嘉の南里の正定寺に入ったと推測される。

1630年(寛永7)玄恕22歳
玄恕が肥前へ帰国後,浄土宗同門が相儀して、慶巖寺第3代住職,龍誉上人(佐嘉南里正定寺の出身)1630年(寛永7)12月26日に退院するに当たり、玄恕上人の京都での活躍や、帝の前での演奏、帝より上人の位を送られたこと等を栄誉として、正定寺の弟弟子にあたる玄恕上人を推挙して慶嚴寺に迎え、玄恕を肥前諫早の慶巖寺(現・長崎県諫早市城見町15・19)の住職とした。

1630年(寛永7)12月26日、慶巖寺第4代住職に就任・玄恕22歳。 

1636年頃(寛永13)玄恕28歳

八橋検校(1614年~1685年6月12日)(22歳)が最初の上洛をはたし匂当の位を得ている。その後、筑紫箏の奥義を極めたいと、肥前国諫早の慶巖寺住職であった玄恕を訪ねて弟子入りしている。 

1639年頃(寛永16)玄恕31歳

八橋検校(25歳)再度上洛して,当道における最高官位『検校』に任ぜられ,上永検校城談と称した。その後、名を『八橋』と改めている。八橋検校の生涯そのものもが幾多の不明な点があるので、確定的なことは言えないが、八橋検校が肥前國諫早に来て玄恕に師事した期間は、八橋検校の生涯記録から割り出すと1636年~1639年頃までの3年間余りと考えられる。 

1649年(慶安2)11月11日、玄恕42歳
玄恕は慶安二年(1649年)の夏、病になり故郷の南里に戻り、浄土宗善興寺(現・佐賀市川副町南里1647 )で治療療養した。薬を数ヵ月飲んだがまったく効き目がなく自ら死を予期して仏を称えながら、同年11月11日、42歳で没した。
玄恕の墓は長崎県諫早市城見15・19、慶巖寺本堂前、左側の住職墓地にあり、正面3基の右側が玄恕の墓。経年劣化のために墓碑に書いてある文字は判読不明。 

八橋検校(1614年~1685年6月12日)
1614年(慶長19)鳥居忠政(元忠の子)の城下,磐城に生まれる。
1685年(貞享2)6月12日、京都綾小路烏丸西入ルにて死去(71歳)。
鑑覚院円応順心居士、金戒光明寺に葬られる。 

吉部座頭(生没年不明)と薩摩藩士・服部清左衛門政真・武右衛門政寛父子いつ頃、吉部座頭が八橋検校から段物を習ったかは不明。しかし琉球箏曲の始まりは『中山世譜』という琉球王朝の歴代の王の系譜を記した書物の附巻に、1700年(元禄13年)稲嶺盛淳(いなみねせいじゅん・生没年不明)が薩摩に派遣され、薩摩藩士・服部清左衛門政真、武右衛門政寛父子から八橋流筝曲の演奏法を学んで帰国したのが始まりと記されている。服部清左衛門政真は八橋検校(1614~1685年)の弟子・吉部座頭に学んだと伝えられている。 

琉球箏曲解説

『一段・瀧落管撹(たちうとぅし)』
原曲『アヴェ・マリア・Ave Maria』

【楽譜】
瀧落管撹は46小節(45小節+2拍)(182拍)で作られている。
アヴェ・マリアはラテン語分節では9小節で構成されていて、アヴェ・マリアの旋律を繰り返して5回歌うことにより瀧落管撹の46小節と合い伴奏譜として成立する。

曲の構成表
1回、 1小節~9小節
2回、10小節~18小節
3回、19小節~27小節
4回、28小節~36小節
5回、37小節~46小節(2拍のみ) 

当時の豊後府内でのイエズス会の記録の中に『アヴェ・マリアを5回歌った』と言う記述がある。その記述に従い『アヴェ・マリア』の伴奏譜である『瀧落管撹』の46小節を5回で割ると9小節が1回のアヴェ・マリア旋律に対して割り振ることができる。イエズス会の記述に従って作った楽譜が、当時の豊後府内教会でロレンソ了斎の演奏していた『アヴェ・マリアの伴奏譜』を再現している。 

『当時、我らの同僚たちの司祭館では、キリシタンたちに信心を教え、彼らがデウスのことを喜ぶように導くために、一日の七度の聖務日課の時間に合わせて、七回、小さな鈴を鳴らす習わしであった。それを聞くと、司祭館にいる全員は聖堂に参集し、一人の少年が大声で主の御苦難の物語の一ヵ所を朗読する。そしておのおのは、その御受難を追想しながら、当地方のために「パーテル・ノステル(主の祈り)」を五回、「アヴェ・マリア」を五回唱えて祈った。そしてこれは多年にわたってキリシタンの間に広まり、いろいろの地方で彼らは自分たちの家で同様のことを行った。』
*ルイス・フロイス著『フロイス日本史』第6巻 大友宗麟編I 第17章(第I部19章)173~174頁

上記のイエズス会の記録はロレンソ了斎と諸田賢順が府内に滞在していた当時の記録である。
*コスメ・デ・トーレス神父が修道士達とともに豊後府内の司祭館で行った修行について

『当地では一定の時間に鈴が鳴らされ、キリシタンたちに、お祈りをし、ついで「パーテル・ノステル」と「アヴェ・マリア」の祈りを五度唱える合図がなされますと、理性を働かせ得る大人たちが跪いて敬虔に祈りをささげるばかりでなく、まだ理性を欠いていると思われる幼児たちも同様にいたします。あるキリシタンは私に次のような話をしてくれました。彼は先日、自分の幼い娘を一人の異教徒の家へわずかばかりの酒を買いにやらせたのですが、その時、店の人が酒の量を量っていた時、たまたまお告げの鈴が鳴りました。その少女は合図を聴きますと、ただちに酒瓶を置いて跪き、両手を合わせて祈り、『パーテル・ノステル』を五回、『アヴェ・マリア』を五回、終わりまで祈ってしまうまでふたたび立ちあがりませんでした。異教徒たちはそれを見て驚嘆し心を打たれ、そして申しました。『キリシタンたちは子供たちまで良い習慣を教えているのだから、彼らの神以外に神はあり得ない』と。そこまでがコスメ・デ・トーレス師の言葉(の引用)である。』

『ミサの後、一人が「パーテル・ノステル」、「アヴェ・マリア」、「クレド」、「サルヴェ・レジナ」、デウスと教会の掟,大罪とそれに反する諸徳,慈悲の所作などを彼らの日本の言葉で述べ、他の人々がそれに応誦する。』
*ルイス・フロイス著『フロイス 日本史』第6巻 大友宗麟編I 第21章(第I部30章)213~214頁、 1561年に豊後、および下の諸地方で生じたことについて 

交唱歌『アヴェ・マリア・Ave Maria』は天使祝詞と言われているルカによる福音書1章28節から38節までの『マリアの讃歌』の言葉の中から引用されている。28節のラテン語の冒頭の言葉が『アヴェ・マリア』で始まっている。

この交唱歌『アヴェ・マリア』は三つの部分から構成されている。

前半の言葉は、ルカによる福音書1章28節からの引用『恵まれた女、マリアよ、おめでとう、主があなたと共におられます。』大天使ガブリエルが乙女マリアに受胎告知をする時の言葉の冒頭句である。

次の言葉は身ごもったマリアが従姉妹のエリサベツ(洗礼者ヨハネの母)を訪ねた時に、エリサベツが聖霊に満たされて言った言葉の引用で、ルカによる福音書1章42節『あなたは女の中で祝福されたかた、あなたの胎の実も祝福されています。』

後半の部分は聖母マリアに神へのとりなしを願う祈りの言葉になっていて、言葉と旋律は15世紀に加えられた。『神の母聖マリア、罪深い私たちのために、今も、死を迎えるときも祈ってください。アーメン。』(クリスマス直前の主日)のミサの中で歌われる奉納唱である。

また一日八回(今日では七回)、定時の祈りに時間に捧げられる聖務日課のなかの最後の祈り終課にマリア交唱が歌われる。 

有名な『アヴェ・マリア』の旋律は11世紀初頭の写本(ハルトカ―390~391, f, 38 )にネウマ符で記されている古い旋律である。旋律の始めの箇所に非常に印象的な5度の跳躍があり、第1教会旋法ドリア旋法がもつ荘厳性、深い崇敬性、奥床しい色調が特徴的に旋律に表われている。後半の聖母マリアに神へのとりなしを願う言葉と旋律は15世紀に加えられた箇所で、言葉に合わせて旋律も嘆願調になっている。

交唱『アヴェ・マリア』は聖母の祝祭日の聖務日課の他、お告げの祈りとして、また、様々な機会に非常に多く歌われている。 

日本にはキリシタン時代の教理門答書『どちりいなきりしたん』(1600年)のなかに、現在の形とほとんど同じ形で書かれていて、フランシスコ・ザビエルが日本に来た1549年以来、同じ形式の祈祷文として唱えられていたことがわかる。 

【歌詞】めでたし、マリア、恵みに満ちた方、主はあなたと共にまします。あなたは女に中で祝せられ,また、ご胎内の御子も祝せられます。神の御母聖マリア、祈りたまえ、罪びとなる我らのために、今も臨終の時にも、アーメン 

使用した楽譜の出典は『グラドゥアーレ・トリプレクス・Graduale Triplex 』(1979年ソレム修道院出版) 1861頁、聖母讃歌(Honorem B Mariae V )マリア交唱歌(Antiphonae B. Mariae Virginis )単純調(tonus simplex )教会第1旋法ドリア旋法による。 
*カトリック聖歌伴奏譜 282~283頁

*『アヴェ・マリア』の原調は教会第1旋法のドリア旋律で、始まりの音がF音であるために、伴奏譜としての琉球箏曲『瀧落管撹第1段』の本調子の調性G音とは、1音のズレがあるため、グレゴリオ聖歌の旋律を1音上げてG音から始まるように書き直す必要がある。書き直した曲の調性はニ長調に近くなり、F音とC音とに#が付く。 

この旋律は後世の作曲家たちに定旋律としてモテットやミサ曲によく使用されている。ロレンソ了斎は『アヴェ・マリア』の旋律に伴奏を付け、それが段物の『琉球箏曲一段・瀧落管撹』に相当する。当時のキリスト教会の習慣に従い5回『アヴェ・マリア』を繰り返して歌う。 

『二段・地(ぢ)管撹』
原曲『めでたし元后・サルヴェ・レジナ・Salve Regina』
地管撹は53小節(52小節+1拍)(209拍)で作られている。

めでたし元后・サルヴェ・レジナ・Salve Reginaはラテン語分節では13小節で構成されていて、サルヴェ・レジナの旋律を繰り返して4回歌うことにより、地管撹の52小節+1拍と合い伴奏譜として成立する。 

『めでたし元后・サルヴェ・レジナ・Salve Regina Mater misericordiae』三位一体主日後(その前夜土曜日)から待降節第一主日の直前の金曜日夜までの期間の終課(就寝前の祈り)の最後に歌われるマリア交唱歌。

ベネディクト会が定めた聖務日課の最後の祈り(就寝前の祈り)、終課の最後で歌われる聖母マリアを称える歌、ラテン語の表題は『聖母マリアへの結びの交唱』 

この名曲はグレゴリオ聖歌の中で最も美しい旋律を持つ有名なマリア交唱歌。最も古い聖母讃歌のひとつで、天の元后(女王)、神の母、取次者である聖母マリアを称え祈る讃歌。 

最古の史料は11世紀のもので、歌詞、旋律共にフランスのル・ピュイの司教・アデマール作と言われている。このSalve Reginaが典礼において用いられるようになったのは1135年、クリュニーに於いてペトルス・ヴェネラピリスが定めた行列聖歌であった。1218年以降、シトー会がこの曲を毎日の行列聖歌と定め、1230年からはドミニコ会でも毎日の終課の後で歌うことを定めた。またこの曲は『神のお告げの祝日』のマグニフィカト(マリアの賛歌・ルカによる福音書第1章46節~55節)のアンティフォナAntiphonとして用いられていた。13世紀にシトー会、ドミニコ会等の修道会がそれぞれに日々の祈りの中に取り入れるようになり、教皇グレゴリウス9世(在位1227~1241)がこの曲を毎金曜日の終課の後に唱えるように定めた。14世紀以降は、すべての終課の後に唱えられるようになった。修道士たちは全員聖堂に集まり、一日を神の御恵みのうちに過ごすことができた感謝と共に、この日の最後の聖歌を聖母マリアへの誉れのために捧げる。

【歌詞】めでたし元后 憐みの母、我らの命、喜び、希望。旅路からあなたに叫ぶエヴァの子よ、嘆きながら、泣きながらも 涙の谷にあなたを慕う。いざ、我らのためにとりなす方。憐みの目を我らに注ぎ、尊いあなたの子、イエスを旅路の果てに示してください。おお、いつくしみ深く、恵みあふれる乙女、マリア。 

使用した楽譜の出典は『グラドゥアーレ・トリプレクス・Graduale Triplex 』(1979年ソレム修道院出版) 279頁、マリア交唱歌(Antiphonae B. Mariae Virginis )単純調(tonus simplex )
*カトリック聖歌伴奏譜 284~285頁 光明社

原調は第5旋法リディア旋法による。始まりの音はC音。

ロレンソ了斎は『めでたし元后・サルヴェ・レジナ・Salve Regina』の旋律に伴奏を付け、4回繰り返して歌うことで段物の『琉球箏曲二段・地管撹』に相当する。 

『三段・江戸管撹』
原曲『麗し救い主の御母・アルマ・レッデムプトリス・Alma Redemptoris』
江戸管撹は48小節(47小節+1拍)(189拍)で作られている。

麗し救い主の御母・アルマ・レッデムプトリス・Alma Redemptorisはラテン語分節では12小節で構成されていて、アルマ・レッデムプトリスの旋律を繰り返して4回歌うことにより、江戸管撹の48小節と合い伴奏譜として成立する。 

『麗し救い主の御母・アルマ・レッデムプトリス・Alma Redemptoris Mater』
待降節第1主日から2月2日の聖母マリア潔めの祝日までの間に歌われる終課(就寝前の祈り)の最後に歌われるマリア交唱歌(Antiphonae B. Mariae Virginis )。ベネディクト会が定めた聖務日課の最後の祈り(就寝前の祈り)、終課の最後で歌われる聖母マリアを称える歌、ラテン語の表題は『聖母マリアへの結びの交唱』 

最古の写本は12世紀で、本来聖母被昇天祭の六時課(正午)の賛歌として用いられていた。作者はライヘナウの修道士ヘルマンヌス・コントラクトゥス(1013~1054)と考えられているが確証はない。本来、詩編やカンティクムの前後に歌われていた。稀に見る美しさと独創性を持つ旋律は、中世・ルネサンス期に多くの多声楽曲の基礎に使われた。 

【歌詞】麗しい救い主を育てた母、開かれた天の門、光り輝く海の星、倒れた者に走りより、力づけてくださる方。すべての者が讃える中で、造り主を生んだ方。ガブリエルから言葉を受けた永遠の乙女よ。我らのために祈りたまえ。 

使用した楽譜の出典は『グラドゥアーレ・トリプレクス・Graduale Triplex 』(1979年ソレム修道院出版) 277頁、マリア交唱歌(Antiphonae B. Mariae Virginis )単純調(tonus simplex )

原調は第5旋法リディア旋法による。始まりの音はC音。 

ロレンソ了斎は『麗し救い主の御母・アルマ・レッデムプトリス・Alma Redemptoris Mater』の旋律・単純調(tonus simplex )に伴奏を付け、それが段物の『琉球箏曲三段・江戸菅撹』に相当する。 

『四段・拍子管撹』
原曲『天の元后・レジナ・チェエリ・Regina caeli』
拍子管撹は57小節(56小節+2拍)(226拍)で作られている。

天の元后・レジナ・チェエリ・Regina caeliはラテン語分節では7小節で構成されていて、レジナ・チェエリの旋律を繰り返して8回歌うことにより、地管撹の57小節と合い伴奏譜として成立する。 

『天の元后・レジナ・チェエリ・Regina caeli』
復活の主日(現:至聖なる主キリストの過ぎ越しの徹夜・聖土曜日(復活祭の前の土曜日)の終課から50日後の聖霊降臨祭の祝日後の金曜日の終課まで。

イエス・キリストの復活の時の聖母マリアの喜びを記念する曲。本来は復活祭晩課マニフィカト(マリアの讃歌)用の交唱歌だったが、13世紀半ばから復活祭の終課に用いられるようになった。教会の祈りでは復活祭中、寝る前の祈りの結びとして歌われる。詩の成立は9~12世紀で作詞者は不明。グレゴリオ聖歌では13世紀中頃に由来する荘厳旋律と17世紀に作られた簡素な旋律の聖歌が伝わっている。 

【歌詞】天の元后 喜び給え。アレルヤ。あなたに宿られた方は、アレルヤ。仰せのように復活された。アレルヤ。我らのために祈りたまえ。アレルヤ。 

使用した楽譜の出典は『グラドゥアーレ・トリプレクス・Graduale Triplex 』(1979年ソレム修道院出版) 278頁、マリア交唱歌(Antiphonae B. Mariae Virginis )単純調(tonus simplex )
原調は第6旋法ヒポリディア旋法による。始まりの音はC音。 

伴奏譜としての琉球箏曲『瀧落管撹第4段』の本調子の調性G音とは、1音のズレがあるため、グレゴリオ聖歌の旋律を1音上げてG音から始まるように書き直す必要がある。書き直した曲の調性はト長調に近くなり、F音に#が付く。 

ロレンソ了斎は『天の元后・レジナ・チェエリ・Regina caeli』の荘厳旋律に伴奏を付け、それが段物の『琉球箏曲四段・拍子菅撹』に相当する。 

『五段・佐武也管撹』
原曲『めでたし憐れみ深い御母・サルヴェ・マーテル・Salve Mater 』
佐武也管撹は54小節(53小節+2拍)(214拍)で作られている。

めでたし憐れみ深い御母・サルヴェ・マーテル・Salve Materは最初の繰り返しの部分(A)を1度歌い(A)の繰り返しを再度歌い(B)の祈祷文を続けて歌う。(A)(B) を4回繰り返して歌うことで曲が構成されている。

 曲の構成表
(A)6小節(24拍)
(A)6小節+2拍(26拍) (B)5小節+2拍(22拍)
(A)6小節+2拍(26拍) (B)5小節+2拍(22拍)
(A)7小節(28拍)    (B)5小節(20拍)
(A)6小節(24拍)    (B)5小節+2拍(22拍)

 『めでたし憐れみ深い御母・サルヴェ・マーテル・Salve Mater misericordiae』
美しい旋律を持つこの曲は、グレゴリオ聖歌の中で最も美しい旋律のひとつと言われている有名なマリア交唱歌。最も古い聖母讃歌のひとつで、天の元后(女王)、神の母、取次者である聖母マリアを称え祈る讃歌。 

最古の史料は11世紀のもので13世紀にシトー会、ドミニコ会等の修道会がそれぞれに日々の祈りの中に取り入れるようになり、教皇グレゴリウス9世(在位1227~1241)がこの曲を毎金曜日の終課の後に唱えるように定めた。14世紀以降は、すべての終課の後に唱えられるようになった。

 【歌詞】
(A)めでたし憐れみ深い御母よ、天主の聖母,かつ許しの聖母、希望の聖母、かつ恵みの聖母、聖なる喜びにあふれる聖母、おお、マリア。

(B) めでたし、人類の栄誉、めでたし、童貞のうちすぐれて尊き童貞。すべての童貞にまさり、天において、より高きに座りたもう、おお、マリア。

 使用した楽譜の出典は『グラドゥアーレ・トリプレクス・Graduale Triplex 』(1979年ソレム修道院出版) ?頁、マリア交唱歌(Antiphonae B. Mariae Virginis )単純調(tonus simplex )原調は第5旋法リディア旋法による。始まりの音はG音。 

*カトリック聖歌伴奏集284頁、光明社。542番・サルヴェ・マーテル・Salve Materを使用した。ハ長調。始まりの音はG音。

ロレンソ了斎は『めでたし憐れみ深い御母・サルヴェ・マーテル・Salve Mater misericordiae』の旋律に伴奏を付け、それが段物の『琉球箏曲五段・佐武也管撹』に相当する。 

『六段管撹』
原曲『クレド・Credo・信仰宣言』

六段管撹は、六段で構成されている。
一段27小節、二段27小節、三段27小節、四段26小節、五段27小節、六段27小節、 

『クレド』の旋律のラテン語分節に従って六段菅撹を当てはめると、前半部分が一段(27小節)、ほぼ真中の『Et resurrexit tertia die』から二段(27小節)が当てはまる。

二段の27小節は『アーメン』、四段の26小節は『アーメン』、六段の27小節は『アーメン』に相当している。ただし、初段1小節の先唱『Cred in unum Deum』は、3段目と5段目の始まりにも存在している。3段目と5段目の先唱『Cred in unum Deum』が存在していることと、2段目と4段目に『アーメン』があるということは、『クレド』の伴奏譜が3種類あるということで、皆川氏が主張する『クレド』を続けて3回繰り返し歌うとの理論とは相いれない。諸田賢順はロレンソ了斎から教えられたクレドの伴奏譜を、何ひとつ形を変えずに『六段』と言う段物に移し替えたと考えられる。 

六段管撹・曲の構成表          (本土)箏曲六段・曲の構成表1、一段27小節、二段27小節(アーメン)  1、一段27小節、二段26小節(アーメン)

2、三段27小節、四段26小節(アーメン)  2、三段26小節、四段26小節(アーメン) 

3、 五段27小節、六段27小節(アーメン)  3、五段26小節、六段26小節(アーメン) 

六段管撹と(本土)箏曲六段の曲の構成表を見て判る通り、本土箏曲の六段の方が、一段の27小節の他は、各段26小節に統一されている。六段管撹が元の形だと仮定した場合、本土の箏曲六段は、1700年以降、元禄時代になってから、より段物として演奏しやすいように、一段の小節数を26に揃えたと考えられる。

 『クレド・Credo・信仰宣言』
カトリック教会のミサ典礼における、ミサ通常文の第3番目に唱えられる『信仰宣言・クレド』。『会衆が神の言葉に応えて信仰の規範を思い起こし、信仰を新たにするために,信条を唱えること』と規定されている。 

司祭が『われは信ず、唯一の神Credo in unum Deum』と唱えて歌い出し、信者達が『全能の神Patrem omnipotentem』と続く。前半部では創造主である父なる全能の神と、人間の姿で誕生して十字架の上で我らの罪をあがない給うたイエス・キリストへの信仰を、後半部では死に勝利したキリストの復活、父と子と三位一体の聖霊への信仰告白を旋律に乗せて歌っていく。 

信仰宣言【クレド】
私は天地の造り主、全能の父なる神を信じます。私はその独り子、私たちの主、イエス・キリストを信じます。主は聖霊によってやどり、おとめマリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ,蔭府(よみ)にくだり、三日目に死人の内よりよみがえり、天に上り、全能の父なる神の右に座しておられます。かしこよりきたりて生きている者と死んだ者とを裁かれます。私は聖霊を信じます。聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪の許し、体のよみがえり、とこしえの命を信じます。アーメン

 クレド・信仰宣言の歴史的成立過程
信仰宣言とは、イエス・キリストの弟子たちの時代から使徒時代を経て、信仰の基本は色々な形でまとめられてきたが、洗礼の確立と共に信徒になる人の信条の告白も定式化されていった。 

洗礼を受けるに先立ち、洗礼志願者にキリスト者の秘儀が伝えられ、志願者は共同体(教会)の面前でそれを唱え返す式があった。更に、洗礼そのものが『父と子と聖霊を信じます』と言う信仰表明の後に授けられた。215年、ローマの『ヒッポリュトスの使徒伝承』の時代には、この形式は確立されていた。325年、ニカイア(現・トルコのイズニクIznik )で開催された第1回公会議で信条が作成され、381年、コンスタンティノポリス(現・トルコのイスタンブール)で開催された公会議において『聖霊に関する補足』が補足付加されて『ニカイア・コンスタンティノポリス信条』の式文が成立して、教会で唱えられ、ラテン語聖歌の旋律によって歌われてきた。東方教会では568年、皇帝ユスティニアヌス2世の命令で、『主の祈り』の前に『ニカイア・コンスタンティノポリス信条』を歌うことが義務付けられた。西方教会でもスペインとガリアで6世紀終わりころから、この信条を歌うように決められた。信条を歌う習慣は9世紀にアイルランドで広まり,福音書の朗読の後に歌うようになった。イングランドを経てドイツに入り、ヨーロッパ全域の教会において習慣化された。1014年、皇帝ハインリヒ2世が戴冠式のためにローマに行き、主日と大祝日にニカイア・コンスタンティノポリス信条を唱えることを西方教会に義務付け、以後西方教会全域において信条が正式に典礼に組込まれた。 

クレドの音楽的成立過程
『ニカイア・コンスタンティノポリス信条』による『クレド』を歌うラテン語聖歌には、中世に作成された写本の中に8種類の旋律が確認されている。1974年に出版された現行のグレゴリオ聖歌集『グラドゥアーレ・ロマーヌムGraduale Romanum 』には、11世紀から17世紀に作られた6種類の旋律が、ネウマ楽譜付で記載されている。 

6種類の旋律はそれぞれが教会旋法によって固有の旋律を持っている。 

6種類の旋律を教会旋法ごとに分けると、3種類の教会旋法に分類できる。
第4旋法ヒポフリギア旋法、第1番、第2番、第5番、第6番、
第5旋法リディア旋法、第3番、
第1旋法ドリア旋法、第4番、 

第4旋法のヒポフリギア旋法による4種類の旋律は基本的には極めて類似した旋律であり、類似した旋律の上にそれぞれが独自の装飾的な動きを旋律内に持っている。つまり11世紀に成立した第1番の旋律が基本の旋律であり、第2番、第5番、第6番の3種類の旋律は第1番旋律の変形であり、中世の時代に広範囲の地域において歌われていた第1番旋律が、時代的地域的変遷を経て伝承され変形して定着した相違によると考えられる。 

第5旋法のリディア旋法による第3番は、第4旋法のヒポフリジア旋法の4曲とは旋法そのものが持っている旋法の性格が異なるために、比べるとより明るく軽快な調性を持ち、へ長調(F major )に近い調性に感じる。 

第1旋法のドリア旋法による第4番は、荘厳で重厚な調性を持ち,ニ短調(d minor )に近い調性を持っている。 

『クレド』の旋律の中で『Authenticus=正統的・基準的・本来的』とされてきたのが、第1番の第4旋法ヒポフリジア旋法による旋律である。年代的にも一番古く11世紀に成立したと言われている。6種類の旋律はそれぞれが属する旋法に応じた動きや装飾的音符の長さの違い等があるが、言葉からくる制約や音楽的区切り方等から比較した場合、構造的には同一の形式に統一される。 

成立年代
クレド1番 11世紀XI.S。2番 記載なし。3番 17世紀XII.S。4番 15世紀XV.S。5番 17世紀XII.S。6番 11世紀XI.S 

クレド(Credo)と六段の関係の発見
『クレド』に『六段』を重ね合わせると、司祭が先唱する『われは信ず、唯一の神』が『六段』では導入序奏の『テーントンシャーン』に対応する。信者が歌う前半部と後半部が『六段』の初段と二段とに重なりあう。『クレド』の旋律のラテン語分節に従って六段菅撹を当てはめると、前半部分が一段(27小節)ほぼ真中の『Et resurrexit tertia die』から二段(27小節)が当てはまる。二段の27小節は『アーメン』、四段の26小節は『アーメン』、六段の27小節は『アーメン』に相当している。また、初段1小節の先唱『Credo in unum Deum』は、3段目と5段目の始まり第1小節目にも存在していて、音楽的にも和声的にも合致することが確認された。3段目と5段目の先唱『Credo in unum Deum』が存在することと、2段目と4段目に『アーメン』があるということは、『クレド』の伴奏譜が3種類あるということで、皆川氏が主張する『クレド』を続けて3回繰り返し歌うとの理論とは相いれない。諸田賢順がロレンソ了斎からクレドの伴奏を習った時と同じ伴奏譜を編集して『六段』と言う段物に姿を変えて次の世代に残した。 

福岡県大牟田市の筝奏者・故坪井光枝氏が『クレド第3番』と『六段』の類似性を1995年頃に指摘され、2006年10月リサイタルにおいて、『大牟田宮部に生まれた箏の祖 賢順を記念して』と題してコンサートプログラムに『箏の祖 賢順』の論文を掲載された。この報告を受けて皆川達夫氏が『クレドと六段』の関係を詳しく調べられ、邦楽ジャーナル2010年10月号に『『六段の調べ』はキリシタン音楽だった!』と題して、聖歌『クレド』と合致する『六段の調べ』の論文を発表され、続いて2011年1月にCD箏曲『六段』とグレゴリオ聖歌『クレド』を発売された。このCDでの演奏の特徴は『六段』を譜面通りに演奏するために、グレゴリオ聖歌『クレド』の旋律が多くの3連譜や付点16分音符、4連譜、5連譜を用いて変形されていることがあげられる。確かに『六段』の現在の姿を崩さずに『クレド』と合致させるには、『クレド』の旋律のリズムを変える方法しかないと理解できるし、『クレド』と『六段』の合致点、落とし所としての結果がこのCDに集約されていることを認める。『六段』を譜面通り演奏して、それに『クレドの旋律』を当てはめることで、『六段』が『クレド』の伴奏譜だったことが証明された。 

皆川氏の作成された『クレドと六段』の比較楽譜の4つの矛盾点
矛盾した4つの疑問点
①   楽譜の音の間違い
CD解説文と洋楽渡来考再論に『クレドと六段』との対照楽譜が掲載されていたが、『六段』の最初の音がミ(E音)になっている。箏譜面の『六段』は平調子で五の音になっているので3度高いソ(G音)から始まるはずである.伴奏譜である『六段』全てが3度低く書かれているのは間違いである。460年前『クレド』が歌われていた当時、伴奏がE音を出して、信徒が3度高いG音から歌いだしていたのだろうか?『日本人は和声を取ることが難しく困難である。』とのイエズス会の報告を読むとき、伴奏の琵琶、あるいはヴィオラス・デ・アルコ(violas de arco)で歌う旋律をなぞっていたとの記述のとおり、曲の初めと同じ音を出していたと考える方が自然だと思われる。 

②   3段目と5段目の冒頭『Cred in unum Deum』の存在
1段目の冒頭『Credo in unum Deum』の先唱は、3段目の冒頭と5段目の冒頭にも存在が確認される。この3段目と5段目の第1小節『Cred in unum Deum』は音楽的にも和声的にも3段目と5段目の第1小節に合うことが証明されている。
2段目と4段目の第26小節に『アーメン』が存在する事実と、3段目と5段目の第1小節に先唱『Cred in unum Deum』が存在する事実から、ロレンソ了斎が『クレドの伴奏譜』を作った時には、3種類独立した『クレド』の伴奏譜を作ったと結論することができる。 

③   2段目と4段目の『アーメン』の存在
また皆川氏は、『クレド』は3度繰り返して歌っていたとの見解を示しているが、『六段とクレド』の対比楽譜を和声的に作った結果、皆川氏の主張されている2段目、4段目の省略されているはずの『アーメン』が楽譜の中に存在していた。正確に言えば2段目の26小節、4段目の26小節が『アーメン』に該当している。
また3段目と5段目の冒頭部分の『Cred in unum Deum』の第1小節を、3段目と5段目の第2小節から始めていることと、2段目の26小節、4段目の26小節の『アーメン』を2段目と4段目に入れ込んだことで和声的な展開が正しくできていないことは明白な事実で、2段と4段目の第26小節、3段と5段目の第1小節を、2段目と4段目に、3段目と5段目に1小節ずつ多く詰め込んだことで不協和音を多くする結果となっていて、本来クレドの旋律に対して美しく響くはずの和声が姿を消してしまっている。 

①   洋楽渡来考再論の楽譜の不明部分 (不明部分の提示楽譜を参照のこと)皆川氏の作成した楽譜(洋楽渡来考再論)129~131頁の六段目、154小節2拍目から2小節に渡って不明になっていて、154小節目の3拍目が行き成り『アーメン』に持ち込まれている。2小節に亘って六段の音が存在していない不明な楽譜でどうすれば演奏ができるのだろうか?完全に和声的展開の失敗を、強引に辻褄合わせをしていることは楽譜上からも明白に指摘できる。なぜこのような展開ができるのかが理解できない。これではクレドの正しい伴奏譜とは言えないと結論する。 

この箇所について皆川氏は、洋楽渡来考再論の92頁で『ただし筝曲の六段目に対応するクレド後半部分の結びの歌詞(Et exspecto 以下)は省略され、筝曲の結尾と「アーメン」とが対応する。』と、理解不能で間際らしい説明をしている。この楽譜では演奏は不可能である。
なぜ「Et exapecto resurrectionem」までは伴奏があるのに「mortuorum.Et vitam venturi saeculi 」には伴奏がつけられずに省略されるのか理解が出来ない。 

(この不明な部分を明瞭に楽譜にして提示してみる)
洋楽渡来考再論129~131頁の六段目の154小節に注目して楽譜を再構築してみる。

クレド1番の旋律と六段の伴奏譜だけに簡素化して見ると、128~129頁にかけてのクレドの歌詞「Et exspecto resurrectionem」までは伴奏があるが、次の130頁の部分、歌詞「mortuorum. Et vitam venturi saeculi.」には伴奏がまったくないことがわかる。131頁の「Amen」になって伴奏は復活している。 皆川氏が作られた『六段とクレド』の比較楽譜が『CD解説』と『洋楽渡来考再論』に掲載されていたが、『六段』の最初の音がE音になっている。箏譜面では『六段』は平調子で五の音になっているので、3度高いG音から始まるはずである.伴奏譜である『六段』全てが3度低く書かれているのは明らかな間違いである。460年前『クレド』が歌われていた当時、伴奏がE音を出して、信徒が3度高いG音から歌いだしていたのだろうか?『和声を取ることが難しい、困難である。』とのイエズス会の報告を読むとき、伴奏の琵琶、あるいはヴィオラス・デ・アルコ(violas de arco)で歌う旋律をなぞっていたとの記述のとおり、伴奏の楽器(琵琶・箏)も曲の初めと同じ音を出していたと考える方が自然だと思われる。

6段目の154小節2拍後に和声的展開がひとつもなく『クレド』の『Et exspecto resurrectionem mortuorum. Et vitam venture saeculi.』の箇所の2小節分の伴奏譜の音がひとつもなく、行き成り154小節3拍目が『アーメン』の初めの音に割り振られている。 

六段管撹・曲の構成表          (本土)箏曲六段・曲の構成表1、一段27小節、二段27小節(アーメン)  1、一段27小節、二段26小節(アーメン)

2、三段27小節、四段26小節(アーメン)  2、三段26小節、四段26小節(アーメン) 

3、 五段27小節、六段27小節(アーメン)  3、五段26小節、六段26小節(アーメン) 

『クレド』の旋律のラテン語分節に従って六段菅撹を当てはめると、前半部分が一段(27小節)、ほぼ真中の『Et resurrexit tertia die』から二段(27小節)が当てはまる。

二段の27小節は『アーメン』、四段の26小節は『アーメン』、六段の27小節は『アーメン』に相当している。また、初段冒頭の第1小節の先唱『Credo in unum Deum』は、3段目と5段目の始まり第1小節目にも存在が確認される。3段目と5段目の先唱『Credo in unum Deum』が存在するということと、2段目と4段目に『アーメン』があるということは、『クレド』の伴奏譜が3種類あるということで、皆川氏が主張する『クレド』を続けて3回繰り返し歌うとの理論とは相いれない。諸田賢順はロレンソ了斎から教えられたとおりの『クレド』の伴奏譜を編集する際に、クレドの伴奏譜を編集して『六段』と言う段物に姿を変えて次の世代に残している。 

別の証明の方法
このCDの証明方法しか音楽的解決策は存在しないのだろうか?
上記の文献を参考にCDの演奏とは正反対の考え方に基づき、グレゴリオ聖歌『クレド』【信仰宣言】の旋律の歌い方はこの400年間変わっていないとの前提の上に、グレゴリオ聖歌『クレド』の旋律に合わせて『六段』の初段と二段の音符を割り振る形で、『クレド』第一番の伴奏譜を作成した。1557年頃の豊後府内でどの『クレド』が歌われていたのかを特定すること、断定することは非常に難しい。イエズス会の記録に『クレド』が歌われていたとの記述はあるが、それがどの『クレド』,何番の『クレド』とまでは言及していない。時代的に見て、1557年当時、日本で【豊後府内あるいは山口で】歌われていた可能性が最も高いのが11世紀頃から典礼に採用されて歌われている『クレド』第一番と考えられる。他の可能性もあるので、時代的に矛盾しない『クレド第三番』、『クレド第四番』にも『六段』を割り振った。 

箏曲『六段』はディフェレンシアス(変奏曲)なのか?
箏曲『六段』は日本の箏曲・伝統音楽の中で特に広く知られ親しまれている。『六段』の構成が変奏曲、16世紀スペインの「ディフェレンシアス」に類以している事、
【変奏曲Diferenciasは主題が最初から変奏されて提示され、6つの変奏の形式をとる】
それゆえに、箏曲『六段』も同じ形を持っていることが以前から指摘されてきた。しかし、本当に『六段』は『ディフェレンシアス』と同じ形式を有するのだろうか?『六段』だけが『ディファレンシアス』と類似していたのだろうか?では他の『段物』の形式と『ディフェレンシアス』の関係をどの様に説明するのだろうか?重ねてたずねるが他の段物、5段や7段、8段との『ディファレンシアス』との関係をどの様に説明するのだろうか?たまたま『六段』と言う段物が『ディフェレンシアス・6つの変奏の形式』と言う形式と似通った形を有すると解釈していたのではないかと結論付けられる。 

『六段』という段物の原曲が『聖母マリアのミサ曲の通常文』の中の『クレド』だったこと、『クレド』の3種類の独立した伴奏譜だったことが明らかになった今『ディフェレンシアス』との関係は無かったと言うことができる。 

ロレンソ了斎は『クレド』の伴奏のために独立した3種類の伴奏譜を書いていた。第1の伴奏譜は初段と2段、第2の伴奏譜は3段と4段、第3の伴奏譜は5段と6段、3種類の独立した伴奏譜を作曲したと考えられる。 

ロレンソ了斎の時代の『クレド』の演奏方法
皆川氏により『六段』が『クレド』の伴奏譜と判ったときは「クレドを続けて3度繰り返す」と考えていたが、研究が進むにつれて,琉球箏曲七段が『聖母マリアの祝祭日、通常文第1ミサ、キリエ・エレイソン、主よ、憐れみたまえ』、本土の箏曲・五段『ミサ通常文第1・聖母マリアの祝祭日より・Sanctus 』、八段『ミサ通常文第1・聖母マリアの祝祭日より・Agnus Dei』、九段『ミサ通常文第1・聖母マリアの祝祭日より・グローリア・Gloria』と判明した。

ミサにおいて歌われる各歌は繰り返しなしで歌われるのが普通である。通常ミサにおいては、『キリエ・エレイソン』『グローリア』『クレド』『サンクトゥス』『アニュス・デイ』は1回だけ歌われる。従って、ミサにおいて『クレド』も通常は1回だけ歌われていたはずである。

その様に考えると、ロレンソ了斎は3種類の『クレド』の伴奏譜を作ったと考えられ、初段の冒頭にある序奏(テーントンシャン)が3段と5段の冒頭にも存在している。同様に六段目と同じ結尾(コーダ・アーメン)が2段と4段にも存在している。

諸田賢順はロレンソ了斎から教えられたとおり、『クレド』の伴奏譜の音を何一つ省略することなく『六段』と言う段物に形と姿を整えたと考えられる。 

使用した楽譜の出典は『グラドゥアーレ・トリプレクス・Graduale Triplex 』(1979年ソレム修道院出版) 64~66頁、Credo・クレド・第1番、第4ヒポフリギア教会旋法。 
*カトリック聖歌伴奏譜 266~269頁 光明社

『クレド』の楽譜化と演奏の再現化
グレゴリオ聖歌『クレド』【信仰宣言】の旋律と歌い方はこの400年間変わっていないとの前提の上にグレゴリオ聖歌『クレド』の旋律に合わせて『六段』の音符を割り振る形で楽譜化すると、『クレド』の旋律に合わせて極端に『六段』が延びる箇所と極端に音符が詰まる箇所ができるという音楽的問題が生じる。現在箏曲で演奏されている『六段』の音符の間隔がある個所では倍の長さに延び、ある個所は音符が極端に詰まってしまう。おそらく1614年以来の禁教令により『六段』が『クレド』の旋律と歌詞を失った時から、伴奏譜としての『六段』がより自由になり、旋律に合わせて間延びしていた音と音との間隔が、音楽性を保持するために感覚的に縮んだり伸びたりして変化していき,徐々に整えられて独立したひとつの楽曲となっていったのではないだろうか。 

ロレンソ了斎から教えられた諸田賢順が、『クレド』の伴奏譜を今の形の『六段』に整えた可能性は非常に高い。なぜなら、賢順が53歳の時、1587年(天正15)、多久安順より多久に招かれて、安順の妻『千鶴姫』に箏を教授する役目を仰せつかり、多久梶峰城の下に屋敷が与えられ住むことになった。しかし、時代はキリシタン禁教に向かって徐々に進み始め、キリシタン信仰の故に殉教する人達が増えてきた。これらの殉教報告を受けて、賢順はロレンソ了斎から学んだグレゴリオ聖歌の伴奏譜の取り扱いをどの様に考えただろうか?

これら多くの殉教報告を聞いた賢順は、自分の受け継いだ音楽がキリシタンと深く関係していることを知っているが故に、玄恕に段物の本当の意味を知らせることは、幼い玄恕にとって命を危険にさらすことになる故に『段物』と言う音楽の形だけを継承させたと考えられる。 

賢順が玄恕に段物を伝えた時、すでにキリシタン音楽と判らなくするために、すでに現在の『六段』の形に姿を変えて伝えたと考察推測される。 

門弟の玄恕を経て、八橋検校(1614~1685)へ伝えられた時には、すでに現在の『六段』の形に姿を変えた楽曲を継承させたと思われる。あるいは八橋検校がクレドの伴奏譜を独立した楽曲『六段』の演奏スタイル(速度を速たり、ゆっくりした個所の指定等)を現在の演奏スタイルに確立したのかもしれない。それゆえに『六段』は八橋検校作曲と言い伝えられたのであろう。 

最も日本的と考えられていた琉球箏曲『管撹六段』と箏曲『六段』を元の姿に返したとき、フランシスコ・ザビエルからグレゴリオ聖歌を学んだロレンソ了斎の心の中に入り込んで留まり、徐々に熟成され、ある時を経て『クレド』の日本的伴奏譜となって結晶した。ロレンソ了斎の心の中で西洋音楽と日本音楽が出会い邂逅して混ざり合い、徐々に時間の純化を経て新たな形として姿を現した。『管撹六段』と『六段』の中に『クレド』を見出し、ロレンソ了斎の『クレドに付けた伴奏』の姿を再現できたとき、キリシタン音楽が日本音楽と初めて融合した1550年当時の姿の残り香を感じることができるのではないだろうか。 

キリスト教が1549年に日本に入ってきてわずか20年の間のなかに、諸田賢順が大友宗麟の招きで豊後府内に在住した1556年~1569年(弘治2年~永禄12年)の14年がある。

1556年、府内に於いて諸田賢順は日本人で初めてイルマン・修道士になったロレンソ了斎・元琵琶法師に出会い、ロレンソ了斎から西洋音楽である『クレドとその伴奏』を学び記譜をした。諸田賢順の府内で過ごした時期はキリスト教会の発展の時期と重なっている。その後、諸田賢順は1569年(永禄12)に豊後府内から郷里の佐嘉南里に戻り17年を三根の東津で過ごし、1587年(天正15)9月、多久邑主多久安順に招きで多久に移住、1623年(元和9)7月13日、多久に於いて90年の生涯を閉じた。 

琉球箏曲『管撹六段』と箏曲『六段』は日本が誇る音楽文化遺産である。たとえそれがグレゴリオ聖歌の影響を受けて生まれたとしても『六段』の真価を何一つ傷つけるものではなく、むしろ1550年代の日本に入ってきた西洋音楽文化が日本音楽の中に融合してひとつの形を生み、『六段』という作品に結実した。『六段』における『クレド』との融合の存在意義は限りなく深く尊いと考える。 

歴史の中でキリシタン音楽『クレド』は1614年の禁教令のために表面的には歌われなくなり消えていき、一方の『クレドの伴奏譜』は独立した器樂曲『六段』となって受け継がれていったことを考えると、音楽の世界においても1550年にキリスト教が日本に来た時に、西洋音楽(教会旋法)と日本音楽(5音階旋法)の奇跡のような出会いがあり、その後このことに携わった人々や音楽が辿った全く違うそれぞれの道にはとても深い意味と神の深遠な摂理が存在する。460年の時を経て、今神は長い間隠しておられた真実を明らかにされようとしておられる。こののち、この段物の解明に携わる人々は,神の聖なる領域の問題として敬虔にこの問題と向かい合わなければならない。 

演奏上の問題点
『クレド第1番』は第4ヒポフリギア教会旋法によって書かれている。教会旋法は、古代ギリシャ音楽に源を持ち中世の教会で発展して、現代の長調や短調とも違う教会独自の旋法である。

ヒポフリギア教会旋法とはミ【E】の音を終止音として、終止音上の5度を中心として、その下に広がる音域をもつ旋法である。終止音とは、曲が終止する音であり、ラ【A】の音を属音と呼び旋律の流れの中心となる音である。音階は、シドレミ【終止音】ファソラ【属音】シ、により構成されている。

『六段』の平調子【平調律】は箏の最も基本的で最も多く使われる調弦法。日本の音階はミ【E】を基本音として、ラシドミファの5の音により音階が構成されていて、現代音階で言う、レ【D】とソ【G】の音が抜けている。(俗に言う『四七抜きの音階』)
『六段』の平調子から、四、六、九、斗の弦を半音あげると『クレド』の音階と一致する。

全ての筝曲の段物をグレゴリオ聖歌の教会旋法と同じ音階にしようとすると『平調子』から『乃木調子』にする必要がある。『乃木調子』の音階に、教会旋法の半音になっている音と同じ音を半音にすることで音階が統一される。 

琉球箏曲『六段菅撹』と箏曲『六段』との違い
グレゴリオ聖歌『クレド』の旋律と対比させた時に、琉球箏曲六段菅撹の方が、本土の箏曲六段よりも、旋律的にも調性的にも音楽的にクレドの旋律に馴染むことは否めない事実である。

*琉球箏曲『管撹六段』と箏曲『六段』の比較楽譜参照 

琉球箏曲六段菅撹と箏曲六段を小節ごとに比べた場合、琉球箏曲六段菅撹の方が単純(シンプル)に書かれていて、箏曲六段(本土)は、同じ小節の同じ音に装飾された形が至る所に見受けられる。装飾された形が示していることは、初めは単純な音の形だった曲が、音を装飾させることにより、より華やかに演奏しようとしたことの現われと考えられる。 

琉球箏曲六段菅撹の陽調性と箏曲六段の陰調性の問題点
おそらく、諸田賢順から玄恕、玄恕から八橋検校、八橋検校から吉部座頭,吉部座頭から薩摩藩士・服部清左衛門政真、武右衛門政実父子へ継承され、1700年(元禄13年)稲嶺盛淳(いなみねせいじゅん・生没年不明)が薩摩に派遣され、薩摩藩士・服部清左衛門政真、武右衛門政実父子から八橋流筝曲の演奏法を学んで帰国した時まで『六段』を含めて『すべての段物』は、琉球箏曲に伝えられている陽の調性ではなかったかと推測される。本土ではその後1700年代の元禄時代、上方で流行した陰の調性の影響を受けて『段物』にも手が加えられ、現在の『段物』の調性に変えられていったのではないかと考えられる。 

*グレゴリオ聖歌『クレド』と琉球箏曲『管撹六段』と箏曲『管撹六段』との比較楽譜参照
『クレド』の旋律に対して琉球箏曲『管撹六段』と箏曲『六段』との比較楽譜により、クレドの旋律に対して、どの様に『管撹六段』が割り振られているか。『六段』が割り振られているかが一目瞭然に判るように,3曲の対比楽譜を作成した。 

『七段管撹』
原曲『ミサ通常文第一・聖母マリアの祝祭日より・キリエ・Kyrie』
『喜びを持って・Cum jubilo』 

七段管撹は各段のばらつきが多く、旋律に対しても、ラテン語分節に対しても一定の法則を持っていない。しかし小節数からある一定の区分け方が見えてくる。

*小節数の多い少ないにかかわらず各段に対してキリエの旋律は1度だけ歌う。

少ない小節:六段19小節、四段20小節、
中庸の形 :五段23小節
ほぼ同じ形:三段25小節、二段26小節、
数の多い形:一段28小節、*七段31小節
*特に七段31小節については(24小節2拍休み、25小節3拍休み、28小節4拍休みを省いて続けて演奏する)
 

なぜこのように多くの休み【休符】が挿入されたのか解らないが、楽譜の構成から考えて、諸田賢順が『キリエ・7段』の伴奏譜を編集した時には、このような多くの休み【休符】はなかったと考えられる。このことは『キリエ』の旋律と7段の楽譜を再生する過程で、多くの休み【休符】を省くことで旋律に対して段物の音が綺麗に入ることで楽譜が成立することで証明される。いつの時点でこの多くの休み【休符】が挿入されたか判らないが、おそらく琉球に伝わった時点から徐々に(休符)が増えたのではないだろうか?

 カトリック教会のミサ典礼における、ミサ通常文第1・第9番目のミサ『聖母マリアの祝祭日』のための第1曲・『Kyrie eleison・キリエ・エレイソン・主よ、憐れみたまえ』『喜びを持って・Cum jubilo』12世紀頃から歌われている。 

『Missa・ミサ』と言う言葉の語源は、ラテン語の動詞「Mittere 送る」に由来している。ミサ聖祭の終わりに司祭が継げる言葉「Ite,missa est イテ・ミッサ・エスト・行きなさい、あなた方は遣わされています」に由来する。 

ミサはカトリック教会の典礼で聖務日課(現:教会の祈り)と共に中心的な礼拝で、イエス・キリストが最後の晩餐で定められたキリストの御血と御肉の象徴であるぶどう酒とパンとによって、キリストの受難と復活を記念する聖体祭儀である。
ミサには、日曜のミサである『主日のミサ』、典礼暦の『祝祭日のためのミサ』、『聖人のミサ』、『記念日のミサ』、『冠婚葬祭のミサ』等がある。 

ミサでは様々な祈りや歌が捧げられるが、ミサ式文は、原則として一年を通して変わらない言葉の部分の『通常文・Ordinarium missae (通称ordinarium オルディナリウム)』と、日によって言葉が変わる部分の『固有文・Proprium missae (通称oroprium プロプリウム)』によって構成されている。固有文は主日や祝祭日の特徴を表し、祝日や典礼の季節に応じて変わって行く。通常文、固有文は、聖職者によって唱えられる。もしくは歌われるものと聖歌隊によって歌われるものとに区別されている。そのうち原則として、聖歌隊によって歌われるものに限り、通常文を挙げると以下のようになっている。 

・通常文(唱)キリエ、グローリア、クレド、サンクトゥス、アニュス・デイ、14世紀以降、通常文(唱)のキリエ、グローリア、クレド、サンクトゥス、アニュス・デイの5つを一組としてミサで歌われるようになった。多くの作曲家により多声ミサ曲として作曲されるようになり、今日に至っている。 

『キリエ・Kyrie』現:あわれみの讃歌
『Kyrie eleison』 ギリシャ語で『主よ、憐れみたまえ』の意味。『Kyrie』はギリシャ語の(Kyrios・主)の呼格をラテン語読みしたもので『主よ』を意味する。

東方教会の伝統を引き継ぎ、ギリシャ語の典礼に残っている、御父、御子、聖霊に憐れみを求める祈り。初代キリスト教会時代からの伝統に従い『キリエ・エレイソン』『クリステ・エレイソン』『キリエ・エレイソン』の各フレーズを各3回、計9回唱えていた。曲は12世紀頃から歌われているミサ曲。 

使用した楽譜の出典は『グラドゥアーレ・トリプレクス・Graduale Triplex 』(1979年ソレム修道院出版) 40頁、ミサ通常文第1・第9番目のミサ『聖母マリアの祝祭日』(IX In festis B. Mariae Virginis 1)(Cum jubilo・喜びを持って)単純調(tonus simplex )
*カトリック聖歌伴奏譜 256~257頁 光明社

原調は第1旋法ドリア旋法による。はじめの音はD音。 

伴奏譜としての琉球箏曲『瀧落管撹第七段』の本調子の調性G音とは、1音のズレがあるため、グレゴリオ聖歌の旋律を1音上げてE音から始まるように書き直す必要がある。書き直した曲の調性はホ短調(e♭minor)に近くなり、F音に#が付く。

原調の第1旋法のドリア旋法による『キリエ・エレイソン』は、荘厳で重厚な調性を持ち,ニ短調(d minor )に近い調性を持っている。 

ロレンソ了斎は『ミサ通常文第一・聖母マリアの祝祭日より・キリエ・Kyrie』の旋律に伴奏を付け、それが段物の『琉球箏曲七段・七段管撹』に相当する。 

*原曲『キリエ・エレイソン』の初めの音はD音レから始まっているので、そのままの調性では1音のズレがあるため、グレゴリオ聖歌の旋律を1音上げてE音から始まるように書き直して筝曲七段菅撹に合わせた。調性としては#がF音にひとつ付くト長調であるが、E音から始まっているのでホ短調(e♭ minor)に近い音階の調性である。 

『ミサ通常文第1・聖母マリアの祝祭日より・キリエ・Kyrie』『喜びを持って・Cum jubilo』の旋律は12世紀頃から歌われているあまりにも有名な旋律であり、多くの作曲家たちが、この旋律を用いてミサ曲を書いている。同じ時代、特に有名なミサ曲は、ジローラモ・フレスコバルディ(Girolamo Frescobaldi 1583~1643)が1635年にローマで出版された『音楽の花束』の中の『聖母のミサ曲』である。オルガン・ミサ曲の冒頭『キリエ』には『聖母マリアの祝祭日用第1の『キリエ』『喜びを持って・Cum jubilo』が使用されている。

 


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