殉教者・小笠原玄也・みや一家の隠蔽先田川郡香春町中津原浦松での18年間について

加賀山隼人の墓碑・香春町中津原浦松


加賀山隼人の墓碑・この付近に小笠原玄也一家は監禁されていた
香春町採銅所・不可思議寺・細川興秋が宗順として1615年から1632年まで住職を務めた


細川幽斎菩提塔・細川孝之が1610年に建立・髙座石寺


細川孝之建立の髙座石寺にあるマリア観音像・授乳させている
西海市多似良町にある小佐々家墓地
小佐々家の屋根型キリシタン墓碑

豊前之国田川郡香春町中津原浦松に於ける小笠原玄也・みや一家の生活について、一六一四年から一六三二年十二月細川藩の肥後国熊本への移封まで(慶長十九年~寛永九年)の十八年間                                

 1 小倉城内、二の丸内の加賀山隼人正興良の屋敷での監禁
   (現・NHK北九州放送局、室町一)

『イエズス会年報・一六一四年年報』(慶長十九)ガブリエル・マトス(Gabriel de Matos)神父の報告』

『小倉には将軍の城(江戸城)の構築に行かなかった数人の武士が居た。小笠原与三郎はその一人であった。彼は他のものより身分が高く、隼人の婿(むこ)であった。初め家老達は彼の友人を通じ、ついで彼の許にあって権威と勢力と弁舌の優れた人達を通して猛烈に説得しようとしたが、なんらの効果もなく、最後にその母と未信者の親戚のものどもがきて、目に涙をためて、殿の好意、即ち、高い禄で遇した寛大さと重要な役に取り立てた大きな信用とに訴え、これらの凡てのものだけでなく更に希望できるものまでも、ただ僅かの言葉で信仰を棄てることを望まないばかりに、生命とともに台無しにしてしまわねばならぬと口説いた。しかし、彼はこれらの繰り言を黙然と聞き流して取り合わなかった。その中に越中(細川忠興)殿が江戸から小倉に帰るとの噂が広まった。与三郎はその命令で、是非なく死なねばならぬと覚悟し、その命令に従う心が無いので長崎に使いを走らせて、越中殿が着く前に告白と聖体の秘蹟によって戦いに備えることができるため一人の司祭を派遣されるよう菅区長に願った。菅区長はその無理もない要求に応じて一人の司祭(中浦ジュリアン神父)を送った。彼は警使の監視が厳しいため非常な困難を冒して市内に入り、彼の家に二、三泊まり、ミサを行い、与三郎だけでなく、その長女、母、大勢の家族の者の告白をも聞いた。』(ff47v)            

忠興公御年譜によると、一六一四年(慶長十九)この年の忠興(五二歳)の行動は、正月三日、江戸で徳川家康、秀忠に年頭の挨拶をする。二月二日、秀忠より忠興、茶の湯のもてなしを受ける。四月十日、江戸を発ち、二一日、駿府着、二二日、家康に伺候、五月中旬頃に小倉に戻り、六月二日、小倉にて泰巌寺を創建して織田信長の三三回忌法要を催している。したがってイエズス会年報の中の忠興殿が江戸から小倉に帰るとの噂が広まった時期は四月上旬から中旬と推定でき、中浦ジュリアン神父が小倉城内に密かに潜入して加賀山隼人宅に居る小笠原玄也一家を訪問した時期も忠興が小倉に帰る前の四月下旬から五月上旬頃と断定できる。 

当時、加賀山隼人正興良の屋敷は小倉城内、二の丸内(現・NHK北九州放送局、室町一)にあり、小笠原玄也は婿として加賀山隼人の屋敷内に同居・軟禁されていたと考えられる。加賀山隼人は江戸城構築のため、玄也が留守を預かっていた。それゆえ、中浦ジュリアン神父は『警使の監視が厳しいため非常な困難を冒して』小倉城内、二の丸の加賀山隼人屋敷に潜入している。『母』とは隼人の妻アガタ、『その長女』とは、玄也の長女まり(四歳)のことであり、長女まりの上に、長男・源八(六歳)、下に次女くり(三歳・アンナ)、推定で、双子の次男・佐々衛門、三男・三右衛門が生まれていた。(参照・マンショ第五号一七四~一八○頁、小笠原玄也・みや一家の年齢に関する考察) 

この年報の記録により、一六一四年(慶長十九)玄也達は小倉城内、二の丸内の加賀山隼人正興良の屋敷に幽閉・軟禁されていたことが分かる。後の加賀山隼人と同様に、細川忠興は玄也を小倉から追放のとき『俸禄を減じ、(六百石から二三人扶持・注1)所有していた道具も米も取り上げてこの世にあるありとあらゆる罰と苦痛を与えた。』と思われる。 

小倉城二の丸の加賀山隼人正興良の屋敷について
小倉市誌上巻三五頁所載、倉府俗話伝(春日信史著)には

細川家御家中高知面々居宅の條に『知行一万石 加賀山隼人 屋敷二の丸 表口三十四間二尺五寸(東四十三間 西四十六間)是は寛政年中(一七八九~一八○○年)福原山三郎屋敷なり(幕末頃の図面にては福原七郎左衛門屋敷なり)』とある。現・NHK北九州放送局、リバーウォーク北九州、室町一、紫川沿いの勝山橋までの敷地。 

『フライ・ハシント・オルファネール(Jacinto Orfanell) 神父の書簡、一六一九年(元和五)十月二五日付け』

『先ず筑後國へ行って、そこで告解を聴き棄教者を信仰に立ち戻らせ、忙しく数日間を過ごしました。そこから筑前・豊前の諸国へ渡りましたが、ここも長い間神父が来ていなかったので仕事が少なくありませんでした。(f.121v)
この豊前国では、殿(細川忠興)がキリシタンにとっては悪魔のような敵であり激怒し易く狂人のようであったために、恐ろしい脅威に晒されていました。それでキリシタンが私に会いに来ることは非常に困難でした。しかし彼らは特別な時間に秘かにではあったけれども来ました。私はこのような困難にもかかわらず、殿の住んでいる小倉市に数人のキリシタンが居るという消息を聞いたので、そこに行こうとしました。しかしその地の事情は甚だ酷しくて、特にある身分の高いキリシタン(この人物はディエゴ隼人殿【加賀山】と称し、その当時は殿の最高の側近の一人でしたが、今は信仰のために禄も領地もすべて奪われています)が、今は行く時期ではないと知らせてくれましたので、私は中津市という土地へ行きました。私はそこに住んでいる殿の息子(細川忠利)の執事である武士の家にいました。この武士はジョアン久保又左衛門という名です。私はこの家に(甚だ秘かに)泊まっている間に数名の棄教者を信仰に立ち戻らせました。それとこの人物と家族全員の告解を聴いた後にそこを出発しました。この者は後に述べるように、一六一八年に長男(トマス)と共に殉教しました。』 

オルファネール(Jacinto Orfanell)神父の報告の中で、オルファネール神父は小倉の御船宮内の貧しい小さな小屋に監禁されている加賀山隼人を訪ねるために連絡を取ったが、加賀山隼人は神父に危険を犯させてまで自分を訪問することを危惧している。加賀山隼人の賢明な判断がオルファネール神父を逮捕という最悪の危険から救っている。 

『一六一九年年報』(元和五)
『豊前では、当時ディエゴ加賀山隼人(興良)なる者の赫々(かくかく)たる殉教があった。 前年(一六一八年)領主の越中殿(細川忠興)は、彼と一家の者全部をひどい小屋(御船宮、現・北九州市立医療センター、馬借二丁目)に監禁した。ディエゴは、其のところで殉教する覚悟であった。』
日本切支丹宗門史 下巻 第四章 一○四頁・レオン・パジェス著 

『一六一九年年報』(元和五)
ジョアン・ロドリゲス(João Rodrigues Giram)神父の報告

『隼人に信仰を遠ざかり、棄てるように越中(細川忠興)殿は働きかけたが、ディエゴは堅忍強く立ち向かい、勝利を得た。最後にはそのために所有していた俸禄(六千石)も住んでいた屋敷(小倉城・二の丸)も取り上げられ(御船宮内の)貧しい家に閉じ込められた。』 

加賀山隼人は述べている。
『グレゴリオ・セスペデス(Gregorio de Céspedes) 死亡後、越中(細川忠興)殿は決意して教会を破壊し、まず第一にそして特に私を転ばせようと試みたし、今も試みている。そのために数百の方法を使って口実をみつけている。キリスト教徒であることを嫌い、私より俸禄(六千石)を減じ、所有していた道具も米も取り上げこの世にあるありとあらゆる罰と苦痛を与えたが、私は主の愛のために神の恵みでもってそれらに対処する準備を決意した。』 

上記の年報記録により、一六一八年(元和四)三月に加賀山隼人一家は、小倉城二の丸内の屋敷から移され、『(御船宮内の)貧しいひどい小屋に監禁された。』『所有していた道具も米も取り上げこの世にあるありとあらゆる罰と苦痛を与えた』ことが分かる。殉教の一六一九年十月一五日までの一年半を(御船宮内の)貧しいひどい小屋で、妻アガタ、二人の娘(ルイザとアンナ)と過ごした。長女みやは既に小笠原玄也へ嫁いでいて、一六一四年(慶長十九)十月頃、玄也と共に小倉を追放になり香春町中津原浦松地区に於いて厳重な監視下に置かれていた。 

御船宮とは
加賀山隼人一家が監禁されていた御船宮(現・北九州市立医療センター、馬借二丁目)とは、軍船を管理係留する軍事施設であり、紫川と寒竹川の合流付近に水門を作り川の水を堰き止めたので、潮の干潮に関係なく軍船は常に水に浮かんでいた。この船入れは軍船を一艘ずつ収納できるように掘割を作っていた。紫川・寒竹川の合流付近は溜池状の形を呈し、紫川・寒竹川ともに豊富な水量を保持していたと考えられる。舟入れの二階は備品の倉庫になっていた。加賀山隼人一家はその御船宮の中の粗末な小屋に監禁されていたと考えられる。 

*二三人扶持について(注1)
二三印扶持とは、今の価値に換算して幾らになるのだろうか?

扶持米(ふちまい)とは、扶持として支給する米のことであり、一人一日五合が支給されていた。籾(籾)で支給する場合と、玄米で支給するのとでは大きく違い、籾を精米すると、平均で約七〇%に下がる。 

一合=150g。一人の一日の支給が五合=750g
23人分 x 750g=17k250g
一ヶ月(30日)x 17k250g=517k500g
一年(12ヶ月)x 517k500g=6,210kg

 現在の米の価格を 5 kg袋=1,800円 として換算すると
6,210kg÷5 kg=1,242袋、
1,242袋 x1,800円=223万5,600円(2,000円=248万4,000円)
現在の価値に換算した二十三人扶持はおおよそ223万5,600円~248万4,000円。

 2 いつ、玄也達は田川郡香春町中津原浦松に追放されたか?

一六一四年(慶長十九)の秋、十月頃までに、小倉から香春町中津原浦松に追放されたと考えられる。細川忠興は小笠原玄也の件を大坂冬の陣の始まる前の秋、十月頃までに小倉追放という形で片付けた。既に四年前、一六一○年(慶長十五)五月にキリシタン信仰を棄てない次男興秋を匿うために香春町採銅所に「不可思議山不可思議寺」という隠し寺を、細川忠興は父細川幽齋と相談して造っていて、小笠原玄也一家を香春町中津原浦松に送り、香春岳城主・細川孝之に命じて監禁・監視させればよかった。細川忠興にとって細川家存亡を賭けた大坂の陣の戦いの前に小笠原玄也一人の小さなキリシタン問題にかかわっている暇はなかった。忠興は玄也一家を処刑するに忍びなく『身内の者ゆえ、許してやれ。』と言って小倉から追放した。なぜなら、同年十月二四日、徳川家康から出陣の命令が届き、毛利輝元達と合流して東上するように通達を受け、慌てて戦闘準備にかかっている。十一月、大坂冬の陣が始まった時、嫡子(三男)・細川忠利は将軍徳川秀忠に従って江戸から直ちに大坂に出陣した。十二月二一日、徳川軍と大坂方との和睦が成立している。 

忠興は船の準備が間に合わず十二月二九日に小倉を出帆。加賀山隼人は薮内匠と共に一隊の大将となり鉄砲隊百五八人を率いて三番船に乗り込んでいた。和議を受けて家康は忠興に帰国を命令した。結果的には冬の陣に間に合わなかった。翌一六一五年(元和元)大坂方との和睦が決裂、四月十九日、家康は忠興(五三歳)に再度出陣を命じる。加賀山隼人は薮内匠とともに忠興の一番備えとなって、急ぎ陸路中国路を大坂に向かった。戦いに遅参する失敗は二度と許されなかった。四月二八日、忠興は先発隊、精鋭五百名の兵を率いて摂州兵庫花熊浦に到着、五月五日、山城淀に到着、忠興は家康に伺候している。 

五月十日、忠興は大坂夏の陣の終了と共に大坂を発ち、翌日十一日、京の吉田に帰っている。細川軍約一万、備前国片上(岡山県)より撤退命令を受け豊前に帰る。忠利、供回りを連れて大坂へ向かう。敗戦処理の手伝いのため。その年の六月豊前での将士の論功行賞の評議が開かれた時、加賀山隼人は他の老臣達と共にその評議に参加している。(忠興公御年譜による)

加賀山隼人の墓碑(右)加賀山半左衛門の墓碑(左) 

加賀山隼人、加賀山半左衛門の墓
香春町中津原浦松地区、浦松公民館の上、照智院へ行く道沿いの北、御秡川に注ぐ用水路(浦松川)の左側。愛宕大権現神社、照智院下(柿下温泉近く) 

「浦松川に掛かる庚神橋という小さな橋があり、そのほとりに、庚神塔をはさんで二つの石 祠が祠られている。左の祠(墓碑)の石の扉の右左には十字架が二つ、右の祠(墓碑)の石の扉の右左にはギリシャ十字‡が二つ、浮き彫りにされている。かくれ切支丹に関わりがあるものと考えられている。地元の人は水神様と言って、現在田植え後に水神祭を行っている。」郷土史かわら 香春町歴史探訪 四三 一二〇頁 香春町教育委員会 

左の墓碑は加賀山半左衛門、右の墓碑は加賀山隼人の墓と考えられる。 

加賀山氏画伝より
『少右ェ門祭、八月十七八九日』とあり、墓地は『豊前国田川郡香原町加々義山八幡付近に在り』と書かれている。 

香原町とは現香春町、加々義山とは現鏡山、八幡付近とは現中津原にある鶴岡八幡神社を指していると解釈できるので、中津原浦松地区方面を指していると解釈できる。位置関係からして香春町から採銅所は北の方角。中津原浦松地区は東の方向にある。 

加賀山隼人、加賀山半左衛門の墓のある浦松地区は両側から山の稜線が落ち込んでいる山間の狭いV字の地形になった土地であり、西の稜線に沿って浦松川と呼ばれている幅1m位の小川が山上の湧水口から流れている。現在も十家ばかりが集落を作っている。 

小笠原玄也時代の一六一四年(慶長十九)当時、この浦松地区は、香春町から人里離れていて農家もほとんど無く、山間の狭い入口に見張りを置けば、出入りを簡単に監視できる場所であり、山頂には愛宕神社があり上からの監視も可能な地形である。愛宕神社の僧永椿が監視の責任を負っていた。 

おそらく、小笠原玄也一家は一六一四年(慶長十九)秋ごろから肥後熊本に移される一六三二年(寛永九)十二月までの十八年間をこの浦松地区に監禁、監視されていたと推測される。小笠原玄也一家は一六一四年秋頃、小倉を追放されてから直ぐにこの中津原浦松の地に監禁されていたと思われる。 

小笠原玄也たちが中津原浦松に監禁されたことは、採銅所の不可思議寺の初代住職、宗慶(行木善兵衛)には報告されなかった。暗殺(毒殺)する宗慶にキリシタンである小笠原玄也の監禁のことを知らせる必要はなかった。なぜなら、一六一四年一二月に宗慶は病気になり、次の年一六一五年四月四日に死去している。宗慶の死去は不可解な出来事であり、忠興の行動から考えたら、明らかに宗慶は暗殺(毒殺)されたと思われる。

六月六日、京都で細川興秋が切腹。秘密裏に瀬戸内海を船で運ばれ採銅所の不可思議寺に連れてきて、興秋は法名を宗順と名乗り、不可思議寺第二世に収まっている。 

一六一九年(元和五)十月十五日、小倉で加賀山隼人処刑、同日、日出で加賀山半左衛門処刑。忠興は、棄教を拒否し続ける小笠原玄也・みやに対して、見せしめとして処刑したみやの父・加賀山隼人と従兄弟の加賀山半左衛門、息子デェイコ(四歳)の遺体を送り付けた。「棄教しなかったら、お前たちもこのようになる」という忠興のからの酷い忠告だった。 

小笠原玄也・みやの一家はこの浦松に監禁されていたので、この地に父・加賀山隼人、加賀山半左衛門を埋葬、二人の墓は初めからこの地にあり、移動していないと思われる。 

加賀山隼人、判左衛門の墓の移動について

明治初年(一八六八)の廃仏毀釈のとき、採銅所鈴麦の山の上から移されてきた(豊前村誌)と書かれているが、二つの墓の大きさからして、明治初年の廃仏毀釈のときに採銅所鈴麦の山の上から下ろし、約六~八キロ南東の浦松地区に移すには相当の人数が要ったはずであり、採銅所鈴麦地区、浦松地区、両地区の古くからの地主の古老達の記憶にもその様な言い伝えがあれば覚えておられるはずだが、その様な言い伝えは聞いたことが無いと言われている。 

浦松地区にも明治初期の廃仏毀釈の時に水神様を採銅所鈴麦から受け入れたとの記録も無く、当時も墓を移動させるということは忌み嫌われたことでもあるので、浦松地区の人々が反対したであろうことは容易に想像できる。 

また、明治初年の廃仏毀釈時の移動説では、慶応年間(一八六五~一八六八年)の奥田興純の日記と矛盾する。

『奥田興純は文化年間(一八〇四~一八一七年)に豊前の人にその墓の事を聞き』とあるので、少なくとも一八〇四~一八一七年の時には墓は浦松地区にあったことがわかるし、『奥田興純自身が慶応年間(一八六五~一八六八年)小倉戦争(一八六八年)のとき』に浦松地区の加賀山隼人、半左衛門の墓を訪れている。 

奥田興純は文化年間(一八〇四~一八一七年)に豊前国の人にそれらしきことを聞き、慶応年間(一八六八年)小倉戦争のとき香春に出張時、上記の事を調べ日記にしている。 

加賀山興純覚書よりの要約

維新戦争終了直後、熊本藩の家臣、奥田興純が香春町に出張して、香春の宿に泊まり、その夜入浴の折、風呂焚きの翁(おきな)に『あれに見える兆灯に加々見山トアルが、そうではなく加賀山ではないか』と問えば、翁は『その様にも聞いたことがある』と答えた。『その加賀山とは我家のことなり、してその墓はあるか?』と問えば、『ある』と答えた。

明朝その案内を頼む。翌朝香春の宿を立つ。昨夜の翁を見れば、その髪は整えられ、腰には差料、その訳を問えば昔神職にてありによし、翁の話によると、この墓石付近の農民が畑に肥用の汚穢物を巻くと忽(たちま)ち牛馬の祟りありとて毎年八月十五日・十六日両日生魚酒を備えると祟りなしと伝えられる。この祭りを少右ェ門祭りと唱え、細川公領時、家老の人の墓なりと聞く。山畑の中に大の自然石倒れ、草木に埋もれ、石には彫刻の文字も知らず。云々。 

採銅所駅前の高巣橋の袂に加々見山旅館があったが、今は空き地になっている。行木家も明善寺前にあって、代々医者をしていたとの事。(柳井秀清氏・香春郷土史会会長談) 

豊前村史の書かれた年代の特定、及びその内容の信憑性について

もうひとつの文献は豊前村誌八巻中の第五巻、三三頁の『陵墓に関する古文書』であるが、『陵墓 衛門墓ト伝フ村ノ南方字鈴麥(むぎ)ニ石碑弐個アリ其形常躰ナラス異容二シテ最モ古風ヲ存ス文字ナク又年号干支其氏墓寺古記里言共二傳ワラス』                         豊前村誌八巻中の第五巻 三三頁 

『衛門墓と伝ふ村の南方鈴麦に石碑二個あり』この鈴麦の地名が、上記の加賀山氏画伝の記述と相反する場所を示しているので、問題の論点になっている。しかし現実に加賀山隼人の墓のある場所は中津原浦松地区なので、この豊前村史の成立年代と内容の信憑性が問題視されてくる。 

豊前村史は、いつ編纂され、どの程度信頼できる史料なのであろうか 

「明治新政府は一八七二年(明治五)に旧福岡県(筑前一五郡)に『福岡県地理全誌』編纂の命令を下した。一八七二~一八七四年(明治五~七年)にかけて調査し、一八七二年(明治五)から一八八〇年(明治一三)に編纂されている。この全誌から『小倉県』の部分を『豊前村誌』として刊行した。」 福岡県百科辞典・下巻 

結論として
上記の「加賀山興純覚書」にある奥田興純は文化年間(一八〇四年~一八一七年)に豊前国の人にそれらしきことを聞き、慶応年間(一八六八年)小倉戦争のとき香春に出張時、上記の事を調べ日記にしている時期と、「豊前村史」の刊行された一八八〇年には、明らかに一二年のずれがあり、「豊前村史」に書かれている『衛門墓と伝ふ村の南方鈴麦に石碑二個あり』という記述が誤記であることがわかる。 

(上申書の年代の特定、及び資料の出所)

さらに田川郡香春町にある奉行所の警備隊長からの城への上申書がいつの文献か、この文献に述べられている金山とはどこの金山か? 屯所とはどこにあったのか? を調査する必要がある。 

『金山を守る衛士共、心おだやかならず、屯所真近の墓石の如き石碑弐個あり、その形常躰ならず、又毎夜半奇々怪々の変あり、聞くに及ぶ所、先般細川殿この地領有の折、重臣の者故あって処断、この地に埋葬された由、ついては衛士の忠勤のため酒肴料を割増したい』 田川郡香春町にある奉行所の警備隊長から城への上申書。 

また、この上申書がいつ書かれたものなのか、どの史料から引用された物なのか、その信憑性はどの程度あるのか、を調査しなくてはならない。 

マカオに送られた加賀山隼人の遺骨の一部分
マカオ島の南,コロアネ島の南の端に聖フランシスコ・ザビエル教会がある。一九二八年(昭和三)に聖フランシスコ・ザビエルを記念して建てられた教会である。 

聖ザビエル教会・マカオ・コロアネ島

この教会には一九八〇年頃まで、ザビエルの右上腕骨が安置されていたが、現在は聖ヨセフ修道院付き教会に移されている。聖フランシスコ・ザビエル教会には、長い間五九名の日本人殉教者の遺骨が保管されていた。その中に加賀山隼人の遺骨もあった。 

聖ヨセフ教会・右内陣に聖ザビエルの右手が保存されている
日本から殉教者の遺骨を入れて送られた木箱・聖ヨセフ教会付属修道院所蔵

加賀山隼人は二人のキリシタンによって丁重に埋葬されたと記録にあるが、その二人とは小笠原玄也と妻みやだと推測される。当時玄也とみやが住んでいた中津原浦松の家を知っていて訪問できたのは中浦ジュリアン神父だけであり、加賀山隼人の埋葬されていた場所を知っているのも中浦ジュリアン神父だけであり、小笠原玄也と妻みやとともに、加賀山隼人の墓を堀起して洗骨した後に、遺骨の一部をもらい受けて、長崎に運び、マカオに送るために隠して保管していたのも中浦ジュリアン神父であった。長崎では中浦ジュリアン神父の宿主のキリシタン関係者(中浦ジュリアンの実家・小佐々家)が、これら殉教者の聖遺骨を預かっていた。 

「日本において迫害が厳しくなるにつれて、聖なる殉教者たちの遺骨が汚されたり、紛失することを防ぐためにマカオに送られた。」 

採骨された加賀山隼人正の遺骨は、中浦ジュリアン神父に託され秘かに長崎に運ばれた。長崎に於いても迫害が激しさを増して殉教者の遺骨の保管が難しくなり、長崎郊外に移された。 

西海市多似良町にある小佐々家墓地
小佐々家のキリシタン墓碑

中浦ジュリアン神父の子孫・小佐々学氏によると、中浦ジュリアンの出身の小佐々家はキリシタンであり、現在の西海市を本拠として栄えた地方の豪族である。実家がキリシタンであるから、殉教者の聖遺骨は実家の小佐々家に預けておくのが一番安全だった。小佐々家は水軍であり、水軍を生業としていた。殉教者の遺骨は小佐々家が預かっていたという。中浦ジュリアン神父の実家・小佐々家もキリシタンであり、中浦ジュリアン神父との関係で小佐々家累代の墓地にも無銘無紋の切妻蓋石型(庵型)の墓碑が2基、平型1基がある。(長崎県西彼杵郡大瀬戸町多以良郷寺山二一八四) 

一五六九年(永禄一二)初代多以良領主・小佐々弾正純俊と、その甥である中浦領主の小佐々兵部甚五郎純吉(中浦ジュリアンの父)は、大村純忠の援軍として、後藤・松浦連合軍と戦い、壮絶な最期を遂げたが、純吉の嫡子が天正遣欧使節の中浦ジュリアン神父である。中浦ジュリアン神父の影響で小佐々家はキリシタンであり、内密に殉教者の遺骨を預かることなど容易いことであった。佐々家は元々水軍であり、長崎からマカオに戻る船に殉教者の遺骨を海上で受け渡すことなど容易だった。 

キリシタン追放令の一六一四年(慶長一九)までの殉教者の遺骨は、一度にマカオに送られたが、それ以後は数回に分けられてマカオに送られている。 

加賀山隼人正以後の殉教者は五名であり、最後の殉教者は一六三三年八月一七日、長崎で穴吊りの刑で殉教したアウグスチヌス会ポルトガル人神父、フランシスコ・ガルシア(Francisco Garcia)神父である。日本で殉教した五九名の殉教者の遺骨は十九の小箱に収められて銀のケースに入れられて、聖ザビエル教会の祭壇の下に保管されていた。

一九九五年(平成七)マカオ司教区の決断により、五六名の遺骨が日本に返還された。現在は長崎西坂の二六聖人記念館の「栄光の間」に安置されている。 

いつ加賀山隼人の遺骨を掘り起こせたのか?
1、加賀山隼人の殉教は一六一九年(元和五)十月一五日
2、加賀山隼人の遺体が腐敗し堀起こして洗骨が可能になる時期は一六二一年(元和七)頃以後
3、中浦ジュリアン神父が体調を崩して輿で運ばれて博多、秋月、小倉へ伝道しているのは一六二四年(寛永元)の頃
4、中浦ジュリアン神父が脳梗塞で動けなくなり香春町採銅所の不可思議寺にかくまわれるようになったのは一六二六年(寛永三)頃以降
5、小笠原玄也一家が熊本に移されたのは一六三二年(寛永九)十二月 

時系列の表から見えてくるのは、中浦ジュリアン神父が、玄也と妻みやとともに、隼人の遺骨を掘起こせて長崎まで運べる可能性が高いのは、一六二四年(寛永元)の小倉訪問の時ではないかと思われる。 

*マカオの聖ヨセフ教会修道院で、一六〇四年、長崎で殉教した二六人の殉教者の聖遺骨とともにマカオに送られた殉教者の入っていた木箱を見せていただいた。 

*木箱の上に書いてあった正書き
『In 1604 there was a religious massacre in Nagasaki Japan Among the 61 victims。There the Chinese, Japanese, Portuguese, Spanish and Indians,Some of their bones were preserved at St Joseph’s Seminary』 

『一六〇四年、日本の長崎において大虐殺が行われたときに、その中に六一名の犠牲者がでた。彼らは中国人、日本人、ポルトガル人、スペイン人とインド人である。彼らの遺骨は聖ヨセフ教会神学校において保管された。』 

『イエズス会・一六一八年年報』(元和四)
クリストファン・フェレイラ(Cristvão Ferreira)神父の報告

『信仰のために追放されたキリシタンの中に、聖殉教者ディエゴ加賀山隼人の女婿(小笠原玄也)とその妻および八人の子供がいる。彼らは豊前の領主・長岡越中殿(細川忠興)によって貧しい農民が何人か住んでいるのみの人里離れた土地に追放され、その土地から出ることはおろか居住する家からも出ないように監視されている。(細川興秋)その高い身分やキリスト教徒としての徳から言って、これを訪ねて慰めるに相応しい人物であるから、大きな危険を犯して神父(中浦ジュリアン神父・五〇歳)がそこに行ったが、泊めてくれた仏僧(宗順・不可思議寺の住職・細川興秋)のたすけがなかったならば発見され捕らえられるところであった。この仏僧は信仰の敵であり、神父が何者であるか知っていたにもかかわらず、徳の高い人であったから、その客が発見され捕らえられることがないようにしてくれた。』 

細川興秋が住職をしていた香春町採銅所の不可思議寺

『徳の高い仏僧』と記載されている人物が香春町採銅所にある不可思議寺の住職・宗順・細川興秋に該当する。

宗順和尚・細川興秋は中浦ジュリアン神父(五〇歳)が何者であるか知った上で不可思議寺に滞在させてくれているし、役人から逮捕されるところを助けてもいる。この記事からも宗順和尚の背後に隠蔽されている細川興秋の事が絡んでいることが伺える。 

小笠原玄也一家の監禁についての記録(イエズス会史料)
『貧しい農民が何人か住んでいるのみの人里離れた土地に追放され、その土地から出ることはおろか居住する家からも出ないように監視されている。』
『イエズス会・一六一八年年報』(元和四)
クリストファン・フェレイラ(Cristvão Ferreira)神父の報告 

採銅所不可思議山明善寺(元不可思議山・不可思議寺)調査記録

明善寺片山御住職の奥様が御親切に対応してくださり心から感謝申し上げます。御住職奥様から『永代録』の由緒沿革をコピーしていただき、『永代録』の必要な創生初期の箇所をデジタルカメラにて記録を撮らせていただいた。 

『永代録』による(原文)
1、慶長一五年(一六〇五)草創、開基雪木善兵衛となっている。雪木と行木との表記の違い。
2、行木(いくき)とは読まず,「ぎょうき和尚」と地元では呼んでいる。3、初代住職・雪木善兵衛の法名は宗慶であり、宗順ではなかった。
4、初代住職(第一世)宗慶は慶長一九年(一六一四)十二月より病気を生じ、元和元年(一六一五)四月四日に七一歳にて寂定(往定・死去)している。
5、第二世、宗順、以下記載なし不明(細川興秋)
6、第三世、慶順、以下記載なし不明(現明善寺住職、片山家の初代)7、第四世、良圓、戒名・雪江院釈圓解法中第門 

* 香春町町史 第一章 神社・寺院 七二三~七二四頁

 明善寺には一六三四年(寛永十一)八月七日 香春町採銅所の不可思議寺、第三世慶順の世代に至って寺号免許を取り、不可思議寺の名称を替え明善寺と号する。

(不可思議寺は細川藩が一六三二年(寛永九年)十二月に肥後に移った後、一六三四年(寛永十一年)八月七日、慶順の世代に至って寺号免許を取り、明善寺と号した。) 

第一の疑問点
宗順和尚とはだれか
不可思議寺、第二世、宗順の時代は、この『永代録』と香春町史から計算すると一六一五年~一六三二年(元和元~寛永九年)一二月までの一八年間となる。 

この論考では不可思議寺第二世住職・宗順は、細川興秋の法名であることを前提に論考を展開する。 

一六一五年は大坂夏の陣が終了して、六月六日細川興秋が京都で切腹させられた年。一六三二年(寛永九)十二月は,豊前細川藩が肥後熊本に移封になって小倉を去った年。 

第二の疑問点
初代住職,宗慶の病死について
慶長一九年(一六一四)十月六日、細川興秋・二九歳は米田是季と共に大坂城に入城。一二月二一日和睦成立。 

不可思議寺初代住職宗慶の十二月発病は、大坂冬の陣が終わった時期と重なり、豊臣側の敗北がおおよそ細川忠興には読めた時期と重なる。宗慶の死去・四月四日は、細川軍が大坂の夏の陣に参戦するために四月二八日、小倉を出発する前に当たる。 

推論
細川忠興は小倉出発前に、採銅所の初代住職宗慶を暗殺(毒殺)という形で取り除き、次の不可思議寺の住職に興秋を迎えるための準備を整えて、大坂夏の陣に向かったのではないだろうか。 

五月十日、大坂城落城。細川忠興は大坂城落城とともに興秋の安否を必死に確かめたであろう。興秋を大坂城から何としても助け出したいために、米田監物是季に命じて、米田監物是季が興秋の警護をして守り抜き、興秋を大坂城陥落の時に無事に落ち延びさせ、細川方に引き渡したと思われる。戦いに敗れた後、興秋は京都の伏見稲荷の東林院に潜伏した。東林院は細川家家老松井家の寺である。興秋の伏見の屋敷に残された妻子を守るために松井右近等一部の側近を護衛に派遣して、興秋の潜伏先が掴めると身柄を保護したと考えられる。何としても死なせてはならなかった。しかし告訴する者があり、潜伏先で捕らえられた。徳川家康は、興秋は死罪に価するが、父忠興のこれまでの徳川家に対する忠義と功労に報いるため、興秋の罪を免じようとしたが、成り行きによっては細川家の知行減、最悪の場合、御家取り潰しまで発展しないとも限らなかった。 

細川家の生存と存続をはかるため、忠興は愛する息子、興秋に切腹を命じ、6月6日、京都、東林院において興秋・三〇歳は切腹した。興秋の遺体は京都伏見の稲荷山の南谷に埋葬された。法名黄梅院真月宗心。興秋亡き後、残された妻・氏家宗入の娘は忠興が引き取って嫁がせ、娘鍋は細川家で養育している。しかし、不思議なことに、興秋の墓は残されてない。興秋が切腹した東林院も京都伏見稲荷には存在しない。忠興は興秋を採銅所の不可思議寺に匿うためにあらゆる手を尽くしたと思われる。 

推論
家伝・池田家文書には(興秋は尾州春日部郡小田井村に暫らく忍び後、肥後国天草御領村に隠棲とある) 

興秋を切腹させたと見せかけて、おそらく六月中に人目につかないように秘密裏に京都から豊前小倉まで瀬戸内海を船に載せて連れてきて、すでに五年前の一六一〇年、興秋出奔のときに豊前国田川郡香春町採銅所に建立していた不可思議寺に匿わせた。 

しかし不可思議寺には初代住職・宗慶(行木善兵衛)がおり、宗慶は熱心な仏教徒なので、キリシタンである興秋を匿うには宗慶和尚から秘密が漏れる危険性が余りにも大きかった。それゆえ最初から興秋を住職として不可思議寺に匿うには、宗慶の存在が大きな障害となった。つまり、興秋を第二代住職にするために初代住職宗慶は暗殺されたのではなかろうか。一六一四年十二月から毒を盛り始め一六一五年四月四日に殺害に及んだと考える。 

宗慶(初代住職)を取り除くことにより、これで不可思議寺には何の障害も無く興秋を第二代住職として迎え入れ、誰にも秘密のからくりが漏れずに不可思議寺は隠れキリシタン寺として機能することができた。第二世住職宗順・細川興秋には初代宗慶の暗殺は病死として報告され秘密にされたであろう。 

一六一八年(元和四)中浦ジュリアン神父・五〇歳、香春町採銅所の不可思議寺に興秋・三三歳、住職宗順と浦松に監禁されている小笠原玄也を訪問。中浦ジュリアン神父、逮捕を免れて不可思議寺の住職宗順・興秋に匿われて不可思議寺に宿泊する。 

一六一八年イエズス会年報記録 クリストファン・フェレイラ(Cristovão Ferrira)神父報告 『天正少年使節の中浦ジュリアン』 結城了悟著 一〇一~一〇二頁 

大坂の陣から四年後の一六一八年(元和四)と、六年後の一六二〇年(元和六)のイエズス会年報報告のなかの小笠原玄也の記録に混ざって細川興秋が記録されている。 

一六一八年年報(元和四)イエズス会年報告
『いま具体的に述べるが、信仰のために追放されたキリシタンの中に殉教者ディオゴ加賀山隼人の娘婿(小笠原玄也)とその妻及び八人の子供がいる。彼らは豊前の領主、長岡越中殿(細川忠興)によって、数名の貧しい農民だけがすんでいる人里離れた土地(香春町中津原浦松)に追放され、その土地から出ることはおろか居住する家からも出ないように監視されている。(細川興秋三三歳は)その高い身分やキリスト教徒としての徳から言って、これを訪ねて慰めるに相応しい人物であるから、大きな危険を犯して神父(中浦ジュリアン神父五〇歳)がそこ(香春町採銅所鈴麦)に行ったが、泊めてくれた仏僧の助けがなかったならば発見され捕らえられるところであった。この仏僧(採銅所不可思議寺、住職宗順・細川興秋)は信仰の敵であり、神父が何者であるか知っていたにもかかわらず、徳の高い人であったから、その客が発見され捕らえられることがないようにしてくれた。それで神の特別な御摂理によって危険から逃れることができた。また同じく神の御心によって神父が企図した目的も都合よく運ばずにはいなかった。』

一六一八年イエズス会年報記録 クリストファン・フェレイラ(Cristovão Ferrira)神父報告 『天正少年使節の中浦ジュリアン』 結城了悟著 一〇一~一〇二頁 

一六二〇年年報(元和六)イエズス会年報告
ロドリゲス・ジーラム(João Rodrigues Giram)神父報告
『(細川興秋・三五歳は)かつては富といい、権威といい、大名のごとき身分で、衣服にせよ、供廻りにせよ、容貌にせよ、人々が目を向けしめし者なるが、(小笠原玄也は)今や綴れて垢づき破れ下がったぼろをまとい、下層の職人、貧しい農民の中に混じり、最下級の奴隷か賤民階級の一人でもあるかの如く、自ら身を下ろして衣食を求め、いかなる賤務も厭わぬのである。我が会の神父(中浦ジュリアン神父・五二歳)はこの人(小笠原玄也)が故里にあって豊富な生活をするよりも、むしろ追放の身分となり、苛酷な運命に弄ばれるのを優れたりとするほど熱心に宗教を守ろうと、堅い決心をしているのを見出した。』
『一六・一七世紀イエズス会日本報告集』第二期 第三巻 九五~九六頁 筑後・豊後国 

推論
小笠原玄也の知行高は細川忠興の小姓であったから六〇〇石である。小姓が高い身分かというと決して高くはなく、まして、富、権威、大名のごとき身分でもなく、供回りも多くはない。おそらくこの記述表現は別の人物のことを表していて、細川家においてキリシタンであり『大名の如き身分』の人とは次男の細川興秋以外に考えられない。 

細川興秋は一六一五年(元和元)六月六日以降、京都伏見の東林院で切腹させたと見せかけて、実は秘密裏に京都より豊前国田川郡香春町採銅所にある不可思議寺に連れてこられ、住職宗順になり済まして叔父細川中務孝之の保護下にいたと考えられる。 

細川家の嫡子である興秋はキリシタンゆえに『かつては富といい、権威といい、大名のごとき身分で衣服にせよ、供廻りにせよ、容貌にせよ、人々に目を向けしめし者』であったが、『この名門に生まれて愉しい日を送ってきた士が、晴々として財産や故郷を捨てて現在の境涯を選んだ』人だった。 

『しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。わたちは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。』ピリピ人への手紙 三章七節~九節 

キリストのゆえに、すべてを失った細川興秋と小笠原玄也。それらのものを、ふん土のように思い、日々の糧を得るために、最下級の仕事も厭わず、聖貧のなかに慎ましく暮らす玄也とみやの姿は、同じキリシタンである不可思議寺の住職宗順・興秋の目にどのように映っただろうか。

『寂しい片田舎に名もない百姓、領内のやくざ者の間に追放され・・今や綴れて(つづれ)垢づき破れ下がったぼろをまとい下層の職人、貧しい農民の中に混じり、最下級の奴隷か賤民階級のひとりでもあるかの如く、自ら身を下して衣食を求め、いかなる賤務も厭わぬのである。我が会の神父はこの人(小笠原玄也)が故里にあって豊富な生活をするよりも、むしろ追放の身分となり、苛酷な運命に弄ばれるを優れたりとするほど熱心に宗教を守ろうと堅い決心をしているのを見いだした。』
『一六・一七世紀イエズス会日本報告集』 第Ⅱ期 第三巻 九六頁 同朋舎

 『晴々として財産や故郷を捨てて現在の境涯を選び、今や極貧の人達の間に交って、百姓の姿(蓑を着ていた)をして、その日その日の糧を得んがために賤しい労働に従っているのは、感動すべき光景であった。』
『日本切支丹宗門史』 下巻 レオン・パジェス著 第五章 一三三頁

推論
一六一八年(元和四)の豊前訪問のとき、中浦ジュリアン神父・五〇歳が香春町採銅所鈴麦の不可思議寺の住職になっている細川興秋・三三歳を訪ねたことと、浦松に監禁されている小笠原玄也を訪ねたことはイエズス会年報により報告されているので証明される。 

一六一四年(慶長二〇)五月初旬、中浦ジュリアン神父は危険を犯して小倉城二の丸の加賀山隼人宅に軟禁されている小笠原玄也一家を訪ねて後、小笠原玄也は一六一四年一〇月以前に小倉から追放されて香春町中津原浦松の農家に監禁されていた。一六一五年(元和元)七月以後、興秋が採銅所の不可思議寺の住職の宗順として生きている情報を中浦ジュリアン神父は豊前のキリシタン組織から一六一八年(元和四)の筑前豊前地方巡回前の時点で入手していて、中津原浦松の農家に監禁されている小笠原玄也一家と、採銅所の不可思議寺の住職となっている興秋のことを知ったうえで訪問したと思われる。 

当時、中浦ジュリアン神父は島原口之津を本拠としていて、島原、天草、八代地区を司牧宣教していた。興秋の側室と嫡子興吉の匿われている天草佐伊津村佐伊津金濱城は島原口之津からは早崎瀬戸を挟んだ対岸にあり、鬼池、御領、佐伊津は確固としたキリシタン組織の存在した地区だった。御領の了宿庵(東禅寺)の正願和尚(志岐諸経の息子・有馬千巖の五男の嫡子)がこの地区周辺のキリシタンを指導していた。 

天草・御領の東禅寺(了宿庵)キリシタン寺

前年の一六一七年(元和三)八月二九日付けでコーロス徴収文書を中浦ジュリアン神父は御領の了宿庵(東禅寺)に逗留して作成している。これらの文献に記載されている状況証拠を付け合せて見ると、中浦ジュリアン神父は天草佐伊津金濱城にいる興秋の側室と息子興吉の存在をすでによく知っていて、一六一八年(元和四)採銅所不可思議寺訪問のとき、興秋に天草佐伊津金濱城の側室と息子興吉の消息を伝えた。帰りには興秋の手紙なりを預かり元気でいることを興秋の側室に伝えた。それ以来中浦ジュリアン神父が採銅所不可思議寺を訪問するときは、興秋と側室は互いの消息を確かめ合い、中浦ジュリアン神父を仲立ちとして連絡を取り合っていたと推測される。 

しばらくして後、小笠原玄也は四年に渡る監禁生活から解放されて、中津原浦松において農業に従事する。解放後、玄也は近くの不可思議寺の住職になっている細川興秋と面会、以後、興秋と玄也は救癩活動や貧困救済活動を田川地方のキリシタン組織の人々と共にしたとおもわれる。
イエズス会一六二〇年年報ロドリゲス・ジーラム(João Rodrigues Giram)神父報告
『一六・一七世紀イエズス会日本報告集』 第二期 第二巻 九五~九六頁

 小笠原玄也一家を監視した人物
(愛宕神社の創建年代・仁平三年一一五三年)
愛宕神社の神官が誰であったのか。小笠原玄也が監禁されていた一六一四年~一六三二年までの期間、愛宕神社が細川藩にどの様に擁護されていたのか。照智院の創建年代と一六一四年~一六三二年の間の住職の名前。

 推論
一六一四年~一六一八年の四年間、玄也とみや一家は香春町中津原浦松において、監禁・監視された生活を送り面会は許されなかった。細川忠興より棄教を迫る使者が遣わされた時にのみ面会が許されていた。それは玄也・みやを棄教させるために、細川忠興から遣わされたと考えられる。玄也達の生活全般にわたる監視報告なら、監視の役人で十分だが、信仰の問題は対話の中でしか把握ができない。そのためにこの使者が遣わされた。玄也と使者の間で問答が戦わされた。神と仏のちがい、比較宗教論、神とは、人間とは、生きるとは、死とは。これらの問題を、年月をかけて話し合ううちに玄也と使者の決定的な違いが明確に現れた。玄也に在って、使者にないものとは、すべてを自分が信じる信仰のために生活の全てを棄てて生きていく聖貧の姿だった。 

推論
小笠原玄也はなぜ四年間も監禁生活を強いられたのか

細川忠興は小笠原玄也一家を一六一四年十月頃、小倉城二の丸の加賀山隼人の屋敷から追放して、香春町中津原浦松の愛宕神社照智院下の農家に監禁して監視、棄教させるために香春城主・孝之に一任していた。

 次の年一六一五年(元和元)五月一〇日の大坂の夏の陣の敗北後、敗将として処罰の対象者となってしまった次男・興秋を一六一五年六月六日、京都において切腹したことにして、秘密裏に船で瀬戸内海を渡り、その月のうちに豊前の國、田川郡香春町へ秘密裏に連れてきて小笠原玄也の近く、香春町採銅所にある不可思議寺に匿い保護していた。

 興秋は豊臣方の敗将罪人として処罰の対象であったのを父忠興が隠蔽していること。また興秋はキリシタンとしても処罰の対象であるため、玄也がたとえ同じキリシタンでも細川藩の最高機密である興秋隠蔽の秘密が漏れれば、細川藩自体が徳川幕府より取り潰されかねない危険を孕(はら)んでいた。それ程興秋の隠蔽は最重要機密だった。

 したがって、小笠原玄也がキリシタンであり、四年前まで忠興の小姓をしていて信用できる人物だったとしても、この最高機密保持のために玄也を試す必要があった。小笠原玄也から高禄(六百石)を取り上げたからといって、*二三人扶持をあてがっている以上、家臣には変わりなく、玄也がキリシタンとして、秘密裏に新しいキリシタン主君興秋に仕えるかどうかを探る必要があった。

 いざとなれば玄也は興秋の身代わりの山羊(Scape Goat)にならなくてはならなかった。その判断を任されていたのが細川忠興の末の弟で香春岳城主・叔父である細川中務孝之だった。細川孝之は細川幽斎藤孝の四男で、興秋より二つ年下の叔父にあたる。

 イエズス会一六一八年年報に『(玄也達は一六一四年から)その土地から出ることはおろか居住する家からも出ないように監視されている。』と監視が四年間に渡り続いていたことを*クリストファン・フェレイラ(Cristovão Ferrira)神父(注1)の報告は記録している。

 推論
玄也の確固たる信仰と、信仰のために黙々と耐え忍び生活するその姿に、本当の人間の在るべき姿を認めたとき、住職宗順・細川興秋は自分に無いものに気がついた。玄也のように自分は何を捨ててきたのか。何も捨てていない自分に気づかされたとき、住職宗順は恥じたのではないだろうか。その反省は住職宗順の心のなかの葛藤となり、その葛藤を克服したとき、宗順の心の中に玄也への理解が生まれた。理解は信頼へと変わり、信頼は真の友情となった。玄也とみやのために自分が出来ることは、命を掛けている彼らの信仰を守ること。住職宗順は、自分の命を懸けて玄也を訪ねてきた中浦ジュリアン神父を受け入れて匿っている。 

不可思議寺の住職・興秋の自分の命を懸けてまで玄也を守ろうとする理解と信頼は、瞬時に出来上がるものではなく、深い信頼関係を構築するためには、ある程度の歳月を必要とする。そのための期間を考えると、玄也は小倉を一六一四年(慶長十九)秋には追放され、クリストファン・フェレイラ(Cristovão Ferrira)神父の報告の書かれた一六一八年までの四年のあいだに、二人のうちに理解と信頼とが築かれたと考えられる。小笠原玄也は住職宗順の理解と信頼を得た後、一六一九年以後、興秋と玄也は同じキリシタンとしてともに働き、慈悲の活動(ミゼリコルジア)や、信徒組織(コンフラリア)の活動をしたと推測される。 

小笠原玄也の監禁が解かれ香春町採銅所において戸外で働く姿をジーラム神父はイエズス会の報告書の中で伝えている。 

『一六二○年年報』(元和六)
ロドリゲス・ジーラム(João Rodrigues Giram)神父の報告

『キリシタンの教えのために追放された信者が此処かしこで多く見られた。その中にはディエゴ加賀山隼人殉教者の婿(小笠原玄也)もいた。彼は長岡越中殿(細川忠興)のために妻もろとも寂しい片田舎に名もない百姓、領内のやくざ者の間に追放された。・・・

(小笠原玄也は)今や綴れて(つづれ)垢づき破れ下がったぼろをまとい下層の職人、貧しい農民の中に混じり、最下級の奴隷か賤民階級の一人でもあるかの如く、自ら身を下ろして衣食を求め、いかなる賤務も厭わぬのである。我が会の(中浦ジュリアン神父・五二歳)神父はこの人が故里にあって豊富な生活をするよりも、むしろ追放の身分となり、苛酷な運命に弄ばれる(もてあそばれる)のを優れたりとするほど熱心に宗教を守ろうと堅い決心をしているのを見出した。』(九五~九六頁 第二期第三巻 同朋舎)

 『一六二○年年報』(元和六)
レオン・パジェス著
『神父ジュリアン中浦は筑後と豊前に出かけた。彼は同地で数多くの流人を見出した。その中には、殉教者ディエゴ加賀山隼人の婿(小笠原玄也)とその家族がいた。この名門に生まれて愉しい日を送ってきた士が、晴々として財産や故郷を捨てて現在の境涯を選び、今や極貧の人達の間に交って、百姓の姿(蓑を着ていた)をして、その日その日の糧を得んがために賤しい労働に従っているのは、感動すべき光景であった。』 

追放されたとき、玄也は今までの『俸禄を減じ、(六○○石から二三人扶持)所有していた道具も米も取り上げこの世にあるありとあらゆる罰と苦痛を与え』られた。みやの父、加賀山隼人と同じ様にされたのであろう。六年後の『一六二○年年報』の玄也の姿でそれは確認できる。

『今や綴れて(つづれて)垢づき破れ下がったぼろをまとい、自ら身を下ろして衣食を求め』『今や極貧の人たちのあいだに交って、百姓の姿(蓑を着ていた)をして、その日その日の糧を得んがために賤しい労働に従っている。』 

推論
全てを没収されて追放されたから、玄也とみやの所持品は少なかったと思われる。慣れない農業で収穫の上がらないために少ない所持品の切り売りをして家族を養わなければならない辛さ、玄也・みや、八人の子供、四人の侍女、計十五人の生活を、玄也(三四歳)は一人で背負っていた。(源八郎十二歳、侍女四人は労働可能な人数だったと考えられる。)  

また近くにいた多くの被差別部落の人々が玄也一家を支えていたことも考慮しなくてはならない。

(参照 伊東マンショ神父の指導した救癩(ハンセン氏病)活動と被差別部落民に対する貧困援助活動の記録、および小笠原玄也、細川興秋が係わったイエズス会年報記録に描かれた被差別部落民の姿) 

(注1)*クリストファン・フェレイラ(Cristvão Ferreira)神父
一六三三年(寛永十)十月十八日、長崎西坂の刑場でフェレイラ神父は、中浦ジュリアン神父・六五歳と共に逆さにされ穴の中に吊るされた。この五時間後フェレイラ神父は棄教した。その後、沢野忠庵と名乗りキリシタン目明しとなり幕府のキリシタン詮索の役目をしている。    

 3 採銅所の不可思議寺と徳の高い仏僧について
細川忠興は、忠興の末弟・細川中務少輔孝之(香春岳城主・二万五千石)に命じて、香春郡採銅所に、真宗大谷派の寺、不可思議寺(後の明善寺・みょうぜんじ)を作らせている。香春岳城主高橋九郎元種の家老・行木善兵衛を、本願寺第十二世教如法主に帰依させ、剃髪して法名を宗慶と号させ住職にさせた。一六一○年(慶長十五)五月十日開創、法主より阿弥陀如来仏本尊を受け、開基創建している。寺の山号を不可思議山という。 

不可思議寺第二代住職・宗順(細川興秋)
細川藩が一六三二年(寛永九)十二月に肥後に移った後、一六三四年(寛永十一)八月七日、慶順の世代に至って寺号免許を取り、明善寺と号した。 

推測
一六一八年の豊前訪問のとき、中浦ジュリアン神父・五〇歳が香春町採銅所鈴麦の不可思議寺の住職になっている細川興秋・三三歳を訪ねたことと、中津原浦松に監禁されている小笠原玄也を訪ねたことはイエズス会年報により報告されているので証明される。 

一六一四年(慶長一九)五月初旬、中浦ジュリアン神父は危険を犯して小倉城二の丸の加賀山隼人宅に軟禁されている小笠原玄也一家を訪ねて後、小笠原玄也は一六一四年十月以前に小倉から追放されて香春町中津原浦松の農家に監禁されていた。 

一六一五年(元和元)七月以後、興秋が採銅所の不可思議寺の住職の宗順として生きている情報を中浦ジュリアン神父は豊前のキリシタン組織から一六一八年(元和四)の筑前豊前地方巡回前の時点で入手していて、中津原浦松の農家に監禁されている小笠原玄也一家と、採銅所の不可思議寺の住職となっている興秋のことを知ったうえで訪問したと思われる。 

当時、中浦ジュリアン神父は島原口之津に居を構えていて、島原、天草、八代地区を司牧宣教していた。興秋の側室と嫡子興吉の匿われている天草佐伊津村金濱城は島原口之津からは早崎瀬戸を挟んだ対岸にあり、鬼池、御領、佐伊津は確固としたキリシタン組織の存在した地区だった。

天草御領の東禅寺(了宿庵)中浦ジュリアン神父が逗留したキリシタン寺

前年の一六一七年(元和三)八月二九日付けでコーロス徴収文書を中浦ジュリアン神父は御領にある了宿庵・東禅寺に逗留して作成している。これらの文献に記載されている状況証拠を付け合せて見ると、中浦ジュリアン神父は佐伊津金濱城にいる興秋の側室と息子興吉の存在をすでによく知っていて、一六一八年(元和四)採銅所不可思議寺訪問のとき、興秋に天草佐伊津金濱城の側室と息子興吉の消息を伝えた。帰りには興秋の手紙なりを預かり元気でいることを興秋の側室に伝えた。それ以来中浦ジュリアン神父が採銅所不可思議寺を訪問するときは、興秋と側室は互いの消息を確かめ合い、中浦ジュリアン神父を仲立ちとして連絡を取り合っていたと推測される。 

しばらくして後、一六一八年(元和四)以降、小笠原玄也は四年に渡る監禁生活から解放されて、中津原浦松において農業に従事する。解放後、玄也は近くの不可思議寺の住職になっている細川興秋と面会、以後、興秋と玄也は救癩活動や貧困救済活動を田川地方のキリシタン組織の人々と共にしたと考えられる。
イエズス会一六二〇年年報ロドリゲス・ジーラム(João Rodrigues Giram)神父報告
『一六・一七世紀イエズス会日本報告集』 第二期 第二巻 九五~九六頁 

推論
この寺は、本来、キリシタン信仰を棄てない次男・興秋を、父忠興が自分の手元に置いて保護するために作った隠し寺(camouflage)だった。一六○四年(慶長九)秋、興秋(十九歳)は長らく江戸で人質だった三男・忠利の代わりに、江戸に人質として行くように父忠興に命じられた。興秋は始めこれを拒んだが、暮れには江戸に向けて出立している。 

一六○○年(慶長五)九月十五日、興秋は関が原の戦いにおいて父忠興、兄忠隆、叔父興元とともに戦い、首級ひとつ取る手柄を立てている。弟忠利は徳川秀忠の小姓として気に入られ、初陣は飾ったが関が原の戦いには間に合わなかった。この事から興秋は何の働きもない弟忠利が嫡子になったことへの怒りと、忠利嫡子を父忠興に押し付けた徳川家康への憎しみ、またそれを認めた父忠興への反抗、徳川家康の元に人質として行けば、キリシタンゆえに処罰されることへの恐怖から、旅の途中、京都建仁寺に留まり年を越した。 

一六○五年(慶長十)一月二日の朝、突然、興秋は京都建仁寺塔頭十如院で出家出奔した。父忠興にとって興秋の行動は予想もしないものだった。京都で暮らす祖父・細川幽斎の近く、伏見か淀あたりで、隠棲生活を送ったものと思われる。興秋の出家出奔には養父である興元の裏での手引きがある。当時、京都には興秋の兄・忠隆の家族、幽斎の次男・興元の家族が住んでいた。二人ともキリシタンであり、キリシタンを嫌う忠興に反発して細川家を自ら出奔した。その裏には忠興と争えば細川家の御家騒動になることを避けるための幽斎の判断があった。三人の生活費のすべては幽斎が保障負担していた。 

一六一○年(慶長十五)忠興の父、細川幽斎が八月二〇日、京都で七七歳の生涯を閉じた。京都での興秋の保護者でもあり、監視者でもあった幽斎の死により、興秋は京都における庇護を失ってしまった。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の怒涛の戦国時代を巧みに生き抜いてきた細川幽斎・忠興親子は、幽斎の死を見越して、おそらく死を悟った幽斎(七七歳)が忠興(四八歳)と相談して、幽斎の死後、忠興の領地豊前に於いて興秋を匿うために作らせた寺と考えられる。幽斎にしてみれば自分の死後、京都周辺で興秋を今まで通り庇護出来ない懸念があった。興秋を京都から移し、興秋を匿うための寺を忠興の領地豊前に作るこの相談は幽斎と忠興の間で一六〇八年末から一六〇九年には出来上がっていて、秘密裏に場所の選定が成され豊前国田川郡香春町採銅所に寺の建立が香春城主・細川孝之によって実行に移された。 

興秋(二五歳)と忠興の間でどの様な話し合いが成されたのかは不明だが、幽斎と忠興の意に反して興秋は京都に住み続けた。細川幽斎の死後、興秋を豊前国田川郡香春町採銅所の不可思議寺に匿う計画は頓挫した。おそらく興秋が京都での生活を維持したかったこと、不便な豊前の田舎での匿われた生活は望まなかったこと、秘密裏に生まれた興吉と側室との平和な生活に満足していたこと、江戸への人質の一件以来、父忠興への反発も多大にあったものと推測される。 

一六一○年(慶長十五)興秋(二五歳)は氏家宗入の娘と内密に結婚する。次の年一六一一年八月六日、長女お鍋が誕生している。

忠興は興秋に側室ではなく、細川家次男の正室として、元美濃斉藤道三入道の家臣、美濃斉藤の三名将として名高く名門である氏家宗入の娘を迎えたものと思われる。正室から生まれる嫡子を期待したであろうが、生まれたのは長女鍋であった。 

一六一四年(慶長十九)の秋頃、興秋は大坂方(西軍)の招きで大坂城に入城して、豊臣秀頼に仕え、十一月の冬の陣、翌一六一五年(元和元)五月の夏の陣を戦っている。 

大坂城落城の五月十日、戦いに敗れた後、興秋は落武者となり、京都の伏見稲荷の東林院に潜伏した。東林院は細川家家老松井家の寺である。忠興は大坂上落城とともに息子興秋の安否を必死に確かめたであろう。興秋の伏見の屋敷に残された妻子を守るために松井右近等一部の側近を護衛に派遣して、興秋の潜伏先が掴めると身柄を保護したと考えられる。何としても死なせてはならなかった。しかし告訴する者があり、潜伏先で捕らえられた。徳川家康は、興秋は死罪に価するが、父忠興のこれまでの徳川家に対する忠義と功労に報いるため、興秋の罪を免じようとしたが、成り行きによっては細川家の減知、取り潰しまで発展しないとも限らなかった。細川家の生存と存続をはかるため、忠興は愛する息子、興秋に切腹を命じ、六月六日、京都、東林院において興秋(三三歳)は切腹した。興秋の遺体は京都伏見の稲荷山の南谷に埋葬された。法名黄梅院真月宗心。(綿考輯禄) 

興秋亡き後、残された妻と娘は忠興が引き取って、それぞれ嫁がせている。しかし、不思議なことに、興秋の墓は残されていない。興秋が切腹した東林院も京都伏見稲荷には存在しない。 

それから四年後の一六一八年(元和四)と、六年後の一六二○年(元和六)のイエズス会年報のなかの小笠原玄也の記録に混ざって、細川興秋が記録されている。 

一六一八年年報(元和四)
『(細川興秋・三三歳の)その高い身分やキリスト教徒としての徳から言って、これを訪ねて慰めるに相応しい人物であるから、大きな危険を犯して神父(中浦ジュリアン神父・五〇歳)がそこに行ったが、泊めてくれた仏僧の助けがなかったならば発見され捕らえられるところであった。この仏僧(採銅所不可思議寺、住職宗順)は信仰の敵であり、神父が何者であるか知っていたにもかかわらず、徳の高い人であったから、その客が発見され捕らえられることがないようにしてくれた。それで神の特別な御摂理によって危険から逃れることができた。また同じく神の御心によって神父が企図した目的も都合よく運ばずにはいなかった。』 

一六二○年年報(元和六年)
ロドリゲス・ジーラム(João Rodrigues Giram)神父報告
『(細川興秋・三五歳は)かつては富といい、権威といい、大名のごとき身分で、衣服にせよ、供廻りにせよ、容貌にせよ、人々に目を向けしめし者なるが、(小笠原玄也は)今や綴れて垢づき破れ下がったぼろをまとい、下層の職人、貧しい農民の中に混じり、最下級の奴隷か賤民階級の一人でもあるかの如く、自ら身を下ろして衣食を求め、いかなる賤務も厭わぬのである。我が会の神父(中浦ジュリアン神父)はこの人(小笠原玄也)が故里にあって豊富な生活をするよりも、むしろ追放の身分となり、苛酷な運命に弄ばれるのを優れたりとするほど熱心に宗教を守ろうと、堅い決心をしているのを見出した。』 

推論
小笠原玄也の知行高は細川忠興の小姓であったから六百石である。小姓が高い身分かというと決して高くはなく、まして、富、権威、大名のごとき身分でもなく、供回りも多くはない。おそらくこの表現は別の人物のことを表していて、細川家においてキリシタンであり『大名の如き身分』の人とは次男の細川興秋以外に考えられない。 

細川興秋は一六一五年(元和元)六月六日以降、京都伏見の東林院で切腹させたと見せかけて、実は秘密裏に豊前国田川郡香春町採銅所にある不可思議寺に連れてこられ、香春岳城主・孝之(二歳年下の叔父)により匿われ、保護されていたと考えられる。 

細川家の嫡子である興秋はキリシタンゆえに『かつては富といい、権威といい、大名のごとき身分で衣服にせよ、供廻りにせよ、容貌にせよ、人々に目を向けしめし者』『この名門に生まれて愉しい日を送ってきた士が、晴々として財産や故郷を捨てて現在の境涯を選んだ』人だった。 

元和六年(一六二〇)中浦ジュリアン神父・五二歳、採銅所に興秋・三五歳、小笠原玄也を訪問する。 (イエズス会一六二〇年年報の記録による) 

十二月二五日 忠興(五八歳)剃髪して中津城に移り隠居、三斎宗立と号する。

興秋(三五歳) 父忠興の号するに従い宗専と奉申する(家伝池田家文書)

忠利(三四歳) 藩主となり小倉城に移る。(綿考輯禄) 

*一六二〇年(元和六)十二月二五日、細川忠興(五八歳)は剃髪して隠居、三斎宗立と号して中津城に移り、細川忠利(三四歳)が父忠興に代わりに豊前の領主になって小倉城に居住する。(綿考輯禄) 

この頃からキリシタン迫害は収まり、以後一六三二年(寛永九)十二月の肥後熊本移封まで豊前に於いて殉教者は少ない。表面的には平安を装っているこの時期をキリシタン達は潜伏しながら信仰を保ち続けている。一六一一年(慶長一六)十二月、セスペデス神父の死去とともに忠興の命令により破壊された豊前の教会に代わり、伊東マンショ神父により再組織された信徒組織(コンフラリア)が、以後豊前に於ける信徒達の大事な信仰維持の役割を担っていった。 

いつ不可思議寺の初代住職宗慶は死去したのか

興秋は宗慶の死去に伴い興秋自身が宗順と号して住職宗慶の後を継いだのか

家伝池田家文書の述べるとおり忠興が三斎宗立と号するに従い宗専と奉申したのか

興秋がいつ不可思議寺の住職宗慶の跡目を次いで宗順と号したのかを確認しなければならない。

初代住職宗慶の墓の発見と墓碑銘の死去年月日の確認が必要 

興秋が不可思議寺の住職宗慶の跡目を次いで宗順と号したことは、非常に大切な意味が含まれている。興秋は今までは父・細川忠興の保護下にあったが、跡目相続したということは、これからは興秋自身が全てに於いて不可思議寺の住職として責任を持って生きていかなければならないということであった。興秋宗順に不可思議寺の管理運営が委譲されたことによって、興秋は表向き不可思議寺の住職として擬装(Camouflage)しながらキリシタン指導者としての生き様が問われていった。 

一六二四年(寛永元)、中浦ジュリアン神父・五六歳、筑前博多、秋月、豊前小倉、中津を訪問。脳卒中により歩行困難となり信徒達に籠や梩(もっこ)で運ばれている。 

『中浦ジュリアン神父(五六歳)は当時、筑前と豊前を訪問中であった。彼は困難辛苦のためにすっかり衰え、身動きも不自由で、たびたび場所を変えるのに人の腕を借りる有様であった』(イエズス会報告一六二四年年報の記録による) 

中浦ジュリアン神父(五六歳)は一六二四年の筑前・豊前訪問時点で脳卒中による不自由な生活を余儀なくされている。筑前と豊前の訪問中に脳卒中になり、自力による長い距離の移動が困難になり移動の際には信者達の手を借りて籠や梩に乗って次の訪問地に移動したと思われる。 

この時点で興秋(三九歳)の匿われている香春町採銅所の不可思議寺に身を寄せたのかどうかはっきりしないが、ジャンノネ(Giacom Antonio Giannone)神父が一六二五年の書簡において中浦ジュリアン神父の消息を記録しているので本慮である島原の口之津に一度は戻って静養しながら神父としての最小限の活動を続けていたと思われる。 

『この地区の私達の院長ファン・バウティスタ・ソーラ(Giovanni Battista Zola)は、皆を満足させて任務を果たしています。この高来にいる他の伴侶たちは皆健康ですが、老齢で弱わっている者(中浦ジュリアン神父)もいます。ですから私達の活動ぶりが大分衰えていきます。』
(イエズス会報告一六二五年年報の記録による) 

一六二五年、一六二六年のイエズス会の報告書に中浦ジュリアン神父の活動報告は見出せない。 

一六二六年(寛永三)頃、島原の宣教師団は迫害のため壊滅する。中浦ジュリアン神父・五八歳は島原口之津より昔活動して土地勘のある豊前小倉地方に移る。 

推論
一六二七年、中浦ジュリアン神父・五九歳は、脳卒中のため体調が思わしくなく、最も安全な隠れ場所である細川興秋・四二歳の隠蔽先である豊前国田川郡香春町不可思議寺に大胆にも身を寄せたのではないだろうか。興秋にとっても中浦ジュリアン神父は信仰を維持するうえで必要な人物だし、中浦ジュリアン神父にとっても興秋に匿ってもらうことで、身の安全と静養治療を保障される。互いの利点に於ける相互扶助の関係が出来上がることを考えると、中浦ジュリアン神父が最も身を隠すのに適している場所が、興秋の匿われている香春町採銅所の不可思議寺と考えても差し支えないと思われる。どんな迫害の最中でさえ、終誓願でさえ場所と日付を明確にしてイエズス会に報告していた中浦ジュリアン神父が、一六二七年を境に一六三二年十二月の小倉での逮捕までの六年間報告書を書いていない。 

キリシタン史の中で中浦ジュリアン神父の同行が掴めない空白の六年、報告書も書いていなこととその理由とが大きな謎だった。中浦ジュリアン神父の脳卒中(脳梗塞)説も原因のひとつと考えられる。 

一六二四年のイエズス会報告には『中浦ジュリアン神父は当時、筑前と豊前を訪問中であった。彼は困難辛苦のためにすっかり衰え、身動きも不自由で、たびたび場所を変えるのに人の腕を借りる有様であった』とあり体調に重大な問題を抱えていたことが報告されている。脳卒中(脳梗塞)により半身不随、あるいは部分的に障害が残り筆記することが困難な状況だったと推測される。六年間の動向空白が如実に中浦ジュリン神父の脳卒中説を示唆していると考えられる。またこれまでの考察から、もしも、書かれた報告書が検閲されて幕府の手に落ちた場合、厳しい詮索の結果かならず興秋にたどり着くからではないのか、そうなれば細川藩に隠蔽されている興秋だけでなく小笠原玄也一家、田川周辺のキリシタン組織、それらを見ぬ振りをしている細川藩自体にまで累が及ぶことが明白である以上、中浦ジュリアン神父は報告ができなかったと推測される。 

中浦ジュリアン神父・五九歳が島原から豊前に移動した一六二七年の時点では、採銅所の不可思議寺の責任は宗順・興秋・四二歳に完全に移行しており、興秋(宗順)の判断で中浦ジュリアン神父を不可思議寺に匿ったと思われる。 

興秋が中浦ジュリアン神父を密かに匿っていることを知った父忠興・六五歳は烈火のごとく怒ったであろうが、興秋隠蔽それ自体が細川藩最高機密である以上、下手に騒ぎ立てて幕府に興秋隠蔽が露見したら細川藩自体取り潰しになりかねない危険性を孕んでいるために、興秋にこの隠蔽を逆手に取られては細川藩藩主・忠興といえどもうかつには手出しはできない問題であった。忠興にとっては中浦ジュリアン神父の不可思議寺寄宿の件は忌々しい限りの問題であったであろう事は容易に理解できる。また細川藩の実権は六年前の一六二〇年十二月、豊前藩主は忠興・五八歳から忠利・三四歳に代わっていて、忠利(興秋の弟)は父忠興とは違い、キリシタンに対しては理解を示し寛容な態度で臨んでいることも見逃せない事実である。 

『豊前の領主は、長岡越中殿の子(細川忠利)で、その父とは大いに違い宣教師に対して非常に心を寄せ、母ガラシャの思い出を忘れないでいることを示した。』(一六二四年イエズス会日本年報の記録) 

藩主忠利はキリシタンである兄興秋を庇い、採銅所不可思議寺での中浦ジュリアン神父の隠蔽に関して目を瞑って見ない振りをしたのであろう。教会側もイエズス会報告には書けない出来事、細川藩も記録に残せない問題、だからこそ両者が何も語らない六年ではないかと考えられる。 

4 採銅所に於ける興秋と玄也の仕事、及び、慈悲組(ミゼリコルジア)の活動

『一六一八年年報』(元和四)クリストファン・フェレイラ(Cristvão Ferreira)神父の報告
『彼らは豊前の領主・長岡越中殿(細川忠興)によって貧しい農民が何人か住んでいるのみの人里離れた土地に追放され、その土地から出ることはおろか居住する家からも出ないように監視されている。』 

【愛宕神社の創建年代・仁平三年一一五三年】
愛宕神社の神官が誰であったのか
小笠原玄也が監禁されていた一六一四年~一六三二年までの期間、愛宕神社が細川藩にどの様に擁護されていたのか
照智院の再建年代と一六一四年~一六三二年の間の住職の名前 僧永椿

*真言宗善通寺派
愛宕山照智院 真言宗善通寺派 山号吉祥寺
香春町大字中津原浦松

由緒
仁平三年、鎮西八郎為朝勾金庄築城に際し、勝軍地蔵尊の霊験広大なるものを感じ深く崇敬し、国家鎮護の道場として愛宕山に一宇を建立して祀る。 

慶長年間(一五九六~一六一四年)火災にあい一山焼失に悲運にあった。しかし、時の太守・細川忠興深く憂い、僧永椿に命じて再興にあたらせ、寺五〇石を賜り、営繕の費用に充てられた。 

後一六三二年(寛永九)小笠原公が入国すると、郡中春夏二季の祈祷を命ぜられ、永貞院より寺禄六石を賜り、五穀成熟及び火災消除の祈願を任務とした。香春町史 下巻 第一章 七二一頁
香春町歴史探訪 香春町郷土史会編 四三 一二〇頁 香春町教育委員会  

愛宕山照智院の下には「加賀山隼人興長と従兄弟の加賀山半左衛門と息子ディエゴの墓碑」があり、地元では水神様として祀られている。加賀山隼人の長女・みやは、小笠原玄也の妻であり、一六一四年(慶長一九)の秋以来、小倉を追放されて、この地・香春の中津原浦松の一軒家に監禁されていた。 

一六一九年(元和五)一〇月一五日早朝、加賀山隼人と加賀山半左衛門が同日同時刻、小倉と豊後の日出で斬首・殉教した。遺体はここ香春の中津原浦松に居た小笠原玄也と妻みやの元に送られてきた。藩主細川忠興からの「信仰を辞めないならば斬首する」という強烈な忠告の見せつけだった。小笠原玄也と妻みや、不可思議寺の住職をしている忠興の次男・興秋、香春城主・細川孝之の協力の元、三人の遺体は丁重にこの地に葬られた。後年、加賀山隼人に対する尊敬と敬意を表すため、興秋と孝之が協力して、埋葬した場所に、二人に相応しい墓碑を建立している。 

『一六一八年』の記録によると、玄也一家は厳しい監視を受けながら、幽閉・隔離された生活をしている。しかし、二年後の『一六二○年』(元和六)のロドリゲス・ジーラム(Joãó Rodrigues Giram)神父とレオン・パジェスの二つの記録によると、玄也達はかなり自由に外で働き始めていることが報告されている。 

『一六二○年年報』(元和六年)
ロドリゲス・ジーラム(Joãó Rodrigues Giram)神父の報告
『今や綴れて(つづれ)垢づき破れ下がったぼろをまとい下層の職人、貧しい農民の中に混じり、最下級の奴隷か賤民階級の一人でもあるかの如く、自ら身を下ろして衣食を求め、いかなる賤務も厭わぬのである。』(第二期第三巻 九六頁 同朋舎) 

『晴々として財産や故郷を捨てて現在の境涯を選び、今や極貧の人達の間に交って、百姓の姿(蓑を着ていた)をして、その日その日の糧を得んがために賤しい労働に従っているのは、感動すべき光景であった。』
日本切支丹宗門史下巻 第五章 一三三頁 レオン・パジェス著 

推論
小笠原玄也が置かれていた一六二○年頃の香春町採銅所の社会状況から分析すると、幾つかの職業の姿が見えてくる。すべてに小笠原玄也と細川興秋が係ったとは断定できないがイエズス会年報報告の記録と当時の田川郡香春町採銅所付近の農工業および生産業の記録、玄也達が交わった被差別部落の人々の職業の記録から割り出した可能性として次の三通りの推測が考えられる。

A 玄也・宮一家の生活の基本は農業だった。
高禄(六○○石)で細川忠利に小姓として仕えていた玄也は、これまで畑を耕したことはなかった。二三人扶持をあてがわれ採銅所に追放されたときから、『貧しい農民の中に混じり』作物の作り方を習い、『綴れて垢づき破れ下がったぼろをまとい』『百姓の姿をして』『自ら身を下ろして衣食を求め』『その日その日の糧を得んがために賤しい労働に従って』いた。家族の多い玄也にとって*二三人扶持では十分な生活は出来ず、自給自足に近い生活を余儀なくされた玄也一家は、米、麦、蕎麦、稗、粟、穀物、芋類、野菜、山菜採り、お茶等、作れるものは何でも作っていたと推測される。 

また、その当時の農民や被差別民の副業として草履(ぞうり)、わらじ、蓑(みの)、箒(ほうき)等、生活雑貨作りがあった。柴や薪(たきぎ)、薪(まき)作りも重要な生活を支える仕事だった。玄也一家も農業の傍ら、副業として生活雑貨作りをしたと考えられる。

小倉教会の信徒組織(コンフラリア)、加賀山隼人を中心に活動していた慈悲活動と救癩活動(ミゼリコルジア)を通して知りえた貧しい被差別部落の人々も玄也達一家に同じキリシタンとして手を差し伸べていたことは十分に考えられる。農業に不慣れな玄也達に農作物の作り方を教え、自然の恵みである自然薯や四季折々の山菜取りなどの知恵を伝えたであろう。 

一六二○年、玄也(三四歳)、長男・源八(十二歳)、侍女四人の計六人が労働可能な人数として家計を支えていたと考えられる。みやは、七人の子供達の世話で多忙を極めていた。 

玄也第二号遺書に『長々の浪人で少しの物も全て売り果たしました。』

みや第十号遺書に『久しく浪人ですので、子供のため、子供のためと言っては、私達の道具も売りまして何もございません。』とあり、家財道具を切り売りしながら最低の生活に耐え、困窮しながらも聖貧に甘んじて生活している玄也みや一家の姿が遺書の中に述べられている。 

B 玄也の好きな狩猟と剥いだ皮を加工する職業
第六号遺書で、玄也は『常々鉄砲が好きですので一丁持っています』と述べている。玄也は鉄砲が好きで、狩をして獲った獲物の皮をなめして売り家計の足しにしていた。また、死んだ獣、牛や馬の皮を剥ぎ、皮を材料として様々な物を作っていたと考えられる。 

採銅所にも被差別部落(穢多部落)があり、玄也は『下層の職人』の中に入り、死んだ獣、牛や馬の皮を剥ぎ、『皮屋』として帯革を作り、単衣を作る靴造りや皮籠、また皮を材料として様々な物を作っていたと考えられる。

被差別部落の多くの人々がキリシタンであることは驚くべき事実である。『下層の職人』『最下級の奴隷か賤民』『賤務』『極貧の人達』の姿、および被差別部落の存在、彼らの仕事がはっきりとした。それとともに、玄也のしていた仕事も明確になった。 

これら『最下級の奴隷か賤民』の近くには、見棄てられたハンセン氏病(癩病)の人達が棲みついていた。又、ハンセン氏病患者達の多くがキリシタンだった。当然、興秋・玄也・みや一家は、見棄てられた同胞キリシタンであるハンセン氏病の人達への慈善救済活動(ミゼリコルジア)をしたとおもわれる。興秋・玄也とみやにとって、この『慈悲』の活動はキリシタンとしてしなければ成らない当然の義務・務めだった。玄也の家族が中心となって、『慈悲の組』(ミゼリコルジア)を組織したか、あるいは、近くにあった『慈悲の組』に参加したと考えられる。なぜなら、採銅所は呼野・企救郡(きくのこうり)に接し、この辺りから田川周辺にかけてキリシタンが約三,○○○人いたと記録されている。 

一六一一年度イエズス会日本年報より(筑後の国、柳河の司祭館)
『レプラ(ハンセン氏病、癩病)の信徒が一人亡くなったが、死体の発する臭いが余りにひどく、誰一人あえて死体に近づこうとしなかった。しかし(神の)恩寵が自然の情を打ち負かし、幾人かの高潔な若者が、かくも敬虔な業の功徳を得ようと近づき、死体を洗うと埋葬のために布に包んだ。これを見ると他の信徒もこのように輝かしい慈愛を分かち合おうとその労苦に一部力を貸し、肩に遺体を担ぐと墓地まで運んでいった。このことは信徒ばかりでなく、異教徒達にいっそう認められた。異教徒達は生来嫌悪し忌み嫌っている多くのことがキリシタンによってなされているのを見て、驚き呆れている。』(筑後の国、柳河の司祭館 第二期 第一巻 二三八頁 同朋舎) 

一六一四年度イエズス会日本年報より
『(小倉)市の外のあばら屋に、或る貧しいレプラ(ハンセン氏病)患者達が住んでいたが、この地の役人はこれらの者たちも責めたて、もし信仰を棄てないならば、家もろとも焼いてしまうと脅かした。しかし、彼らは、命じられたことをするくらいなら、火にかけられる方がましだと答え、その意志の堅さを見て取った役人は、荒々しい口調で、追放するのでどこか別のところに行って住むように、と命じた。』(第二期第二巻 一二九頁 同朋舎) 

*参照 小笠原玄也、細川興秋が係ったイエズス会年報記録に描かれた被差別部落民の姿  

①   銅の採掘
採銅所は平安時代から記録にみえる銅鉱採掘施設。奈良の東大寺の大仏鋳造の時も、採銅所の職人集団が携わっている。採銅技術は朝鮮半島を経由して伝えられたので、帰化した朝鮮の技術者集団だったことが文献に残っている。後に施設名が地名に転訛して、江戸時代の採銅所村に継承された。玄也の時代も引き続き採銅所では銅の採掘が行われていた。 

②   金の採掘
北端の金辺峠(きべ)を境に、北は呼野、南は採銅所、同じ山塊の金の鉱脈を有することが、一六二一年(元和八)発見された。

『一五九七年(慶長二)十一月、利久は木船大明神のお告げに従って、呼野に住居を構えた。ところが、同年末『異人』がきて、この辺は黄金が出る地相であることを指摘したので、同人を伴って山野を探索したところ、『横ずり』という所は最大の地で、『黄金のでること泉のごと』き状態であった。早速、藩主細川忠興に注進し、『原木金太夫』を金山奉行として、多くの役人が派遣された。』
『企救郡誌』所収の『古海家系図・与三右衛門利久』の頁の伝記による 

金山発見の経緯を見ると、宣教師が連れてきた鉱山技師とその下で技術を学んだキリシタン技術者および労働者集団の手で試掘が行われていることが推測される。 

幕府が派遣した隠密の記録『筑前筑後肥前肥後探索書』一六二七年(寛永四)によると、一六二一年(元和七)頃に当地(呼野)で金山採掘が行われたとある。一六二四年(寛永四)『金山の家三百程』があり、最盛期には五、六千人の採掘扶が従事していた。当時の採掘法は、「ためしゆり」(土砂を水でゆすり漉かす・企救郡誌)、露天堀、間府堀りなどであった。 

推論
一六一三年(慶長十八)六月四日、キリシタン禁止令が発布。全国でキリシタン狩りが始まった。迫害を逃れたキリシタンや、故郷を追放されたキリシタンたちは、山の奥深くに逃げ込んだ。そこには徳川家康が全国の金銀山保護のために定めた法律、『御山例五三条之事』があり、一種の治外法権が認められていたため、キリシタンにとっては、そこは安住の地であり、田川郡香春町採銅所付近も企救郡呼野付近も、豊前、豊後、筑前、筑後のキリシタン達にとっては格好の隠れ家であった。この周辺にキリシタンは約三,○○○人いたと記録されている。多くのキリシタン達が鉱扶として銅の採掘に採銅所で働いていた。一六二二年(元和九)からは、金の採取のため呼野で働いていたと考えられる。玄也と息子・源八にとって、同胞であるキリシタン達と共に働き、支え合い、祈り合う事は、苦しい生活の中の大きな慰めと希望の光だった。

細川忠興の一六一四年(慶長十九)一月二二日の御書を見ると、『くるす塔(十字架)を始め、伴天連の墓、国内打ちつくすべく候。企救郡(きくのこうり)の分は右馬介(長岡)奉行を出して念を入れくずさすべく候。残りは郡奉行に申しつくべきを候事。』とあり、特に田川周辺・採銅所・呼野辺の企救郡が名指しで厳しくキリシタン取締りの対象となっている。 

一六二二年(元和九)以降、採銅所においても、川の砂金を採取しており、他国からも採取者が集まり、採取の札請け者は多い時には一,五○○人を数えた。キリシタンたちのもたらすその収入の多くは慈悲の組(ミゼリコルジア)のために使ったのであろう。しかし、金の採取・採掘は一六二七年(寛永四)を頂点に徐々に取れなくなり、熊本転封の年、一六三二年(寛永九)細川忠利は『金山経営は思うほどの成果を上げておらず、近年は運上も無い状態であるが、金山採掘だけは続けている。』と、後任の小笠原忠真に引継ぎ書の中で報告している。 

鉱山に於いてのキリシタン組織コンフラリア
 細川孝之の香春岳城主としての政策には不明なところが多々あるが、その一つに、香春地方における鉱山開発が挙げられる。採銅所という地名が示す通り、香春は平安時代から、奈良の大仏に使った大量の銅を採掘していた土地であり、中津にある宇佐神宮に多くの銅鏡等を奉献している。その鉱山開発は孝之が香春岳城主になった一六〇一年(慶長六)以後も継続されていた。 

*細川藩の記録より
1618年(元和4)孝之33歳、呼野金山発掘に着手。採銅所に於いて金の採掘に従事

1619年(元和5)本格的に金山開発に乗り出す。

1620年(元和6)呼野金山が本格的に稼働し始める。

1621年(元和7)翌年1622年(元和8)12月までに、運上金として砂金2貫694匁余上納している。(砂金10,102kg・1貫3,75kg)


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