『筝曲六段と琉球筝曲六段菅撹』の同一性について


2020年5月 全国かくれキリシタン会誌28号掲載 投稿論文

『筝曲六段』と『琉球筝曲六段菅撹』の同一性について                    

第1章     筝曲六段とグレゴリオ聖歌・クレド(信仰宣言)

1 筝曲六段とグレゴリオ聖歌・クレド 
筝曲「六段」とグレゴリオ聖歌の「クレド・信仰宣言」の同時演奏が可能ではないかということに気付かれたのは、福岡県大牟田市在住の故坪井光枝氏(2012年2月死去)だった。坪井光枝氏は1995年頃には「六段とクレド第三番」が同時演奏できること、作曲者は定説の八橋検校ではなく「筑紫箏の始祖・諸田賢順」ではないか、『諸田賢順はキリシタンではないか』との仮説に基づき調査を開始された。幸い同市(大牟田市)在住の諸田賢順直系の子孫、故諸田素子氏(2012年8月死去)と知り合い、諸田素子氏の従兄弟であり同じく諸田賢順の子孫、諸田賢順研究家である福岡市西区今宿在住の故山崎拓治氏(2012年10月死去)と共に3人で『諸田系志』『諸田家系図』に記載されている各地を調査された。

調査の過程で、佐賀県多久市小侍にある諸田賢順の墓地の調査を、かくれキリシタン研究家の天草有明町サンタマリア館館長の濱崎献作氏に依頼したが、濱崎氏は都合がつかずに、大分県宇佐市在住の故入学正敏氏が代わりに調査した。山崎拓治氏は調査結果を諸田賢順子孫の視点から考察して1999年11月に『諸田賢順・筑紫箏の始祖』を自費出版された。『諸田賢順・筑紫箏の始祖』は「諸田賢順」に関して非常に貴重な資料や諸田家に伝わる伝承も取り上げていて、賢順の伝記としても価値の高い本である。 

坪井光枝氏は調査された結果を2001年12月『箏の祖・賢順』という論文にまとめられた。この論文『箏の祖・賢順』は2006年10月に開催された沢井筝曲院のリサイタル『箏を聴く・大牟田宮部に生まれた琴の祖賢順を記念して』のプログラムの中で発表された。

坪井光枝氏はこの論文で、諸田賢順をキリシタンとして考えているが、その延長線上で後にNHK佐賀支局製作のドキュメント番組『箏の祖・賢順』が制作された。2006年、坪井光枝氏は「六段とクレド」の音楽的関係の考察を
キリシタン音楽の専門家である皆川達夫氏に依頼したが、皆川氏は坪井光枝氏の指摘の意味を理解することができずに返事を保留したまま3年後の2009年に坪井光枝氏の指摘を思い出して改めて検討を開始して初めて事の重大さを認識された。2010年10月『邦楽ジャーナル』に特集が組まれて『六段はキリシタンの音楽だった』との題で、坪井光枝『筝の祖 賢順が聴いた音楽・作った音楽』、皆川達夫『聖歌クレドと合致する六段の調べ』を発表され2人の論文が並んで紙面を飾った。2人の論文は大きな驚きを邦楽の世界にもたらし邦楽界においてそれまでの定説と歴史を覆す研究として反響を呼んだ。2013年3月、皆川達夫氏はCD『筝曲六段とグレゴリオ聖歌クレド』を出され「六段とクレド」の音楽的相関関係を実証された。2014年3月、皆川達夫氏は『洋楽渡来考再論・箏とキリシタンとの出会い』を日本キリスト教団出版局から出版。本の第3章で『筝曲『六段』の成立に関する一試論・日本伝統音楽とキリシタン音楽との出会い』を解説され、グレゴリオ聖歌「クレドの第1番~第6番」と「筝曲六段」の比較楽譜も示された。

坪井氏から2011年9月から12月にかけて「筝曲六段とクレド」に関して、坪井氏の考えと意見を電話で聞く機会を得た。12月に坪井光枝氏は、皆川氏の作成されたCD『筝曲六段とグレゴリオ聖歌クレド』を事前に聴いて、その演奏について「皆川氏の演奏は、自分の演奏しているクレドと六段とは、まったく違う演奏をしている。自分の演奏ではクレドの旋律と六段の各段は正確に合うのに、CDでは六段がそのままの形で演奏されているために、クレドの旋律が強引に当て込まれている。これでは正しいクレドと六段の演奏とは言えない。クレドの旋律に合わせて六段の音を割り振ることでクレドと六段は成立する」と死去前に電話で不満を漏らしていた。CDの演奏ではクレドの旋律が六段の演奏に合わせるために変形されていた。400年前の日本ではこのような歌い方をしていたのだろうかと疑問に思ったし、グレゴリオ聖歌のクレドを歌い慣れている私でさえ、このクレドの旋律の歌い方と演奏には違和感を覚えた。坪井氏から最後に「六段とクレドの音楽的関係の証明」と「諸田賢順がキリシタンだった」との解明を託された。依頼を受けるにあたって坪井氏に「六段とクレドの証明された楽譜」の提出をお願いしたが、理由を明かさずに断られた。その時すでに坪井光枝氏は乳癌末期の状態だったので、残念ながら坪井氏ご自身が歌いながら箏を弾いて録音を残すこともできない状態だった。まして楽譜に書き残すこともできなかった。それで、すべての「クレドと六段」の関係の証明を、皆川氏とは真逆の位置から音楽的に証明することを託された。「証明された六段とクレドの楽譜」がいただけない限り研究は進められない。この段階で「六段とクレドの研究」は棚上げになった。

2013年2月、熊本県菊池市を会場として同年秋開催の「全国かくれキリシタン大会」に講師として坪井光枝氏を招聘することになり、大牟田市の坪井光枝氏に連絡を取った所、坪井光枝氏は,先年2012年2月に他界されたとのこと。坪井宅には坪井光枝氏が収集された資料や文献が残されていて、御主人の坪井徹氏にお願いして残されていた資料文献を2013年4月に譲り受けてきた。
坪井光枝氏の残された資料の中に福岡市西区今宿の山崎拓治氏から譲り受けた多くの文献があり、山崎拓治氏が『諸田賢順』についての本を出版されたことが判ったので急いで山崎拓治氏に連絡をしたが、すでに山崎拓治氏は2012年10月に他界されたとのこと、奥様の景子様から山崎拓治氏が収集した資料や文献をこれからの諸田賢順研究の役に立ててほしいと言って頂けたので、2013年6月に福岡市今宿の山崎氏宅に伺って謹んで山崎氏の貴重な資料を貰い受けた。

諸田賢順に関しての研究資料をお二人から頂くことができた矢先、自分が体調不良のために約1年間闘病生活を送ることになった。入院生活の間に貰い受けた貴重な史料を整理して、生前坪井光枝氏がクレドと六段についてどのような形の演奏をしていたかが推測できた。

つまりクレドの旋律はそのままで歌われていた。クレドの旋律に対して六段を割り振る形で、初段と2段。3段と4段。5段と6段を、クレドの旋律に対して割り振られていたと考えた。つまりクレドの旋律はそのままで、その旋律に沿って、六段の音を割り振る作業が求められている。皆川氏の作られた楽譜に相反する楽譜を作ること。真逆の楽譜を作ることは大変な作業になった。「クレドと六段」の音楽的な証明とともに「六段を作ったのはだれか?本当に諸田賢順なのか?」「諸田賢順はキリシタンだったのか?」。今一度諸田賢順の不明瞭な生涯の歴史的事柄との整合性の確認から賢順の生涯の再構築をして、諸田賢順という人物の本当の姿がわからなくては何も証明ができないと思い、すべてを振出しに戻して「クレドと六段」の音楽の関係研究と「諸田賢順の生涯に関しての歴史調査」も最初から始めた。 

2 真逆の音楽の証明の方法
皆川氏のCDの証明方法しか音楽的解決策は存在しないのだろうか?上記の文献を参考にCDの演奏とは正反対の考え方に基づき、グレゴリオ聖歌「クレド」(信仰宣言)の旋律の歌い方は今も400年間前のキリシタン時代と変わっていないとの前提の上に「クレド」の旋律に合わせて「六段」の初段と2段の音符を割り振る形で「クレド第一番の伴奏譜」を作成した。1557年(弘治3)頃の豊後府内でどの「クレド」が歌われていたのかを特定すること断定することは非常に難しい。イエズス会の記録に「クレド」が歌われていたとの記述はあるが、それがどの「クレド」,何番の「クレド」とまでは言及していない。時代的に見て1557年(弘治3)当時、日本で(豊後府内あるいは山口で)歌われていた可能性が最も高いのが11世紀から典礼に採用されて歌われている「クレド第一番」と考えられる。「クレド」(信仰宣言)の旋律はこの400年間変わっていないとの前提の上に「クレド」の旋律に合わせて「六段」の音符を割り振る形で伴奏譜として楽譜化した。「クレド」の旋律に合わせて「六段」を和声的に展開したら極端に「六段」が延びる箇所と極端に音符が詰まる箇所ができるという音楽的問題が生じる。現在箏曲で演奏されている「六段」の音符の間隔の長さに延び縮みができてしまい、ある個所は音符が極端に詰まってしまう。おそらく1614年(慶長19)以後のキリスト教禁教令により「六段」が「クレドの旋律と歌詞」を失った時から、伴奏譜としての「六段」がより自由になり、旋律に合わせて間延びしていた音と音との間隔が音楽性を保持するために感覚的に縮めて曲としての形を整え変化していき,諸田賢順により徐々に整えられて独立したひとつの楽曲・段物の形に整えられていったと考えられる。 

3 皆川氏の作成された「クレドと六段」の比較楽譜の四つの矛盾点
*皆川達夫『洋楽渡来考再論』日本キリスト教教団出版局、129~131頁より。
坪井氏の指摘に従いクレドと六段の楽譜化をしてみると、皆川氏の作られた楽譜には多くの矛盾した箇所があることがわかってきた。筝曲の楽譜「六段」の5線譜化からして間違っている。また和声の展開に関しても多くの間違いがあることがわかった。 

①   筝曲六段の5線譜化においての音の間違い
CD解説文と『洋楽渡来考再論』に「クレドと六段」との対照楽譜が掲載されていたが「六段」の最初の音がミ(E音)になっている。箏譜面の「六段」は平調子で5の音になっているので3度高いソ(G音)から始まるはずである.伴奏譜である「六段」全てが3度低く書かれているのは根本的な間違いである。460年前「クレド」が歌われていた当時、伴奏がE音を出して、信徒が3度高いG音から歌いだしていたのだろうか?「日本人は和声を取ることが難しく困難である。」とのイエズス会の報告を読むとき、伴奏の琵琶、あるいはヴィオラス・デ・アルコ(violas de arco)で歌う旋律をなぞっていたとの記述のとおり曲の初めと同じ音を出していたと考える方が自然だと思われる。 

②   3段目と5段目の冒頭「Cred in Deum」の存在
初段目の冒頭「Credo in Deum」の先唱は、3段目の冒頭と5段目の冒頭にも存在が確認される。この3段目と5段目の第1小節「Cred in Deum」は音楽的にも和声的にも3段目と5段目の第1小節に合うことが証明されている。

2段目と4段目、6段目の第26小節に「アーメン」が存在する事実と、3段目と5段目の第1小節に先唱「Cred in unum Deum」が存在する事実から、ロレンソ了斎が「クレドの伴奏譜」を作った時には3種類独立した「クレド」の伴奏譜を作ったと結論することができる。 

③   2段目と4段目の「アーメン」の存在
また皆川氏は「クレド」は3度繰り返して歌っていたとの見解を示しているが「六段とクレド」の対比楽譜を和声的に作った結果、皆川氏の主張されている2段目、4段目の省略されているはずの「アーメン」が楽譜の中に存在していた。正確に言えば2段目の26小節、4段目の26小節が、6段目の26小節とともに「アーメン」に該当している。また三段目と五段目の冒頭部分の「Cred in unum Deum」の第1小節を、3段目と5段目の第2小節から始めていることと、2段目の26小節、4段目の26小節の「アーメン」を2段目と4段目に入れ込んだことで和声的な展開が正しくないことは明白な事実で、2段と4段目の第26小節、3段と5段目の第1小節を、2段目と4段目に、3段目と5段目に1小節ずつ多く詰め込んだことで不協和音を多くする結果となっていて本来クレドの旋律に対して美しく響くはずの和声が姿を消している。 

④ *(洋楽渡来考再論)の楽譜の不明部分 (不明部分の提示楽譜を参照のこと)
皆川氏の作成した楽譜(洋楽渡来考再論)129~131頁の6段目、154小節2拍目から2小節に渡って不明になっていて、154小節目3三拍目が行き成り「アーメン」に持ち込まれている。2小節にわたって六段の音が存在していない不明な楽譜でどうすれば演奏ができるのか?完全に和声的展開の失敗を、強引に辻褄合わせをしていることは楽譜上からも指摘できる。なぜこのような展開ができるのか理解できない。これではクレドの正しい伴奏譜とは言えないと考える。この箇所について皆川氏は(洋楽渡来考再論)の92頁で「ただし筝曲の六段目に対応するクレド後半部分の結びの歌詞(Et exspecto 以下)は省略され筝曲の結尾と「アーメン」とが対応する。」と不可解で理解不能な説明をしている。なぜ「Et exapecto resurrectionem」までは伴奏があるのに「mortuorum.Et vitam venturi saeculi 」には伴奏がつけられずに省略されるのか。 (洋楽渡来考再論)129~131頁の六段目の154小節に注目して、理解しやすいように楽譜を簡略化して提示する。クレド一番の旋律と六段の伴奏譜だけに簡略化して見ると128~129頁にかけてのクレドの歌詞「Et exspecto resurrectionem」までは伴奏があるが、次の130頁の部分、歌詞「mortuorum. Et vitam venturi saeculi.」には伴奏がまったくないことがわかる。131頁の「Amen」になって伴奏は復活している。

洋学渡来考再論 129~131頁

4 筝曲六段は ディフェレンシアス(変奏曲)なのか?
(Diferencias*変奏曲は主題が最初から変奏されて提示され、6つの変奏の形式をとる) 

箏曲『六段』は日本の箏曲・伝統音楽の中で特に広く知られ親しまれている。「六段」の構成が変奏曲・16世紀スペインの「*ディフェレンシアス」に類以している事、それゆえに、箏曲「六段」も同じ形を持っていることが以前から指摘されてきた。しかし本当に「六段」は「ディフェレンシアス」と同じ形式を有するのだろうか。「六段」だけが「ディファレンシアス」と類似しているのだろうか?では他の「段物」の形式と「ディフェレンシアス」の関係をどの様に説明するのだろうか?重ねて尋ねるが他の段物、5段や7段、8段や9段との「ディファレンシアス」との関係をどの様に説明するのだろうか。たまたま「六段」と言う段物が「ディフェレンシアス・6つの変奏の形式」と言う形式と似通った形を有すると解釈していただけではない
かと結論付けられる。「六段」という段物の原曲が「聖母マリアのミサ曲通常文第1」の中の「クレド」だったこと「クレド」の3種類の独立した伴奏譜だったことが明らかになった今「ディフェレンシアス」との関係は無かったと言うことができる。ロレンソ了斎は「クレド」の伴奏のために独立した3種類の伴奏譜を書いていた。第1の伴奏譜は初段と2段、第2の伴奏譜は3段と4段、第3の伴奏譜は5段と6段、3種類の独立した伴奏譜を作曲したと考えられる。

5 六段の本当の姿
皆川氏により「六段」が「クレド」の伴奏譜と判ったときは「クレドを続けて3度繰り返す」と主張されたが、研究が進むにつれて,クレドの旋律に対して六段の音を和声的に割り振ったところ、2段目の26小節、4段目の26小節が「アーメン」に当てはまることが楽譜から証明された。また3段目と5段目の冒頭の第1小節「先唱・Credo in unum Deum」も楽譜の中に存在していた。3段目と5段目の第1小節が「Credo in unum Deum」に合致する。音楽的にも和声的にも両者は矛盾なく合致する。また2段目と4段目の26小節「アーメン」も存在している。それ故にロレンソ了斎は3種類の独立した「クレド」の伴奏譜を作っていたと考えることができる。長大な「クレド」をミサの中で3回も繰り返して歌っていたのではないことが証明された。

      第2章『クレド・Credo・信仰宣言』

1 クレド・信仰宣言について
信仰宣言とも使徒信条とも呼ばれる、キリスト教信者がキリストに対する自分の信仰を告白するときに唱える信条。カトリック教会のミサ典礼における、ミサ通常文の第3番目に唱えられる「信仰宣言・クレド」。「会衆が神の言葉に応えて信仰の規範を思い起こし、信仰を新たにするために,信条を唱えること」と規定されている。司祭が「われは信ず、唯一の神Credo in unum Deum」と唱えて歌い出し、信者達が「全能の神Patrem omnipotentem」と続く。前半部では創造主である父なる全能の神と、人間の姿で誕生して十字架の上で我らの罪をあがない給うたイエス・キリストへの信仰を、後半部では死に勝利したキリストの復活、父と子と三位一体の聖霊への信仰告白を荘厳な旋律に乗せて歌っていく。旋律は11世紀に成立した。460年前の府内で歌われていたグレゴリオ聖歌は紛れもない現在も歌われている聖歌と同じものであり、クレドも11世紀に作られた「クレド1番」が歌われていた。 

信仰宣言【クレド】
私は天地の造り主、全能の父なる神を信じます。私はその独り子、私たちの主、イエス・キリストを信じます。主は聖霊によってやどり、おとめマリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ,蔭府(よみ)にくだり、三日目に死人の内よりよみがえり、天に上り、全能の父なる神の右に座しておられます。かしこより来り生きている者と死んだ者とを裁かれます。私は聖霊を信じます。聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪の許し、体のよみがえり、とこしえの命を信じます。アーメン 

2 クレド・信仰宣言の歴史的成立過程
信仰宣言とは、イエス・キリストの弟子たちの時代から使徒時代を経て、初代キリスト教会時代へと信仰の基本は色々な形でまとめられてきたが、洗礼の確立と共に信徒になる人の信条の告白も定式化されていった。洗礼を受けるに先立ち、洗礼志願者にキリスト者の秘儀が伝えられ、志願者は共同体(教会)の面前でそれを唱え返す式があった。更に洗礼そのものが『父と子と聖霊を信じます』と言う信仰表明の後に授けられた。215年、ローマの『ヒッポリュトスの使徒伝承』の時代には、この形式は確立されていた。325年、ニカイア(現・トルコのイズニクIznik )で開催された第1回公会議で信条が作成され、381年、コンスタンティノポリス(現・トルコのイスタンブール)で開催された公会議において『聖霊に関する補足』が補足付加されて『ニカイア・コンスタンティノポリス信条』の式文が成立して、教会で唱えられ、ラテン語聖歌の旋律によって歌われてきた。東方教会では568年、皇帝ユスティニアヌス二世の命令で、『主の祈り』の前に『ニカイア・コンスタンティノポリス信条』を歌うことが義務付けられた。西方教会でもスペインとガリアで6世紀終わりころから、この信条を歌うように決められた。信条を歌う習慣は9世紀にアイルランドで広まり,福音書の朗読の後に歌うようになった。イングランドを経てドイツに入り、ヨーロッパ全域の教会において習慣化された。1014年、皇帝ハインリヒ二世が戴冠式のためにローマに行き、主日と大祝日にニカイア・コンスタンティノポリス信条を唱えることを西方教会に義務付け、以後西方教会全域において信条が正式に典礼に組込まれた。 

3 クレド旋律の音楽的成立過程
「ニカイア・コンスタンティノポリス信条」による「クレド」を歌うラテン語聖歌には、中世に作成された写本の中には8種類の旋律が確認されている。1974年に出版された現行のグレゴリオ聖歌集『グラドゥアーレ・ロマーヌムGraduale Romanum 』には11世紀から17世紀に作られた6種類の旋律がネウマ楽譜(4線譜)付で記載されている。 

クレド旋律の成立年代
1番11世紀。2番記載なし。3番17世紀。4番15世紀。5番17世紀。6番11世紀。

教会旋法別の分類
6種類の旋律はそれぞれが教会旋法によって、固有の旋律を持っている。6種類の旋律を教会旋法ごとに分けると、3種類の教会旋法に分類できる。

第4旋法ヒポフリギア旋法、第1番、第2番、第5番、第6番、
第5旋法リディア旋法、第3番、
第1旋法ドリア旋法、第4番、

第4旋法のヒポフリギア旋法による4種類の旋律は基本的には極めて類似した旋律であり、類似した旋律の上にそれぞれが独自の装飾的な動きを旋律内に持っている。つまり11世紀に作られた第1番の旋律が基本の旋律であり、第2番、第5番、第6番の3種類の旋律は第1番旋律の変形であり、中世の時代に広範囲の地域において歌われていた第1番旋律が、時代的地域的変遷を経て伝承され変形して定着した相違によると考えられる。

「クレド」の旋律の中で「Authenticus=正統的・基準的・本来的」とされてきたのが、第1番の第四旋法ヒポフリジア旋法による旋律である。年代的にも1番古く11世紀に成立したと言われている。6種類の旋律はそれぞれが属する旋法に応じた動きや装飾的音符の長さの違い等があるが、言葉からくる制約や音楽的区切り方等から比較した場合、構造的には同一の形式に統一される。

第5旋法のリディア旋法による第3番は、第四旋法のヒポフリジア旋法の4曲とは旋法そのものが持っている旋法の性格が異なるために比べるとより明るく軽快な調性を持ちへ長調(F major )に近い調性に感じる。旋律は17世紀に成立した。

第1旋法のドリア旋法による第4番は、荘厳で重厚な調性を持ちニ短調(d minor )に近い調性を持っている。旋律は15世紀に成立した。


第3章 クレド伴奏の成立過程について

 1 ロレンソ了斎(クレドの伴奏の創作者)
肥前生まれの盲目の元琵琶法師で、1550年(天文19)山口でフランシスコ・ザビエルと出会い洗礼を受けイルマン(修道士)となり、最初期の日本における伝道師として活躍した。特に五畿内においてキリスト教の基礎を作り、髙山右近、蒲生氏郷、黒田官兵衛孝髙等の五畿内のキリシタン大名を信仰に導いた。たぐい稀な記憶力を持ち、有名な説教家でもあり、仏教の諸宗派の秘儀についての知識を持ち、幾多の僧侶と宗門論争をしても必ず彼らを凌駕した。1592年(文禄元)66歳で長崎のコレジオで死去するまで、40年間を宣教の前線に立ち続けて、豊後、五畿内、島原、大村,五島、長崎の各地方で多くの人々を真理に導き信者にして多くのキリスト教会を創った。

ロレンソの晩年の姿が狩野内膳の筆によって1600年(慶長5)初頭に南蛮屏風(神戸市立博物館蔵)に克明に描写されている。イエズス会に残された豊富な資料から、豊後府内でのキリスト教会の発展と衰退、消滅の足取りも確認することができた。当時府内にはロレンソ了斎をおいてほかに賢順に琵琶でクレドの伴奏を教えることができる人物はいない。ロレンソ了斎に行きついたことで「クレドと六段」の音楽的な証明をする理由が明確になった。

2 豊後府内教会での音楽教育(府内の教会と修道院の布教の記録から)
ギリェルメ・ぺレイラ(Guilherme Pereira)、ルイ・ぺレイラ(Rui Pereira)
は1556年(弘治2)7月初旬に府内に到着した。彼らの指導で始まった音楽訓練は著しく上達した。彼らはその時日本に来たイルマンの中の5人でゴアのコレジオの学生たちだった。彼らはポルトガルからきた孤児でゴアの修道院で教育を受け、言葉を覚えるにはもっともすぐれた素質と音楽の才能を持ち「グレゴリオ聖歌とオルガン伴奏歌唱」に最も習熟した人たちであった。彼らの選抜の基準はまさに典礼的音楽の才能であった。後にギリェルメ・ぺレイラ(Guilherme Pereira)はイエズス会に入会してイルマンになり、日本に永住した。布教地の典礼音楽に与えた影響は大きい。この派遣団が、ある種の経済的余裕によって準備され得たので、新布教地のために入手した書籍の中には、典礼のための本が何冊かあった。教会の発展のために有効な『グレゴリオ聖歌・canto chao 一冊、オルガン伴奏歌唱一冊』である。これらは日本にもたらされた最初の典礼音楽書である。この二冊の楽譜が日本で最初の音楽のための楽譜として使われた。

アイレス・サンチェス(Aires Sanches)は、府内にアルメイダが作った病院の医療従事者の中でも特に音楽的才能を持ち、日本に来る前にインドのゴアで専門的に音楽の訓練を受けていた。サンチェスは1561年(永禄4)の夏頃にゴアから平戸に着き府内にきた。

『私(アイレス・サンチェス)は1561年(永禄4)平戸につき、日本に骨を埋める覚悟でトーレス神父やイルマンたちとともに豊後に滞在し、コンパニヤ(イエズス会)への入会を許された。』

『当修道院に居住する日本人の同宿たちは、昼間は来訪者たちに「日本語とその文字で書かれた本」によってドチリナ(教理)を教え、夜、アヴェ・マリアの時刻に、つづいて、パードレ(神父たち)と共に、我ら一同はパーテル・ノステル、アヴェ・マリア、クレド(信仰宣言)サルヴェ・レジナの祈祷(オラショ)を行い、また、航海者、特に日本に来る司祭と修道士のため、パーテル・ノステルを一度唱えたのち、ラダイニャス(聖母連禱)をともに唱えていた。』
*1555年9月20日付 豊後(大分)発 デュアルテ・ダ・シルヴァ修道士書簡 『16.17世紀イエズス会日本報告集 第Ⅲ期第Ⅰ巻』214頁。

 イルマン,ギリェルメ・ぺレイラ(Guilherme Pereira)、ルイ・ぺレイラ(Rui Pereira)アイレス・サンチェス(Aires Sanches)この3人は特に音楽の才能があり日本の教会での音楽教育のために派遣された修道士たちで、1555年(弘治元)以後、府内教会での教理学校で音楽教育を担当していた。教会内での音楽教育は充実していき、毎日1時間グレゴリオ聖歌が教えられるようになった。府内での教会教理学校を始めとして教会で使用する音楽の教育が体系化されて,教会が発展するとともに徐々に教会音楽も充実していった。1580年(天正8)以後になると府内にもコレジオが設立され、キリスト教会側の音楽の教育機関も体系が整ってきて、当時のグレゴリオ聖歌だけが教会の中で教育され演奏されるようになる。当時の府内教会内での音楽訓練・グレゴリオ聖歌の歌唱法は3人の音楽の専門家たちにより指導されていた。『彼ら三人はグレゴリオ聖歌の専門家であり、教会内の音楽を充実させることが本来の目的である』。彼ら3人により日本の教会音楽の基礎が創られた。彼ら3人が日本音楽である5音階旋法に馴染むことは皆無であった。

 3 諸田賢順(採譜・継承・六段の編集者)
筑紫箏の祖として有名であり、筑紫筝曲を成立に導いた筝曲家として伝えられているが、その人生は多くの謎に包まれている。『諸田氏系図』『諸田系志』等の文献から大まかな賢順の人生の歩みは推測できるが、細部にわたっては不明な部分が多くあった。まずは諸田賢順の生涯を知らなくては、坪井氏が言われた「賢順はキリシタンだった」との話が本当かどうかもわからない。賢順に関して残されている『諸田氏系図』『諸田系志』の資料の歴史的事実の確認から調査した。諸田賢順の生涯の再検討により、賢順の生涯の出来事が歴史的に確定した。賢順が1555年(弘治元)から豊後府内に来ている事実が確認でき、同じ時期に明国から倭寇の取り締まりの依頼に豊後の大友宗麟のもとに来ていた鄭舜功の歴史的事実の確認が取れたことで『諸田氏系図』『諸田氏志』に対する信頼が増した。今まで不明とされていた明国の使者・鄭舜功の1555年(弘治元)の滞在地・臼杵の海蔵寺跡地の発見等、多くの歴史的事実が確認できた。賢順は豊後府内に14年間(1555年~1569年)滞在して大友宗麟に楽師として仕えている。この時期にキリスト教会も山口から府内に避難して、アルメイダが病院を開院して豊後教会の最盛期と重なっている。日本におけるキリスト教会の黎明期である。

キリシタン史を学んでいたから当時府内に在住している宣教師たちはわかっていた。その中で日本音楽(5音階旋法)を理解してかつ西洋音楽(教会旋法・グレゴリオ聖歌)に詳しい人物を消去法で調べたらロレンソ了斎、元琵琶法師しかいないことが分かった。

ロレンソ了斎なら琵琶でグレゴリオ聖歌に伴奏を付けることができる。また、府内において諸田賢順との接点も多くある。諸田賢順の生涯の歴史的確認による位置付の研究は、謎の多かった賢順の生涯を新たな視点から再構築する研究となった。キリスト教が1549年(天文18)に日本に入ってきてわずか20年の間のなかに、諸田賢順が大友宗麟の招きで豊後府内に在住した1556年(弘治2)~1569年(永禄12)の14年がある。1556年(弘治2)府内において諸田賢順は日本人で初めてイルマン・修道士になったロレンソ了斎・元琵琶法師に出会い、ロレンソ了斎から西洋音楽である「クレドとその伴奏」を学び記譜をした。諸田賢順の府内で過ごした時期はキリスト教会の発展時期と重なっている。その後、諸田賢順は1569年(永禄12)に豊後府内から郷里の佐嘉南里に戻り17年を三根の東津で過ごし、1587年(天正15)9月、多久邑主多久安順に招きで多久に移住、1623年(元和9)7月13日、多久に於いて90年の生涯を閉じた。

 4 六段の作曲者「ロレンソ了斎」・記譜及び継承者「諸田賢順」
ロレンソ了斎から教えられた諸田賢順が「クレド」の伴奏譜を今の形の「六段」に整えた可能性が非常に高い。なぜなら、賢順が53歳の時、1587年(天正15)多久安順より多久に招かれて安順の妻「千鶴姫」に箏を教授する役目を仰せつかり、多久梶峰城の下に屋敷が与えられ住むことになった。しかし時代は1612年(慶長17)以後キリシタン禁教に向かって徐々に進み始めキリシタン信仰の故に殉教する人達が増えてきた。これらの殉教報告を受けて賢順はロレンソ了斎から学んだグレゴリオ聖歌伴奏譜の取り扱いをどの様に考えただろうか?これら多くの殉教報告を聞いた賢順は、自分の受け継いだ音楽がキリシタンと深く関係していることを知っているが故に、弟子の玄恕に段物の本当の意味を知らせることは、幼い玄恕にとって命を危険にさらすことになる故に「段物」という伴奏譜である音楽の形だけを継承させたと考えられる。賢順が玄恕に段物を伝えた時、すでにキリシタン音楽と判らなくするために、現在の「六段」の形に姿を変えて伝えたと考えている。  

 門弟の玄恕を経て八橋検校(1614~1685年)へ伝えられた時には、すでに現在の「六段」の形の楽曲を継承させたと考えられる。あるいは八橋検校がクレドの伴奏譜を独立した楽曲「六段」の演奏形態(速度を速たり、ゆっくりした個所の指定等)を現在の演奏形態に確立したのかもしれない。それゆえに「六段」は八橋検校作曲と言い伝えられたと推測される。 

最も日本的と考えられていた箏曲「六段」を元のクレドの伴奏の姿に返したとき、1550年(天文19)フランシスコ・ザビエルから洗礼を受けてグレゴリオ聖歌を学んだロレンソ了斎の心の中に入り込んで留まり、徐々に熟成され、ある時を経て「クレド」の日本的伴奏譜となって結晶した。ロレンソ了斎の心の中で西洋音楽と日本音楽が出会い邂逅して混ざり合い、徐々に時間の純化を経て新たな形として「クレドの伴奏譜」として姿を現した。「六段」の中に「クレド」を見出し、ロレンソ了斎の「クレドに付けた伴奏」の姿を再現できたとき、キリシタン音楽が日本音楽と初めて融合した1550年(天文19)当時の音色を聴くことができるだろう。 

第4章    筝曲「六段」とクレド
1 筝曲六段について

古典曲の中では歌が付かない独奏曲で、旋律の構成が6つの段(短い楽章)により作られている。各段の旋律にそれぞれの変化があり、筝曲の中では,きわめて重要視されている名曲。論理的であり旋律性を持たない音の組み合わせで構成されていて、それでいて純粋な音楽が内在する。主題や風景描写を特徴とした表題音楽とは、まったく異なる世界を持つ孤高の筝曲の名曲。作曲者不明。

段物と呼ばれる曲は、筝曲の中に6曲あり、琉球筝曲の中に7曲ある。筝曲《六段》と琉球筝曲《六段菅撹》は同じ旋律を持つ曲であり、調性に陽旋法・琉球筝曲《六段菅撹》と陰旋法・筝曲《六段》との違いがある。筝曲六段の5線譜化もできて、クレドの旋律はそのままに六段を割り振る作業をした。「筝曲六段とクレドの楽譜」を作って和声的に違和感を覚えたが、それが何なのかはわからなかった。 

筝曲関係の本を読んで琉球にも同じ旋律の六段が「六段菅撹」として1700年(元禄13)に伝わっていることを知った。宮崎まゆみ著『箏と筝曲を知る辞典』東京堂出版、2009年、200~202頁には『琉球筝曲は古い形を保っている筝曲であり、《六段菅撹》は調弦音のことを除けば本土の《六段》とほとんど同じであるのに対して、《七段菅撹》は《七段》と細部で異なる所が多い。伝承していくうちに変化したか、あるいは当道筝曲の《七段》より古態をとどめているのかもしれない』とある。直ぐに沖縄より『琉球筝曲工工四 上巻と中巻』(琉球筝曲保存会発行、昭和53年版)を取り寄せた。 

「六段菅撹」を5線譜化してクレドの旋律と比例させてみたら、和声的に本土の六段よりも、よりクレドの伴奏譜に近い満足する伴奏譜面ができた。琉球筝曲「六段菅撹」の方が基のクレドの伴奏譜ではないかと確信をした。琉球にも本土と同じ『六段』が『六段菅撹』として残っているから琉球「七段菅撹」も別のグレゴリオ聖歌の伴奏ではないか?新たにそう考えて琉球に1700年(元禄13)に伝わった琉球筝曲七曲の研究が始まった。結果は本文下記に書いた通り、本土に伝わっている筝曲全てが「聖母マリアのミサ曲(ミサ通常文第一・聖母マリアの祝祭日)」の伴奏であり、琉球筝曲の全てが「聖母マリアのための6つの讃歌」だった。

 2 本土に伝わっている筝曲の内訳
箏曲5段「聖母マリアの祝祭日、ミサ通常文第1・聖母マリアの日より・Sanctus 」
琉球箏曲7段「聖母マリアの祝祭日、通常文第1ミサ、「Kyrie eléison 主よ憐れみたまえ」
8段「ミサ通常文第1・聖母マリアの祝祭日より・Agnus Dei」
9段「ミサ通常文第1・聖母マリアの祝祭日より・Gloria」
12段「主の祈り・Pater Noster」と判明した。

ミサにおいて歌われる各歌は繰り返しなしで歌われるのが普通である。通常ミサにおいては、「キリエ・エレイソン」「グローリア」「クレド」「サンクゥトス」「アニュス・デイ」は1回だけ歌われる。従って1550年(天文19)当時もミサにおいて「クレド」も通常は1回だけ歌われていたはずである。その様に考えると、ロレンソ了斎は3種類の独立した『クレド』の伴奏譜を作ったと考えられ、初段の冒頭にある先唱(テーントンシャン)「Cred in unum Deum」が3段と5段の冒頭にも存在している。また結尾(コーダ・アーメン)は2段と4段(26小節が該当する)に存在している。おそらく、諸田賢順がクレドの伴奏譜だった六段を編集する際に、ロレンソ了斎から習ったグレゴリオ聖歌の伴奏譜の音を何一つ省略することなく「六段」と言う形に音を移し替えて形と姿を整えたと考えられる。

本土に伝わっている筝曲の中にひとつだけ、琉球箏曲7段「聖母マリアの祝祭日、通常文第1ミサ「Kyrie eléison 主よ、憐れみたまえ」が混じっている。どのような過程で本土筝曲に中に琉球筝曲が混じってしまったのか。またその逆に琉球筝曲の七段管撹に『ミサ通常文第1・聖母マリアの祝祭日より・Kyrie eléison』が収まっている。この2曲の入れ替わりがいつ起こったのか。謎は残ったままで説明のつかない不可解な入れ替わりである。

 3 『六段』(本土の筝曲六段)・原曲は『クレド・Credo・信仰宣言』「六段」も「六段管撹」琉球筝曲も、共に六段で構成されている。
1段27小節、2段26小節、3段26小節、4段26小節、5段26小節、6段26小節、

『クレド』の旋律のラテン語分節に従って六段を当てはめると、前半部分が1段(27小節)ほぼ真中の「Et resurrexit tertia die」から2段(26小節・アーメン)が当てはまる。

つまり「クレド」は3種類の伴奏譜で作られていて6段全ての段が当てはまる。
2段の26小節は「アーメン」、4段の26小節は「アーメン」、6段の26小節は「アーメン」に相当している。初段1小節の先唱「Cred in unum Deum」は3段目と5段目の始まりにも存在している。3段目と5段目の始まりは先唱「Cred in unum Deum」に音楽的にも和声的にも合致している。2段目と4段目に「アーメン」があるということは「クレド」の伴奏譜が3種類あるということで、皆川氏が主張する「クレド」を続けて3回繰り返し歌うとの理論とは相いれない。諸田賢順が「クレド」の伴奏譜を編集する際に、初段1小節目の先唱と同じ、3段目と5段目の始まりは先唱「Cred in unum Deum」の小節と音楽的にも合うように作られている。

4 クレド(Credo)と筝曲六段の関係の発見
「クレド」に「六段」を重ね合わせると、司祭が先唱する「われは信ず、唯一の神」が「六段」では導入序奏の「テーントンシャーン」に対応する。信者が歌う前半部と後半部が「六段」の初段と2段とに重なりあう。「クレド」の旋律のラテン語分節に従って六段菅撹を当てはめると、前半部分が1段(27小節)ほぼ真中の「Et resurrexit tertia die」から2段(26小節)が当てはまる。2段の26小節は「アーメン」、4段の26小節は「アーメン」、6段の26小節は「アーメン」に相当している。また、初段1小節の先唱「Cred in unum Deum」は3段目と5段目の始まりにも存在している。2段目と4段目に「アーメン」があるということは「クレド」の伴奏譜が3種類あると考える。諸田賢順が「クレド」の伴奏譜を編集する際に、ロレンソ了斎から教えられたとおり、伴奏譜の音を何一つ省略することなく「クレド」の伴奏譜を「六段」と言う段物に整理して移し替えたと考えられる。

 5 クレド三番は、日本のキリシタン時代(1550~1614年)に歌われていたか
坪井光枝氏が「クレド3番」と「六段」の類似性を指摘されたが、なぜ坪井氏が「クレド3番と六段が合う」と言われたのか。クレド3番の成立年代は17世紀、1600年(慶長5)代でありロレンソ了斎(1525~1592年)と諸田賢順(1534~1623年)が生きていた時代には、クレド3番は成立していなかったし日本では歌われていなかったことが音楽資料にて証明されている。

フランシスコ・ザビエルによって1549年(天文18)に日本にもたらされたキリスト教だが、徳川幕府によってキリスト教禁教令が出された1614年(慶長19)までの60年の間に日本において歌われていたクレドは11世紀に成立していた「クレド1番」だけだった。 

坪井光枝氏に、なぜ「クレド3番」を選ばれたのかをお尋ねしたら「カトリック聖歌集に掲載されていたから」と答えられた。現行のカトリック聖歌集には確かに2種類の「クレド1番と3番」が掲載されている。クレド1番は11世紀、3番は17世紀の成立である。時代的にはキリシタン時代(1550~1614年)には歌われていなかった「クレド3番」がなぜ「筝曲六段」と合うのか。

クレド1番と3番は、成立年代の違いと旋律に違いはあるものの、クレドの内容、言葉等は、根本的に同一であり、音楽構造的な大きな違いは感じられない。坪井光枝氏は「クレド3番と筝曲六段が合う」と主張されたが、その主張のなかにクレド3番とクレド1番の成立の時代的差はあれ、クレドの根本的な同一性と筝曲六段との類似性に気が付かれたのは、まさに神からの啓示と言わざるを得ない。この命題が神からの啓示として坪井光枝氏に与えられ、クレドと六段の類似性に初めて気付かれたことが、グレゴリオ聖歌と筝曲の段物の研究の発端となったことは、神の領域における奇跡の啓示だと思うし、そのように信じている。この坪井氏に与えられた神からの啓示がなければ「クレドと六段」の研究そのものも始まらなかった。

6 キリシタンの隆盛期時代(1550~1614年)の一般信徒の歌唱能力について
当時の一般キリシタン信徒の歌唱能力は、どれほどのものだったか?コレジオ等の教会教育機関においての音楽教育は、教会歴にしたがって季節ごとに変わるグレゴリオ聖歌を教えていた。そのために毎日一時間、音楽教育を受けていたセミナリオの神学生にとっては当たり前のようにグレゴリオ聖歌が歌えたし、各地方の大きい教会においては、ミサにおける聖歌は典礼に従って、聖歌隊がグレゴリオ聖歌を季節ごとに変わる教会歴に従って決められている聖歌(ミサ曲)が歌われていた。キリスト教最初期の府内においての記録のなかにも教会でのミサを維持するための音楽教育の重要性が記録されている。しかし一般信徒の歌唱水準は非常に低く、音楽教育を受ける機会もない信徒の水準は、楽譜もなく暗譜するしか方法がなかった。字が読める人は歌詞だけを書き写して旋律は覚えて歌っていた。したがってイエズス会の記録にも見られるように、よく歌われる聖歌が中心になり、同じ聖歌が繰り返し歌われ唱えられて、暗記するように教育を受けていた。このように書くと、当時のキリシタンたちが歌っていた聖歌が非常に少なく貧しいようにおもえるが、文献から見ても、キリシタンたちが歌っていた聖歌は多種多様に渡り、信仰生活を十分に支えるだけの聖歌が歌われていたことがわかる。確かに聖歌の数は少ないかもしれないが、数少ない聖歌が、キリシタンたちの心のよりどころとなり、弾圧と迫害にも雄々しく立ち向かう力となった。また殉教の際の記録から「*クレド・信仰宣言」や「**主を褒め称えよ・Laudate Dominum 」詩篇117編等を雄々しく喜びに満ちて歌いながら殉教していった。

*『クレド』1619年(元和5)長崎、ドミンゴ・ジョルジョの殉教。
**『Laudate Dominum』(詩篇117編)1622年(元和8)平戸、カミロ・コンスタンチオ神父の殉教。

 最初期の1555年(弘治元)当時から、教会での信徒に対する音楽教育は一貫して変わりなく、比較的単純な聖歌を中心に教えていた。キリシタンが日々唱える「主の祈り」「アヴェ・マリア」「サルヴェ・レジナ」「クレド・信仰宣言」、および1605年(慶長10)に長崎で出版された『サクラメント提要』(この本は司祭用に制作された)に掲載されている19曲の聖歌等。ミサで歌われる聖歌に関しては、ロレンソ了斎が琵琶で伴奏譜を作っている「聖母のためのミサ通常文第一・聖母マリアの祝祭日」の「Kyrie eléison」「Gloria」「Credo」「Sanctus」「Agnus Dei」(現行カトリック聖歌伴奏集 256~261頁)等が、繰り返し毎週のミサにおいて歌われていたと推測される。
 当時のキリシタン信徒たちが、毎週聖歌が変わるミサの歌について行けただろうか。文字の読み書きさえできなかった識字率の低い当時のキリシタン信徒の音楽水準を考えると、煩雑に聖歌を変えるよりも、同じ聖歌を繰り返して歌う方が、キリシタン信徒教育のためには有効な手段であった。同じ聖歌が毎回のミサにおいて歌われていたと推測される。キリスト教に関する書物も一般信徒には十分に渡らなかった時代だったから、まして聖歌集を一般信徒が持つことはできなかった。聖歌の歌詞だけを書いた手書きの書物は現代まで残されている。高槻市千提寺の東家には、当時の歌の歌詞を書いた写本『連祷』(耶蘇教写経・東京国立博物館所蔵)が残されている。この事例からもキリシタン同士の集まりにおいては信仰と志を同じくする全ての信者が歌える聖歌が共通認識のもとに歌われていたと推測される。

 7 ロレンソ了斎の時代の「クレド」の演奏方法
皆川氏により「六段」が「クレド」の伴奏譜と判ったときは「クレドを続けて3度繰り返す」と主張されていたが、研究が進むにつれて,クレドの旋律に対して六段の音を和声的に割り振ったところ、2段目の26小節、4段目の26小節、6段目の26小節が「アーメン」に当てはまることが楽譜から証明された。また初段冒頭の「先唱・Credo in unum Deum」は3段目と5段目の冒頭にも存在している。同様に2段目と4段目、6段目の26小節「アーメン」も存在している。つまり、ロレンソ了斎は3種類の「クレド」の伴奏譜を創っていたと考えることができる。本土筝曲は当時歌われていた「ミサ曲」と分かった。

その内訳は
箏曲・5段「ミサ通常文第一・聖母マリアの祝祭日より・Sanctus」
琉球箏曲7段「聖母マリアの祝祭日、通常文第一ミサ、Kyrie eléison主よ憐れみたまえ」、
8段「ミサ通常文第1・聖母マリアの祝祭日より・Agnus Dei」、
9段「ミサ通常文第一・聖母マリアの祝祭日より・Gloria」と判明した。 

ミサにおいて歌われる各歌は繰り返しなしで歌われるのが普通である。通常ミサにおいては「キリエ・エレイソン」「グローリア」「クレド」「サンクトゥス」「アニュス・デイ」は一回だけ歌われる。従って、1550年当時もミサにおいて「クレド」も通常は一回だけ歌われていたはずである。

その様に考えると、ロレンソ了斎は3種類の「クレド」の伴奏譜を創ったと考えられ、初段の冒頭にある序奏(テーントンシャン)が3段と5段の冒頭にも存在している。六段と同じ結尾(コーダ・アーメン)が2段と4段(26小節)にも存在している。おそらく、諸田賢順がクレドの伴奏譜だった六段を編集する際に、ロレンソ了斎から教えられたとおり、何一つ音を省略することなく「六段」と言う段物に整理して演奏しやすいように形を整えたと考えられる。 

8 演奏上の問題点
「クレド第一番」は第4ヒポフリギア教会旋法によって書かれている。教会旋法は、古代ギリシャ音楽に源を持ち中世の教会で発展して、現代の長調や短調とも違う教会独自の旋法である。ヒポフリギア教会旋法とはミ【E】の音を終止音として、終止音上の5度を中心として、その下に広がる音域をもつ旋法である。終止音とは、曲が終止する音であり、ラ【A】の音を属音と呼び旋律の流れの中心となる音である。音階は、シドレミ【終止音】ファソラ【属音】シ、により構成されている。『六段』の平調子【平調律】は箏の最も基本的で最も多く使われる調弦法。日本の音階はミ【E】を基本音として、ラシドミファの5の音により音階が構成されていて、現代音階で言う、レ【D】とソ【G】の音が抜けている。(俗にいう四七抜きの音階)「六段」の平調子から、四、六、九、斗の弦を半音あげると「クレド」の音階と一致する。全ての箏曲の段物をグレゴリオ聖歌の教会旋法と同じ音階にしようとすると「平調子」から「乃木調子」にする必要がある。「乃木調子」の音階に教会旋法の半音になっている音と同じ音を半音にすることで音階が統一される。 

第5章    琉球筝曲「六段菅撹」について

1 琉球箏曲の特徴
琉球箏曲とグレゴリオ聖歌の比較研究,解析の結果、琉球箏曲の全てが、本土では失われたと思われていた「聖母マリア讃歌・聖母マリアのための交唱と讃歌」だったことが音楽の視点から解析され証明された。有名な「聖母マリア讃歌」は6曲あるが、そのうちの5曲の伴奏譜が琉球箏曲の中に存在していた。

始めは、琉球箏曲の七段菅撹が「めでたし天の元后・Ave Regina caelorum」ではないかと思い分析を進めたが、七段菅撹の小節数が「めでたし天の元后・Ave Regina caelorum」のラテン語分節からも旋律の小節数からも和声からも合うことはなく違う曲だと解った。 

その時点では「七段菅撹」の原曲は不明のまま保留し、まずは「めでたし天の元后・Ave Regina caelorum」に合う本土の段物の解析を始めた。「5段」はラテン語分節からも旋律の小節数からも和声からも合うことはなく違う曲だと解った。「7段」に合わせてみると、ラテン語分節も旋律の小節数も和声も見事に合った。これで「聖母マリアのための交唱と讃歌」の6曲全てが揃った。

 「聖母マリアのための交唱と讃歌」の6曲全てが「段物」として箏曲の中にあるということは「聖母のためのミサ曲」もあるはずである。しかし「聖母のためのミサ曲」も3種類「聖母マリア被昇天祭のミサ」「聖母マリアの汚れなき心のミサ」「ミサ通常文第一・聖母マリアのミサ」があり、残りの「段物」にどのミサ曲が該当するのか1曲ずつ比較して調べて答えを探す作業が続いた。その結果「ミサ通常文第一・聖母マリアのためのミサ・In festis B. M. V.」が該当することが解った。「通常文第一・聖母マリアのためのミサ」曲には「Kyrie eléison」「Gloria」「Sanctus」「Agnus Dei」「クレド・Credo」「主の祈り・Pater Noster」がある。

 ミサ曲の順番に従い最初の「Kyrie eléison」より調べ始めたが「5段」「7段」「8段」「9段」「10段」のどれにも合わない。もしかして保留にしていた琉球箏曲の「7段菅撹」ではないか?「7段菅撹」の各段の小節数の大きな違いに悩まされながらも「7段菅撹」が「通常文第一・聖母マリアのためのミサ曲」の「Kyrie eléison」であることが解った。

「グローリア・Gloria」は「9段」、「サンクトゥス・Sanctus」は「5段」「アニュス・デイ・Agnus Dei」には「8段」がそれぞれ該当した。 

琉球箏曲も筝曲も1550年(天文19)日本音楽(5音階旋法)とキリスト教音楽(教会旋法)が初めて邂逅した結晶でもある。琉球に伝えられた1段から7段目での段物は本土では消滅してしまった。信仰的見地から考えれば、神は1550年(天文19)に初めて日本に伝わったグレゴリオ聖歌に付けられた伴奏譜を箏曲の中に隠されたのだとおもう。460年前の1550年(天文19)の初めから神は計画されておられたのだろう。 

ロレンソ了斎が諸田賢順に伝えたグレゴリオ聖歌の伴奏譜が、整理され段物に姿を変えて、玄恕、八橋等、本土で伝えられた12の段物の半分が1700年(元禄13)以後本土ではなくなることを知っておられたが故に、1700年(元禄13)に琉球王朝に伝え琉球箏曲として1段から7段までを秘曲として琉球王朝に託されたのだとおもう。本土では琉球箏曲の1段から7段までは伝えられなくなり消えてしまった。しかし残りの五段から九段までと12段が残され伝えられてきたが、12段も10段と形を変えてしまい、本当のことが分からなくなってしまった。基が12段だったのか、はじめから10段だったのかの論争が起きてしまった。 

しかし今回基歌だった「主の祈り」の旋律に添って和声的に解釈した結果、基は12段の形であったことがわかった。信仰がなければとても信じられる話ではないが、これが箏曲の12の段物の辿った460年の歴史の真実の姿だと思考している。 

2 琉球筝曲の『六段管撹』・原曲は『クレド・Credo・信仰宣言』
六段管撹は、六段で構成されている。
1段27小節、2段27小節、3段27小節、4段26小節、5段27小節、6段27小節。

 「クレド」の旋律のラテン語分節に従って六段菅撹を当てはめると、前半部分が1段(27小節)、ほぼ真中の「Et resurrexit tertia die」から2段(27小節)が当てはまる。

2段の27小節は「アーメン」、4段の26小節は「アーメン」、6段の27小節は「アーメン」に相当している。ただし、初段1小節の先唱「Cred in unum Deum」は、3段目と5段目の始まりにも存在している。3段目と5段目の先唱「Cred in unum Deum」が存在していることと、2段目と4段目に「アーメン」があるということは「クレド」の伴奏譜が3種類あるということである。諸田賢順はロレンソ了斎から教えられたクレドの伴奏譜を、何ひとつ形を変えずに「六段」と言う段物に移し替えたと考えられる。

 3 クレド(Credo)と琉球六段管撹の関係の発見
「クレド」に「六段管撹」を重ね合わせると、司祭が先唱する「われは信ず、唯一の神」が「六段」では導入序奏の「テーントンシャーン」に対応する。信者が歌う前半部と後半部が「六段」の初段と2段とに重なりあう。「クレド」の旋律のラテン語分節に従って六段菅撹を当てはめると、前半部分が1段(27小節)ほぼ真中の「Et resurrexit tertia die」から2段(27小節)が当てはまる。2段の27小節は「アーメン」、4段の26小節は「アーメン」、6段の27小節は「アーメン」に相当している。また、初段1小節の先唱「Credo in unum Deum」は、3段目と5段目の始まり第1小節目にも存在していて、音楽的にも和声的にも合致することが確認された。3段目と5段目の先唱「Credo in unum Deum」が存在することと、2段目と4段目に「アーメン」があるということは「クレド」の伴奏譜が3種類あるということになる。諸田賢順がロレンソ了斎からクレドの伴奏を習った時と同じ伴奏譜を編集して「六段」と言う段物に姿を変えて次の世代に残した。

 4 琉球箏曲六段菅撹と箏曲六段(本土)との違い
琉球筝曲の本土筝曲の六段の違い

琉球六段管撹・曲の構成表        (本土)箏曲六段・曲の構成表

1、一段27小節、二段27小節(アーメン) 1、一段27小節、二段26小節(アーメン)

2、三段27小節、四段26小節(アーメン) 2、三段26小節、四段26小節(アーメン) 

3、五段27小節、六段27小節(アーメン) 3、五段26小節、六段26小節(アーメン) 

琉球六段管撹と(本土)箏曲六段の曲の構成表を見て判る通り、本土箏曲の六段の方が、1段の27小節の他は、各段26小節に統一されている。琉球六段管撹が基の形だと仮定した場合、本土の箏曲六段は1700年(元禄13)以降、元禄時代になってから、より段物として演奏しやすいように、一段の小節数を26に揃えたと考えられる。 

5 1700年(元禄13)に2つに分離した筝曲六段
*琉球箏曲『管撹六段』と箏曲『六段』との2曲並列の比較楽譜 (別記参照)

グレゴリオ聖歌「クレド」の旋律と対比させた時に、琉球箏曲六段菅撹の方が、本土の箏曲六段よりも、旋律的にも調性的にも音楽的にクレドの旋律に馴染むことは否めない事実である。

 今まで「筝曲六段」と「琉球筝曲六段菅撹」が非常に似ている、陽旋法と陰旋法との違いだけとか同じ旋律である等、漠然とした表現で言われていたが、実際に両者を対比させた楽譜の存在を見たことがなかった。今回、筝曲六段と琉球筝曲六段菅撹の2曲を5線譜化して比較した楽譜にして、視覚的に2つの曲のどこがどのように違うのかが判るように並列対比楽譜を作成した。

この楽譜により、同じ音型でも微妙にずらしてあったり、装飾されたりしていることが譜面から認識できる。休符の場所の違い,音型の位置のずれ、4連譜の違い等、指摘できることは数多く存在する。この並列楽譜化により筝曲六段と琉球筝曲六段菅撹、2曲の違いが一目瞭然に判るようになった。

 琉球筝曲は1700年(元禄13)に琉球に伝えられて以来、琉球王朝の秘曲として守り続けられてきたという経緯が判っているので、変化という点に関しては、非常に少ないことが指摘できる。その意味でもロレンソ了斎が1550年(天文19)から創った「クレド」の伴奏譜原曲の形を琉球箏曲『管撹六段』が忠実に伝承しているのではないかと考えている。

これについても1550年(天文19)から1700年(元禄13)までの150年の時代の流れ、諸田賢順から玄恕、八橋検校、吉部座頭、服部清左衛門政真、武右衛門政実父子へ継承され、1700年(元禄13)稲嶺盛淳(いなみねせいじゅん・1679~1715年)により琉球へ伝承された。この150年の間に伝承の過程での変化はなかったのかとの疑問は確かに存在する。

特に本土の六段の変化の過程を時代ことに調査することで、どの検校がどのような意図でその変化を付けたのか、なぜ、そのような形に変えようとしたのかの意図も理解することができるのではないかと考えている。

 琉球箏曲『管撹六段』は対比の基になるそれだけ貴重な基本楽譜だと思っている。このような対比楽譜からの研究により、ロレンソ了斎が1550年(天文19)当時に「クレド」の伴奏譜として創作した原曲の形を取り戻す作業ができるかもしれない。今現在、着手している研究は、あくまでも「クレドの旋律」に対して、おそらく原曲に近いとされている1700年(元禄13)に琉球に伝えられた琉球筝曲六段菅撹の楽譜の5線譜化した曲を基にしている。

それでもロレンソ了斎がクレドの伴奏譜として創作した1550年(天文19)より150年が経過している。諸田賢順、玄恕、八橋検校、吉部座頭、服部清左衛門政真、武右衛門政実父子へ継承され、1700年(元禄13)稲嶺盛淳により琉球へ伝承された。この150年の間に伝承の過程での変化はなかったのか。現時点でこの150年の間の変化を知る手掛かりは無い。楽譜による伝承だから、かなり正確に伝承されてきたと推測されるが、それを知る手掛かりになる楽譜が存在してないために調査することができない。

 6 小節数の違いと陽性と陰性の調整の違いについて
琉球箏曲六段菅撹と箏曲六段を小節ごとに比べた場合、琉球箏曲六段菅撹の方が単純に書かれていて、箏曲六段(本土)は、同じ小節の同じ音に装飾された形が至る所に見受けられる。装飾された形が示していることは、初めは単純な音の形だった曲が、音を装飾させることにより、より華やかに演奏しようとしたことの現われと考えられる。また筝曲六段は、すべての段が26小節で統一されていて、段物としての形を統一して整えようとした意図が明らかに存在している。

 もう一つの問題点は、琉球箏曲六段菅撹の陽調性箏曲六段の陰調性の違い(相違点)があげられる。

おそらく、諸田賢順から玄恕、玄恕から八橋検校、八橋検校から吉部座頭,吉部座頭から薩摩藩士・服部清左衛門政真、武右衛門政実父子へ継承され、1700年(元禄13)稲嶺盛淳が薩摩に派遣され、薩摩藩士・服部清左衛門政真、武右衛門政実父子から八橋流筝曲の演奏法を学んで帰国した時まで「六段」を含めて「すべての段物」は、琉球箏曲に伝えられている陽の調性ではなかったかと推測される。

 7 筝曲の継承過程における変容について
琉球では琉球王朝の秘曲として門外不悉の扱いを受け稲峰盛淳の後は尚温王(1795~1802年在位)冊封の時の琴弾役として中村筑登之が務めている。尚質王(1629~1668年在位)冊封の琴弾役は仲本興嘉(1784~1851年)が務めている。興嘉の後は長男の仲本興斎(1804~1865年)伊波興紀、その弟子の伊波興厚(1859~1920年)、玉城盛重(1868~1945年),興厚の弟子の仲里陽史子(琉球筝曲興陽会初代会長)盛重の弟子の仲嶺盛竹、城間千鶴(琉球筝曲保存会初代会長)を経て現在へと伝承されている。

 一方、本土では八橋検校(1614~1685年)の後、1700年(元禄13)代の元禄時代、上方(大阪)で流行した陰の調性の影響を受けて「段物」にも手が加えられ現在の「段物」の調性に変えられていったのではないかと考えられる。

 江戸中期には北島検校(?~1690年)、生田検校(1656~1715年)、倉橋検校1724年(享保9)没、三橋検校1760年(宝暦10)没、A安村検校1779年(安永8)没、浦崎検校(?~1800年前半)、山田検校(1757~1817年),八重崎検校(1776~1848年)、光崎検校(?~1853?年)等により、幕末まで徐々に段物に変化や装飾が加えられていったと推測される。

現在,どの時代の検校がどのような装飾を施したのか、元の段物のどこをどのように変えたのかを知ることはできない。何故ならば、前の検校から受け継いだ段物がどのような楽譜であったのか、それをどの時代のどの検校が、どのように変えたのかを知る手掛かりとなる楽譜が明確に残されてはいないことに原因がある。

 現在残されている資料としての楽譜は『糸竹初心集』1664(寛文4)年,『大ぬさ』1687(貞亨4)年・現存楽譜は1648(慶安元)年、『筝曲大意抄』1779(安永8)年等が確認されている。現在の筝曲楽譜は、宮城道雄(1894~1956年)、中能島欣一(1904~1984年)の両氏により編集楽譜化されて邦楽社より出版されている。

 8 グレゴリオ聖歌と十二の段物との比較研究により解明された成果

*琉球箏曲
1、 瀧落管撹・一段  『アヴェ・マリア・Ave Maria』
2、 地管撹・二段   『めでたし元后・Salve Regina』
3、江戸管撹・三段  『麗し救い主の御母・Alma Redemptoris』
4、拍子管撹・四段  『天の元后・Regina caeli』
5、佐武也管撹・五段 『めでたし憐れみ深い御母・Salve Mater 』
6、六段管撹『信仰宣言・クレド・Credo』(原曲と推測される・陽旋法)
7、七段管撹 『ミサ通常文第1・聖母マリアの祝祭日より・Kyrie eléison』

 *本土箏曲
1、 五段     『ミサ通常文第1・聖母マリアの祝祭日より・Sanctus 』2、六段  『信仰宣言・クレド・Credo』 原曲が装飾陰旋法化されている  3、七段       『めでたし天の元后・Ave Regina caelorum』
4、八段     『ミサ通常文第1・聖母マリアの祝祭日より・Agnus Dei』5、九段     『ミサ通常文第1・聖母マリアの祝祭日より・Gloria』
6、みだれ・山田流一二段  『主の祈り・Pater Noster』

使用した楽譜の出典は『グラドゥアーレ・トリプレクス・Graduale Triplex 』(1979年ソレム修道院出版) 64~66頁、Credo・クレド・第一番、第四ヒポフリギア教会旋法。原調は教会旋法第四番ヒポフリギア。始まりの音はG音。(4線譜楽譜) 

*『カトリック聖歌伴奏集』266~269頁。へ長調。はじめの音はG音。(5線譜楽譜) 光明社

* 邦楽の使用楽譜は「筝曲六段」宮城道雄(1894~1956年)中能島欣一(1904~1984年)編
邦楽社出版。邦楽社出版の許可を得て五線譜化した楽譜を使用した。 

* 「琉球筝曲六段管撹」『琉球筝曲工工四 上巻と中巻』(琉球筝曲保存会発行、昭和53年版)から、琉球保存会の許可を得て五線譜化した楽譜を使用した。髙田重孝が五線譜化をしました。

 


 

 


 


 

 

 


  129頁


 


 

 

 

 


④   130頁 六段の欠落部分

 

 

 

 

131頁

 

 

 

 箏曲「六段」は*ディフェレンシアス(変奏曲)なのか?

*【Diferencias・変奏曲は主題が最初から変奏されて提示され、6つの変奏の形式をとる】

 

4 「筝曲・六段」は*「ディフェレンシアス」(変奏曲)なのか

⋆【Diferencias・変奏曲は主題が最初から変奏されて提示され、6つの変奏の形式をとる】

箏曲『六段』は日本の箏曲・伝統音楽の中で特に広く知られ親しまれている。「六段」の構成が変奏曲・16世紀スペインの「*ディフェレンシアス」に類以している事、それゆえに、箏曲「六段」も同じ形を持っていることが以前から指摘されてきた。しかし本当に「六段」は「ディフェレンシアス」と同じ形式を有するのだろうか。「六段」だけが「ディファレンシアス」と類似しているのだろうか?では他の「段物」の形式と「ディフェレンシアス」の関係をどの様に説明するのだろうか?重ねて尋ねるが他の段物、5段や7段、8段や9段との「ディファレンシアス」との関係をどの様に説明するのだろうか。たまたま「六段」と言う段物が「ディフェレンシアス・6つの変奏の形式」と言う形式と似通った形を有すると解釈していただけではないかと結論付けられる。

 

「六段」という段物の原曲が「聖母マリアのミサ曲通常文第1」の中の「クレド」だったこと「クレド」の3種類の独立した伴奏譜だったことが明らかになった今「ディフェレンシアス」との関係は無かったと言うことができる。ロレンソ了斎は「クレド」の伴奏のために独立した3種類の伴奏譜を書いていた。第1の伴奏譜は初段と2段、第2の伴奏譜は3段と4段、第3の伴奏譜は5段と6段、3種類の独立した伴奏譜を作曲したと考えられる。

 

5 六段の本当の姿

皆川氏により「六段」が「クレド」の伴奏譜と判ったときは「クレドを続けて3度繰り返す」と主張されたが、研究が進むにつれて,クレドの旋律に対して六段の音を和声的に割り振ったところ、2段目の26小節、4段目の26小節が「アーメン」に当てはまることが楽譜から証明された。また3段目と5段目の冒頭の第1小節「先唱・Credo in unum Deum」も楽譜の中に存在していた。3段目と5段目の第1小節が「Credo in unum Deum」に合致する。音楽的にも和声的にも両者は矛盾なく合致する。また2段目と4段目の26小節「アーメン」も存在している。それ故にロレンソ了斎は3種類の独立した「クレド」の伴奏譜を作っていたと考えることができる。長大な「クレド」をミサの中で3回も繰り返して歌っていたのではないことが証明された。

 

第2章『クレド・Credo・信仰宣言』

1 クレド・信仰宣言について

信仰宣言とも使徒信条とも呼ばれる、キリスト教信者がキリストに対する自分の信仰を告白するときに唱える信条。カトリック教会のミサ典礼における、ミサ通常文の第3番目に唱えられる「信仰宣言・クレド」。「会衆が神の言葉に応えて信仰の規範を思い起こし、信仰を新たにするために,信条を唱えること」と規定されている。司祭が「われは信ず、唯一の神Credo in unum Deum」と唱えて歌い出し、信者達が「全能の神Patrem omnipotentem」と続く。前半部では創造主である父なる全能の神と、人間の姿で誕生して十字架の上で我らの罪をあがない給うたイエス・キリストへの信仰を、後半部では死に勝利したキリストの復活、父と子と三位一体の聖霊への信仰告白を荘厳な旋律に乗せて歌っていく。旋律は11世紀に成立した。460年前の府内で歌われていたグレゴリオ聖歌は紛れもない現在も歌われている聖歌と同じものであり、クレドも11世紀に作られた「クレド1番」が歌われていた。

 

信仰宣言【クレド】

私は天地の造り主、全能の父なる神を信じます。私はその独り子、私たちの主、イエス・キリストを信じます。主は聖霊によってやどり、おとめマリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ,蔭府(よみ)にくだり、三日目に死人の内よりよみがえり、天に上り、全能の父なる神の右に座しておられます。

かしこより来り生きている者と死んだ者とを裁かれます。私は聖霊を信じます。聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪の許し、体のよみがえり、とこしえの命を信じます。アーメン

 

2 クレド・信仰宣言の歴史的成立過程

信仰宣言とは、イエス・キリストの弟子たちの時代から使徒時代を経て、初代キリスト教会時代へと信仰の基本は色々な形でまとめられてきたが、洗礼の確立と共に信徒になる人の信条の告白も定式化されていった。洗礼を受けるに先立ち、洗礼志願者にキリスト者の秘儀が伝えられ、志願者は共同体(教会)の面前でそれを唱え返す式があった。更に洗礼そのものが『父と子と聖霊を信じます』と言う信仰表明の後に授けられた。215年、ローマの『ヒッポリュトスの使徒伝承』の時代には、この形式は確立されていた。325年、ニカイア(現・トルコのイズニクIznik )で開催された第1回公会議で信条が作成され、381年、コンスタンティノポリス(現・トルコのイスタンブール)で開催された公会議において『聖霊に関する補足』が補足付加されて『ニカイア・コンスタンティノポリス信条』の式文が成立して、教会で唱えられ、ラテン語聖歌の旋律によって歌われてきた。東方教会では568年、皇帝ユスティニアヌス二世の命令で、『主の祈り』の前に『ニカイア・コンスタンティノポリス信条』を歌うことが義務付けられた。西方教会でもスペインとガリアで6世紀終わりころから、この信条を歌うように決められた。信条を歌う習慣は9世紀にアイルランドで広まり,福音書の朗読の後に歌うようになった。イングランドを経てドイツに入り、ヨーロッパ全域の教会において習慣化された。1014年、皇帝ハインリヒ二世が戴冠式のためにローマに行き、主日と大祝日にニカイア・コンスタンティノポリス信条を唱えることを西方教会に義務付け、以後西方教会全域において信条が正式に典礼に組込まれた。

 

3 クレド旋律の音楽的成立過程

「ニカイア・コンスタンティノポリス信条」による「クレド」を歌うラテン語聖歌には、中世に作成された写本の中には8種類の旋律が確認されている。1974年に出版された現行のグレゴリオ聖歌集『グラドゥアーレ・ロマーヌムGraduale Romanum 』には11世紀から17世紀に作られた6種類の旋律がネウマ楽譜(4線譜)付で記載されている。

 

クレド旋律の成立年代

1番11世紀。2番記載なし。3番17世紀。4番15世紀。5番17世紀。6番11世紀。

 

教会旋法別の分類

6種類の旋律はそれぞれが教会旋法によって、固有の旋律を持っている。6種類の旋律を教会旋法ごとに分けると、3種類の教会旋法に分類できる。

第4旋法ヒポフリギア旋法、第1番、第2番、第5番、第6番、

第5旋法リディア旋法、第3番、

第1旋法ドリア旋法、第4番、

 

第4旋法のヒポフリギア旋法による4種類の旋律は基本的には極めて類似した旋律であり、類似した旋律の上にそれぞれが独自の装飾的な動きを旋律内に持っている。つまり11世紀に作られた第1番の旋律が基本の旋律であり、第2番、第5番、第6番の3種類の旋律は第1番旋律の変形であり、中世の時代に広範囲の地域において歌われていた第1番旋律が、時代的地域的変遷を経て伝承され変形して定着した相違によると考えられる。

「クレド」の旋律の中で「Authenticus=正統的・基準的・本来的」とされてきたのが、第1番の第四旋法ヒポフリジア旋法による旋律である。年代的にも1番古く11世紀に成立したと言われている。6種類の旋律はそれぞれが属する旋法に応じた動きや装飾的音符の長さの違い等があるが、言葉からくる制約や音楽的区切り方等から比較した場合、構造的には同一の形式に統一される。

 

第5旋法のリディア旋法による第3番は、第四旋法のヒポフリジア旋法の4曲とは旋法そのものが持っている旋法の性格が異なるために比べるとより明るく軽快な調性を持ちへ長調(F major )に近い調性に感じる。旋律は17世紀に成立した。

 

第1旋法のドリア旋法による第4番は、荘厳で重厚な調性を持ちニ短調(d minor )に近い調性を持っている。旋律は15世紀に成立した。

 

 

第3章 クレド伴奏の成立過程について

 

1 ロレンソ了斎(クレドの伴奏の創作者)

肥前生まれの盲目の元琵琶法師で、1550年(天文19)山口でフランシスコ・ザビエルと出会い洗礼を受けイルマン(修道士)となり、最初期の日本における伝道師として活躍した。特に五畿内においてキリスト教の基礎を作り、髙山右近、蒲生氏郷、黒田官兵衛孝髙等の五畿内のキリシタン大名を信仰に導いた。たぐい稀な記憶力を持ち、有名な説教家でもあり、仏教の諸宗派の秘儀についての知識を持ち、幾多の僧侶と宗門論争をしても必ず彼らを凌駕した。1592年(文禄元)66歳で長崎のコレジオで死去するまで、40年間を宣教の前線に立ち続けて、豊後、五畿内、島原、大村,五島、長崎の各地方で多くの人々を真理に導き信者にして多くのキリスト教会を創った。

ロレンソの晩年の姿が狩野内膳の筆によって1600年(慶長5)初頭に南蛮屏風(神戸市立博物館蔵)に克明に描写されている。イエズス会に残された豊富な資料から、豊後府内でのキリスト教会の発展と衰退、消滅の足取りも確認することができた。当時府内にはロレンソ了斎をおいてほかに賢順に琵琶でクレドの伴奏を教えることができる人物はいない。ロレンソ了斎に行きついたことで「クレドと六段」の音楽的な証明をする理由が明確になった。

 

2 豊後府内教会での音楽教育(府内の教会と修道院の布教の記録から)

ギリェルメ・ぺレイラ(Guilherme Pereira)、ルイ・ぺレイラ(Rui Pereira)は1556年(弘治2)7月初旬に府内に到着した。彼らの指導で始まった音楽訓練は著しく上達した。彼らはその時日本に来たイルマンの中の5人でゴアのコレジオの学生たちだった。彼らはポルトガルからきた孤児でゴアの修道院で教育を受け、言葉を覚えるにはもっともすぐれた素質と音楽の才能を持ち「グレゴリオ聖歌とオルガン伴奏歌唱」に最も習熟した人たちであった。彼らの選抜の基準はまさに典礼的音楽の才能であった。後にギリェルメ・ぺレイラ(Guilherme Pereira)はイエズス会に入会してイルマンになり、日本に永住した。布教地の典礼音楽に与えた影響は大きい。この派遣団が、ある種の経済的余裕によって準備され得たので、新布教地のために入手した書籍の中には、典礼のための本が何冊かあった。教会の発展のために有効な『グレゴリオ聖歌・canto chao 一冊、オルガン伴奏歌唱一冊』である。これらは日本にもたらされた最初の典礼音楽書である。この二冊の楽譜が日本で最初の音楽のための楽譜として使われた。

 

アイレス・サンチェス(Aires Sanches)は、府内にアルメイダが作った病院の医療従事者の中でも特に音楽的才能を持ち、日本に来る前にインドのゴアで専門的に音楽の訓練を受けていた。サンチェスは1561年(永禄4)の夏頃にゴアから平戸に着き府内にきた。

『私(アイレス・サンチェス)は1561年(永禄4)平戸につき、日本に骨を埋める覚悟でトーレス神父やイルマンたちとともに豊後に滞在し、コンパニヤ(イエズス会)への入会を許された。』

『当修道院に居住する日本人の同宿たちは、昼間は来訪者たちに「日本語とその文字で書かれた本」によってドチリナ(教理)を教え、夜、アヴェ・マリアの時刻に、つづいて、パードレ(神父たち)と共に、我ら一同はパーテル・ノステル、アヴェ・マリア、クレド(信仰宣言)サルヴェ・レジナの祈祷(オラショ)を行い、また、航海者、特に日本に来る司祭と修道士のため、パーテル・ノステルを一度唱えたのち、ラダイニャス(聖母連禱)をともに唱えていた。』

*1555年9月20日付 豊後(大分)発 デュアルテ・ダ・シルヴァ修道士書簡

『16.17世紀イエズス会日本報告集 第Ⅲ期第Ⅰ巻』214頁。

 

イルマン,ギリェルメ・ぺレイラ(Guilherme Pereira)、ルイ・ぺレイラ(Rui Pereira)アイレス・サンチェス(Aires Sanches)この3人は特に音楽の才能があり日本の教会での音楽教育のために派遣された修道士たちで、1555年(弘治元)以後、府内教会での教理学校で音楽教育を担当していた。教会内での音楽教育は充実していき、毎日1時間グレゴリオ聖歌が教えられるようになった。府内での教会教理学校を始めとして教会で使用する音楽の教育が体系化されて,教会が発展するとともに徐々に教会音楽も充実していった。1580年(天正8)以後になると府内にもコレジオが設立され、キリスト教会側の音楽の教育機関も体系が整ってきて、当時のグレゴリオ聖歌だけが教会の中で教育され演奏されるようになる。当時の府内教会内での音楽訓練・グレゴリオ聖歌の歌唱法は3人の音楽の専門家たちにより指導されていた。『彼ら三人はグレゴリオ聖歌の専門家であり、教会内の音楽を充実させることが本来の目的である』。彼ら3人により日本の教会音楽の基礎が創られた。

彼ら3人が日本音楽である5音階旋法に馴染むことは皆無であった。

 

3 諸田賢順(採譜・継承・六段の編集者)

筑紫箏の祖として有名であり、筑紫筝曲を成立に導いた筝曲家として伝えられているが、その人生は多くの謎に包まれている。『諸田氏系図』『諸田系志』等の文献から大まかな賢順の人生の歩みは推測できるが、細部にわたっては不明な部分が多くあった。まずは諸田賢順の生涯を知らなくては、坪井氏が言われた「賢順はキリシタンだった」との話が本当かどうかもわからない。賢順に関して残されている『諸田氏系図』『諸田系志』の資料の歴史的事実の確認から調査した。諸田賢順の生涯の再検討により、賢順の生涯の出来事が歴史的に確定した。賢順が1555年(弘治元)から豊後府内に来ている事実が確認でき、同じ時期に明国から倭寇の取り締まりの依頼に豊後の大友宗麟のもとに来ていた鄭舜功の歴史的事実の確認が取れたことで『諸田氏系図』『諸田氏志』に対する信頼が増した。今まで不明とされていた明国の使者・鄭舜功の1555年(弘治元)の滞在地・臼杵の海蔵寺跡地の発見等、多くの歴史的事実が確認できた。賢順は豊後府内に14年間(1555年~1569年)滞在して大友宗麟に楽師として仕えている。この時期にキリスト教会も山口から府内に避難して、アルメイダが病院を開院して豊後教会の最盛期と重なっている。日本におけるキリスト教会の黎明期である。

キリシタン史を学んでいたから当時府内に在住している宣教師たちはわかっていた。

その中で日本音楽(5音階旋法)を理解してかつ西洋音楽(教会旋法・グレゴリオ聖歌)に詳しい人物を消去法で調べたらロレンソ了斎、元琵琶法師しかいないことが分かった。

 

ロレンソ了斎なら琵琶でグレゴリオ聖歌に伴奏を付けることができる。また、府内において諸田賢順との接点も多くある。諸田賢順の生涯の歴史的確認による位置付の研究は、謎の多かった賢順の生涯を新たな視点から再構築する研究となった。キリスト教が1549年(天文18)に日本に入ってきてわずか20年の間のなかに、諸田賢順が大友宗麟の招きで豊後府内に在住した1556年(弘治2)~1569年(永禄12)の14年がある。1556年(弘治2)府内において諸田賢順は日本人で初めてイルマン・修道士になったロレンソ了斎・元琵琶法師に出会い、ロレンソ了斎から西洋音楽である「クレドとその伴奏」を学び記譜をした。諸田賢順の府内で過ごした時期はキリスト教会の発展時期と重なっている。その後、諸田賢順は1569年(永禄12)に豊後府内から郷里の佐嘉南里に戻り17年を三根の東津で過ごし、1587年(天正15)9月、多久邑主多久安順に招きで多久に移住、1623年(元和9)7月13日、多久に於いて90年の生涯を閉じた。

 

4 六段の作曲者「ロレンソ了斎」・記譜及び継承者「諸田賢順」

ロレンソ了斎から教えられた諸田賢順が「クレド」の伴奏譜を今の形の「六段」に整えた可能性が非常に高い。なぜなら、賢順が53歳の時、1587年(天正15)多久安順より多久に招かれて安順の妻「千鶴姫」に箏を教授する役目を仰せつかり、多久梶峰城の下に屋敷が与えられ住むことになった。しかし時代は1612年(慶長17)以後キリシタン禁教に向かって徐々に進み始めキリシタン信仰の故に殉教する人達が増えてきた。これらの殉教報告を受けて賢順はロレンソ了斎から学んだグレゴリオ聖歌伴奏譜の取り扱いをどの様に考えただろうか?これら多くの殉教報告を聞いた賢順は、自分の受け継いだ音楽がキリシタンと深く関係していることを知っているが故に、弟子の玄恕に段物の本当の意味を知らせることは、幼い玄恕にとって命を危険にさらすことになる故に「段物」という伴奏譜である音楽の形だけを継承させたと考えられる。賢順が玄恕に段物を伝えた時、すでにキリシタン音楽と判らなくするために、現在の「六段」の形に姿を変えて伝えたと考えている。  

 

門弟の玄恕を経て八橋検校(1614~1685年)へ伝えられた時には、すでに現在の「六段」の形の楽曲を継承させたと考えられる。あるいは八橋検校がクレドの伴奏譜を独立した楽曲「六段」の演奏形態(速度を速たり、ゆっくりした個所の指定等)を現在の演奏形態に確立したのかもしれない。それゆえに「六段」は八橋検校作曲と言い伝えられたと推測される。

 

最も日本的と考えられていた箏曲「六段」を元のクレドの伴奏の姿に返したとき、1550年(天文19)フランシスコ・ザビエルから洗礼を受けてグレゴリオ聖歌を学んだロレンソ了斎の心の中に入り込んで留まり、徐々に熟成され、ある時を経て「クレド」の日本的伴奏譜となって結晶した。ロレンソ了斎の心の中で西洋音楽と日本音楽が出会い邂逅して混ざり合い、徐々に時間の純化を経て新たな形として「クレドの伴奏譜」として姿を現した。「六段」の中に「クレド」を見出し、ロレンソ了斎の「クレドに付けた伴奏」の姿を再現できたとき、キリシタン音楽が日本音楽と初めて融合した1550年(天文19)当時の音色を聴くことができるだろう。

 

第4章    筝曲「六段」とクレド

1 筝曲六段について

古典曲の中では歌が付かない独奏曲で、旋律の構成が6つの段(短い楽章)により作られている。各段の旋律にそれぞれの変化があり、筝曲の中では,きわめて重要視されている名曲。論理的であり旋律性を持たない音の組み合わせで構成されていて、それでいて純粋な音楽が内在する。主題や風景描写を特徴とした表題音楽とは、まったく異なる世界を持つ孤高の筝曲の名曲。作曲者不明。

段物と呼ばれる曲は、筝曲の中に6曲あり、琉球筝曲の中に7曲ある。筝曲《六段》と琉球筝曲《六段菅撹》は同じ旋律を持つ曲であり、調性に陽旋法・琉球筝曲《六段菅撹》と陰旋法・筝曲《六段》との違いがある。筝曲六段の5線譜化もできて、クレドの旋律はそのままに六段を割り振る作業をした。「筝曲六段とクレドの楽譜」を作って和声的に違和感を覚えたが、それが何なのかはわからなかった。

 

筝曲関係の本を読んで琉球にも同じ旋律の六段が「六段菅撹」として1700年(元禄13)に伝わっていることを知った。宮崎まゆみ著『箏と筝曲を知る辞典』東京堂出版、2009年、200~202頁には『琉球筝曲は古い形を保っている筝曲であり、《六段菅撹》は調弦音のことを除けば本土の《六段》とほとんど同じであるのに対して、《七段菅撹》は《七段》と細部で異なる所が多い。伝承していくうちに変化したか、あるいは当道筝曲の《七段》より古態をとどめているのかもしれない』とある。直ぐに沖縄より『琉球筝曲工工四 上巻と中巻』(琉球筝曲保存会発行、昭和53年版)を取り寄せた。

 

「六段菅撹」を5線譜化してクレドの旋律と比例させてみたら、和声的に本土の六段よりも、よりクレドの伴奏譜に近い満足する伴奏譜面ができた。琉球筝曲「六段菅撹」の方が基のクレドの伴奏譜ではないかと確信をした。琉球にも本土と同じ『六段』が『六段菅撹』として残っているから琉球「七段菅撹」も別のグレゴリオ聖歌の伴奏ではないか?新たにそう考えて琉球に1700年(元禄13)に伝わった琉球筝曲七曲の研究が始まった。結果は本文下記に書いた通り、本土に伝わっている筝曲全てが「聖母マリアのミサ曲(ミサ通常文第一・聖母マリアの祝祭日)」の伴奏であり、琉球筝曲の全てが「聖母マリアのための6つの讃歌」だった。

 

2 本土に伝わっている筝曲の内訳

箏曲5段「聖母マリアの祝祭日、ミサ通常文第1・聖母マリアの祝祭日より・Sanctus 」

琉球箏曲7段「聖母マリアの祝祭日、通常文第1ミサ、「Kyrie eléison 主よ憐れみたまえ」8段「ミサ通常文第1・聖母マリアの祝祭日より・Agnus Dei」

9段「ミサ通常文第1・聖母マリアの祝祭日より・Gloria」

12段「主の祈り・Pater Noster」と判明した。

 

ミサにおいて歌われる各歌は繰り返しなしで歌われるのが普通である。通常ミサにおいては、「キリエ・エレイソン」「グローリア」「クレド」「サンクゥトス」「アニュス・デイ」は1回だけ歌われる。従って1550年(天文19)当時もミサにおいて「クレド」も通常は1回だけ歌われていたはずである。その様に考えると、ロレンソ了斎は3種類の独立した『クレド』の伴奏譜を作ったと考えられ、初段の冒頭にある先唱(テーントンシャン)「Cred in unum Deum」が3段と5段の冒頭にも存在している。また結尾(コーダ・アーメン)は2段と4段(26小節が該当する)に存在している。おそらく、諸田賢順がクレドの伴奏譜だった六段を編集する際に、ロレンソ了斎から習ったグレゴリオ聖歌の伴奏譜の音を何一つ省略することなく「六段」と言う形に音を移し替えて形と姿を整えたと考えられる。

本土に伝わっている筝曲の中にひとつだけ、琉球箏曲7段「聖母マリアの祝祭日、通常文第1ミサ「Kyrie eléison 主よ、憐れみたまえ」が混じっている。どのような過程で本土筝曲に中に琉球筝曲が混じってしまったのか。またその逆に琉球筝曲の七段管撹に『ミサ通常文第1・聖母マリアの祝祭日より・Kyrie eléison』が収まっている。この2曲の入れ替わりがいつ起こったのか。謎は残ったままで説明のつかない不可解な入れ替わりである。

 

3 『六段』(本土の筝曲六段)・原曲は『クレド・Credo・信仰宣言』

「六段」も「六段管撹」琉球筝曲も、共に六段で構成されている。

1段27小節、2段26小節、3段26小節、4段26小節、5段26小節、6段26小節、

『クレド』の旋律のラテン語分節に従って六段を当てはめると、前半部分が1段(27小節)ほぼ真中の「Et resurrexit tertia die」から2段(26小節・アーメン)が当てはまる。

つまり「クレド」は3種類の伴奏譜で作られていて6段全ての段が当てはまる。

 

2段の26小節は「アーメン」、4段の26小節は「アーメン」、6段の26小節は「アーメン」に相当している。初段1小節の先唱「Cred in unum Deum」は3段目と5段目の始まりにも存在している。3段目と5段目の始まりは先唱「Cred in unum Deum」に音楽的にも和声的にも合致している。2段目と4段目に「アーメン」があるということは「クレド」の伴奏譜が3種類あるということで、皆川氏が主張する「クレド」を続けて3回繰り返し歌うとの理論とは相いれない。諸田賢順が「クレド」の伴奏譜を編集する際に、初段1小節目の先唱と同じ、3段目と5段目の始まりは先唱「Cred in unum Deum」の小節と音楽的にも合うように作られている。

 

4 クレド(Credo)と筝曲六段の関係の発見

「クレド」に「六段」を重ね合わせると、司祭が先唱する「われは信ず、唯一の神」が「六段」では導入序奏の「テーントンシャーン」に対応する。信者が歌う前半部と後半部が「六段」の初段と2段とに重なりあう。「クレド」の旋律のラテン語分節に従って六段菅撹を当てはめると、前半部分が1段(27小節)ほぼ真中の「Et resurrexit tertia die」から2段(26小節)が当てはまる。2段の26小節は「アーメン」、4段の26小節は「アーメン」、6段の26小節は「アーメン」に相当している。また、初段1小節の先唱「Cred in unum Deum」は3段目と5段目の始まりにも存在している。2段目と4段目に「アーメン」があるということは「クレド」の伴奏譜が3種類あると考える。諸田賢順が「クレド」の伴奏譜を編集する際に、ロレンソ了斎から教えられたとおり、伴奏譜の音を何一つ省略することなく「クレド」の伴奏譜を「六段」と言う段物に整理して移し替えたと考えられる。

 

5 クレド三番は、日本のキリシタン時代(1550~1614年)に歌われていたか

坪井光枝氏が「クレド3番」と「六段」の類似性を指摘されたが、なぜ坪井氏が「クレド3番と六段が合う」と言われたのか。クレド3番の成立年代は17世紀、1600年(慶長5)代でありロレンソ了斎(1525~1592年)と諸田賢順(1534~1623年)が生きていた時代には、クレド3番は成立していなかったし日本では歌われていなかったことが音楽資料にて証明されている。

フランシスコ・ザビエルによって1549年(天文18)に日本にもたらされたキリスト教だが、徳川幕府によってキリスト教禁教令が出された1614年(慶長19)までの60年の間に日本において歌われていたクレドは11世紀に成立していた「クレド1番」だけだった。

 

坪井光枝氏に、なぜ「クレド3番」を選ばれたのかをお尋ねしたら「カトリック聖歌集に掲載されていたから」と答えられた。現行のカトリック聖歌集には確かに2種類の「クレド1番と3番」が掲載されている。クレド1番は11世紀、3番は17世紀の成立である。時代的にはキリシタン時代(1550~1614年)には歌われていなかった「クレド3番」がなぜ「筝曲六段」と合うのか。

クレド1番と3番は、成立年代の違いと旋律に違いはあるものの、クレドの内容、言葉等は、根本的に同一であり、音楽構造的な大きな違いは感じられない。坪井光枝氏は「クレド3番と筝曲六段が合う」と主張されたが、その主張のなかにクレド3番とクレド1番の成立の時代的差はあれ、クレドの根本的な同一性と筝曲六段との類似性に気が付かれたのは、まさに神からの啓示と言わざるを得ない。この命題が神からの啓示として坪井光枝氏に与えられ、クレドと六段の類似性に初めて気付かれたことが、グレゴリオ聖歌と筝曲の段物の研究の発端となったことは、神の領域における奇跡の啓示だと思うし、そのように信じている。この坪井氏に与えられた神からの啓示がなければ「クレドと六段」の研究そのものも始まらなかった。

 

6 キリシタンの隆盛期時代(1550~1614年)の一般信徒の歌唱能力について

当時の一般キリシタン信徒の歌唱能力は、どれほどのものだったか?コレジオ等の教会教育機関においての音楽教育は、教会歴にしたがって季節ごとに変わるグレゴリオ聖歌を教えていた。そのために毎日一時間、音楽教育を受けていたセミナリオの神学生にとっては当たり前のようにグレゴリオ聖歌が歌えたし、各地方の大きい教会においては、ミサにおける聖歌は典礼に従って、聖歌隊がグレゴリオ聖歌を季節ごとに変わる教会歴に従って決められている聖歌(ミサ曲)が歌われていた。キリスト教最初期の府内においての記録のなかにも教会でのミサを維持するための音楽教育の重要性が記録されている。しかし一般信徒の歌唱水準は非常に低く、音楽教育を受ける機会もない信徒の水準は、楽譜もなく暗譜するしか方法がなかった。字が読める人は歌詞だけを書き写して旋律は覚えて歌っていた。したがってイエズス会の記録にも見られるように、よく歌われる聖歌が中心になり、同じ聖歌が繰り返し歌われ唱えられて、暗記するように教育を受けていた。このように書くと、当時のキリシタンたちが歌っていた聖歌が非常に少なく貧しいようにおもえるが、文献から見ても、キリシタンたちが歌っていた聖歌は多種多様に渡り、信仰生活を十分に支えるだけの聖歌が歌われていたことがわかる。確かに聖歌の数は少ないかもしれないが、数少ない聖歌が、キリシタンたちの心のよりどころとなり、弾圧と迫害にも雄々しく立ち向かう力となった。また殉教の際の記録から「*クレド・信仰宣言」や「**主を褒め称えよ・Laudate Dominum 」等を雄々しく喜びに満ちて歌いながら殉教していった。

 

*『クレド』1619年(元和5)長崎、ドミンゴ・ジョルジョの殉教。

**『Laudate Dominum』1622年(元和8)平戸、カミロ・コンスタンチオ神父の殉教。

 

最初期の1555年(弘治元)当時から、教会での信徒に対する音楽教育は一貫して変わりなく、比較的単純な聖歌を中心に教えていた。キリシタンが日々唱える「主の祈り」「アヴェ・マリア」「サルヴェ・レジナ」「クレド・信仰宣言」、および1605年(慶長10)に長崎で出版された『サクラメント提要』(この本は司祭用に制作された)に掲載されている19曲の聖歌等。ミサで歌われる聖歌に関しては、ロレンソ了斎が琵琶で伴奏譜を作っている「聖母のためのミサ通常文第一・聖母マリアの祝祭日」の「Kyrie eléison」「Gloria」「Credo」「Sanctus」「Agnus Dei」(現行カトリック聖歌伴奏集 256~261頁)等が、繰り返し毎週のミサにおいて歌われていたと推測される。

 

当時のキリシタン信徒たちが、毎週聖歌が変わるミサの歌について行けただろうか。

文字の読み書きさえできなかった識字率の低い当時のキリシタン信徒の音楽水準を考えると、煩雑に聖歌を変えるよりも、同じ聖歌を繰り返して歌う方が、キリシタン信徒教育のためには有効な手段であった。同じ聖歌が毎回のミサにおいて歌われていたと推測される。キリスト教に関する書物も一般信徒には十分に渡らなかった時代だったから、まして聖歌集を一般信徒が持つことはできなかった。聖歌の歌詞だけを書いた手書きの書物は現代まで残されている。高槻市千提寺の東家には、当時の歌の歌詞を書いた写本『連祷』(耶蘇教写経・東京国立博物館所蔵)が残されている。この事例からもキリシタン同士の集まりにおいては信仰と志を同じくする全ての信者が歌える聖歌が共通認識のもとに歌われていたと推測される。

 

7 ロレンソ了斎の時代の「クレド」の演奏方法

皆川氏により「六段」が「クレド」の伴奏譜と判ったときは「クレドを続けて3度繰り返す」と主張されていたが、研究が進むにつれて,クレドの旋律に対して六段の音を和声的に割り振ったところ、2段目の26小節、4段目の26小節、6段目の26小節が「アーメン」に当てはまることが楽譜から証明された。また初段冒頭の「先唱・Credo in unum Deum」は3段目と5段目の冒頭にも存在している。同様に2段目と4段目、6段目の26小節「アーメン」も存在している。つまり、ロレンソ了斎は3種類の「クレド」の伴奏譜を創っていたと考えることができる。本土筝曲は当時歌われていた「ミサ曲」と分かった。

 

その内訳は

箏曲・5段「ミサ通常文第一・聖母マリアの祝祭日より・Sanctus」

琉球箏曲7段「聖母マリアの祝祭日、通常文第一ミサ、Kyrie eléison主よ憐れみたまえ」、8段「ミサ通常文第1・聖母マリアの祝祭日より・Agnus Dei」、

9段「ミサ通常文第一・聖母マリアの祝祭日より・Gloria」と判明した。

 

ミサにおいて歌われる各歌は繰り返しなしで歌われるのが普通である。通常ミサにおいては「キリエ・エレイソン」「グローリア」「クレド」「サンクトゥス」「アニュス・デイ」は一回だけ歌われる。従って、1550年当時もミサにおいて「クレド」も通常は一回だけ歌われていたはずである。

その様に考えると、ロレンソ了斎は3種類の「クレド」の伴奏譜を創ったと考えられ、初段の冒頭にある序奏(テーントンシャン)が3段と5段の冒頭にも存在している。六段と同じ結尾(コーダ・アーメン)が2段と4段(26小節)にも存在している。おそらく、諸田賢順がクレドの伴奏譜だった六段を編集する際に、ロレンソ了斎から教えられたとおり、何一つ音を省略することなく「六段」と言う段物に整理して演奏しやすいように形を整えたと考えられる。

 

8 演奏上の問題点

「クレド第一番」は第4ヒポフリギア教会旋法によって書かれている。教会旋法は、古代ギリシャ音楽に源を持ち中世の教会で発展して、現代の長調や短調とも違う教会独自の旋法である。ヒポフリギア教会旋法とはミ【E】の音を終止音として、終止音上の5度を中心として、その下に広がる音域をもつ旋法である。終止音とは、曲が終止する音であり、ラ【A】の音を属音と呼び旋律の流れの中心となる音である。音階は、シドレミ【終止音】ファソラ【属音】シ、により構成されている。『六段』の平調子【平調律】は箏の最も基本的で最も多く使われる調弦法。日本の音階はミ【E】を基本音として、ラシドミファの5の音により音階が構成されていて、現代音階で言う、レ【D】とソ【G】の音が抜けている。(俗にいう四七抜きの音階)「六段」の平調子から、四、六、九、斗の弦を半音あげると「クレド」の音階と一致する。全ての箏曲の段物をグレゴリオ聖歌の教会旋法と同じ音階にしようとすると「平調子」から「乃木調子」にする必要がある。「乃木調子」の音階に教会旋法の半音になっている音と同じ音を半音にすることで音階が統一される。

 

第5章    琉球筝曲「六段菅撹」について

1 琉球箏曲の特徴

琉球箏曲とグレゴリオ聖歌の比較研究,解析の結果、琉球箏曲の全てが、本土では失われたと思われていた「聖母マリア讃歌・聖母マリアのための交唱と讃歌」だったことが音楽の視点から解析され証明された。有名な「聖母マリア讃歌」は6曲あるが、そのうちの5曲の伴奏譜が琉球箏曲の中に存在していた。

始めは、琉球箏曲の七段菅撹が「めでたし天の元后・Ave Regina caelorum」ではないかと思い分析を進めたが、七段菅撹の小節数が「めでたし天の元后・Ave Regina caelorum」のラテン語分節からも旋律の小節数からも和声からも合うことはなく違う曲だと解った。

 

その時点では「七段菅撹」の原曲は不明のまま保留し、まずは「めでたし天の元后・Ave Regina caelorum」に合う本土の段物の解析を始めた。「5段」はラテン語分節からも旋律の小節数からも和声からも合うことはなく違う曲だと解った。「7段」に合わせてみると、ラテン語分節も旋律の小節数も和声も見事に合った。これで「聖母マリアのための交唱と讃歌」の6曲全てが揃った。

 

「聖母マリアのための交唱と讃歌」の6曲全てが「段物」として箏曲の中にあるということは「聖母のためのミサ曲」もあるはずである。しかし「聖母のためのミサ曲」も3種類「聖母マリア被昇天祭のミサ」「聖母マリアの汚れなき心のミサ」「ミサ通常文第一・聖母マリアのミサ」があり、残りの「段物」にどのミサ曲が該当するのか1曲ずつ比較して調べて答えを探す作業が続いた。その結果「ミサ通常文第一・聖母マリアのためのミサ・In festis B. M. V.」が該当することが解った。「通常文第一・聖母マリアのためのミサ」曲には「Kyrie eléison」「Gloria」「Sanctus」「Agnus Dei」「クレド・Credo」「主の祈り・Pater Noster」がある。

 

ミサ曲の順番に従い最初の「Kyrie eléison」より調べ始めたが「5段」「7段」「8段」「9段」「10段」のどれにも合わない。もしかして保留にしていた琉球箏曲の「7段菅撹」ではないか?「7段菅撹」の各段の小節数の大きな違いに悩まされながらも「7段菅撹」が「通常文第一・聖母マリアのためのミサ曲」の「Kyrie eléison」であることが解った。

「グローリア・Gloria」は「9段」、「サンクトゥス・Sanctus」は「5段」「アニュス・デイ・Agnus Dei」には「8段」がそれぞれ該当した。

 

琉球箏曲も筝曲も1550年(天文19)日本音楽(5音階旋法)とキリスト教音楽(教会旋法)が初めて邂逅した結晶でもある。琉球に伝えられた1段から7段目での段物は本土では消滅してしまった。信仰的見地から考えれば、神は1550年(天文19)に初めて日本に伝わったグレゴリオ聖歌に付けられた伴奏譜を箏曲の中に隠されたのだとおもう。460年前の1550年(天文19)の初めから神は計画されておられたのだろう。

 

ロレンソ了斎が諸田賢順に伝えたグレゴリオ聖歌の伴奏譜が、整理され段物に姿を変えて、玄恕、八橋等、本土で伝えられた12の段物の半分が1700年(元禄13)以後本土ではなくなることを知っておられたが故に、1700年(元禄13)に琉球王朝に伝え琉球箏曲として1段から7段までを秘曲として琉球王朝に託されたのだとおもう。本土では琉球箏曲の1段から7段までは伝えられなくなり消えてしまった。しかし残りの五段から九段までと12段が残され伝えられてきたが、12段も10段と形を変えてしまい、本当のことが分からなくなってしまった。基が12段だったのか、はじめから10段だったのかの論争が起きてしまった。

 

しかし今回基歌だった「主の祈り」の旋律に添って和声的に解釈した結果、基は12段の形であったことがわかった。信仰がなければとても信じられる話ではないが、これが箏曲の12の段物の辿った460年の歴史の真実の姿だと考えている。

 

2 琉球筝曲の『六段管撹』・原曲は『クレド・Credo・信仰宣言』

六段管撹は、六段で構成されている。

1段27小節、2段27小節、3段27小節、4段26小節、5段27小節、6段27小節。

 

「クレド」の旋律のラテン語分節に従って六段菅撹を当てはめると、前半部分が1段(27小節)、ほぼ真中の「Et resurrexit tertia die」から2段(27小節)が当てはまる。

2段の27小節は「アーメン」、4段の26小節は「アーメン」、6段の27小節は「アーメン」に相当している。ただし、初段1小節の先唱「Cred in unum Deum」は、3段目と5段目の始まりにも存在している。3段目と5段目の先唱「Cred in unum Deum」が存在していることと、2段目と4段目に「アーメン」があるということは「クレド」の伴奏譜が3種類あるということである。諸田賢順はロレンソ了斎から教えられたクレドの伴奏譜を、何ひとつ形を変えずに「六段」と言う段物に移し替えたと考えられる。

 

3 クレド(Credo)と琉球六段管撹の関係の発見

「クレド」に「六段管撹」を重ね合わせると、司祭が先唱する「われは信ず、唯一の神」が「六段」では導入序奏の「テーントンシャーン」に対応する。信者が歌う前半部と後半部が「六段」の初段と2段とに重なりあう。「クレド」の旋律のラテン語分節に従って六段菅撹を当てはめると、前半部分が1段(27小節)ほぼ真中の「Et resurrexit tertia die」から2段(27小節)が当てはまる。2段の27小節は「アーメン」、4段の26小節は「アーメン」、6段の27小節は「アーメン」に相当している。また、初段1小節の先唱「Credo in unum Deum」は、3段目と5段目の始まり第1小節目にも存在していて、音楽的にも和声的にも合致することが確認された。3段目と5段目の先唱「Credo in unum Deum」が存在することと、2段目と4段目に「アーメン」があるということは「クレド」の伴奏譜が3種類あるということになる。諸田賢順がロレンソ了斎からクレドの伴奏を習った時と同じ伴奏譜を編集して「六段」と言う段物に姿を変えて次の世代に残した。

 

4 琉球箏曲六段菅撹と箏曲六段(本土)との違い

琉球筝曲の本土筝曲の六段の違い

琉球六段管撹・曲の構成表          (本土)箏曲六段・曲の構成表

1、一段27小節、二段27小節(アーメン) 1、一段27小節、二段26小節(アーメン)

2、三段27小節、四段26小節(アーメン) 2、三段26小節、四段26小節(アーメン) 

3、五段27小節、六段27小節(アーメン) 3、五段26小節、六段26小節(アーメン)

 

琉球六段管撹と(本土)箏曲六段の曲の構成表を見て判る通り、本土箏曲の六段の方が、1段の27小節の他は、各段26小節に統一されている。琉球六段管撹が基の形だと仮定した場合、本土の箏曲六段は1700年(元禄13)以降、元禄時代になってから、より段物として演奏しやすいように、一段の小節数を26に揃えたと考えられる。

 

5 1700年(元禄13)に2つに分離した筝曲六段

*琉球箏曲『管撹六段』と箏曲『六段』との2曲並列の比較楽譜 (別記参照)

グレゴリオ聖歌「クレド」の旋律と対比させた時に、琉球箏曲六段菅撹の方が、本土の箏曲六段よりも、旋律的にも調性的にも音楽的にクレドの旋律に馴染むことは否めない事実である。

 

今まで「筝曲六段」と「琉球筝曲六段菅撹」が非常に似ている、陽旋法と陰旋法との違いだけとか同じ旋律である等、漠然とした表現で言われていたが、実際に両者を対比させた楽譜の存在を見たことがなかった。今回、筝曲六段と琉球筝曲六段菅撹の2曲を5線譜化して比較した楽譜にして、視覚的に2つの曲のどこがどのように違うのかが判るように並列対比楽譜を作成した。

この楽譜により、同じ音型でも微妙にずらしてあったり、装飾されたりしていることが譜面から認識できる。休符の場所の違い,音型の位置のずれ、4連譜の違い等、指摘できることは数多く存在する。この並列楽譜化により筝曲六段と琉球筝曲六段菅撹、2曲の違いが一目瞭然に判るようになった。

 

琉球筝曲は1700年(元禄13)に琉球に伝えられて以来、琉球王朝の秘曲として守り続けられてきたという経緯が判っているので、変化という点に関しては、非常に少ないことが指摘できる。その意味でもロレンソ了斎が1550年(天文19)から創った「クレド」の伴奏譜原曲の形を琉球箏曲『管撹六段』が忠実に伝承しているのではないかと考えている。

 

これについても1550年(天文19)から1700年(元禄13)までの150年の時代の流れ、諸田賢順から玄恕、八橋検校、吉部座頭、服部清左衛門政真、武右衛門政実父子へ継承され、1700年(元禄13)稲嶺盛淳(いなみねせいじゅん・1679~1715年)により琉球へ伝承された。この150年の間に伝承の過程での変化はなかったのかとの疑問は確かに存在する。

特に本土の六段の変化の過程を時代ことに調査することで、どの検校がどのような意図でその変化を付けたのか、なぜ、そのような形に変えようとしたのかの意図も理解することができるのではないかと考えている。

 

琉球箏曲『管撹六段』は対比の基になるそれだけ貴重な基本楽譜だと思っている。このような対比楽譜からの研究により、ロレンソ了斎が1550年(天文19)当時に「クレド」の伴奏譜として創作した原曲の形を取り戻す作業ができるかもしれない。今現在、着手している研究は、あくまでも「クレドの旋律」に対して、おそらく原曲に近いとされている1700年(元禄13)に琉球に伝えられた琉球筝曲六段菅撹の楽譜の5線譜化した曲を基にしている。

それでもロレンソ了斎がクレドの伴奏譜として創作した1550年(天文19)より150年が経過している。諸田賢順、玄恕、八橋検校、吉部座頭、服部清左衛門政真、武右衛門政実父子へ継承され、1700年(元禄13)稲嶺盛淳により琉球へ伝承された。この150年の間に伝承の過程での変化はなかったのか。現時点でこの150年の間の変化を知る手掛かりは無い。楽譜による伝承だから、かなり正確に伝承されてきたと推測されるが、それを知る手掛かりになる楽譜が存在してないために調査することができない。

 

6 小節数の違いと陽性と陰性の調整の違いについて

琉球箏曲六段菅撹と箏曲六段を小節ごとに比べた場合、琉球箏曲六段菅撹の方が単純に書かれていて、箏曲六段(本土)は、同じ小節の同じ音に装飾された形が至る所に見受けられる。装飾された形が示していることは、初めは単純な音の形だった曲が、音を装飾させることにより、より華やかに演奏しようとしたことの現われと考えられる。また筝曲六段は、すべての段が26小節で統一されていて、段物としての形を統一して整えようとした意図が明らかに存在している。

 

もう一つの問題点は、琉球箏曲六段菅撹の陽調性と箏曲六段の陰調性があげられる。

おそらく、諸田賢順から玄恕、玄恕から八橋検校、八橋検校から吉部座頭,吉部座頭から薩摩藩士・服部清左衛門政真、武右衛門政実父子へ継承され、1700年(元禄13)稲嶺盛淳が薩摩に派遣され、薩摩藩士・服部清左衛門政真、武右衛門政実父子から八橋流筝曲の演奏法を学んで帰国した時まで「六段」を含めて「すべての段物」は、琉球箏曲に伝えられている陽の調性ではなかったかと推測される。

 

7 筝曲の継承過程における変容について

琉球では琉球王朝の秘曲として門外不悉の扱いを受け稲峰盛淳の後は尚温王(1795~1802年在位)冊封の時の琴弾役として中村筑登之が務めている。尚質王(1629~1668年在位)冊封の琴弾役は仲本興嘉(1784~1851年)が務めている。興嘉の後は長男の仲本興斎(1804~1865年)伊波興紀、その弟子の伊波興厚(1859~1920年)、玉城盛重(1868~1945年),興厚の弟子の仲里陽史子(琉球筝曲興陽会初代会長)盛重の弟子の仲嶺盛竹、城間千鶴(琉球筝曲保存会初代会長)を経て現在へと伝承されている。

 

一方、本土では八橋検校(1614~1685年)の後、1700年(元禄13)代の元禄時代、上方(大阪)で流行した陰の調性の影響を受けて「段物」にも手が加えられ現在の「段物」の調性に変えられていったのではないかと考えられる。

 

江戸中期には北島検校(?~1690年)、生田検校(1656~1715年)、倉橋検校1724年(享保9)没、三橋検校1760年(宝暦10)没、A安村検校1779年(安永8)没、浦崎検校(?~1800年前半)、山田検校(1757~1817年),八重崎検校(1776~1848年)、光崎検校(?~1853?年)等により、幕末まで徐々に段物に変化や装飾が加えられていったと推測される。

現在,どの時代の検校がどのような装飾を施したのか、元の段物のどこをどのように変えたのかを知ることはできない。何故ならば、前の検校から受け継いだ段物がどのような楽譜であったのか、それをどの時代のどの検校が、どのように変えたのかを知る手掛かりとなる楽譜が明確に残されてはいないことに原因がある。

 

現在残されている資料としての楽譜は『糸竹初心集』1664(寛文4)年,『大ぬさ』1687(貞亨4)年・現存楽譜は1648(慶安元)年、『筝曲大意抄』1779(安永8)年等が確認されている。現在の筝曲楽譜は、宮城道雄(1894~1956年)、中能島欣一(1904~1984年)

の両氏により編集楽譜化されて邦楽社より出版されている。

 

8 グレゴリオ聖歌と十二の段物との比較研究により解明された成果

*琉球箏曲

1、 瀧落管撹・一段  『アヴェ・マリア・Ave Maria』

2、 地管撹・二段   『めでたし元后・Salve Regina』

3、江戸管撹・三段  『麗し救い主の御母・Alma Redemptoris』

4、拍子管撹・四段  『天の元后・Regina caeli』

5、佐武也管撹・五段 『めでたし憐れみ深い御母・Salve Mater 』

6、六段管撹     『信仰宣言・クレド・Credo』(原曲と推測される・陽旋法)

7、七段管撹     『ミサ通常文第1・聖母マリアの祝祭日より・Kyrie eléison』

 

*本土箏曲

1、 五段      『ミサ通常文第1・聖母マリアの祝祭日より・Sanctus 』

2、六段    『信仰宣言・クレド・Credo』(原曲が装飾陰旋法化されている)  

3、七段       『めでたし天の元后・Ave Regina caelorum』

4、八段     『ミサ通常文第1・聖母マリアの祝祭日より・Agnus Dei』

5、九段        『ミサ通常文第1・聖母マリアの祝祭日より・Gloria』

6、みだれ・山田流一二段  『主の祈り・Pater Noster』

 

使用した楽譜の出典は『グラドゥアーレ・トリプレクス・Graduale Triplex 』(1979年ソレム修道院出版) 64~66頁、Credo・クレド・第一番、第四ヒポフリギア教会旋法。

原調は教会旋法第四番ヒポフリギア。始まりの音はG音。(4線譜楽譜)

 

*『カトリック聖歌集』266~269頁。へ長調。はじめの音はG音。(5線譜楽譜)

 

* 使用楽譜は「筝曲六段」宮城道雄(1894~1956年)中能島欣一(1904~1984年)編

邦楽社出版。邦楽社出版の許可を得て五線譜化した楽譜を使用した。

 

* 「琉球筝曲六段管撹」『琉球筝曲工工四 上巻と中巻』(琉球筝曲保存会発行、昭和53年版)から、琉球保存会の許可を得て五線譜化した楽譜を使用した。


 


 

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