小笠原玄也・加賀山みやの15通の遺書の読み下し文と現代語訳・解説

左側原文・加賀山みや・第12遺書より

原文
『どんな情の強き者でも命を捨てるぼどの得はございません。どんなうつけ者でも、自分の命を捨てる阿呆はございません。ただただ、捨てがたい信仰あってのことでございます』」加賀山みや・第12遺書より(現代語訳)

原文は著作権上、この note には掲載できませんので、原文を読みたい方は上記の「小笠原玄也と加賀山隼人の殉教」145~216頁に掲載されています。

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加賀山隼人興長之息女墓碑 小笠原玄也の妻・みやの墓碑 熊本市花岡山 撮影・原田譲治


小笠原玄也とその一家の形見送りと書状について                              小笠原玄也・みや一家が残した遺書は、形見送りに関する目録(五通)と、遺書(十五通)との二部で構成されている。玄也九通、みや四通、まり一通、くり一通。

一六三五年(寛永十二年)十一月四日に塩屋町・田中兵庫屋敷裏の座敷牢(現・熊本中央郵便局)に入牢してすぐの『霜月二日、源八良(玄也)』の遺書を始めに十二月二十二日までの五○日の間に、殉教の準備をすると共に、身の回りの整理をしながら玄也達はそれぞれの遺書を書き、これらの遺書をまとめてみやの従兄弟に当たる国家老、加賀山可政主馬に託した。このことは座敷牢に入れられて以来、厳しく外部との連絡が断たれていたことを表している。玄也一家が処刑された十二月二十三日以後、加賀山可政主馬はこれらの遺書を宛名の人には届けず自宅に保管し、四年後の一六三六年(寛永十六年)九月、封をしたまま、河上長右衛門を通して御老衆へ渡し、藩主細川忠利に差し出した。

細川忠利はこの遺書を見ることなく、そのままにしておき、宗門に関する書類の保管場所である、熊本城内、西の出丸の坤櫓(ひつじさるのやぐら)の十一番の箱のなかに保管させた。保管された遺書の封の表には『玄也闕所(けっしょ)場改申時、かき置ノ状并形見おくりノ注文』と記されていた。坤櫓(ひつじさるのやぐら)の十一番の箱に入れられてから一九一年、遺書が書かれてから実に一九五年のあいだ、人々の記憶から小笠原玄也みや達は忘れられていた。

『加賀山みやの墓』と『小笠原玄也の遺書』に関して、二つの出来事が『文政年間』と『天保元年』に起こっている。

『加賀山隼人正藤原興良息女墓』の発見
文政年間(一八一八年~一八二九年)、熊本祇園山(現・花岡山、古地図には祇園山とある)の中腹に『加賀山隼人正藤原興良息女墓』と彫りこんだ自然石墓碑が偶然に発見され、加賀山一族の関心を呼び起こした。加賀山隼人の弟、政房の三男・加賀山可政主馬より九代目の子孫、加賀山興純氏の花岡山墓所記に、『隼人息女の墓祇園山三本松の上にあり、右は文政年中に見出したる處(ところ)なり。方三尺重ね壱尺の切石土台石にて佛石はなく前に尺方の拝石あり、臺石(だいいし)に加賀山隼人正藤原興良息女墓と。一族始めて知る處にて自然石丸形なるを臺石の上におき佛石となし、右尺不足に付き、藤原二字を省き彫刻せしなり。此の墓所が如何にして此の荒野の山上にあるや一族心頭に懸かる所なりしに近年小笠原宥氏(六千石)の話に同家より隼人の養子となりし人ありとの事にて同家記の書抜を乞別紙添置所なり。』

文政年間に発見されたのは『加賀山隼人正藤原興良息女墓』と刻んだ土臺石(どだいいし)であり、その後、加賀山一族が新たに丸形の自然石をその上に立てたが尺不足のため藤原の二字を省いて『加賀山隼人正興良息女墓』と彫って祭った。

藩校・時習館記録局の安田貞方が行った『小笠原玄也の遺書の写し』
小笠原玄也たちが闕所(けっしょ)になったことは、類族改所帳や御家譜などによって知られていたが、闕所の理由は全く忘れられていたので、天保元年(一八三○年)、熊本藩校・時習館記録局の安田貞方が、厳重に保管されていた小笠原玄也の遺書の封を開いて書き写した。遺書が書かれてから一九五年後のことである。

『右の通りにて、坤御櫓(ひつじさるのやぐら)十一番の箱のなかに入れてある。今に至っては用達つ書付けではないが、このまま紙魚(しみ)の食べ物になるのも惜しく、かつ玄也という人が、如何なる訳にて一族が一緒に滅びたかという事も、世に知る人もないので、封を開いて写し、本書はもとのまま封をして箱に入れておいた。』
この文は安田貞方の筆写本に後記されている。

坤櫓(ひつじさるのやぐら)、十一番の箱に戻された『玄也の遺書』はその後顧みられる事はなかった。

『失われた遺書』の原本と『甦った遺書の写し』
徳川の時代が終わり細川藩から熊本県に移行、幕末の騒乱が続く一八七五年(明治八年)、陸軍歩兵十三連隊が熊本城内に設置され、一八七六年(明治九年)、熊本城は神風連の乱の激戦に巻き込まれた。翌年一八七七年(明治十年)西南の役の熊本城攻防戦(二月二一日から四月十四日)で、坤櫓(ひつじさるのやぐら)は西の丸一帯の延焼で焼け落ちた。

このとき坤櫓にあった十一番の箱も燃え、箱に入れられてから二三八年、遺書が書かれてから二四二年のあいだ保管されていた『小笠原玄也の遺書』の原本は永久に失われた。

しかし、天保元年(一八三○年)時習館記録局・安田貞方が写しておいた『遺書の写し』が北岡の『御文庫』に保管され残っていた。大正十二年、上妻博之氏が安田貞方の写本の中から『小笠原玄也の遺書の写し』を発見して詳しく調査され、昭和十二年、写真にて撮影された。平成六年、熊本市史資料編纂作業により編纂された。現在は『新熊本市史・資料編第三巻・近世一』八九一~九一○頁に収められていて、見ることができる。
(本稿は安田貞方の写本の写真と新熊本市史編纂資料に基づいている)

【原文史料】
『小笠原玄也の形見送りと書状』 諸文書集より 永青文庫蔵

『切支丹御改之事』上妻文庫より 熊本県立図書館蔵
 天保元年(一八三○年)時習館記録局 安田貞方が、小笠原玄也の遺書を整理して書き写している。

『新熊本市史 史料編 第三巻 近世一』 新熊本市史編纂委員会・熊本市(平成六年)
 小笠原玄也書置・形見送之注文、および 細川藩の記録。

小笠原玄也一家の遺書 その現代語訳と解説
小笠原玄也一家の形見送りと書状、その現代語訳の意義について

1、 小笠原玄也一家の書状の発見と紹介の経緯
(1)はじめに
三六五年前、一六三五年(寛永十二年)十二月二三日、熊本に於いて小笠原玄也と妻みや、子供達九人、下女四人、計十五人がキリシタン宗門の罪により処刑され殉教した。

処刑される前、十一月四日に塩屋町・寺社奉行・田中兵庫屋敷裏の座敷牢(現・熊本中央郵便局)に入牢して、十二月二二日までの五○日の間に殉教の準備をするとともに、身の回りの整理をしながら玄也達はそれぞれの遺書を書き、これらの遺書をまとめて玄也の妻みやの従兄弟に当たる国家老・加賀山可政主馬に託した。

玄也一家が斬首により処刑された十二月二三日以後、玄也達の家財は闕所(けっしょ)に付き没収されたため、加賀山可政主馬はこれらの遺書を宛名の人には届けず自宅に保管して、四年後の一六三九年(寛永十六年)九月、封をしたまま、河上長右衛門を通して御老衆へ渡し、藩主・細川忠利に差し出した。細川忠利はこの遺書を見ることなく、そのままにしておき、宗門に関する書類の保管場所である、熊本城内、西の出丸の坤櫓(ひつじさるのやぐら)の十一番の箱の中に保管させた。保管された遺書の封の表には『玄也闕所(けっしょ)場改申時、かき置ノ状并形見おくりノ注文』と記されていた。キリシタン宗門の罪により処刑された玄也達のことを身内は語ることなく、次第に人々の記憶から小笠原玄也・みや達は忘れ去られていった。

(2)『加賀山隼人正藤原興良息女墓』の発見
文政年間(一八一八年~一八二九年)熊本の祇園山(現・花岡山)の中腹に『加賀山隼人正藤原興良息女墓』と彫り込んだ自然石墓石が偶然に発見され、加賀山一族の関心を呼び起こした。調べるうちに家老小笠原宥氏(六千石)の話に、小笠原家より加賀山隼人の養子になった人がいることが分かり、加賀山みやと夫・小笠原玄也・その家族とがキリシタン宗門のため処刑された事実を知った。その後、加賀山一族が新たに丸形の自然石をその上に立てたが尺不足のため藤原の二字を省いて『加賀山隼人正興良息女墓』と彫って祭った。

(3)安田貞方が行った『小笠原玄也の遺書』の写し
小笠原玄也達が闕所(けっしょ)になったことは、類族改所帳や御家譜などによって知られてはいたが闕所の理由は全く忘れられていたので、一八三○年(天保元年)熊本藩校・時習館記録局の安田貞方が厳重に保管されていた小笠原玄也の遺書の封を開いて書き写した。『遺書の写し』は北岡の御文庫に保管され、『遺書』は保管されていた坤櫓十一番の箱に戻された。箱に入れられてから一九一年、遺書が書かれてから一九五年後のことである。

(4)『失われた遺書の原本』と『甦った遺書の写し』
一八七七年(明治十年)西郷隆盛率いる薩摩軍が西南の役を起こし、熊本城を攻撃した。熊本城攻防戦により坤櫓(ひつじさるのやぐら)は西の丸一帯の延焼で焼け落ちた。この時坤櫓の中にあった十一番の箱も燃え、箱に入れられてから二三八年、遺書が書かれてから二四二年のあいだ保管されていた『小笠原玄也の遺書』は永久に失われた。

一九二三年(大正十二年)上妻博之氏が北岡の御文庫に保管されていた小笠原玄也の『遺書の写し』を発見して詳しく調査され、一九二六年(大正十五年)上妻博之氏の細川家史料に基づいて山本秀煌氏が『西教史談・大正十五年版』に『切支丹武士の殉教』と題して遺書の第二号、第五号、第十号、第十三号の後半のみを紹介された。二八八年目にして小笠原玄也の遺書と殉教が、初めて人々に知られるようになった。

一九三六年(昭和十二年)上妻博之氏が安田貞方の『遺書の写し』を撮影され写真に記録された。現在は『切支丹御改之事』上妻文庫として熊本県立図書館蔵となり閲覧が可能になった。

一九四八年(昭和二三年)片岡彌吉氏がキリシタン研究・第三輯に『小笠原玄也一件』と題して『遺書の写し』のすべてを活字化して原文のまま掲載され、初めて遺書の全容が紹介された。三一三年目にして小笠原玄也達の殉教記録のすべてを詳しく知ることができた。(単語の誤訳、校正の間違い、解釈の違う箇所が幾つか散見される)

一九九四年(平成六年)新熊本市史編纂委員会の編纂作業により編纂構成され『新熊本市史 史料編 第三巻近世一』の中、『小笠原玄也書置・形見送之注文、および 細川藩の記録』八九一~九一○頁に収録されていて、小笠原玄也研究の基礎資料として購入が可能になった。安田貞方による『遺書の写し』は、正しく校正され活字化されている。

現代語訳を終えて,いくつかのこと
(1)現代語訳を作るうえでの新しい発見、及び変更事項
一九二三年(大正十二年)上妻博之氏が『安田貞方の遺書の写し』を発見して書き下し文にされ、研究者の間ではこの書き下し文を基に読み継がれてきた。今回の現代語訳作成にあたっては、一九三六年(昭和十二年八月)上妻博之氏が安田貞方の『遺書の写し』を撮影され写真に記録された『切支丹御改之事』、安田貞方自筆の写しを基にした。

古文の意味や文章のニュアンス、『候文』独特の言い回し、『女筆』特有の崩し字等、捉えにくいものが多く、意味不明のところも多かった。三六五年前に書かれた小笠原玄也一家の遺書を読むことは現在の私達には極めて難しく、そこには古文に関するある程度の知識と候文を読む訓練とが要求される。このことが今まで小笠原玄也の遺書が現代語訳にされなかった理由のひとつに上げられる。

ここにあえて現代語訳を試みた。これにより小笠原玄也の遺書を私達の言葉で読むことが出来るようになった。完全とは言い難い現代語訳だが、これからの小笠原玄也研究の叩き台になればと心から願っている。現代語訳を作るうえで多くの新しい発見もあった。

(一)第十号遺書、及び遺書の総数十五通について
みやの書いた第十号遺書『本書』『本書かえし書』、第十一号遺書『本書ちらし書』を、併せて一通と解釈し第十号遺書とした。それ故、遺書総数十六通を総数十五通に変更した。第十一号遺書『本書ちらし書』の意味を、本来の正しい『本書』及び『本書かえし書』の空いている隙間に散らして書いた文章と解釈した。なぜなら、安田貞方自筆の『本書かえし書』のある遺書を見ると、『本文』と『本文』の行間に、一回り小さく『かえし文』を書いている。それまでは遺書の書いてある通り写してきた安田貞方が、みやの第十号遺書に関してだけは、安田貞方がみやの文章を自分で整理して『本書』『本書かえし書』『本書ちらし書』と三つに分けて書いたと解釈した。本来『本書ちらし書』が書いてある場所にみやの文の通りに写したのではあまりに読みにくいと安田貞方は判断したのであろう。

(二)存在しなかった長男・源八の二通の遺書
(第八号遺書、第九号遺書について)
小源八良(小笠原玄也の別名、源八は玄也の幼少の時の名前と思われる)の書いた第八号遺書、第九号遺書とも、今までは玄也の長男・源八の遺書として解釈されてきたが、一六○八年生まれの源八は、小倉には一六一四年までの六年間しかいなかった。
イエズス会『一六一一年度日本年報』に、源八は四歳の幼子として報告されている。
『一人の信徒が四歳の幼児(源八のこと)に迫害が及べば信仰を棄てるかと尋ねると、その幼児は「いいえ」と答えた。このように素早く勇気ある返事が戻って来たのに驚いて、殉教が何であるか知っているかと糺した。すると「知っている。知っている。キリストの教えのために首を切られることです」と答えた。信徒がさらに「そのようなことになれば、かわいそうに泣くだろう」と言うと、その幼児は「そのようなことはない。それを喜び、喜び溢れる顔をして首切り役人に首を差し出します」と答えた。その信徒は驚き、かくも幼い子供達にまで、このように激しい殉教への情熱や願望を与え給うたことを主なるデウスに感謝し続けた。』

一六一四年、源八(六歳)は玄也一家とともに香春町採銅所鈴麦に送られ監禁されている。その後一六三二年(寛永九年)十二月に熊本に移されるまで、源八(二十四歳)は玄也とともに香春町採銅所において十八年間生活している。

したがって、第九号遺書に述べられている『私と一緒に宮内も(医学を)習ったから、これも宮内にあげてください。』の、『私』とは明らかに玄也自身のことと解釈できるので、到底、遺書の内容からも、年代から考察しても、第八号、第九号遺書を長男・源八の遺書とは呼べず、玄也の遺書と断定するほうが理論的である。
また、第六号遺書、第九号遺書とも、山田半左衛門宛になっており、山田半左衛門と玄也とは、幼なじみ、竹馬の友、古くからの親友のようで、玄也は半左衛門のことを『半左』と呼び、玄也は自分のことを幼名の『左近』『源八』と記していることからも二人の間柄が理解される。これ故、長男・源八の遺書二通は存在せず、玄也の遺書と判断して玄也の遺書を七通から合計九通に変更した。

(三)第九号遺書の日付『霜月二日』について
 第九号遺書は、小源八良(玄也の幼名)より山田半左衛門宛の『霜月二日』の日付になっている。熊本塩屋町、寺社奉行・田中兵庫屋敷裏の座敷牢に入ったのは、十一月四日であり、今までは入牢の後に遺書を書き始めたと言われてきたが、日付から考えるに、一六三五年(寛永十二年)七月二十九日、長崎奉行、榊原飛騨守の名によって山鹿に建てられた『第二之制札』を見て、懸賞金欲しさに山鹿の百姓・仁左衛門(助十郎とも称している)が長崎奉行所に訴え出て、長崎奉行所から細川藩に問い合わせのあった十月半ばには、玄也一家は山鹿郡庄村の家に監禁・保護されたと考えられる。この時玄也はすべてを悟り、殉教の覚悟をして一番初めに、親友であり、幼なじみ・竹馬の友である山田半左衛門宛に第九号遺書を書いたと推測される。その次の日、十一月三日に熊本に移動するように言われ、慌てて荷造りをして、四日の早朝に山鹿郡庄村を発ち、夜遅くに、熊本塩屋町、田中兵庫屋敷裏の座敷牢に入った。

(四)十番目の子供・おるい
みやの第十一号遺書に、玄也・みやの十番目の幼く愛らしかった女の子『おるい』の名前が出てくる。玄也・みやが殉教する同じ年(一六三五年)の六月二十日に病気で亡くしている。おるいが亡なった時、家族皆非常に落胆したであろうが、六ヶ月後、殉教を前にして遺書を書きながら、幼く愛らしかったおるいに殉教の苦しみを味あわせなくてよかったと、みやは母として心の内を述べている。殉教の時の玄也夫妻と九人の子供達のことは語られるが、もう一人の幼く愛らしかった女の子、おるいについては知られてなかった。

(五)玄也棄教の事実
玄也・みやの次女くりの第十五号遺書に『父も一度は天道に背き』とあり、玄也が棄教した事実を述べている。信仰の勇者、小笠原玄也が躓いて棄教したことは今まで語られることはなかった。くりの発言を裏付ける玄也棄教の記録も、細川忠利の手紙二通(寛永九年十一月二一日、寛永十年五月二八日の書状案)の中に確認できた。

寛永九年(一六三二年)十一月二十一日書状案の中に
『三斎様(忠興)御意と及候て宗門をころひ申候』とあり、

寛永十年(一六三三年)五月二十八日書状案の中に
『一、興三郎事、重々不届次第、猶以承届候事、一、興三郎儀ニ、起請を書上候寫被下候、はしらせ申間敷と書申候故、國にて之罪科ハ如何様にも可申付候、』とある。

『父も二十四、五年の浪人ですので』とあり、玄也殉教の年、一六三五年(寛永十二年)より逆算して、玄也が棄教した年は一六一○年(慶長十五年)、玄也が細川忠興の小姓を辞めさせられて禄(六百石)を召し上げられ、二十三人扶持をあてがわれた年を、一六一一年(慶長十六年)と特定できた。これはイエズス会の記録と合致する。

(六)棄教していたみやの末妹、りゅう(りう)
 第十二号遺書の名宛人、又市様の御奥様とは、みやの三番目の妹、りゅう(りう)。
りゅうがなぜ棄教したかは判らないが、幼い頃の苦しい監禁生活の中で味わった恐怖体験や衝撃的な父隼人の処刑(殉教)。母アガタとも隔離された不安な追放生活。思想の確立する大事な時期に十分な精神的保護が受けられなかったことが、りゅうの棄教の原因にあげられる。りゅうがいつ棄教したかは不明だが、りゅうはかなり以前に棄教していて、みやのりゅうに宛てた第十二号遺書には、りゅうが姉みやに対して長年に渡り棄教を勧めていたことが述べられている。
『たびたびこちらへおいでになられても、終に御気持ちに沿えず』『あなたや御親類様達から御忠告をいただき、時には御一人でおいでくださっても(忠告に従わないので)さぞさぞと御心中のほど申し訳なく思います。あなたにはとりわけ御手紙で言われたこと、たびたび御心にかけてくださったこと、忘れません。』

みやは姉として棄教した末妹りゅうに対して、心のうちにある捨てがたい信仰を表明している。また姉としての溢れる優しさを遺書のなかで示している。

りゅうの誕生年は不明。イエズス会年報の、父・加賀山隼人正興良の記録の中に「アンナ」の洗礼名で出てくる。一六一八年(元和四)三月頃から一六一九年(元和五)十月十五日、隼人殉教の日まで、幼かったアンナ(りゅう)は、父加賀山隼人と母アガタ、姉ルイザと共に小倉の御船宮のひどい小屋に、約一年九ヶ月間監禁されている。父隼人の衝撃的な斬首による処刑(殉教)。りゅうはその後小倉を追放され、忠利の庇護の下、或る秀れたキリシタンの家に預けられている。

『一六一八年年報』(元和四年)クリストファン・フェレイラ神父の報告
『(中浦ジュリアン)神父はその後、他の村に行ったが、そこにはディオゴ加賀山(隼人)の二人の娘、ルイサとアンナが追放されて或る秀れたキリシタンの家にいた。両人を慰めて先へ進んだ。』

その後、忠興の命令で後藤市十郎に嫁いだと考えられる。後藤市十郎(又市郎)は大坂夏の陣で豊臣方の将として戦死した後藤又兵衛基次の二男、後藤市十郎は十二・三歳頃、細川忠興に託され、一六二三年(元和九)頃に、物頭で五百石となる。一六四二年(寛永十九年)頃に死去。子孫は相継ぎ細川家に仕え、家禄五百石を受けた。りゅうは一六七二年(寛文十二年)熊本に於いて亡くなっている。

(七)入り日記の日付、『十二月廿四日』について
 この入り日記(容器の中に入れる内容品目録)には、玄也の署名も花押も無く、日付も十二月廿四日であり、玄也は前日の二十三日に処刑されていることから、したがって、この入り日記に限り、遺書を託された加賀山主馬の代筆と思われる。

小笠原玄也一家の遺書の問いかけるもの
書かれてから三六五年になる遺書の辿った時間の経過を振り返り、なぜ神は現代までこの遺書を隠されておられたのか、なぜ今まで現代語訳にされた文章がひとつも見出せないのかを考えるとき、そこに人の叡智を遥かに超えた不思議な神の摂理と御心を感じる。

殉教を目前にして書かれた小笠原玄也、妻みや、長女まり、次女くり、四人の十五通の遺書は読む人の心に鋭く問いかけてくる。
神の前に人はいかに生きるべきか、本当の生き方とは何か、本当の幸せとは何か、信仰とは何か、永遠の命とは何か、神とは何かを。

その答えとして、玄也とみやは自分の命を懸けて神を信じて生き抜いた姿を明確に遺書の中に示している。彼らの生き方は、現在の私達がこの世の生活の中に於いてどの様に神の前に生きなければならないかを教えている。迫害の最中にあって貧困に喘ぎながらも、玄也達は日々の自分に課せられた苦しい勤めのなかで、神に対しての勤めを忠実に果たした。人生という長い時間の中の苦しい行為を通して、日々繰り返される神のうちに生きるという自分との戦いを通して、自己を訓練して信仰と思想を確立していった。自分との日々の格闘があって、恒に変わらない信仰と思想が形成され、人格が形作られていった。

殉教者小笠原玄也達の遺書を通して、今、神が私達一人ひとりに問いかけておられる。あなたの人生はそれでいいのか、神の前に人はいかに生きなければいけないのかを。

読み下し文、小笠原玄也遺書十五通  (日付順に並び替えた遺書)
第九号遺書

  尚々刀うれ候ハバ,少もはやくじひ【慈悲】ニ成され下さるべく候。
たのみ申候たのみ申候、以上
我等儀、数年相親候へども、其記これなく、不大切ニ御座候事、あやまり申候儀とも御座候ハバ、皆御赦し候て下さるべく候。扨々幾久と存候へとも、無量無慈悲ニて、此度の儀申入べき様これなく候、此度之儀ニ候間、何ニても進し申度候へ共、御存じの如く我等仕合ニ御座候へハ、心計ニて御座候。先此書付之分申置候まゝ、御請取成さるべく候。中脇差・諷本・百万・とんすのよきふとん、御請取成さるべく候。主馬・宮内ニも申置候。諷本ハ、市十郎へ遣し候間、其御心を得これ有べく候。次ニ我等刀、主馬・宮内へ申候ハ、御うり候て、半左ニ御渡候て下さるべく候。我等借用仕候銀御座候間、貴さま其所御存之由申候。是ハうれ候ハバ、慈悲ニ成され候て下さるべく候。たとい十枚之物ヲ四、五枚ニ成る共、はやく御うり候やうニ御候て、少成り共はやくじひたのみ申し候。又我等薬箱大小弐つこれを進候。是も申し置候。いしょ【医書】ともハ、牛か【山田牛可】より相伝のも、又其外も皆其方遣候。大成箱ニいしょ共御座候。其内ニ*母半【ホアン・デ・トーレス修道士】より習申候目薬の方入られ候。是ハ宮内所遣され候て下さるべく候。清紙いたし候書物ニて入れられ候。我等と一度ニ宮内も習申され候故、是ハ宮内へ遣し申候。貴さまも一度は御立より候て、ヱへ御わひ事成されべく候。
ヱの御内証ハ光大ニ御座候。悪人のためニこそ御はしらんハ御座候へ、善人のためニてハ少も御御座なく候。たのもし御失ないかましく候。牛か・まるたさま・御まつへもよくよく御申候て下さるべく候。日比之不大切とも、あやまりとも、皆御ゆるし候て下され候べく候。申たく候文ニて申べく候へとも、熊これを進申さず候。せすす・まりや申候。以上
  御じひハはかりなししときく物を
  たのみをかけてわび事をせよ
                                    小源八良
                                       判
  霜月二日
   山田半左様
       人々御中

第一号遺書

  返す/\申上たき事山々にてござ候へとも
  筆ニ尽くしがたきまま、わさと留申候、以上。
其後ハ、そこもとの御そう不承、御心もとなく存たてまつり候。御無事ニ御座成され候や、久しく御そうこれなきゆへ、あけくれ申出計(ばかり)ニ御差候。ここもとあねしゃ(姉者)人、備前殿・宮内殿、何も無事ニ御さ候。御心やすくおほしめし候べく候。忠兵へ殿、又御こたち、何も御そくさいニ御さ候や、うけ給たく存候。
一、 我々事、右ニいとまこい、大かたすミより申候まま、そこもとへも、ふと参り、御遺さむにて、よろつ/\御物かたり申上べきと内々そんし候へとも、少しささわり御さ候て、いまニ参り候事もなり申さす内ニ、今度きりしたん事、又々おこり候て、我々又子ともみな/\一所ニはて申候、命の内、今一度御めにかかり申上度(たき)事共、御物かたり申上べきと存候ところニ、かやうニはて候事、御残多さ筆にも申つくしかたく候。万々心ニ存候事かなひ申さず儀、うき世のならひとハ申ながら、御めにかかり申さず、御残多くそんしたてまつり候。何にてもかたミにしん上申度(たく)候へとも、久々ろう人ゆへ、せひなきていニ御差候。此すすり(硯)はこ、我々ふだんつかひ申候まま、しん上申候。我々御らんし候とおほしめし候べく候。御心さしまてにて御さ候。かしく
      霜月五日                けんや(花押)
         忠兵衛殿
           御内へまいる           けんや

第二号遺書

  返す/\命の内、今一度御めにかかり申すべくと心にたのもしく存候ところニ、御いとまこいも仕らず、かやうニはて申候事、扨(さて)も/\御のこり多く御さ候。此ミちハ、おくれさきたつならひにて御さ候まま、うき世ハさため御さなく候。我々事、数年ののそミをかなへ候て、いまはて申候。少も/\御心に御かけ成されましく候。此の世の御いとまこひ申上ず、これのミ御残多さ/\、筆にもつくしかたく御さ候。四郎左衛門殿へ一度ハ御め二かかり、よろつ/\申たき事ども、又御れいも申たくあけ暮そんし候つるニ、ミな/\いたつら事二成り候。これのミ御残多そんし申候。此の一ぶ(分)はこともあまた御さ候まま、しせんの事のためにと、そんし候て、おき申候。手まへもなり候てとおほしめし候ハんところ、めいわく仕候。はて候うへハ、少も/\いつわり御さなく候。此のな(名)の下にをし申候いんはんふ(印判)は、このうへにもおし申候。その御心へなされ候べく候。又申上候ニ、こはん(小判)二ツ、一ぶ十一、たしかに御うけ取成さるべく候。
四月十八日の文、十一月二日ニととき申候。まつ/\そもしさま御無事ニ御座成され候よし、何より/\めて度そんしたてまつり候、此の春申上候ことも、事大かたすミより申候まま、壱人(ひとり)なりともかたつけ申度存候て申上候所ニ、きりしたんのせんさく、又々御さ候て、十一月四日ニさしきろう(座敷牢)へ入申候。上下十五人にてはいり申候。

一、 四郎左衛門殿御ろうにん成されず候いせん(以前)ハ、江戸よりさい/\御心つけ、いまに/\わすれ申さず候。いまほと長々御ろう人成され御さ候まま、此の度少し成りとも御いんしん仕度事と、あけ暮これを申出候へとも、長々のろう人ニて御さ候へは、心はかりニて、扨々(さてさて)くちおしくそんし申候。我々を江戸より、さい/\御ミつき成され候事、せめて命の内に、いま一度御めにかかり、その御れいなりとも申上たきと内々そんし、又ハ久々御めにかかり申さず候まま、あけ暮御なつかしく御さ候。此の一両年、一(ひと)しほ/\そこもとの御事はかり御なつかしくそんしたてまつる所ニ、そののそみもむなしくなり候て、かやうニ成申候。御残多さ申ても/\<つくしかたく候。四郎左衛門殿へ、くれ<<御れいを、よく/\御申成され下され候べく候。太郎左衛門殿へあい申さず、御残多さ、中々申上ぐべき様御さなく候。御山さまハ、われ/\かたへ御出成され、ゆる/\と御いとまこひ申上候。一たん御そくさいニ御さ候まま、御心やすくおほしめし候へく候。

何にても、かたミの物しん上申度御さ候へとも、我々事ニ御さ候へハ、長々のろう人ニ、少しの物もみな/\うりはたし申候。此のかうほん(校本)、御そはニ御おき成され候て、かたミニ御らん成さるへく候。又一ぶ(一分銀)十一、こはん(小判)弐ツしん上仕候。まことの御心さしまてにて御さ候。
      十一月十四日              けんや(印)

        御みやさま
           誰にても御中

第三号遺書

  尚々、貴様江戸ニ御座候砌(みぎり)ハ、越中守、上方へ罷(まかり)上候刻、一両度御宿へも御尋申入候へども、終ニ御目に掛れず、相果て候儀、扨々(さてさて)御残多存候。/\、以上
幸便に任(まか)せ、一書啓達令(せしめ)候。其の後ハ久々其の地之御左右承(うけたまわ)らず、御無事御座候哉(や)、御心元なく存候。爰元(ここもと)別条御座なく候。
拙者身上之儀、豊州にて出入御座候ニ付き、肥州へ罷(まか)り越候。我等手前ハ、大形済みより候へとも、せかれ(倅)共之儀埒明(らちあき)申さず候処ニ、今度貴理志端(キリシタン)御改めニ付き、拙者手前埒明き申さず候故、霜月四日ニ座敷籠へ罷(まか)り入り申し候。数年の望みを叶(かな)え申し候。我等身上も自由ニ罷(まか)り成り候ハバ、其の地へも与風(ふと)罷(まか)り越し、御めに掛かるべきと内々に存候処(ところ)ニ、不慮の儀出来仕候て、御めニ掛からず候事、扨々(さてさて)御残多く存じ候。

貴様ニハ終(つい)ニ御意を得ず、相果て候事、扨々千万書中ニ申し得す候。内々ハ命之内ニと存じ候へとも、存ままニ成らず候儀、浮世にて御座候間、是非ニ及ばず候。御暇乞
のため一書如此候(このごとくそうろう)。恐惶謹言
         
      霜月十五日               小玄や
                           長(花押)
        井忠兵様
          人々御中

第四号遺書

  久々御目に掛からず、御床敷ハ山々存候処ニ、終(つい)ニハ其の望み叶い申さず相果て候事、扨々(さてさて)御残多く存候。然(しから)バ此の中脇差、日比(頃)我等秘蔵仕、こしをはなし申さず、指し申し候間、進上申し候。かたみニ御覧成さるべく候。長々の牢人之内、少しの道具もうりはなし、進ずべき候物もこれなく、口惜しく存候。備前ハ来春江戸へ下り申し候間、其元にて、緩々と御対面成さるべくと存じ、一入(ひとしほ)/\御うら山敷く存事ニ候。我等の儀、備前御物語申すべく候間、書中具(つぶさ)にせず候。以上

幸便ニ任せ、一書啓達令(せしめ)候。其の後ハ終(つい)に御左右も不承候。当春便りを得申し候間、書状を以申入候へとも、江戸へ御下りの由(よし)承(うけたまわ)り候。御手前御身上未だ相済申さず哉、千万御心元なく存事ニ候、久々の御牢人にて御手前つつき申し間敷と存じ、これのみ笑止千万と存じ候、申に及ばず候ニ候へども、御有付之御才覚専用存じ候。
一、拙者手前之儀、去年大形相済み、子とも何方へも遣わすべき様ニ成り行き申し候所ニ、当年又貴理志端(キリシタン)、公儀より御改ニ付き、拙者又ハ妻子共埒明き申さず故、霜月四日ニ座敷籠へ入り申し候。数年之望みを叶え申し候。命之内、今一度御目ニ掛かり、日比(頃)御床敷存じ事とも申し入るべきと、内々心に頼も敷く存じ候処ニ、か様ニ相果て候儀、千万々御残多く存じ候。拙者数年牢人之内ニハ、切々御心ニ掛けられ、御心付ニ預かり忝(かたじけ)なく存じ候。貴様長々御牢人成され、今に御有付これなく候間、此の切(節)御心付けをも仕ず候。口惜しく存事ニ候。長々牢人仕候へハ、心ニ存事もみな偽リニ罷(まか)り成り候。一度ハ御目に掛かり、年月之御礼をも申し入べくと存じ候へとも、浮世ハ心に任せず候故(ゆえ)、是非ニ及ばず候。恐惶謹言
      霜月十五日             小玄や
                         長(花押)
        山四郎左様
          人々御中

第五号遺書

  尚々かたみニ、何をかなと存じ候へとも、数年の牢人にて候へバ、似合う物もこれ無く、御はつかしく候。又此の刀、我々陣刀にて御座候。はやさしはかし居候へとも、殊(こと)の外物きれにて候間、かたみニ進(しんぜ)候間、我々を御覧候と思し召しすべく候。陣刀之さや金のしつけ、相そえ只今進ぜ候。慥ニ御請け取り有るべく候。
  申すに及ばず候へとも、四郎左衛門殿ニ孝々を専ニ御心掛、尤(もっと)もニ候。又四郎左衛門殿への中わきさし(脇差)貴殿へ、こし刀備前、宮内へ遣わし候間、慥ニ御請け取り有るべく候。
其の後ハ久敷く、其の地之御左右承らず、御心無く存じ候。相変わる儀無く、御無事に候哉、承度存じ事ニ候、四郎左衛門殿久々江戸ニ御座候由(よし)内々承け及び候。
御身上之儀、今ニ相済(すま)ず、扨々(さてさて)御手前も罷(まか)り成り間敷くと存じ候ハハ、一入(ひとしほ)笑止存じ候。
一、 我々儀、当年又々貴理志端(キリシタン)御改めニ付き、熊本へ罷り出候。侍共色々異見仕られ候へとも、同心仕らず、終ニハ数年の望みを叶、十一月四日ニ座敷籠へ入り申し候、命之内、一度ハ貴殿へ対面仕るべくと内々頼も敷く存じ候処ニ、其のかいもこれ無く相果て候事、是非無き次第ニ候。日比(頃)存じ候事、はや偽りニ成り申し候。此の前四郎左衛門殿江戸へ御座候刻ハ切々御音信、又貴殿迄度々御音信ニ預かり候、今ニ/\わすれ申さず候。四郎左衛門殿、長々御牢人御座成され候間、此の度御心付けをも仕るべき儀本意ニ候へとも、拙者数年牢人之儀ニ候へバ、心ニ存じ計りにて、皆偽りニ成り、口惜しく存じ事ニ候。申すに及ばず候へとも、貴殿御有付専用存じ候、此の世の御暇乞いのため、一筆此の如く候。恐惶謹言
      霜月十五日             小玄や
                         長(花押)
        山中太郎左衛門殿

第七号遺書

  尚々当春ハ御状下され候へ共、其の砌(みぎり)相煩にて御報申し入ず今に候。心にかかり御残り多く存候。たた御床敷く存じ候/\、以上
幸便之条啓上令(せしめ)候。其の地何も様御息災ニ御座成され候哉、然(しから)バ我等儀、数年覚悟仕候宗門之儀ニ付き、親兄弟共に相果て申し候。豊前以来、一度御目ニ懸かるべきと存じ候処ニ其の儀無く、塁々御残り多く存ず計ニ御座候。定而各々様ハ此の道御存じ無くこれ有間敷候間、うつけたる果て様仕り候と思(おぼし)召(め)さるべく候。頓而(やがて)此の道も緩ニ罷(まかり)成べく候間、其の刻御合点参るべく候、豊前以来御懇志之段、誠ニ忘れ難く存じ候。命之内、一度ハと存じ候へ共、遠方と申し浮世之習い心中に任せず仕合とも、是非ニ及ばず候。御知人ニ成らざる以前、遥かニましニて候。何事も委(くわ)敷く申すべく候へ共、玄也方より申すべく候間、多毫(たごう)能(よ)からず候。
恐惶謹言
      極月三日              小左近
                           判 
        山中太郎左衛門様
             人々御中

第六号遺書

  尚々申す迄これ無く候へ共、随分と御身上之御嘆き肝要存じ候。牛可も老足之儀ニ候へハ、何事も貴様御一人の御迷惑ニてこれあるべく候。何事も昔ニ成り申し候/\、右ニ申し候事とも頼み申し候。以上
  
追而申し入れ候。我等おち(叔父)かたへ銀子弐十め遣候。源八郎おちかた迄遣候間、
  御尋候て御遣下さるべく候。此方より十七匁遣候間、加兵所より参候銀之内、三匁御遣候て下さるべく候。頼申候。又貴さまへ進候鉄砲之儀ハ、玄也書置之内ニ、一紙ニかき申候間、御不審有間敷候。慈悲(非)物之内ニ書申候間、此の状何へ成共、御さい判有べきかたへ御ミせ候て御座有べく候。
一書啓達令(せしめ)候。我等共か様ニ罷り成り、貴様一人之御歎きたるべきと存じ候。
去乍(さりながら)数年之覚悟ニ御座候而望達申候。貴様とハ、何迄もと存じ候へ共、浮世之習い、思う様これ無き事、是非ニ及ばず候。此の中ハ御大切之験も、これ無く打過申し候事、其の外貴様ニ対し、あやまり申し候儀とも是有るべく候間、万事御赦し候て下さるべく候。我々も赦申し候。其の地へ御立出候よりハ一入(ひとしほ)此大切之仕合、是非ニ及ばず候。何ニても形見進度候へ共、我等儀ハ御存之前ニ候へハ、何ニても進べき物これ無く候。常々鉄砲すき申し候ゆへ壱丁持申し候。小筒ニてこれ無き、鉄砲一丁御座候。
形見ニ進ぜ候間、我々御覧候と思し召し下さるべく候。長キ筒ハ源八郎鉄砲ニて御座候。
小キ筒ハ貴様頼申し候間、如何程ニ成共御売り候て、吊之ためニ頼み申候。能(よき)様ニして下さるべく候。牛可老・御母儀様へも、責而書状ニて成り共申度候へ共、結句入ざる儀と存じ、其の儀無く候。御残り多く存じ候儀、能様ニ仰せられ候て下さるべく候。左様に候へハ、ときの加兵衛所ニ小脇指うり候てくれ候へと申し遣置候、売レ候ハハ、銀子御請取り候て下さるべく候。売レ申さず候ハハ、脇指御取少ニ成共、御売り候て、鉄砲之と一所ニ吊之ため頼み申し候。恐惶謹言
        極月五日               小左近
         山田半左様(左衛門)          長(花押)
             人々御中
          

第十三号遺書

一日ハしほや(塩屋町)まちにて、いま一と御いとまこい(暇乞)申し候ハんと思ひまいらせ候へハ、はや御出候事ならす候て、ふた/\と、いとまこひ申し、御残り多きこそ候へ、二三ねんこのかた、そもし御心もしり、あわれほとちかくここちつきてい(居)まいらせ候ハハ、とうかん(等閑)なく候。かしく

申しあわせ候ハんなとと思ひまいらせ候事ハいつわりになりまいらせ候て、いまさら御残り多思ひまいらせ候。一たひハとかくお(終)わりてハ、かなハぬうき(浮)世にて候まま、まことにえしやしやうり(会者定離)のことハりにて候へハ、あふ(会う)ハわかれのはしめにて候つる、しほや町ニて此のわたほふし(綿帽子)は、こうつくしく御入り候と御申し候まま、され事申しつる事思ひいたし候まま、何をなさけにとおほしめし(思し召し)候ハすハ、われら(我等)かたみ(形見)に御らんしまいらせ候、わたほうしは、ことありあい候まま、はんえり一ツ、きんらん(金襴)のふるきかかみふくろ(鏡袋)まいらせ候。御心さしまて候、かしく
  
 返々、又介殿へ御申したまへ、御ふみしんし候、つつミ(包み)たる物とも、たしかに御ととけ候て、下まいらせ候。何事も/\夢となりまいらせ候。ほう/\(方々)へふミともおほく候まま、あらまし申し候。きく・あこ事つて申し候。さらは/\と御申し給候へく候。又あけへにのきぬ(絹)弐つ、てもとに候まま入れ申し候。
      十二月七日㊞             み
         おたつ
           まいる

第八号遺書

  以上
幸便之条啓達令(せしめ)候、其の後ハ久々御左右承(うけたまわら)ず、御床布(敷)御座候。そこ元皆様御息災御座成され候哉、御袋様より、当十月ニ玄也所へ御状参り候て、四郎左様、未だ江戸へ御座候由(よし)仰せ下され候。如何、御身上御有付所、御聞き成されず候哉、貴様未だ長府ニ御座候や、豊前ニてさへ程遠く、切々御左右承らず候。弥御左右御座無く候て、朝暮れ御噂計(ばかり)申し出候。然ハ玄也夫婦・兄弟共儀、数年ね
かい申し候宗門故(ゆえ)、悉(ことごと)く相果て申し候。扨々(さてさて)一度ハ御目ニ掛べきと存じ候へハ、御残多申し入べき様御座無く候。御暇乞記、一筆如此候。恐惶謹言
      十二月十三日             小源八良
                            長(花押)
         山太郎左様

第十二号遺書

しほ屋(塩屋)まちにい(居)まいらせ候ときハ、ひとをくたされ、御うれしく思いまいらせ候。さりながら、たひ/\ここもとへまいり候へとも、ついに御(み)けもしに入まいらせ候ハて、御残り多く御さ候。われ/\事、ついにハ此の事ゆへ、かやうになりまいらせ候まま、さて/\しやう(情)のこわき(強気)物とや、ミな/\さま御しかり成され候ハん事にて候。かす/\(数々)かもしに存じまいらせ候。さりながら、なにとしやうのこわき物も、命をはたし(果たす)候てのとくハ御さ候ハす、いかほとのうつけ物も、われといのちをすて申し候ほとのあほう(阿呆)も、御さ候ハす候。ただ/\、すてかたき事候ての事ニて御さ候まま、御うらミ成され候ましく候。そもしさま、御しんるいさまたちにもとをくけん(苦言)もし、一人折りふしハ御出候やう御さ候つるも、さそ/\と御心中のほと、かもしに思ひまいらせ候。そもしさま、とりわき御ふみにても申しうけ給候。さい/\御心にかけ候つる事、わすれ申さす候。御いとまこいのため、一ふて(筆)
申しまいらせ候。又けしやう(化粧)の水入れ壱ツ、おはぐろ(歯黒)つきしんし申し候。

これハ/\、いまたしくおほしめし候やと、そんし候へとも、そましさまハ、御きに御かけ成され候ぬ御心にて候。そのうへ、水入れハついにつかい申さす候、おはくろつきも一二と入れ申し候や、おほへ申さす候ほとに御さ候まま、いつも遣わし申し候物にても御さなく候まま、御とうかん(等閑)なきしるしにしんし申し候。おきさ五もしさまへ、おつるひなのかかミ(鏡)、なしち(梨地)のいへに入れしんし申し、おまりおくり、まき
え(蒔絵)のくし(櫛)二つい(対)、かたみにしんし候よし申し候。御うけとり成され、くだされ候べく候。
      十二月十七日             けんや内より
                            み
        又もしさまの
         御かもしさま
             人々御中

      へちに(別に)又申し候、
一 中のじゆあん
一 たくしまさすけとの
一 よしたきさへもんとの
一 さいとうこへもんのうち、かめ
一 みやさきちうへもん、まりや
一 たはこりあんむすめのうるすり
    此のしゆ(衆)へ事つて申し候、御心中かわり候ハすハ、こともわれ候事、おぼしめしいたし候て給候。かしく 
    
いつもきく物とや人のおもふらん、命つつむる入あいのかね、
此のほんかを、ミな/\御わすれ候ましく候と、御つたへ候てくたされまいらせ候。
  ちうへもんのまりやニハ、とりわき事つて申し度候、
  むかしの事御わすれ候や、さやうニハなく候つると
  申したく候。
      又市もしさま             みや
           まいる

第十一号遺書

いつそや、くまもとまてくたされ候文、ととき申し候、なかさきへ御出候よし、御身上いかかと御心もとなく思いまいらせ候、うけ給(たまわり)候ことく、おるい事、春よりのわつらい(患い)にても御さ候いて、六月廿日に御はて(果て)にて候、いも(妹)しさ、なんきなる事にあいまいらせ候。さりなから、さわかしく心にまかせぬ世の中にて候に、はやく御しまい候ハハ、くわはうしや(果報者)にて候、一たん(一段)とさいこ(最後)よく、満そく申し候。さてハわれ/\事、又候や、ここもときりしたんあらため御さ候て、ついにハ、ことも(子供)・われ/\けんや(玄也)一しよにろうしや(籠舎)いたし申し候。とし月ねかいかない候て、まつ/\かたしけなく(忝く)御さ候。あく人にて候まま、さきまてとどき申し候ハンかうさい(功罪)、そん(損)し候ハねとも、江戸へお申しやり候て、上さまへおほせ(仰せ)あけられ候との事にて候まま、いまか/\とまち候てい
(居)申し候まま、まつ御いとまこいのため、一筆かきおき申し候。そもしさま、御としより候て、いくほと(幾程)もなきせかい(世界)の事はかりにひ(日)をおくらしなされ候事、数々かなしく思いまいらせ候、とかくいやにても、あふニても、せかいより一たひハはなし申し候身にて候。御とし(年)もより候まま、なかきいのちの御なけき成され候べく候。かしく

かへし書
    返々、何にても御身上のたりになり申し候物を、しんしたく候へとも、われ/\事にて候へハ、よきたうく(道具)ももち候ハス候、此のちや(茶)入れハここもとにて人にミせ候へハ、銀子三まいほともし候ハんかと申し候つる、それも、ほんい候ましく候へとも、ちうあんさま存じ候まま、そもしさまへまいらせ候。そこもとにて御うり候て、少しのたりにもなされへく候。又しろかね(白銀)丁きん(銀)六十めと、いちふ(一分)三ツ、しんし申し候。そもしさま、御てまへならす候事、せうし(笑止)に候まま、何かなと思ひ候へとも、なにももち候ハす、ほととをく候へハ、こま/\の物ハとときかましく候まま、これハ、しゆめとの(加賀山可政)・くない殿(小笠原長良)たのミ候て、ちきにふたりへわたし候まま、たしかに御うけとり候へく候、かくひやうへ殿(角兵衛)・六大夫殿・ぢうへもん殿、めい/\御ふみにて申したく候へとも、ふミ数おほくなり候まま、そもしさまより、御申し聞き候てくたされ候へく候、みな/\さま、御心中かハり候ハすハ、はらいそ(パライソ)にて御けもしにいり候ハんと御申し候て、くたされ候へく候、そこもとちうへもん・まりや・あ五(こ)・むすめのかめにも、事つて申し候まま御申し候て、くたされまいらせ候、三大夫殿へ、御かもしへも、じゆあんへも、たくしまさすけへも、事つて申し候、ミな/\に、いつもきく物とや、人のおも(思)ふらん、いのち(命)つつむる入あ(相)ひのかね(鐘)、此のほんかを御わすれ候ましく候と、申され候て給候、かしく、そもしさまへあや(誤)まりたる事候ハバ、御ゆるし候て、くたされまいらせ候、
          大くし             けんや内より
           市ひやうへさま           みや
                 まいる

第十号遺書

其の後は、久しく御ふみにても申さす候、ひこ(肥後)へまいり候ても、またとをき(遠)さいこうニ、まへのことくにしてい(居)申し候へハ、ひんきもそんし候ハて、文にても申さす候。けんや(玄也)御いとま下され候ハハ、いったんきよい(御意)にまかせ候ハんとて、しうし(宗旨)のかき物御すまし候て、ひこ(肥後)まてめしつれ候て御下なされ候へとも、御いとまもくたされ候ハす、まへのことくニてめしおかれ、そのうへ、ことも、われ/\しうし(宗旨)をもかへ候へとの御事にてこそも、色々御いけんにて候つれとも、かへ申し候事ならすと申し切候へハ、さま/\の御ねんころニて、われ/\も申したき事とも、かき物をいたし候て申し上、そのうへニて、殿さま(細川忠利)御なつとくニてこそハ、やう/\とすミまいらせ候へ共、又ことし御やくそくもちかい候て、又しうし(宗旨)かへ候へとの御事にて候ゆへ、なかきこしよう(後生)すてかたく候て申しきり、十一月四日ニろうしや(牢舎)ニおほせつけ候。かしく

本書かへし書
    きりしたんのしうし(宗旨)、いまた少しも御そんしなくままさそ/\お(愚)ろしき物と、御しかり成され候ハんつれとも、たたよのつねの事にて候ハハ、おほしめし候ても、御らんし候へ、女の身として、かやうのし(死)にいたしく御さ候ハんや、まことにありかたき事ハ、ことは(言葉)にの(述)へて申し候ハんやうなく候へハ、なか/\申さす候、しさいたん/\御さ候。すてかたきしゆうしゆへ、かようになりまいらせ候。一たひ御目にかかり候ハんと、のそミまいらせ候事もかない候ハで、はてまいらせ候事、御残り多御さ候。けんや(玄也)の御しんるいしゆ(親類衆)、おほく御さ候うちに、まことに/\/\そもしさま、いまた御けもしにさへいりまいらせ候ハすに、色々御心つけ御ねんこの事、はて申候ともわすれ申ましく候、けんやもさやう申され候て、いつも悦こばれまいらせ候、此の春ハ、こともいつかたへもつかわし候へとのきよい(御意)ニて候まま、さやうも御さ候ハハ、われ/\連れ候てまいり、そもしさまへも御めにかかり、とし月の事、かたりまいらせ候ハんと思いまいらせ候へハ、何事も夢になりまいらせ候、そもしさま、さそ/\御なけき成され候ハん事そんし候へハ、何よりかもしに思ひまいらせ候て、なみたなから申し候まま、わけミへ申しましく候。
        四郎さへもん殿へ         けんや内より
                            み
         御かもしさま
            人々御中

本書ちらし書
又申しまいらせ候、むまのすけ殿へ、よく/\御れい申されてくたされ候へ、いつそや、ふせん(豊前)にい(居)まいらせ候とき、われ/\にまて御心にかけ、かたひら(帷子)くたされ候事、いまに/\御うれしく、御心さしを悦び申し候。かようにはてまいらせ候に、何かな/\/\とそんし候へとも、ひさしきろう人にて御さ候へハ、ことも(子供)のため/\/\と申し候て、われ/\たうく(道具)もうり候て、何も御さ候ハす、此の
ちや(茶)入ハ、われ/\おや(親)はやと(隼人)殿、わか身に、ちや入れ候てのミ候へとてたまハり候、さためてよくハ御さ候ましくやしらす候へとも、太郎もしさまへ、しんしたく候まま、まいらせられて、くたされまいらせ候、又そもしさまへ、はくのこそて(小袖)、むらさきから(紫柄)にて候を壱ツ、たうたい(灯台)・ひやうそく壱ツしんし申し候。こそてハいまたしくおほしめし候ハんまま、いかかとそんし候へとも、なれ/\しく御ねんころニ御申しなされ候事にて候まま、まつしんし候、御つかいかたへ、御つかい成されまいらせ候、ひやうそくハいまたつかい申さす候、らう人ににあい申さす候ゆへ、とりておき、ついに(遂に)一ともとほし申さす候、いまほとはやり申すと申し候まましんし候。これハおそはに御とほし成され候て、くさ(だ)され候ハハ、あら/\御残り多く御さ候。かきおくも袖こそぬるれと、むかしの人の申しおき候つる事ハ、いま身のうへにおほへまいらせ候、かしく
        四郎左さまの           み より
         又御かもしさま
              人々御中

第十四号遺書

ここもとの事、いつものしうし(宗旨)事にて、此のたひはて(果て)まいらせ候、そもしさま、としつき御ねんもしに候つる事、心中にハいかほと悦、かもしさまとハ、そもしさまの事のミ申し候つれとも、御めにかかり候て、御礼申し候事も御入り候ハて、かやうに成り行申し候事、御残り多く思ひまいらせ候。さためてそもしさまたちハ、あとにても御そんしなき事ニて候まま、御くやミなされ候ハんつれとも、しさいふかき事にて、かやうになりまいらせ候まま、のちにもしせん御聞き候ハハ、此のしうし(宗旨)に御なり候て、わか身なとい(居)まいらせ候所へ御出まち申し候。そもしさま、いかほと御こんせつ(懇切)ニ候へあそはし候つる事、わすれまいらせ候事ハ候ハねとも、ほとさへとおく候へハ、ことは(言葉)の御れいにもおよひまいらせ候ハす候事多く、やま/\御残り多く思ひまいらせ候。かもしさまも、そもしさまの事まて御申し候て、御残り多かりにて候。
何かな御かたミにまいらせ候たく候へ共、わか身事にて候へハ、御すもしまいらせ候、そもしさまに御残り多さ、かす/\(数々)にて候。太郎もしさまへも、よく御申し候てくたさるへく候、めい/\文ニて申したく候へ共、おなし御事に申入れ候事、御心入てくたさるへく候、あら/\御のこりおほく候。かしく
        四郎左さまニて           ま より
          おはさままいる
              申給へ

第十五号遺書

もし御さうも候ハハと、一筆申しまいらせ候。ここもとの事、ついにハしゆふし(宗旨)事ゆへに、はて申し候。さそ/\そもしさま、御残り多おほしめし候ハんと、御心中すいし申し候。ともしさまも一たんハてんとう(天道)を御そむき候へとも、なかく(長く)御すて候事なり候ハすゆへ、御申しかへし候て、みな/\と同せん(前)にて候。ここもとおち(叔父)さまたち、かもし(母)さまをハ御しかり候へとも、かもしさま御一人の御わさニてハ候ハす候。みなさまハ此の事御しり候ハす候まま、さやうニおほしめし候、事わりのことも此のうへ御入り候ハす候、みな/\此のこと思ひこみ候ての事にて候、あすはて申すまても、そもしさまの事のミ思ひいたし申し候。此のとしつき、御ねんころになされ候つる事、少しもわすれ申さす候。一たひハ御(み)けもし申し候ハんと、あさ夕ねかい(願い)申し事もいま/\あた事ニなり申し候。ともしさまの御おやこしゆとてハ、そましさま御一人ニて候、われ/\なとまて々々、何かと御申し候て、御ねんころに成さ
れ候ゆへ、いまた御めニもかかり候ハねとも、御なつかしく、あさ夕御うわさまて申し候。そましさま御てまへの事うけ給候て、かす/\(数々)御いも(妹)しさとも申しつくしかたく候。もはやそもしさまも、中々の御らう(牢)人ニて候まま、さやうに御さ候ハんと思ひまいらせ候。ともしさま(父)御てまへなり候ハハ、何もそもしさまへとこそおほしめしとみへ候へとも、ともしさまも廿十四五ねんの御ろう人にて候へハ、そもしさま御
とうせんにて候、かもしさまとハ、いつも/\御うわさ(噂)まて申し候、かもしさまハ、ことに一しほこんしやう(今生)ニて此のとしつきの御れい申し候ハぬ事、返す/\も御残り多きとの事にて候、(不分明)そもしさまニ、いま一たひ御めにかかり申し候ハんと思ひまいらせ候所ニ、かす/\御残り多さニて候、申しても/\/\つき候ハす候まま、ふて(筆)ととめ申し候、かしく
                         くり より
         御かもし(母)さま
                まいる
                御申給へ

  小笠原玄也の書状(遺書)現代語訳      諸文書集』 永青文庫蔵  
                    『切支丹御改之事』上妻文庫蔵
                『新熊本市史』資料編第三巻 近世一より

                         現代語訳 髙田重孝
                         指導監修 児玉雅治

小笠原玄也より 忠兵衛殿
第一号 遺書

その後は あなたの御様子も承知せずに、心許なく思っています。御無事でございますか。久しく御様子も分からないので、朝暮れに案じております。 こちらは 姉、備前殿、宮内殿、いずれも御無事でございます。御安心下さい。忠兵衛殿、又御子達、いずれも御息災でございますか、受け承りたく思っています。
さて 私達の事、右の方々に暇乞いを、おおかた済ませましたので、あなたをお訪ねして、いろいろ御話ししたいと内々に思っていましたが、少し差し支えまして、今になり、お訪ねできないうちに、今度きりしたん事(キリシタン摘発)が、またまた起こりまして、私達また子供、皆一緒に果てる(殉教する)ことになりました。
命ある内に、今一度御目にかかり御話ししたいと思っていましたが、このように果てること、残念なことは筆にも尽くしがたいことです。いろいろ心に思うことも叶わないのが、浮き世(この世)の習いとはいえ、御目にかかることなく、御残り多いことです。何か形見に差し上げたいと思いますが、久しく浪人をしていては仕方がありません。この硯箱は私達が普段使っているものですが差し上げます。私達と思い御覧下さい。心差しまででございます。かしく

     (寛永十二年・一六三五年)        (小笠原玄也)
     霜月五日                  けんや(花押)

       忠兵衛殿
         御内へまいる            けんや

返すがえす申し上げたいことが山々ありますが、筆に尽くしがたいまま、わざと止めます。以上
     

小笠原玄也より 御みやさま (山中四郎左衛門の妻)
第二号 遺書

四月十八日の御手紙、十一月二日に届きました。まずまずあなたは御無事とのこと、何より何よりめでたく思います。この春申し上げたことも、おおかた済ましたので、一人だけでもかたづけたく思っていましたところに、きりしたんの詮索がまたまたあり、十一月四日に座敷牢へ入りました。上下十五人にて入りました。
一、四郎左衛門殿が御浪人なさいます以前、江戸よりたびたびの御心づけ(御援助)
今に至るまで忘れてはいません。今ほど長く御浪人をされておられるので、今度は少しなりとも贈り物をしたいと、明け暮れ思いますが、長い浪人暮らしでは、心ばかりで、本当に悔しく思います。私達に江戸よりたびたび御貢ぎくださいましたこと、せめて命ある内に今一度御目にかかり、その御礼だけでも申し上げたいと内々思っていました。又は久しく御目にかかれなかったので、明け暮れに御懐かしく思っていました。この一、二年、ひときわあなたのことばかり御懐かしく思うところに、その望みもむなしく、この様になりました。御残り多いこと言っても言い尽くしません。四郎左衛門殿へくれぐれも御礼を、よくよくお伝えください。太郎左衛門殿(息子)にも会えずに御残り多いこと、じゅうじゅう(中々)申し上げようもありません。御山様は私達の所へおいでくださり、ゆっくりと御暇乞いをいたしました。御元気の御様子でしたので御安心ください。何かしら、形見の物を差し上げたいと思いますが、私達のことです、長々の浪人で少しの物も全て売り果たしました。この香盆、御そばに於いてくださり、形見に御覧ください。又一分(銀)十一、小判二つ 差し上げます。まことの御心差しまででございます。

      (寛永十二年・一六三五年)
      十一月十四日                けんや(印)

        御みやさま
           誰にても御中

返すがえす命ある内に、今一度御目にかかりたいと心頼みにしていたところに、御暇乞いもできないまま、このように果てる(殉教)ことになり、本当に御残り多いことです。この道は後れ先立つ習いですので、浮き世(この世)は定めがありません。私達の事は、数年の望みが叶い、今果てることになりました。少しもあなたの御心に掛けないでください。この世でのお別れが言えないこと、これのみが御残り多く、筆にも尽くし難いことです。四郎左衛門殿には一度御目にかかり色々申し上げ、又御礼も言いたいと朝暮れに思っていましたが、全てがむなしいことになりました。こればかりが御残り多いことです。私の面目はたくさんありますが、自然の成り行きと思うことにいたします。私が棄教すると思われるなら、迷惑いたします。果てることになっても、少しも少しも偽りはありません。この名の下に押す印判は、この上にも押して置きます。御心のままにしてください。さらに申し上げます。小判二つ、一分(銀)十一、確かにお受け取りください     

小笠原玄也より 井忠兵衛殿
第三号 遺書

幸便にゆだねて一書啓上いたします。その後は久しくそちらの御様子も承知せず、御無事でしょうか。心許なく思います。こちらは別条ありません。私の身の上については、豊洲(小倉)にて出入りがあり、肥洲(熊本)へ越しました。私達の事は大体済んでいましたが、子供達の事は埒が明かないところに、今度貴理志端(キリシタン)御改めがあり、私達も埒が明かないために、霜月(十一月)四日に座敷牢に入りました。数年来の望みが叶いました。私達の身が自由なら、御地にも立ちより、御目にかかりたいと内々に思っていましたところに、不慮の出来事のため、御目にかかれないことが、御残り多いことです。あなたの御意向を終に得ることなく相果て(殉教)ますことは、全く幾千万の手紙にしても申し述べることはできません。内々に命ある内にと思いますが、思うままにならないことは浮き世の常のことですから、仕方のないことです。御暇乞いのためこのように書きました。恐惶謹言

     (寛永十二年・一六三五年)       (小笠原玄也長定)
     霜月十五日               小玄也
                           長(花押)
       井忠兵様
          人々御中

尚々、あなた様が江戸に居られたとき、越中守(細川忠興)様が上方へお越しなられたとき、一、二度、御宿へ御訪ねしましたが、ついに、御目にかかれず、相果てますことは、御残り多いことです。以上     

小笠原玄也より 山中四郎左衛門殿
第四号 遺書

幸便にゆだねて一筆啓上いたします。その後は終に御様子も承知せずにいます。この春 御手紙を頂きましたので、書状を差し上げましたが、江戸へ下られたとうかがいました。あなた御自身の事 まだ済んではいないのでしょうか。まったく心許ないことです。長々の御浪人で、生計も思うにならないと思いますが、こればかりは気の毒です。言うまでもなく御有りだけの御才覚を専ら用いられて対処されることと思います。
さて、私達については、去年おおかた済み、子供は何処かへやられると思っていましたところに、今年また貴理志端(キリシタン)の御改めが、公儀(幕府)よりなされ、私また妻子共、埒が明かないために(信仰を棄てないために)、霜月四日に座敷牢へ入りました。数年の望みが叶いました。命ある内に、今一度御目にかかり、日頃懐かしく思っていたことなどお話ししたいと、内々心頼みにしていたところ、このように相果てることになりました。まことに御残り多く思います。私が数年、浪人していたあいだ、ひたすら御心にかけてくださり、御援助を頂きました。あなたも長い御浪人で、今も仕事が無いこのときに、何の御心付けもできないことを、口惜しく思います。長々の浪人ですと、心に思うことすべてが偽りとなります。一度御目にかかり、この年月の御礼をしたいと思いますが、浮き世は心に任せるようにはならず、しかたのないことです。恐惶謹言

    (寛永十二年・一六三五年)
    霜月十五日                小玄也
                           長定(花押)
     (山中四郎左衛門)
      山四郎左様
          人々御中

久しく御目にかからず、お話したいことは山々ですが、ついにその望みも叶わず相果てますことは、誠に御残り多いことです。さてこの中脇差は日頃私が秘蔵にして、腰から離し指していません。差し上げます。形見に御覧ください。長々の浪人ですので、少しの道具も売り離し差し上げる物も無く、口惜しく思います。備前(長兄・小笠原備前守長元)が来春 江戸へ下りますので、そちらでゆっくりと御対面もあることと思い、ひとしきり羨ましく思います。私達については、備前がお話すると思いますので、この手紙には事細かには書きません。以上

小笠原玄也より 山中太郎左衛門殿
第五号 遺書

その後は久しく、御地の様子もうかがわず、御心もとなく思います。相変わりなく御無事ですか、受け賜りたく思います。四郎左衛門殿には久しく江戸に御滞在とのこと、内々に聞いています。御身の上の事、いまも定まらず、御生計も苦しいことと思いますと、ひとしお気の毒に思います。
さて、私達の事は、今年またまた貴理志端(キリシタン)御改めがあり、熊本に呼び出されました。㊟1侍共から色々異見を言われましたが同意せず、終には数年の望みが叶い、十一月四日に座敷籠(座敷牢)へ入りました。命ある内に、一度あなたと対面したいと内々に心頼みにしていましたが、そのかいも無く相果てること、しかたのないことです。日頃思っていたことが、今となっては偽りとなりました。この前 四郎左衛門殿が江戸御滞在のとき、心に迫る御手紙を頂き、また あなたもたびたび御手紙をくだされたこと、いまだに忘れてはいません。四郎左衛門殿も長い御浪人ですから、このたび御心付けを真心より差し上げたいのですが、私も数年浪人ですので、心に思うばかりで、すべてが偽りとなり、口惜しく思います。言うまでもないことですが、あなたには暮しを立てることに専念してください。この世の御暇乞いのため一筆書きました。 恐々謹言

     (寛永十二年・一六三五年)
     霜月十五日               小玄也
                           長定(花押)
       山中太郎左衛門殿

尚々 形見に何かと思いましても、数年の浪人暮らしで、似合う物もなく、御恥ずかしいことです。またこの刀、私の陣刀で、すでに指しつくしていますが、殊の外切れますので、形見に差し上げます。私を御覧になると御思いください。陣刀の鞘(さや)、金のしつけを添えて差し上げます。確かに御受け取りください。言うまでもないことですが、四郎左衛門殿に孝行を心がけてください。四郎左衛門殿への中脇差をあなたへ、腰刀、備前と宮内へ渡していますので、確かにお受け取りください。

㊟1 侍共
細川藩家老の人々。志水伯耆守元五、奥田権左衛門正慶、小笠原備前守長元、小笠原宮内長良、等、細川藩による記録・細川家臣人名を参照。   

小笠原玄也より 山田半左衛門様
第六号 遺書

一書啓上致します。私共はこの様になり、あなたも御嘆きなさる一人と思います。とは言いましても、数年の覚悟にて望みが達せられました。あなたとは、何処までもと思っていましたが、浮き世の習い、思うようにならないことはしかたありません。この中には御大切のしるしもなく過ぎてしまいましたこと、ことのほかあなたに対して謝らなければならないこともあるかと思いますが、すべて御許しください。私達も許します。その地(御国・天国)へ旅立つからには、ひとしお大切な成り行きはしかたのないことです。何か形見に差し上げたいと思いますが、私達のこと御存知のとおり、何も差し上げる物もありません。常々鉄砲が好きですので一丁持っています。小筒ではなく、鉄砲が一丁あります。形見に差し上げます。私達だと思い御覧ください。長い筒は源八郎の鉄砲です。小さい筒もあなたに差し上げます。いくらになろうと、売るなり取り替えるなり、好きにしてください。牛可老人・御母上へも、せめて御手紙でも差し上げたいと思いますが、結局余計なことと思い、差し上げません。御残り多く思います。よろしくお伝えください。そういうことですので、ときの加兵衛の所に小脇差を売ってくださいと伝えてあります。売れたなら、銀子を御受け取りください。売れなければ脇差を受け取り、お売りくださり、鉄砲と一緒に取り替えてください。恐惶謹言

    (寛永十二年・一六三五年)        (小笠原玄也)
     極月五日                 小左近
         (左衛門)              長定(花押)
       山田半左様
           人々御中

尚々、言うほどのこともないのですが、随分と御身の上を御大事にすることが肝要です。牛可も御老体ですので、何事もあなた一人に負担が掛かると思います。何もかも昔のことになりました。右に申し上げたこと御頼みいたします。更に御願いいたします。私達の叔父方へ銀子弐十匁(もんめ)をあげたいと思い、源八郎叔父方まで遣わします。御尋ねくださり御遣わしください。私より十七匁を遣わします。加兵衛のところから受け取った銀子のうち、三匁を遣わしてください。頼みます。また あなたへ差し上げる鉄砲については、玄也の書置きのなかに、紙に書いておきますので、御不審に思わないでください。遺書(慈悲物)のなかに書いておきますので、この書状を何処へでも、御裁判する方に見せてください。

小笠原玄也より 山中太郎左衛門様
第七号 遺書

幸便にて啓上致します。御地は皆様 御息災でしょうか。さて私達の事は、数年覚悟していました宗門(キリスト教)のため、親兄弟共に相果てます。豊前(小倉)以来、一度御目にかかりたいと思っていましたが、それも叶わず、重ね重ね御残り多く思います。定めて皆々様はこの道(キリスト教)を御存知ないので、うつけたる(馬鹿な)死に様をすると思われますが、やがてこの道(キリスト教禁止)も緩むでしょうから、そのときに御理解されると思います。豊前以来御親切にしていただき、誠に忘れ難く思います。命ある内に、一度はと思っていましたが、遠方ですし、浮き世の習わし、意のままにならないことはしかたありません。知り合う以前よりは、遥かにましです。何事も詳しく言うべきですが、㊟1玄也の方より申しましたので、多くは書きません。恐惶謹言 

(寛永十二年・一六三五年)
極月三日                 小左近
                              判
山中太郎左衛門様

尚々、この春に御手紙をくださいましたが、㊟2そのときは病気で御返事もせず、今になりました。心にかかり御残り多く、ただ慕わしく思います。

㊟1 玄也の方より申しましたので、多くは書きません。
第五号遺書(十一月十五日付け)で、玄也が自分達のことを、詳しく述べているので、同じ内容の手紙を同じ相手に書く必要がないこと、

㊟2 第十一号遺書で、玄也とみやは春から、幼い娘、おるいの重い病気のために、日夜付きっ切りで、看病をしていたこと、しかし、その甲斐もなく六月二十日に亡くなった。

小笠原玄也より 山中太郎左衛門様
第八号 遺書

幸便にて啓上致します。その後は久しく御様子もうかがわずに、御無沙汰しています。あなたも皆様も御息災でしょうか。御袋様(御母様)より、この十月に玄也のところに、御手紙が届きました。四郎左様(四郎左衛門)が、まだ江戸に御在中とのこと、御知らせくださいました。御様子はいかが御聞きでしょうか。あなたはまだ長府におられますか。豊前(小倉)でさえ程遠く、いよいよ御様子がわからず、朝暮れ御噂ばかりしています。さて玄也夫妻・兄弟共に、数年願っていた宗門(キリスト教)のために、潔く相果てていきます。さてさて一度は御目にかかりたいと思いながら、御残り多いことは言いようもありません。御暇乞いのしるしに一筆書きました。恐惶僅言

(寛永十二年・一六三五年)       (小笠原玄也)
十二月十三日              小源八良
(山中太郎左衛門)           長(花押)
山太郎左様
人々御中
以上

小笠原玄也より 山田半左衛門様
第九号 遺書

私達のこと、数年相親しくしてくださいましたが、その中で失礼なこと、謝らなければいけないことなど、皆御許しください。さてさて、幾久しくと思いましても、(神の)量りがたい御慈悲にて、今度のことは言い様もありません。今度のことで何か差し上げたいのですが、御存知のような私達の有様ですので、心ばかりです。まずこの書置きの分、言ったとおり、御受け取りください。中脇差・諷本(ふうこん)百万・緞子(どんす)の良い布団を御受け取りください。主馬・宮内へも言っておきます。諷本は(後藤)市十郎へあげますので、そのつもりでいてください。次に私の刀は、主馬、・宮内へ言いましたが、売ってくださり、半左(衛門)に(代金)渡すよう頼んでいます。私が貸した銀があり、あなたがその所在を御存知ですので、それを売ってくださり、慈悲(献金・施し)にしてください。たとえ十枚の物が四、五枚になろうと、早く売ってくださり、少しなりでも早く慈悲にしてくださるようにお願いします。また、私の薬箱、大小弐つを差し上げます。これも言ったとおり、医書と共に牛可(山田牛可)より相伝の物です。また、その他のものも皆あなたに差し上げます。大きな箱に医書が共にあります。そのなかに*母半(ホアン・デ・トーレス)より習ったと言う目薬も入っています。これは宮内へあげてください。清書した書物も入っています。私と一緒に宮内も習ったから、これも宮内へあげてください。あなたも一度は信じたのですから、デウス(神)へ御詫びしてください。デウスの御内証(思し召し)は光大(偉大)です。悪人のためにこそ御受難されました。善人のためでは少しもありません。信頼を失うことがありませんように。牛可・まるたさま・御まつへも、よくよく言い伝えてください。日頃の失礼や誤りなど、皆御許しください。言いたいことを御手紙で言うべきですが、わざとそういたしません。せすす・まりや(イエス・マリヤ)に言います。以上

御慈悲は計りなししと聞く物を 頼みをかけて詫び事をせよ
小源八良
(寛永十二年・一六三五年)      判
霜月二日
山田半左様

尚々 刀が売れましたら、少しでも早く慈悲にしてください。頼みます。頼みます。以上

*母半 ホアン・デ・トーレス(Joan de Torres)  1606年、07年、小倉教会聖職者名簿の中に、イルマン・修道士ホアン・デ・トーレスの名前がある。
モハンの発音に近い名前にスペイン語読みでホアン(Juan)がある。洗礼者聖ヨハネの名前に由来する。
母半とは、ホアン・デ・トーレス修道士と推測される。ホアンをモハンもしくはモハンと呼び、漢字で母半と表記したと考えられる。ホアン・デ・トーレスは山口県出身の日本人。トーレス神父に対する尊敬から自分の洗礼名としてホアン・デ・トーレスを名乗った。8歳の時から府内の修道院で育てられポルトガル語に精通していて、宣教師の通訳をしていた。目薬の作り方は当時府内の病院で医師をしていたルイス・デ・アルメイダから習ったと思われる。

小笠原みやより 山中四郎左衛門尉殿と奥様
第十号 遺書

その後は久しく御手紙も差し上げておりません。肥後(熊本)に来ましても、また遠き在郷(田舎)に前と同じ様に住んでいますから、便宜もありませんので、御手紙も差し上げられません。玄也に御暇を下さるならと、いったん御意に任せて、宗旨の書き物を済ませました。肥後まで連れてこられても、御暇も下されず、前と同じ様にされて置かれました。その上、再三私達に宗旨を変えよと勧告され、色々御意見もありましたが、変えることはできないと(申し切り)御断りいたしました。様々の御心使いもあり、私達も言いたいことを書き物にして差し出しました。その上で殿様(細川忠利)が御納得なされて、ようやく済みました。また今年、御約束と違いまして、また宗旨を変えよとのこと、永遠の命(永き後生捨て難く)は捨て難いことなので、断固お断りして、十一月四日に牢舎(座敷牢)を命じられました。かしく

本書かへし書
きりしたんの宗旨(キリスト教の教え)を、まだ少しも御存知なければ、さぞ愚かなものと、御叱りなさるでしょうが、ただ、世の常のことと思われるに過ぎません。よく御覧になってください。女の身でこのような死を迎えることは、言葉では言い表せないほど、本当にありがたいことです。子細はいろいろございます。棄て難い教えですので、このようなことに相成りました。もう一度御目にかかりたいと、望んだことも叶わずに、果てていくこと、御残り多いことです。玄也の御親類の方々、多くある中で、まことにまことにあなたはいまだ同じ信仰にさえ入っておられませんのに、いろいろな御心使いや御親切、果てたとしても忘れることはありません。玄也もその様に言って、いつも喜んでいます。この春、子供を何処かへ連れて行くようにとの御命令でしたので、それなら、私達が連れて行き、あなたにも御目にかけて、年月のことなど、語りたいと思っていましたが、すべてが夢となりました。あなたはさぞかし御嘆きのことと思いますが、何より奥様の御嘆きを思えば、涙ながらに書いていますので、わけも分からなくなります。

(山中四郎左衛門尉)               より
四郎さへもん殿へ            けんや内
(みや)
御かもしさま                み
人々御中                        

本書ちらし書(本書及び折り返し書の行間に散らして書いた文章)

又申し上げます。馬之助殿(むまのすけ殿)へよくよく御礼を言ってください。いつのことでしたか、豊前(小倉)におりましたとき、私達まで御心にかけていただき、帷子(かたびら)をくださいましたこと、いまだに嬉しく御志を悦んでいます。このように果てて(殉教)いきますから、何かしら差し上げなくてはと思いますが、久しく浪人ですので、子供のため、子供のためと言っては、私達の道具も売りまして、何もございません。この茶入れは私達の親、隼人殿(加賀山隼人正興良)が私に、茶を入れて飲みなさいと賜ったものです。定めて良い物とは思いませんが、太郎様へ差し上げたく、御受け取りください。また あなたには絹の小袖、紫柄のものを壱ツ、また、灯台ひゃうそく壱ツ 差し上げます。小袖は今ひとつどうかと思われそうで、いかがかと思いますが、馴れ親しく御親切に言ってくださいますので、まず差し上げます。使われる方の使い方にまかせます。ひゃうそくはまだ使用していません。浪人には似合わないと思い取って置いたもので、ついには一度も燈していません。今こそ御役に立つと思い、差し上げます。これを御側で燈してください。なんと御残り多いことでしょう。書き置くも袖こそ濡るれ と昔の人が言ったことが身に沁みて思い知らされます。かしく

より
四郎左さまの                み

又御かもしさま
人々御中

小笠原みやより 大串市兵衛様
第十一号 遺書

いつぞやは、熊本までくださいました御手紙、届きました。長崎へ御出かけだったそうで、御様子はいかがかと心配しています。お聞きになりましたように、おるいは春からの病気のため、六月二十日に亡くなりました。愛らしかったので、可哀想なことでした。しかし、騒がしく心に任せぬ世の中ですから、早く亡くなったので、幸せな子でした。一段と最後が良かったので、満足しています。さて私達の事、また、こちらでキリシタン改めがありまして、終には、子供達・私・玄也一緒に籠舎(座敷牢)に入りました。年月の願いが叶いまして、まずは、ありがたいことです。悪人のままで先まで届くという功罪を、損じることはありませんが、江戸へ通達されて、上様(徳川家光)へ御報告されるとのこと、(殉教の命令を)今か今かと待っているところです。まずは、御暇乞いのため一筆書き置きます。あなたも年をとられ、幾程もない世界の事ばかりに、日を暮されている事、数々悲しく思われることでしょう。とにかく否が応でも、この世界よりひとたび離れる身です。御年もとることですし、長き命(永遠の命)を切に乞い願ってくださいますように。かしく

かえし書
返すがえす、何か御身上の足しになるものを、差し上げたいと思っても、私達のことですから、良い道具も持っていません。この茶入れをこちらで人に見せましたら、銀子三枚ほどするのではと言われました。それも本当か分かりませんが、ちうあん様(忠庵?)が御存知のはずです。あなたに差し上げます。そちらでお売りくださり、少しの足しにしてください。また、白銀丁銀六十匁(もんめ)と、一分(銀)三ツ、差し上げます。あなたも御生計が大変で、お気の毒と思います。何かをと思いますが、何も持って無く程遠くに居て、細々とした物は届きかねると思いますので、これは、主馬殿・宮内殿に頼んで、直接二人に渡しますので、確かに御受け取りください。角兵衛殿・六太夫殿・重右衛門殿、めいめいに御手紙を差し上げたいのですが、御手紙の数が多くなりますので、あなたより御伝えください。皆々様御心中が変わらなければ、はらいそ(パライソ・天国)に入る希望を持ち続ける様にと御伝えください。そちらの忠右衛門・まりや・あこ・娘のかめにも事付けてください。三太夫殿へ、御奥様へも、寿庵へも、たくしまさすけへも、事付けてください。皆々に、いつもきく物とや、人のおもうらん、命つつむる入相の鐘、この本歌を忘れないようにと、御伝えください。かしく、あなたへ対して間違い事がありましたら、御許しください。

より
大くし                   けんや内
市ひやうへさま                 みや
まいる

小笠原みやより 又市様の御奥様
第十二号 遺書

塩屋町に住んでいましたときに、人を遣わしてくださり嬉しく思いました。しかしながら、たびたびこちらへおいでになられても、終に御気持ちに沿えず、御残り多く思います。私達の事は、ついにこの事(棄教しない)ゆえに、この様(殉教)になりました。さてさて、情の強き者(強情者)と、皆々様御叱りなさることでございましょう。数々申し訳なく存じます。しかしながら、どんな情の強き者でも命を捨てるほどの得はございません。どんなうつけ(馬鹿)者でも、自分の命を捨てる阿呆はございません。ただただ、捨てがたい信仰あってのことでございます。御恨らみなさらないでください。あなたや御親類様達から御忠告をいただき、時には御一人でおいでくださっても、(忠告に従わないので)さぞさぞと御心中のほど申し訳なく思います。あなたには、とりわけ御手紙で言われたこと、たびたび御心にかけてくださったこと、忘れません。御暇乞いのため、一筆書きます。また、化粧の水入れ壱ツ、お歯黒付きを差し上げます。これはこれは、いまひとつどうかと思われるかもしれませんが、あなたは気にかける方ではないと思います。その上、水入れは一度も使っておりません。お歯黒も一、二度入れたかどうか覚えていないほどです。いずれも差し上げるほどのものではありませんが、御心安きしるしに差し上げます。おきさ五さまへ、御鶴雛の鏡、梨地の小道具箱を差し上げます。まりとくりの(所持していた)蒔絵の櫛弐対、形見に差し上げますので御受け取りください。
(寛永十二年・一六三五年)            より
十二月十七日               けんや内
                               み
又もしさまの
御かもしさま
人々御中

別に又申し上げます、
一 中のじゅあん              (中野寿庵)
一 たくしまさすけ殿
一 よしたきさへもん殿           (吉滝左衛門) 
一 さいとうごへもんのうち、かめ      (斉藤五右衛門の内、亀)
一 みやさきちうへもん、 まりや      (宮崎右衛門、マリヤ)
一 たはこりあんむすめのうるすり
この方々へ事付けいたします。御心中変わらなければ、子供、私達の事を思い出してください。かしく、

いつもきく物とや人のおもふらん、命つつむる入あいのかね、
この本歌を、皆々忘れないようにと伝えてください。
忠右衛門のマリヤには特に伝えてください。昔のことをお忘れでしょうか。そうであってはいけないと言いたいのです。

又市もしさま                みや
まいる

小笠原みやより おたつ
第十三号 遺書

一日は塩屋町にて、今一度御暇乞いを申し上げたいと思っていましたが、もはや御出になることもできず、ばたばたと暇乞いを言い、御残り多いことであります。二、三年この方、あなたの御心を知り、哀れがしみじみと身に近く心に感じていますので、御心安く思います。かしく
言い合わせたい(お話したい)と思うことは、偽りになってしまい、いまさらに御残り多い思いです。ひとたびは終わらずにすまない浮き世のこと、誠に会者定離のことわざどうり、会うは別れの始まりです。塩屋町にて、この綿帽子を好美しくお似合いですと、冗談を言われたことを思い出しました。何も特別なものと思われないなら、私の形見に御覧ください。綿帽子は勿論のこと、半襟一ツ、金襴の古い鏡袋を差し上げます。御心差まででございます。かしく

返々、又介殿へ御伝えください。御手紙と包み物を一緒に、必ず御届けくださいますように。何事も何事も夢となってしまいました。方々への御手紙等、多くなりますので、おおよそのことを言います。きく・あこへ事付けてください。さようなら、さようならと御伝えください。朱紅の絹二ツ、手元にあるものを入れておきます。

(寛永十二年・一六三五年)
十二月七日(印)            み

おたつ
まいる

*小笠原まりより 山中四郎左衛門様方 御母様(奥様のこと)
第十四号 遺書 (*小笠原玄也の長女)

私達の事は、いつもの宗旨(キリスト教)のことで、このたび果てること(殉教)になりました。あなたには、年月御心配りをしていただき、心中どんなに悦んだことか、母とは、あなたのことばかり話していました。御目にかかり、御礼を言うこともできずに、このようなことになってしまい、御残り多く思っています。
きっと、あなた様達には、後になってから、御存知ないことにより、御悔やみなされることと思います。子細深いことのため、このようになりました。後になり、子細をお聞きになられたとき、この宗旨になられて、(キリスト教を理解して、信仰する)私達の待っているところ(天国)に、おいでください。お待ちしております。
あなたがどんなに御親切にしてくださったかを、忘れることはありませんが、ただでさえ、遠いところですので、言葉にして御礼を言うことができないことが多く、本当に御残り多く思っています。母もあなたのことを言っては、御残り多いと言っています。何か形見に差し上げたいと思っても、私の身の上のことですから、御了承ください。あなたに御残り多いこと、数々です。太郎様へも、よく御伝えください。めいめいへ御手紙にて言いたいのですが、同じことになりますから、よろしく御伝えください。ああ、御残り多いことでございます。かしく

より
四郎左さまにて               ふ
おはさま
まいる
申給へ

*小笠原くりより 御かもしさま ㊟1(御母様)
第十五号 遺書  (*小笠原玄也の次女)

もし御指図があればと、一書申し上げます。私達のこと、ついに宗旨(キリスト教)のことで、果てて(殉教)いきます。さぞさぞあなたには御残り多く思われると、御心中御察します。父(小笠原玄也)も、一度は天道に背きましたが、長く捨てることができずに、思い返されて、皆と同じになりました。こちらの叔父様達は、母を御叱りになりますが、母一人の仕業ではありません。皆様はこのことを知らないまま、そのように思っているのです。物事の道理(真理)を知ろうともせずに、皆様はこのことを思い込んでいるのです。明日果てる(殉教)時までも、あなたのことのみ思っています。この年月、御親切にしてくださいましたこと、少しも忘れません。一度は希望を言いたいと朝夕願っていたことも、今では無駄になりました。父の親戚と言えば、あなた御一人です。私達などまで何かと言ってくださり、御親切にしてくださいました。いまだ御目にかかりませんが、御懐かしく、朝夕御噂をしています。あなたが私達のこと(殉教)を御知りになり、数々の愛しさは言い尽くせないことでしょう。すでにあなたも、長々の御浪人ですので、そのように思われると思います。父もこの状態でなければ、何もかもあなたへ差し上げたいと思っているようですが、父も二十四、五年の浪人ですので、あなた同様の有様です。母とは、いつもいつも御噂をしています。母は、ことにひとしお今生にてこの年月の御礼を言えないことが、返すがえすも御残り多いことと言っています。(不文明あり)あなたに、いまひとたび御目にかかりたいと思いながら、数々の御残り多さは言っても言っても尽きないので、筆を止めます。かしく

より
(母)                くり
御かもしさま 
まいる
御申給へ

㊟1 御かもしさま:御母さま
山中四郎左衛門の妻ではないかと思われる。遺書十五通のうち、八通が山中家宛になっている。玄也より五通、みやより一通、まりより一通、くりより一通、小笠原家と山中家との親交は、文面からも容易に理解することができる。まりが御母様と呼んでいることからも、くりも可愛がられていたことがわかる。

『新熊本市史』 資料編第三巻 近世一より   読み下し文  髙田重孝

小笠原みやより 山中四郎左衛門尉殿
第十号 遺書

その後は久しく御文にても申さず候(そうろう)、肥後(熊本)へ参り候ても、また遠き在郷(ざいごう)に前の如くにして居申し候えば、便宜も存じ候わず、文にても申さず候、玄也御いとま下され候わば、いったん御意にまかせ候わんとて、宗旨の書き物御済まし候て、肥後まで召し連れ候て、御下し成され候えども、御いとまも下され候わず、前の如くにて召し置かれ、その上、こともわれわれ宗旨をも変え候えとの御事にてこそも、いろいろ御意見にて候づれども、変え申し候事ならずと申し切り候えば、さまざまの御ねんごろにて、我々も申したき事ども、書き物をいたし候て申し上げ、その上にて、殿様(細川忠利)御納得にてこそは、ようよう済み参らせ候えども、又今年、御約束も違い候て、又宗旨変え候えとの御事にて候ゆえ、永き後生捨て難く候て申し切り、十一月四日に牢舎に仰せつけ候、かしく

本書かえし書(本書折り返し書)
キリシタンの宗旨、いまだ少しも御存じ無くまま、さぞさぞ愚かしき物と御叱り成られ候わんづれども、只世の常の事にて候わば、おぼしめし候ても御覧じ候え、
女の身として、かようの死に到したく御座候わんや、まことに有り難きことは、言葉に述べて申し候わんようなく候えば、なかなか申さず候、子細段々御座候、捨てがたき宗旨故、かように成り参らせ候、ひとたび御目にかかり候わんと望み参らせ候事もかない候わで、果て参らせ候事、御残り多く御座候、玄也の御親類衆、多く御座候内に、まことにまことにそもし様、御見もじにさへ入り参らせ候わずに、色々御心付け御ねんごろの事、果て申し候とも忘れ申しまじく候、玄也も左様に申し候て、いつも悦び参らせ候、この春は、子供いずかたへも遣わし候えとの御意にて候まま、左様も御座候わば、われわれ連れ候て参り、そもし様へも御目にかかり、とし月の事、語り参らせ候わんと思い参らせ候えば、何事も夢に成り参らせ候、そもし様、さぞさぞ御嘆きに成り候わん事存じ候えば、何よりかもしに思い参らせ候て、
涙ながら申し候まま、わけみえ申すまじく候、
                 
(山中四郎左衛門尉)               より
四郎さへもん殿              けんや内
(みや)
御かもし様                   み   

本書ちらし書(本書及び折り返し書の行間に埋めた書)
又申しまいらせ候、馬之助殿へ、よくよく御礼申して下され候へ、いつぞや、豊前に居参らせ候とき、われわれにまで御心にかけ、帷子(かたびら)下され候事、今に今に御嬉しく、御心ざしを悦び申し候、かように果て参らせ候に、何かな何かなと存じ候えども、久しき浪人にて御座候えば、子供のため子供のためと申し候て、我々道具も売り候て、何も御座候わず、この茶入れは我々の親 隼人殿(加賀山隼人正興長)、我が身に、茶入れ候て飲み候えとて賜り候、定めて良くは御座候まじくや知らず候えども、太郎もじ様へ、進じたく候まま参らせられて、下され参らせ候、又そもし様へ、はく(絹)の小袖、紫柄(むらさきがら)にて候を壱つ、又灯台ひょうそく壱つ進じ申し候、小袖はいまだしく(まだ早い)と思し召し候わんまま、いかがと存じ候えども、馴れ馴れしく御ねんごろに御申しなされ候事にて候まま、まず進じ候、御使い方へ、御使いに成り参らせ候、ひやうそくはいまだ使い申さず候、浪人に似合い申さず候故、取り置き、遂に一度も燈し申さず候、今ほど流行り(はやり)申すと申し候まま進じ候、これは御傍に御燈しに成りに候て、下され候わば、あらあら御残り多く御座候、書き置くも袖こそ濡るれと、昔の人の申し置き候づる事は、いま身の上に覚え参らせ候、かしく

(山中四郎左衛門殿)             より
四郎左さまの               み(みや)
又御かもしさま
人々御中

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