筝曲(本土)六つの段物の真実・本土筝曲六つの段物とグレゴリオ聖歌

ロレンソ了斎・狩野内膳筆・神戸市立博物館所蔵


箏曲六つの段物とグレゴリオ聖歌
 グレゴリオ聖歌と本土箏曲六つの段物との比較研究により解明された成果

六つの箏曲(本土に伝わっている筝曲)
1、 五段    『ミサ通常文第1・聖母マリアの祝祭日より・Sanctus 』、2,六段 『信仰宣言・クレド・Credo』【原曲を装飾・陰旋法】
3、七段 『めでたし天の元后・アヴェ・レジナ・Ave Regina caelorum』4、八段     『ミサ通常文第1・聖母マリアの祝祭日より・Agnus Dei』5、九段『ミサ通常文第1・聖母マリアの祝祭日より・グローリア・Gloria』6、みだれ・山田流12段  『主の祈り・Pater Noster』 

本土の箏曲の段物の特徴
琉球箏曲の原曲が『聖母マリアのための交唱と讃歌』の五曲だったことは、解析の結果判明したが、六曲あるはずの『聖母マリアのための讃歌』から『めでたし天の元后・アヴェ・レジナ・Ave Regina caelorum』が抜け落ちている。琉球箏曲の中に無いならば、本土にある箏曲の段物の中にあるはずで、すでに『六段』が『クレド・信仰宣言』と判明しているから、残りの五段、七段、八段、九段、十段(または十二段)のいずれかに該当するはずである。

始めは、琉球箏曲の七段菅撹が『めでたし天の元后・アヴェ・レジナ・Ave Regina caelorum』ではないかと思い分析を進めたが、七段菅撹の小節数が『めでたし天の元后・アヴェ・レジナ・Ave Regina caelorum』のラテン語分節からも旋律の小節数からも和声からも合うことはなく違う曲だと解った。その時点では『七段菅撹』の原曲は不明のまま保留し、まずは『めでたし天の元后・アヴェ・レジナ・Ave Regina caelorum』に合う本土の段物の解析を始めた。 

『五段』はラテン語分節からも旋律の小節数からも和声からも合うことはなく違う曲だと解った。『七段』に合わせてみると、ラテン語分節も旋律の小節数も和声も見事に合った。これで『聖母マリアのための交唱と讃歌』の六曲全てが揃った。 

『聖母マリアのための交唱と讃歌』の六曲全てが『段物』として箏曲の中にあるということは、『聖母のためのミサ曲』もあるはずである。しかし『聖母のためのミサ曲』も3種類『聖母マリア被昇天祭のミサ』『聖母マリアの汚れなき心のミサ』『ミサ通常文第一・聖母マリアのミサ』があり、残りの『段物』にどのミサ曲が該当するのか、一曲ずつ比較して調べて答えを探す作業が続いた。その結果『ミサ通常文第一・聖母マリアのためのミサ・In festis B. M. V.』が該当することが解った。 

『通常文第一・聖母マリアのためのミサ』曲には『キリエ・Kyrie』『グローリア・Gloria』
『サンクトゥス・Sanctus』『アニュス・デイ・Agnus Dei』『クレド・Credo』『主の祈り・Pater Noster』がある。 

『ミサ』の順番に従い最初の『キリエ・Kyrie』より調べ始めたが、『五段』『七段』『八段』『九段』『十段』のどれにも合わない。もしかして保留にしていた琉球箏曲の『七段菅撹』ではないか?『七段菅撹』の各段の小節数の大きな違いに悩まされながらも『七段菅撹』が『通常文第一・聖母マリアのためのミサ曲』の『キリエ・Kyrie』であることが解った。

『グローリア・Gloria』は『九段』、『サンクトゥス・Sanctus』は『五段』、『アニュス・デイ・Agnus Dei』には『八段』がそれぞれ該当した。 

残りのミサ曲は『主の祈り・パーテル・ノステルPater Noster』だが、『主の祈り・Pater Noster』も三種類ありグレゴリオ聖歌のなかで広く用いられている旋律は二つある。ひとつは祝祭日用、もうひとつは週日用である。 

祝祭日用の旋律(A)の最古の写本は、南イタリアに伝わる一一世紀のもので、非常に古くから歌われていた旋律である。一三世紀には、フランシスコ会とドミニコ会が採用して、広く公に用いられるようになった。祝祭日用の旋律は複雑な詩編唱定型に似ているが、朗唱する際、言葉のほとんどをB音で歌い、曲の終わり近くになってA音が用いられる特徴を持つ。終止音はG音かA音で終わる。
*カトリック聖歌伴奏譜 253~254頁 光明社 

週日用の旋律(B)は、祝祭日用の旋律を簡素にした形を持つ旋律で、最古の古い写本は一二世紀中期のカルトゥジオ会の写本の中に書かれている。
*カトリック聖歌伴奏譜 306~307頁 

あとひとつの旋律(C)は九~一三世紀に作られた旋律(*トロープス付)の『主の祈り』(F-LA 263, f.138r~138v)で、主の祈り自体の本文が非常に単純な旋律の定型に付けられていて、同じ装飾音(メリスマ)が各小節の終わりに出てくる形を持っている。既存の週日用の『主の祈り』の旋律に自由な変奏を用いた旋律と思われる。 

ロレンソ了斎はどの旋律の『主の祈り・パーテル・ノステルPater Noster』を用いたのだろうか? 三種類の旋律と『十段』を合わせようとしたが、『主の祈り』のラテン語分節からも旋律の小節数からも和声からも『十段』とは非常に合せづらく『十段』は違う曲だと解った。では『十二段』ではどうだろうか?『主の祈り』は(A)の『祝祭日用の旋律』を使用したが、『十二段』は段ごとに小節数の数が違うので、一番少ない『二段』の一二小節、『初段』の一三小節と二拍、『五段』の一四小節と一拍、『一一段』の一五小節と二拍、多い小節数を持つ『三段』の一八小節、以上の五種類の小節数を『主の祈り』一曲の基本小節数とした。その法則に従うと『主の祈り』を二回繰り返す段は、三段、六段、七段、八段、九段。三回繰り返す段は一〇段と一二段となり、見事に『主の祈り』の伴奏譜としての『一二段』が姿を現した。 

*トロープス Trope
中世において、既存の斉唱聖歌、ことにミサの通常文聖歌と固有文聖歌に挿入されたテキスト、テキストと旋律、あるいは旋律。一般的にその部分は独唱者に割り当てられた。トロープスには地方色が色濃く反映される傾向が強かった。 

だれが『十二段』を『十段』に組み替えたのか?
このことから、ロレンソ了斎が『主の祈り』の伴奏譜として作ったのは『十二段』だったと結論付けられる。ではだれが『十二段』を『十段』に変更したのだろうか?と言う問題が起きてきた。ロレンソ了斎は諸田賢順にグレゴリオ聖歌の伴奏譜として『十二段』を伝え、諸田賢順も玄恕にそのまま『十二段』を伝えたと考えられる。しかし賢順はキリシタン聖歌【グレゴリオ聖歌】の伴奏としての『段物』の深い意味を知っていたが、キリシタン禁教令と殉教の危機から玄恕には『段物』の音楽だけを伝えたと推測される。玄恕は賢順より秘曲として学んだ『段物』を大切に扱いそれを八橋検校に伝えた。これ以後の継承は推測の域を出ないが、八橋検校が『段物』を教え始めた時から、『十二段』を整理して『十段』に組み直したのかもしれない。また琉球箏曲の伝承経路から考えると『六段菅撹』と『六段』を比較した場合に判ることだが、『六段菅撹』の陽旋法と装飾が少ない単純な音型と『六段』の陰旋法と装飾が華美に施された音型等から推測すると1700年頃までは『十段』は『十二段』の姿ではなかったのだろうか?琉球箏曲の『六段菅撹』と『六段』を比較すれば解ることだが、元禄時代に上方の陰旋法の影響を受けて『六段』が陰旋法に変化していったように、同じ頃に『十二段』が『十段』へ組み直されたのかもしれない。1700年以後の検校のだれかが、「十二段」を「十段」へ組み直して独立した段物として成立させたと推測している。 

*箏曲解説

『五段』
原曲は『ミサ通常文第一・聖母マリアの祝祭日より・サンクトゥス・Sanctus 』『『喜びを持って・Cum jubilo』 

カトリック教会のミサ典礼における、ミサ通常文第一・第九番目のミサ『聖母マリアの祝祭日』のための第三曲・『Sanctus・サンクトゥス・聖なるかな』

『Missa・ミサ』と言う言葉の語源は、ラテン語の動詞「Mittere 送る」に由来している。ミサ聖祭の終わりに司祭が継げる言葉「Ite,missa est イテ・ミッサ・エスト・行きなさい、あなた方は遣わされています」に由来する。 

ミサはカトリック教会の典礼で聖務日課(現:教会の祈り)と共に中心的な礼拝で、イエス・キリストが最後の晩餐で定められたキリストの御血と御肉の象徴であるぶどう酒とパンとによって、キリストの受難と復活を記念する聖体祭儀である。 

ミサには、日曜のミサである『主日のミサ』、典礼暦の『祝祭日のためのミサ』、『聖人のミサ』、『記念日のミサ』、『冠婚葬祭のミサ』等がある。 

ミサでは様々な祈りや歌が捧げられるが、ミサ式文は、原則として一年を通して変わらない言葉の部分の『通常文・Ordinarium missae (通称ordinarium オルディナリウム)』と、日によって言葉が変わる部分の『固有文・Proprium missae (通称oroprium プロプリウム)』によって構成されている。固有文は主日や祝祭日の特徴を表し、祝日や典礼の季節に応じて変わって行く。 

通常文、固有文は、聖職者によって唱えられる。もしくは歌われるものと聖歌隊によって歌われるものとに区別されている。そのうち原則として、聖歌隊によって歌われるものに限り、通常文を挙げると以下のようになっている。 

・通常文(唱)キリエ、グローリア、クレド、サンクトゥス、アニュス・デイ、

一四世紀以降、通常文(唱)のキリエ、グローリア、クレド、サンクトゥス、アニュス・デイの5つを一組としてミサで歌われるようになった。多くの作曲家により多声ミサ曲として作曲されるようになり、今日に至っている。 

使用した楽譜の出典は『グラドゥアーレ・トリプレクス・Graduale Triplex 』(一九七九年ソレム修道院出版) 四二頁、ミサ通常文第一・第九番目のミサ『聖母マリアの祝祭日・Sanctus』
(IX In festis B. Mariae Virginis 1)(Cum jubilo・喜びを持って)単純調(tonus simplex )
*カトリック聖歌伴奏譜 260頁 光明社 

原調は一四世紀成立した第五旋法リディア旋法による。はじめの音はC音。

原調の第五旋法のリディア旋法による『聖なるかな・Sanctus』は、第四旋法のヒポフリジア旋法の旋法そのものが持っている旋法の性格が異なるために比べるとより明るく軽快な調性を持ち、へ長調(F major )に近い調性に感じる。 

*『サンクトゥス』の原調は教会第五旋法のリディア旋律で、始まりの音がC音であるために、伴奏譜としての箏曲『第五段』の本調子の調性G音とは、四音のズレがあるため、グレゴリオ聖歌の旋律を一音下げてB音から始まるように書き直す必要がある。書き直した曲の調性は変ホ長調(E♭major)になり、B音、E音、A音に♭が付く。
*カトリック聖歌伴奏集 二六〇頁 光明社、ニ長調(D major)
はじめの音はA音。 

ロレンソ了斎は『ミサ通常文第一・聖母マリアの祝祭日・第三曲・Sanctus・サンクトゥス・聖なるかな』の旋律に伴奏を付け、それが段物の『箏曲五段』に相当する。 

*原曲『サンクトゥス』の初めはC音(ド)から始まっているが、このままの調性だと箏曲五段とは合わない。音の高さを五段と同じにするためにC音からB音に一度下げて書き直す必要がある。ロレンソ了斎が伴奏譜を作った当時は、原調のリディア調、始まりのC音より,ひとつ下がったB音で歌っていたことがわかる。サンクトゥス自体短い曲なので2回繰り返して歌っていたこと、ロレンソ了斎は五種類の伴奏譜を作って歌っていたことが伴奏譜からも証明できた。 

『五段』と『サンクトゥス・Sanctus』との音楽の構成関係

曲の構成表
『五段』         『サンクトゥス・Sanctus』
初段、27小節、      2回繰り返し(13小節と2拍+13小節と2拍)
2段、26小節、      2回繰り返し(13小節+13小節)
3段、26小節、      2回繰り返し(13小節+13小節)
4段、26小節、      2回繰り返し(13小節+13小節)
5段、26小節、      2回繰り返し(13小節+13小節) 

*五段の構成表から判ることだが、キリスト教が日本に入ってきた当初は『サンクトゥス・Sanctus』は短い曲なので二度繰り返して歌っていたこと。ロレンソ了斎は五種類の伴奏譜を作って歌っていたことが、段物の構成表から伺い知ることができる。 

初段だけが二七小節と他の二段~五段【二六小節】より一小節多い。サンクトゥスの旋律に対して和声的に初段の二七小節の音を割り振ると、一回目は一三小節と二拍、二回目も一三小節と二拍と割り振ることができた。 

『六段』(本土の筝曲・六段)
原曲は『クレド・Credo・信仰宣言』
 

『六段』も『六段管撹』も、共に六段で構成されている。
初段二七小節、二段二六小節、三段二六小節、四段二六小節、五段二六小節、六段二六小節、

『クレド』の旋律のラテン語分節に従って六段菅撹を当てはめると、前半部分が初段(二七小節)ほぼ真中の『Et resurrexit tertia die』から二段(二六小節・アーメン)が当てはまる。
つまり『クレド』は三種類の伴奏譜で作られていて六段全ての段が当てはまる。

二段の二六小節は『アーメン』、四段の二六小節は『アーメン』、六段の二六小節は『アーメン』に相当している。初段一小節の先唱『Cred in unum Deum』は、三段目と五段目の始まりにも存在している。三段目と五段目の始まりは先唱『Cred in unum Deum』に音楽的にも和声的にも合致している。二段目と四段目に『アーメン』があるということは、『クレド』の伴奏譜が3種類あるということで、皆川氏が主張する『クレド』を続けて三回繰り返し歌うとの理論とは相いれない。諸田賢順が『クレド』の伴奏譜を編集する際に、初段一小節目の先唱と同じ、三段目と五段目の始まりは先唱『Cred in unum Deum』の小節と音楽的にも合うように作られている。 

琉球六段管撹・曲の構成表          (本土)箏曲六段・曲の構成表

1、一段27小節、二段27小節(アーメン) 1、一段27小節、二段26小節(アーメン)

2、三段27小節、四段26小節(アーメン) 2、三段26小節、四段26小節(アーメン) 

3、 五段27小節、六段27小節(アーメン) 3、五段26小節、六段26小節(アーメン) 

琉球六段管撹と(本土)箏曲六段の曲の構成表を見て判る通り、本土箏曲の六段の方が、一段の二七小節の他は、各段二六小節に統一されている。琉球六段管撹が基の形だと仮定した場合、本土の箏曲六段は、一七〇〇年以降、元禄時代になってから、より段物として演奏しやすいように、一段の小節数を二六に揃えたと考えられる。

『クレド・Credo・信仰宣言』
カトリック教会のミサ典礼における、ミサ通常文の第三番目に唱えられる『信仰宣言・クレド』。『会衆が神の言葉に応えて信仰の規範を思い起こし、信仰を新たにするために,信条を唱えること』と規定されている。 

司祭が『われは信ず、唯一の神Credo in unum Deum』と唱えて歌い出し、信者達が『全能の神Patrem omnipotentem』と続く。前半部では創造主である父なる全能の神と、人間の姿で誕生して十字架の上で我らの罪をあがない給うたイエス・キリストへの信仰を、後半部では死に勝利したキリストの復活、父と子と三位一体の聖霊への信仰告白を荘厳な旋律に乗せて歌っていく。 

信仰宣言【クレド】
私は天地の造り主、全能の父なる神を信じます。私はその独り子、私たちの主、イエス・キリストを信じます。主は聖霊によってやどり、おとめマリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ,蔭府(よみ)にくだり、三日目に死人の内よりよみがえり、天に上り、全能の父なる神の右に座しておられます。かしこよりきたりて生きている者と死んだ者とを裁かれます。私は聖霊を信じます。聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪の許し、体のよみがえり、とこしえの命を信じます。アーメン 

クレド・信仰宣言の歴史的成立過程
信仰宣言とは、イエス・キリストの弟子たちの時代から使徒時代を経て、信仰の基本は色々な形でまとめられてきたが、洗礼の確立と共に信徒になる人の信条の告白も定式化されていった。

洗礼を受けるに先立ち、洗礼志願者にキリスト者の秘儀が伝えられ、志願者は共同体(教会)の面前でそれを唱え返す式があった。更に、洗礼そのものが『父と子と聖霊を信じます』と言う信仰表明の後に授けられた。二一五年、ローマの『ヒッポリュトスの使徒伝承』の時代には、この形式は確立されていた。三二五年、ニカイア(現・トルコのイズニクIznik )で開催された第一回公会議で信条が作成され、三八一年、コンスタンティノポリス(現・トルコのイスタンブール)で開催された公会議において『聖霊に関する補足』が補足付加されて『ニカイア・コンスタンティノポリス信条』の式文が成立して、教会で唱えられ、ラテン語聖歌の旋律によって歌われてきた。 

東方教会では五六八年、皇帝ユスティニアヌス二世の命令で、『主の祈り』の前に『ニカイア・コンスタンティノポリス信条』を歌うことが義務付けられた。西方教会でもスペインとガリアで六世紀終わりころから、この信条を歌うように決められた。信条を歌う習慣は九世紀にアイルランドで広まり,福音書の朗読の後に歌うようになった。イングランドを経てドイツに入り、ヨーロッパ全域の教会において習慣化された。一〇一四年、皇帝ハインリヒ二世が戴冠式のためにローマに行き、主日と大祝日にニカイア・コンスタンティノポリス信条を唱えることを西方教会に義務付け、以後西方教会全域において信条が正式に典礼に組込まれた。 

クレドの音楽的成立過程
『ニカイア・コンスタンティノポリス信条』による『クレド』を歌うラテン語聖歌には、中世に作成された写本の中に八種類の旋律が確認されている。一九七四年に出版された現行のグレゴリオ聖歌集『グラドゥアーレ・ロマーヌムGraduale Romanum 』には、一一世紀から一七世紀に作られた六種類の旋律が、ネウマ楽譜付で記載されている。 

成立年代
クレド1番 一一世紀XI.S。2番 記載なし。3番 一七世紀XII.S。4番 一五世紀XV.S。5番 一七世紀XII.S。6番 一一世紀XI.S 

教会旋法別の分類
6種類の旋律はそれぞれが教会旋法によって、固有の旋律を持っている。六種類の旋律を教会旋法ごとに分けると、三種類の教会旋法に分類できる。 

第四旋法ヒポフリギア旋法、第一番、第二番、第五番、第六番、
第五旋法リディア旋法、第三番、
第一旋法ドリア旋法、第四番、
 

第四旋法のヒポフリギア旋法による四種類の旋律は基本的には極めて類似した旋律であり、類似した旋律の上にそれぞれが独自の装飾的な動きを旋律内に持っている。つまり一一世紀に作られた第一番の旋律が基本の旋律であり、第二番、第五番、第六番の3種類の旋律は第一番旋律の変形であり、中世の時代に広範囲の地域において歌われていた第一番旋律が、時代的地域的変遷を経て伝承され変形して定着した相違によると考えられる。 

第五旋法のリディア旋法による第三番は、第四旋法のヒポフリジア旋法の四曲とは旋法そのものが持っている旋法の性格が異なるために比べるとより明るく軽快な調性を持ち、へ長調(F major )に近い調性に感じる。 

第一旋法のドリア旋法による第四番は、荘厳で重厚な調性を持ち,ニ短調(d minor )に近い調性を持っている。 

『クレド』の旋律の中で『Authenticus=正統的・基準的・本来的』とされてきたのが、第一番の第四旋法ヒポフリジア旋法による旋律である。年代的にも一番古く一一世紀に成立したと言われている。六種類の旋律はそれぞれが属する旋法に応じた動きや装飾的音符の長さの違い等があるが、言葉からくる制約や音楽的区切り方等から比較した場合、構造的には同一の形式に統一される。 

クレド(Credo)と六段の関係の発見
『クレド』に『六段』を重ね合わせると、司祭が先唱する『われは信ず、唯一の神』が『六段』では導入序奏の『テーントンシャーン』に対応する。信者が歌う前半部と後半部が『六段』の初段と二段とに重なりあう。『クレド』の旋律のラテン語分節に従って六段菅撹を当てはめると、前半部分が一段(二七小節)ほぼ真中の『Et resurrexit tertia die』から二段(二六小節)が当てはまる。二段の二六小節は『アーメン』、四段の二六小節は『アーメン』、六段の二六小節は『アーメン』に相当している。また、初段一小節の先唱『Cred in unum Deum』は、三段目と五段目の始まりにも存在している。二段目と四段目に『アーメン』があるということは、『クレド』の伴奏譜が三種類あるということで、皆川氏が主張する『クレド』を続けて三回繰り返し歌うとの理論とは相いれない。諸田賢順が『クレド』の伴奏譜を編集する際に、ロレンソ了斎から教えられたとおり、伴奏譜の音を何一つ省略することなく、『クレド』の伴奏譜を『六段』と言う段物に整理して移し替えたと考えられる。 

福岡県大牟田市の筝奏者・故坪井光枝氏が『クレド第3番』と『六段』の類似性を1995年頃に指摘され、2006年10月リサイタルにおいて、『大牟田宮部に生まれた箏の祖 賢順を記念して』と題してコンサートプログラムに『箏の祖 賢順』の論文を掲載された。この報告を受けて皆川達夫氏が『クレドと六段』の関係を詳しく調べられ、邦楽ジャーナル2010年10月号に『『六段の調べ』はキリシタン音楽だった』と題して、聖歌『クレド』と合致する『六段の調べ』の論文を発表され、続いて2011年1月にCD箏曲『六段』とグレゴリオ聖歌『クレド』を発売された。このCDでの演奏の特徴は『六段』を譜面通りに演奏するために、グレゴリオ聖歌『クレド』の旋律が多くの3連譜や付点16分音符、4連譜、5連譜を用いて変形されていることがあげられる。確かに『六段』の現在の姿を崩さずに『クレド』と合致させるには、『クレド』の旋律のリズムを変える方法しかないと理解できるし、『クレド』と『六段』の合致点、落とし所としての結果がこのCDに集約されていることを認める。『六段』を譜面通り演奏して、それに『クレドの旋律』を当てはめることで、『六段』が『クレド』の伴奏譜だったことが証明された。 

しかしCD解説に『クレド』と『六段』との対照楽譜が掲載されていたが、『六段』の最初の音がE音になっている。箏譜面では『六段』は平調子で五の音になっているので、3度高いG音から始まるはずである.伴奏譜である『六段』全てが3度低く書かれているのは間違いである。460年前『クレド』が歌われていた当時、伴奏がE音を出して、信徒が3度高いG音から歌いだしていたのだろうか?『和声を取ることが難しい、困難である。』とのイエズス会の報告を読むとき、伴奏の琵琶、あるいはヴィオラス・デ・アルコ(violas de arco)で歌う旋律をなぞっていたとの記述のとおり、曲の初めと同じ音を出していたと考える方が自然だと思われる。 

クレド三番は、日本のキリシタン時代(一五五〇~一六一四)に歌われていたか?
故坪井光江氏が『クレド三番』と『六段』の類似性を指摘されたが、なぜ坪井氏が『クレド三番と六段が合う』と言われていたのか? 

クレド三番の成立年代は一七世紀XVII、一六〇〇年代であり、ロレンソ了斎(一五二五~一五九二)と諸田賢順(一五三四~一六二三)が生きていた時代には、クレド三番は成立していなかったし、日本では歌われていなかったことが文献的にも証明されている。 

フランシスコ・ザビエルによって一五四九年に日本にもたらされたキリスト教だが、徳川幕府によってキリスト教禁教令が出された一六一四年までの六〇年の間に日本において歌われていたクレドは一番だけだった。 

故坪井光江氏に、なぜ「クレド三番」を選ばれたのかをおたずねしたら「カトリック聖歌集に掲載されていたから」と答えられた。現行のカトリック聖歌集には確かに二種類のクレド、一番と三番が掲載されている。クレド一番は一一世紀、三番は一七世紀の成立である。 

時代的にはキリシタン時代(一五五〇~一六一四)に歌われていなかったクレド三番がなぜ筝曲六段と合うのか?クレド一番と三番は、成立年代の違いと旋律に違いはあるものの、クレドの内容、言葉等は、根本的に同一であり、構造的な大きな違いは感じられない。坪井光江氏は「クレド三番と筝曲六段が合う」と主張されたが、その主張のなかにクレド三番とクレド一番の成立の時代的差はあれ、クレドの根本的な同一性と筝曲六段との類似性に気が付かれたのは、まさに神からの啓示と言わざるを得ない。 

この命題が、神からの啓示として坪井光江氏に与えられ、クレドと六段の類似性に初めて気付かれたことが、グレゴリオ聖歌と筝曲の段物の研究の発端となったことは、神の領域における奇跡の啓示と言わざるを得ないと思うし、そう信じている。この坪井氏に与えられた神からの啓示がなければ、クレドと六段の研究そのものの研究も始まらなかった。 

キリシタンの隆盛期時代(一五五〇~一六一四年)の一般信徒の歌唱能力について
当時の一般キリシタン信徒の歌唱能力は、どれほどのものだったか?
 

コレジオ等の教会教育機関においての音楽教育は、教会歴にしたがって季節ごとに変わるグレゴリオ聖歌を教えていた。そのために毎日一時間、音楽教育を受けていたセミナリオの神学生にとっては当たり前のようにグレゴリオ聖歌を歌えたし、各地方の大きい教会においては、ミサにおける聖歌は典礼に従って、聖歌隊がグレゴリオ聖歌を季節ごとに変わる教会歴に従って決められている聖歌が歌われていた。キリスト教最初期の府内においての記録になかにも教会でのミサを維持するための音楽教育の重要性が記録されている。 

アイレス・サンチェス(Aires Sanches)
アイレス・サンチェスは、府内にアルメイダが作った病院の医療従事者の中でも音楽的才能を持ち、日本に来る前にインドのゴアで専門的に音楽の訓練を受けていた。
サンチェスは一五六一年の夏頃にゴアから平戸に着き府内にきた。『私(アイレス・サンチェス)は一五六一年平戸につき、日本に骨を埋める覚悟でトーレス神父やイルマンたちとともに豊後に滞在し、コンパニヤ(イエズス会)への入会を許された。』 

イルマン,ギリェルメ・ぺレイラ(Guilherme Pereira)、ルイ・ぺレイラ(Rui Pereira)はその中の五人でゴアのコレジオの学生たちだった。彼らはポルトガルからきた孤児で、ゴアの修道院で教育を受け、言葉を覚えるにはもっともすぐれた素質と音楽の才能を持ち『グレゴリオ聖歌とオルガン伴奏歌唱』に、もっとも習熟した人たちであった。彼らの選抜の基準はまさに典礼的音楽の才能であった。

後にギリェルメ・ぺレイラ(Guilherme Pereira)はイエズス会に入会してイルマンになり、日本に永住した。布教地の典礼音楽に与えた影響は大きい。この派遣団が、ある種の経済的余裕によって準備され得たので、新布教地のために入手した書籍の中には、典礼のための本が何冊かあった。教会の発展のために有効な『グレゴリオ聖歌・canto chao 一冊、オルガン伴奏歌唱一冊である。これらは日本にもたらされた最初の典礼音楽書である。この二冊の楽譜が最初の音楽のための楽譜として使われた。 

しかし、一般信徒の歌唱水準は非常に低く、音楽教育を受ける機会もない信徒の水準は、楽譜もなく暗譜するしか方法がなかった。したがって、イエズス会の記録にも見られるように、よく歌われる聖歌が中心になり、同じ聖歌が繰り返し歌われ唱えられて、暗記するように教育を受けていた。このように書くと、当時のキリシタンたちが歌っていた聖歌が、非常に少なく貧しいようにおもえるが、文献から見ても、キリシタンたちが歌っていた聖歌が、多種多様に渡り、信仰生活を十分に支えるだけの聖歌が歌われていたことがわかる。確かに聖歌の数は少ないかもしれないが、数少ない聖歌が、キリシタンたちに心のよりどころとなり、弾圧と迫害にも雄々しく立ち向かう力となった。また殉教の際の記録から『*クレド・信仰宣言』や『*主を褒め称えよ・Laudate Dominum 』等を雄々しく歓びに満ちて歌いながら殉教していった。
*『クレド』1619年(元和5)長崎、ドミンゴ・ジョルジョ
*『Laudate Dominum』1622年(元和8)平戸、カミロ・コンスタンチオ神父

豊後府内の修道院と布教の様子から
『当修道院に居住する日本人の同宿たちは、昼間は来訪者たちに「日本語とその文字で書かれた本」によってドチリナ(教理)を教え、夜、アヴェ・マリアの時刻に、つづいて、パードレ(神父たち)と共に、我ら一同はパーテル・ノステル、アヴェ・マリア、クレド(信仰宣言)サルヴェ・レジナの祈祷(オラショ)を行い、また、航海者、特に日本に来る司祭と修道士のため、パーテル・ノステルを一度唱えたのち、ラダイニャス(聖母連禱)をともに唱えていた。』
*一五五五年九月二〇日付け 豊後(大分)発 デュアルテ・ダ・シルヴァ修道士書簡
一六・一七世紀イエズス会日本報告集 第Ⅲ期第Ⅰ巻 二一四頁 

最初期の一五五五年当時から、教会での信徒に対する音楽教育は一貫して変わりなく、比較的単純な聖歌を中心に教えていた。キリシタンが日々唱える『主の祈り』『アヴェ・マリア』『サルヴェ・レジナ』『クレド・信仰宣言』、および一六〇五年に長崎で出版された『サクラメント提要』に掲載されている聖歌等。 

ミサで歌われる聖歌に関しては、ロレンソ了斎が琵琶で伴奏譜を作っている『聖母のためのミサ』の「キリエ・Kyrie」「グローリア・Gloria」「クレド・Credo」「サンクトッス・Sanctus」「アニュス・デイ・Agnus Dei」(現・カトリック聖歌伴奏集二五六~二六一頁)等が、繰り返し毎週のミサにおいて歌われていたと推測される。当時のキリシタンが、毎週聖歌が変わるミサについて行けただろうか?文字の読み書きができなかった識字率の低い当時のキリシタン信徒の水準を考えると、煩雑に聖歌を変えるよりも、同じ聖歌を繰り返して歌う方が、キリシタン信徒教育のためには有効な手段であった。同じ聖歌が毎回のミサにおいて歌われていたと推測される。キリシタン同士の集まりにおいても、志を同じくするためにも、すべての信者が歌える聖歌が歌われていたと推測される。

*六段管撹・曲の構成表         (本土)箏曲六段・曲の構成表

1、一段27小節、二段27小節(アーメン) 1、一段27小節、二段26小節(アーメン)

2、三段27小節、四段26小節(アーメン) 2、三段26小節、四段26小節(アーメン) 

4、 五段27小節、六段27小節(アーメン) 3、五段26小節、六段26小節(アーメン) 

『クレド』の旋律のラテン語分節に従って六段菅撹を当てはめると、前半部分が一段(27小節)、ほぼ真中の『Et resurrexit tertia die』から二段(27小節)が当てはまる。  

別の証明の方法
このCDの証明方法しか音楽的解決策は存在しないのだろうか?上記の文献を参考にCDの演奏とは正反対の考え方に基づき、グレゴリオ聖歌『クレド』【信仰宣言】の旋律の歌い方はこの400年間変わっていないとの前提の上に、グレゴリオ聖歌『クレド』の旋律に合わせて『六段』の初段と二段の音符を割り振る形で、『クレド』第一番の伴奏譜を作成した。1557年頃の豊後府内でどの『クレド』が歌われていたのかを特定すること、断定することは非常に難しい。イエズス会の記録に『クレド』が歌われていたとの記述はあるが、それがどの『クレド』,何番の『クレド』とまでは言及していない。時代的に見て、1557年当時、日本で【豊後府内あるいは山口で】歌われていた可能性が最も高いのが11世紀頃から典礼に採用されて歌われている『クレド』第一番と考えられる。 

箏曲『六段』はディフェレンシアス(変奏曲)なのか?
【変奏曲Diferenciasは主題が最初から変奏されて提示され、6つの変奏の形式をとる】 

箏曲『六段』は日本の箏曲・伝統音楽の中で特に広く知られ親しまれている。『六段』の構成が変奏曲、16世紀スペインの「ディフェレンシアス」に類以している事、それゆえに、箏曲『六段』も同じ形を持っていることが以前から指摘されてきた。しかし、本当に『六段』は『ディフェレンシアス』と同じ形式を有するのだろうか?『六段』だけが『ディファレンシアス』と類似していたのだろうか?では他の『段物』の形式と『ディフェレンシアス』の関係をどの様に説明するのだろうか?重ねてたずねるが他の段物、5段や7段、8段との『ディファレンシアス』との関係をどの様に説明するのだろうか?たまたま『六段』と言う段物が『ディフェレンシアス・6つの変奏の形式』と言う形式と似通った形を有すると認識して解釈していたのではないかと結論付けられる。 

『六段』という段物の原曲が『聖母マリアのミサ曲の通常文』の中の『クレド』だったこと、『ミサ』の中で『クレド』は一度だけ歌われること。このことから3種類の伴奏譜としての『クレド』が創られたこと。『クレド』の3種類の独立した伴奏譜だったことが明らかになった今『ディフェレンシアス』との関係は無かったと言うことができる。

ロレンソ了斎は『クレド』の伴奏のために独立した3種類の伴奏譜を書いていた。第1の伴奏譜は初段と2段、第2の伴奏譜は3段と4段、第3の伴奏譜は5段と6段、3種類の独立した伴奏譜を作曲したと考えられる。 

ロレンソ了斎の時代の『クレド』の演奏方法
皆川氏により『六段』が『クレド』の伴奏譜と判ったときは「クレドを続けて3度繰り返す」と主張されていたが、研究が進むにつれて,クレドの旋律に対して六段の音を和声的に割り振ったところ、2段目の26小節、4段目の26小節、6段目の26小節が『アーメン』に当てはまることが楽譜から証明された。また3段目と5段目の冒頭の『先唱・Credo in unum Deum』も存在している。同様に2段目と4段目、6段目の26小節『アーメン』も存在している。つまり、ロレンソ了斎は3種類の『クレド』の伴奏譜を創っていたと考えることができる。長大なクレドを3度もミサの中で繰り返して歌っていたのではないことが証明された。 

琉球箏曲七段が『聖母マリアの祝祭日、通常文第1ミサ、キリエ・エレイソン、主よ、憐れみたまえ』、本土の箏曲・五段『ミサ通常文第1・聖母マリアの祝祭日より・Sanctus 』、八段『ミサ通常文第1・聖母マリアの祝祭日より・Agnus Dei』、九段『ミサ通常文第1・聖母マリアの祝祭日より・グローリア・Gloria』と判明した。 

ミサにおいて歌われる各歌は繰り返しなしで歌われるのが普通である。通常ミサにおいては、『キリエ・エレイソン』『グローリア』『クレド』『サンクトゥス』『アニュス・デイ』は1回だけ歌われる。従って、ミサにおいて『クレド』も通常は1回だけ歌われていたはずである。 

その様に考えると、ロレンソ了斎は3種類の『クレド』の伴奏譜を創ったと考えられ、初段の冒頭にある序奏(テーントンシャン)が3段と5段の冒頭にも存在している。六段と同じ結尾(コーダ・アーメン)が2段と4段【26小節】にも存在している。おそらく、諸田賢順がクレドの伴奏譜だった六段を編集する際に、ロレンソ了斎から教えられたとおり、何一つ音を省略することなく『六段』と言う段物に整理して演奏しやすいように形を整えたと考えられる。 

使用した楽譜の出典は『グラドゥアーレ・トリプレクス・Graduale Triplex 』(1979年ソレム修道院出版) 64~66頁、Credo・クレド・第1番、第4ヒポフリギア教会旋法。原調の第4番ヒポフリギアの、はじめの音はG音。
*カトリック聖歌集 266~269頁、光明社、ヘ長調。はじめの音はG音。 

『クレド』の楽譜化と演奏の再現化
グレゴリオ聖歌『クレド』【信仰宣言】の旋律と歌い方はこの400年間変わっていないとの前提の上にグレゴリオ聖歌『クレド』の旋律に合わせて『六段』の音符を割り振る形で楽譜化すると、『クレド』の旋律に合わせて極端に『六段』が延びる箇所と極端に音符が詰まる箇所ができるという音楽的問題が生じる。現在箏曲で演奏されている『六段』の音符の間隔がある個所では倍の長さに延び、ある個所は音符が極端に詰まってしまう。おそらく1614年以来の禁教令により『六段』が『クレド』の旋律と歌詞を失った時から、伴奏譜としての『六段』がより自由になり、旋律に合わせて間延びしていた音と音との間隔が、音楽性を保持するために感覚的に縮んだり伸びたりして変化していき,徐々に整えられて独立したひとつの楽曲となっていったのではないだろうか。 

ロレンソ了斎から教えられた諸田賢順が、『クレド』の伴奏譜を今の形の『六段』に整えた可能性は非常に高い。なぜなら、賢順が53歳の時、1587年(天正15)、多久安順より多久に招かれて、安順の妻『千鶴姫』に箏を教授する役目を仰せつかり、多久梶峰城の下に屋敷が与えられ住むことになった。

しかし、時代はキリシタン禁教に向かって徐々に進み始め、キリシタン信仰の故に殉教する人達が増えてきた。これらの殉教報告を受けて、賢順はロレンソ了斎から学んだグレゴリオ聖歌の伴奏譜の取り扱いをどの様に考えただろうか?これら多くの殉教報告を聞いた賢順は、自分の受け継いだ音楽がキリシタンと深く関係していることを知っているが故に、玄恕に段物の本当の意味を知らせることは、幼い玄恕にとって命を危険にさらすことになる故に『段物』と言う音楽の形だけを継承させたと考えられる。賢順が玄恕に段物を伝えた時、すでにキリシタン音楽と判らなくするために、すでに現在の『六段』の形に姿を変えて伝えたと推測される。門弟の玄恕を経て、八橋検校(1614~1685)へ伝えられた時には、すでに現在の『六段』の形に姿を変えた楽曲を継承させたと思われる。あるいは八橋検校がクレドの伴奏譜を独立した楽曲『六段』の演奏スタイル(速度を速たり、ゆっくりした個所の指定等)を現在の演奏スタイルに確立したのかもしれない。それゆえに『六段』は八橋検校作曲と言い伝えられたのであろう。 

最も日本的と考えられていた箏曲『六段』を基の姿に返したとき、フランシスコ・ザビエルからグレゴリオ聖歌を学んだロレンソ了斎の心の中に入り込んで留まり、徐々に熟成され、ある時を経て『クレド』の日本的伴奏譜となって結晶した。ロレンソ了斎の心の中で西洋音楽と日本音楽が出会い邂逅して混ざり合い、徐々に時間の純化を経て新たな形として姿を現した。 

『六段』の中に『クレド』を見出し、ロレンソ了斎の『クレドに付けた伴奏』の姿を再現できたとき、キリシタン音楽が日本音楽と初めて融合した1550年当時の姿の残り香を感じることができるのではないだろうか。 

キリスト教が1549年に日本に入ってきてわずか20年の間のなかに、諸田賢順が大友宗麟の招きで豊後府内に在住した1556年~1569年(弘治2年~永禄12年)の14年がある。1556年、府内に於いて諸田賢順は日本人で初めてイルマン・修道士になったロレンソ了斎・元琵琶法師に出会い、ロレンソ了斎から西洋音楽である『クレドとその伴奏』を学び記譜をした。諸田賢順の府内で過ごした時期はキリスト教会の発展の時期と重なっている。その後、諸田賢順は1569年(永禄12)に豊後府内から郷里の佐嘉南里に戻り17年を三根の東津で過ごし、1587年(天正15)9月、多久邑主多久安順に招きで多久に移住、1623年(元和9)7月13日、多久に於いて90年の生涯を閉じた。 

箏曲『六段』は日本が誇る音楽文化遺産である。たとえそれがグレゴリオ聖歌の影響を受けて生まれたとしても『六段』の真価を何一つ傷つけるものではなく、むしろ1550年代の日本に入ってきた西洋音楽文化が日本音楽の中に融合してひとつの形を生み、『六段』という作品に結実した。『六段』における『クレド』との融合の存在意義は限りなく深く尊いと考える。 

歴史の中でキリシタン音楽『クレド』は1614年の禁教令のために表面的には歌われなくなり消えていき、一方の『クレドの伴奏譜』は独立した器樂曲『六段』となって受け継がれていったことを考えると、音楽の世界においても1550年にキリスト教が日本に来た時に、西洋音楽(教会旋法)と日本音楽(5音階旋法)の奇跡のような出会いがあり、その後このことに携わった人々や音楽が辿った全く違うそれぞれの道にはとても深い意味と神の深遠な摂理が存在する。460年の時を経て、今神は長い間隠しておられた真実を明らかにされようとしておられる。こののち、この段物の解明に携わる人々は,神の聖なる領域の問題として敬虔にこの問題と向かい合わなければならない。 

使用した楽譜の出典は『グラドゥアーレ・トリプレクス・Graduale Triplex 』(1979年ソレム修道院出版) 64~66頁、Credo・クレド・第1番、第4ヒポフリギア教会旋法。原調は教会旋法第4番ヒポフリギア。始まりの音はG音。*カトリック聖歌集 266~269頁。光明社。ヘ長調。はじめの音はG音。 

演奏上の問題点
『クレド第1番』は第4ヒポフリギア教会旋法によって書かれている。教会旋法は、古代ギリシャ音楽に源を持ち中世の教会で発展して、現代の長調や短調とも違う教会独自の旋法である。 

ヒポフリギア教会旋法とはミ【E】の音を終止音として、終止音上の5度を中心として、その下に広がる音域をもつ旋法である。終止音とは、曲が終止する音であり、ラ【A】の音を属音と呼び旋律の流れの中心となる音である。音階は、シドレミ【終止音】ファソラ【属音】シ、により構成されている。 

『六段』の平調子【平調律】は箏の最も基本的で最も多く使われる調弦法。日本の音階はミ【E】を基本音として、ラシドミファの5の音により音階が構成されていて、現代音階で言う、レ【D】とソ【G】の音が抜けている。(俗にいう四七抜きの音階) 

『六段』の平調子から、四、六、九、斗の弦を半音あげると『クレド』の音階と一致する。

全ての箏曲の段物をグレゴリオ聖歌の教会旋法と同じ音階にしようとすると『平調子』から『乃木調子』にする必要がある。『乃木調子』の音階に、教会旋法の半音になっている音と同じ音を半音にすることで音階が統一される。 

琉球箏曲六段菅撹と箏曲六段との違い
グレゴリオ聖歌『クレド』の旋律と対比させた時に、琉球箏曲六段菅撹の方が、本土の箏曲六段よりも、旋律的にも調性的にも音楽的にクレドの旋律に馴染むことは否めない事実である。 

*琉球箏曲『管撹六段』と箏曲『六段』との2曲並列の比較楽譜参照

琉球箏曲六段菅撹と箏曲六段を小節ごとに比べた場合、琉球箏曲六段菅撹の方が単純(シンプル)に書かれていて、箏曲六段(本土)は、同じ小節の同じ音に装飾された形が至る所に見受けられる。装飾された形が示していることは、初めは単純な音の形だった曲が、音を装飾させることにより、より華やかに演奏しようとしたことの現われと考えられる。

もう一つの問題点は、琉球箏曲六段菅撹の陽調性と箏曲六段の陰調性があげられる。 

おそらく、諸田賢順から玄恕、玄恕から八橋検校、八橋検校から吉部座頭,吉部座頭から薩摩藩士・服部清左衛門政真、武右衛門政実父子へ継承され、1700年(元禄13年)稲嶺盛淳(いなみねせいじゅん・生没年不明)が薩摩に派遣され、薩摩藩士・服部清左衛門政真、武右衛門政実父子から八橋流筝曲の演奏法を学んで帰国した時まで『六段』を含めて『すべての段物』は、琉球箏曲に伝えられている陽の調性ではなかったかと推測される。 

琉球では琉球王朝の秘曲として門外不悉の扱いを受け稲峰盛淳の後は尚温王(1795~1802在位)冊封の時の琴弾役として、中村筑登之が務めている。尚質王(1629~1668年在位)冊封の琴弾役は仲本興嘉(1784~1851)が務めている。興嘉の後は長男の仲本興斎(1804~1865)伊波興紀、その弟子の伊波興厚(1859~1920)、玉城盛重(1868~1945),興厚の弟子の仲里陽史子(琉球筝曲興陽会初代会長)盛重の弟子の仲嶺盛竹、城間千鶴(琉球筝曲保存会初代会長)へと伝承されている。 

本土では八橋検校(1614~1685)の後、1700年代の元禄時代、上方で流行した陰の調性の影響を受けて『段物』にも手が加えられ現在の『段物』の調性に変えられていったのではないかと考えられる。江戸中期には生田検校(1656~1715)、山田検校(1757~1817),北島検校(?~1690)、三橋検校、安村検校、浦崎検校(?~1800年前半)、八重崎検校(1776~1848)、光崎検校(?~1853?)等により、幕末まで徐々に段物に変化や装飾が加えられていったと推測される。現在,どの検校がどのような装飾を施したのか、元の段物のどこをどのように変えたのかを知ることはできない。なぜかというと、前の検校から受け継いだ段物がどのような楽譜であったのか、それをどの検校がどのように変えたのかを知る手掛かりとなる楽譜が残されてはいないからである。 

*グレゴリオ聖歌『クレド』と琉球箏曲『管撹六段』と箏曲『管撹六段』との3曲並列の比較楽譜参照

『クレド』の旋律に対して琉球箏曲『管撹六段』と箏曲『六段』との比較楽譜により、クレドの旋律に対して、どの様に『管撹六段』が割り振られているか。『六段』が割り振られているかが一目瞭然に判るように,3曲の対比楽譜を作成した。 

琉球箏曲の特徴
琉球箏曲とグレゴリオ聖歌の比較研究,解析の結果、琉球箏曲の全てが、本土では失われたと思われていた『聖母マリア讃歌・聖母マリアのための交唱と讃歌』だったことが音楽の視点から解析され証明された。有名な『聖母マリア讃歌』は六曲あるが、そのうちの五曲の伴奏譜が琉球箏曲の中に存在していた。

琉球箏曲は一五五〇年、日本音楽【五音階旋法】とキリスト教音楽【教会旋法】が初めて邂逅した結晶でもある。それも本土では消滅してしまった。

信仰的見地から考えれば、神は一五五〇年に初めて日本に伝わったグレゴリオ聖歌に付けられた伴奏譜を箏曲の中に隠されたのだとおもう。460年前の1550年の初めから神は計画されておられたのだろう。ロレンソ了斎が諸田賢順に伝えたグレゴリオ聖歌の伴奏譜が、整理され段物に姿を変えて、本土で伝えられた一二の段物の半分が一七〇〇年以後本土ではなくなることを知っておられたが故に、一七〇〇年に琉球王朝に伝え琉球箏曲として一段から七段までを秘曲として琉球王朝に託されたのだとおもう。本土では琉球箏曲の一段から七段までは伝えられなくなり消えてしまった。しかし残りの五段から九段までと一二段が残され伝えられてきたが、一二段も一〇段と形を変えてしまい、本当のことが分からなくなってしまった。もとが一二段だったのか、はじめから一〇段だったのかの論争が起きてしまった。しかし今回基歌だった『主の祈り』の旋律に添って和声的に解釈した結果、基は一二段の形であったことがわかった。信仰がなければとても信じられる話ではないが、これが箏曲の一二の段物の辿った四六〇年の歴史の真実の姿だと考えている。 

『七段』
原曲は『めでたし天の元后・アヴェ・レジナ・Ave Regina caelorum』 

聖母マリアが天の元后になられたことを祝い、救いの取次ぎを願う歌。本来、聖母被昇天の祭日の九時課の讃歌として用いられた。作者、作曲時期、共に不明だが一二世紀から唱えられている。 

【歌詞】めでたし、天の元后、天の女王。世に光を生み出した命の泉、天の門。喜べ乙女、輝く乙女、総てに優る尊い乙女、我らのためにキリストに祈りたまえ。 

琉球箏曲にはない『めでたし天の元后・アヴェ・レジナ・Ave Regina caelorum』(二月二日から聖週間(復活祭のための週)の水曜日までの期間)は、本土の筝曲七段にある。本来ならば、琉球箏曲の七段菅撹が『めでたし天の元后・アヴェ・レジナ・Ave Regina caelorum』であるはずだが、代わりに七段管撹には『ミサ通常文第一・聖母マリアの祝祭日より・キリエ・Kyrie』が伝えられて入っている。 

聖母への結びの交唱(Antiphonae finales)は終課(現:寝る前の祈り)の結びに歌われる聖母讃歌。終課の歌は、詩編三編(共通の交唱付)、讃歌、「私たちは光の消える前にお願いします・Te lucis ante terminum 」、「シメオンの讃歌」(交唱付),終課終了後に聖母への交唱を一曲歌う。下記の四曲の聖母讃歌は、一五六八年、ローマ聖務日課書で歌われる時期が定められた。 

『麗し救い主の御母・アルマ・レッデムプトリス・Alma Redemptoris Mater』待降節から二月二日の聖母マリア潔めの祝日までの間に歌われる。

『めでたし天の元后・アヴェ・レジナ・Ave Regina caelorum』
二月二日から聖週間(復活祭のための週)の水曜日までの期間

『天の元后・レジナ・チェエリ・Regina caeli』
聖土曜日(復活祭の前の土曜日)から三位一体主日までの期間

『めでたし元后・サルヴェ・レジナ・Salve Regina Mater misericordiae』三位一体主日後から待降節第一主日の前の日までの期間

(一五六八年、ローマ聖務日課書で歌われる時期が定められた) 

これら四曲の『聖母マリア讃歌』はベネディクト会が定めた聖務日課の最後の祈り(就寝前の祈り)、終課の最後で歌われる聖母マリアを称える歌、ラテン語の表題は『聖母マリアへの結びの交唱』である。

この聖務日課は朝課、一時課(午前六時)三時課(午前九時)六時課(正午)九時課(午後三時)晩課(午後六時)終課(午後九時)、暁課から構成されていて、詩編の唱和が中心となっている。終課の最後で歌われる聖母マリアのための交唱歌は四曲あり、教会暦の季節ごとに異なった美しい交唱が歌われる。 

使用した楽譜の出典は『グラドゥアーレ・トリプレクス・Graduale Triplex 』(一九七九年ソレム修道院出版) 二七八頁、マリア交唱歌(Antiphonae B. Mariae Virginis )単純調(tonus simplex )
原調は第六旋法ヒポリディア旋法による。はじめの音はF音。 

*『アヴェ・レジナ』の原調は教会第六旋法のヒポリディア旋律で、始まりの音がF音であるために、伴奏譜としての箏曲『第七段』の本調子の調性G音とは、1音のズレがあるため、グレゴリオ聖歌の旋律を1音上げてG音から始まるように書き直す必要がある。書き直した曲の調性はト長調に近くなり、F音に#が付く。
*カトリック聖歌集には掲載が無い。 

ロレンソ了斎は『めでたし天の元后・アヴェ・レジナ・Ave Regina caelorum』の旋律に伴奏を付け、それが段物の『箏曲七段』に相当する。

『七段』と『めでたし天の元后・アヴェ・レジナ・Ave Regina caelorum』との音楽の構成関係 

曲の構成表
『七段』 『めでたし天の元后・アヴェ・レジナ・Ave Regina caelorum』

初段、27小節        9小節×3回繰り返し
2段、26小節        9小節+9小節+8小節・3回繰り返し
3段、26小節       9小節+9小節+8小節・3回繰り返し
4段、26小節        9小節+9小節+8小節・3回繰り返し
5段、26小節        9小節+9小節+8小節・3回繰り返し
6段、26小節        9小節+9小節+8小節・3回繰り返し
7段、26小節        9小節+9小節+8小節・3回繰り返し 

初段は『めでたし天の元后・アヴェ・レジナ・Ave Regina caelorum』の旋律一回に対して、九小節が割り振られ、九小節を三回繰り返すことで、初段の二七小節と和声的にも合い、七段が『めでたし天の元后・アヴェ・レジナ・Ave Regina caelorum』の伴奏譜だったことが証明できる。しかし、二段から七段までは一小節少ない二六小節で曲が構成されていて、初段と同様の割り振りができない。ラテン語と和声の関係から『めでたし天の元后・アヴェ・レジナ・Ave Regina caelorum』の旋律一回に対して、九小節+九小節+八小節・三回繰り返しで割り振ると和声的にも収まることができた。 

『八段』
原曲は『ミサ通常文第一・聖母マリアの祝祭日より・アニュス・デイ・Agnus Dei 』『喜びを持って・Cum jubilo』 

カトリック教会のミサ典礼における、ミサ通常文第一・第九番目のミサ『聖母マリアの祝祭日』のための第五曲・『Agnus Dei・アニュス・デイ・神の小羊』 

通常文、固有文は、聖職者によって唱えられる。もしくは歌われるものと聖歌隊によって歌われるものとに区別されている。そのうち原則として、聖歌隊によって歌われるものに限り、通常文を挙げると以下のようになっている。 

・通常文(唱)キリエ、グローリア、クレド、サンクトゥス、アニュス・デイ、

一四世紀以降、通常文(唱)のキリエ、グローリア、クレド、サンクトゥス、アニュス・デイの五つを一組としてミサで歌われるようになった。多くの作曲家により多声ミサ曲として作曲されるようになり、今日に至っている。 

使用した楽譜の出典は『グラドゥアーレ・トリプレクス・Graduale Triplex 』(一九七九年ソレム修道院出版) 四二頁、ミサ通常文第一・第九番目のミサ『聖母マリアの祝祭日・神の小羊・Agnusu Dei』(IX In festis B. Mariae Virginis 1)(Cum jubilo・喜びを持って)単純調(tonus simplex )

原曲は一三世紀に成立した。原調は第五旋法リディア旋法による。はじめの音はF音。原調の第五旋法のリディア旋法による『神の小羊・Agnus Dei』は、第四旋法のヒポフリジア旋法の旋法そのものが持っている旋法の性格が異なるために、比べるとより明るく軽快な調性を持ち、へ長調(F major )に近い調性に感じる。
*カトリック聖歌集 二六〇~二六一頁 光明社。
ニ長調。はじめの音はD音。 

ロレンソ了斎は『ミサ通常文第一・聖母マリアの祝祭日より・第五曲・Agnus Dei・アニュス・デイ・神の小羊』の旋律に伴奏を付け、それが段物の『箏曲八段』に相当する。 

*原曲『アニュス・デイ』の初めはF音(ファ)から始まっているが、このままの調性だと筝曲八段とは合わない。音の高さを八段と同じにするためにF音からE♭音に1度下げて書き直す必要がある。変ホ長調(E♭Major)に書き直した。『アニュス・デイ』は短い曲なので一四小節を二回繰り返すことで段物の一段の長さと合う。このことからロレンソ了斎が伴奏譜を作った当時は『アニュス・デイ』は二度繰り返して歌っていたことが証明された。 

『八段』と『アニュス・デイ』との音楽の構成関係
曲の構成表
『八段』         『アニュス・デイ・Agnus Dei』
初段、28小節半     *14小節+14小節+2拍、2回繰り返し
2段、26小節       13小節+13小節、2回繰り返し
3段、26小節       13小節+13小節 2回繰り返し
4段、26小節       13小節+13小節 2回繰り返し
5段、26小節       13小節+13小節 2回繰り返し
6段、26小節       13小節+13小節 2回繰り返し 
7段、26小節       13小節+13小節 2回繰り返し
8段、26小節       13小節+13小節 2回繰り返し 

*初段だけは二八小節半【二七小節+二拍】と変則的小節数なので、和声の展開から一回目を一四小節の一拍までとし、二回目を一四小節の二拍から始め二八小節の二拍で終わるようにした。
二段以降は一段を二分割し一三小節として二回繰り返して終るようにした。 

*八段の構成表から判ることだが、キリスト教が日本に入ってきた当初は『アニュス・デイ、Agnus Dei・神の小羊』は短い曲なので二度繰り返して歌っていたことが、ロレンソ了斎が伴奏譜を作った段物の構成表から知ることができる。つまりロレンソ了斎は『アニュス・デイ』の伴奏譜を八種類作っていた。 

『九段』
原曲は『ミサ通常文第一・聖母マリアの祝祭日より・グローリア・Gloria in excelsis Deo 』『喜びを持って・Cum jubilo』
 

カトリック教会のミサ典礼における、ミサ通常文第一・第九番目のミサ『聖母マリアの祝祭日』のための第二曲・『Gloria in excelsis Deo・グローリア・栄光唱』 

通常文、固有文は、聖職者によって唱えられる。もしくは歌われるものと聖歌隊によって歌われるものとに区別されている。そのうち原則として、聖歌隊によって歌われるものに限り、通常文を挙げると以下のようになっている。 

・通常文(唱)キリエ、グローリア、クレド、サンクトゥス、アニュス・デイ、

一四世紀以降、通常文(唱)のキリエ、グローリア、クレド、サンクトゥス、アニュス・デイの五つを一組としてミサで歌われるようになった。多くの作曲家により多声ミサ曲として作曲されるようになり、今日に至っている。 

使用した楽譜の出典は『グラドゥアーレ・トリプレクス・Graduale Triplex 』(一九七九年ソレム修道院出版) 四一頁、
ミサ通常文第一・第九番目のミサ『聖母マリアの祝祭日・栄光唱・グローリア』(IX In festis B. Mariae Virginis 1)(Cum jubilo・喜びを持って)単純調(tonus simplex )
第七旋法ミクソリディア旋法による。はじめの音はG音。
*カトリック聖歌集二五七~二五九頁 光明社。ト長調。
はじめの音はD音。 

*原曲『グローリア』の初めはG音(ソ)から始まっているが、このままの調性だと箏曲九段平調子・壱越の始まりD音とは合わない。『グローリア』の旋律の高さを九段と和声的に同じにするために原曲のG音にして書き直した。現行のカトリック聖歌伴奏集二五七頁にはト長調、始まりの音はD音から3度上げてG音に書き直した。当時もこの調性で歌っていたのだろうか?なぜならG音での調性では、最高音はA音(ラ)になり、非常に高く、現在でも訓練を積んだ声楽家、ソプラノ、テノールの高音域であり、当時のキリシタンたちが歌える音域ではないと考えられるので、当時は旋律を1オクターブ低くしてキリシタンたちは歌っていたと考える方が妥当と思われる。 

ロレンソ了斎は『ミサ通常文第一・聖母マリアの祝祭日より・第五曲・Gloria in excelsis Deo・グローリア・栄光唱』の旋律に伴奏を付け、それが段物の『箏曲九段』に相当する。

ロレンソ了斎は九種類の伴奏譜を作っている。 

『九段』と『グローリア・栄光唱』との音楽の構成関係
曲の構成表

『九段』         『グローリア・栄光唱』
初段、27小節、      1小節~26小節、27小節・アーメン、
2段、26小節、      1小節~25小節、26小節・アーメン、
3段、26小節、      1小節~25小節、26小節・アーメン、
4段、26小節、      1小節~25小節、26小節・アーメン、
5段、26小節、      1小節~25小節、26小節・アーメン、
6段、26小節、      1小節~25小節、26小節・アーメン、
7段、26小節、      1小節~25小節、26小節・アーメン、
8段、26小節、      1小節~25小節、26小節・アーメン、
9段、26小節、      1小節~25小節、26小節・アーメン、 

*『グローリア・栄光唱』は比較的長い曲なので、現在と同じように、当時も通して一回だけ歌っていたと考えられる。 

『十二段』『みだれ・山田流12段』
原曲は『主の祈り・Pater Noster』

『主の祈り・oratio dominica Pater noster 』

【歌詞】
『天にまします我らの父よ、願わくは御名の尊まれんことを、御国に来たらんことを、御旨の天に行われる如く地にも行われんことを。我らの日用の糧を今日も我らに与えたまえ。我らが人に赦す如く、我らの罪を許したまえ。我らを試みに会わせず、我らを悪より救い給え。』
 

イエス・キリストがみずから弟子たちに教えられた祈り。『主の祈り』はマタイによる福音書五章一節から始まる『山上の垂訓・三節~一一節』の続きとして六章九節~一五節に書いてある。

ルカによる福音書一一章二~四節にも同様に記されている。教えの対象は、マタイでは群衆、ルカでは特定の弟子たちとなっている。

古くは聖書の朗読(御言葉を会衆一同で唱えていた)であったのが、次第に抑揚が付けられて歌うようになったと考えられている。古くは五世紀の『アンブロシウス聖歌写本三四〇~三九七年』で確認できる。グレゴリウス一世五四〇~六〇四年には正式にグレゴリオ聖歌として公式に歌われ聖歌として扱われるようになった。 

プロテスタント教会で唱えられている『国と力と栄とは限りなく汝のものなればなり。アーメン』はDox0logia・ドクソロジー、栄唱、神を賛美する歌、式文としては後日一五世紀以後、プロテスタント教会が付け加えたもの。『Gloria in excelsis Deo』がThe greater doxology が大頌栄と呼ばれ、『国と力と栄とは限りなく汝のものなればなり。』は、小頌栄と呼ばれている。 

主の祈り【Pater noster 】
『天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にもおこなわれますように。わたしたちの日ごとの食物をきょうもお与えください。わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなた方の天の父も、あなたがたをゆるしてくださるであろう。もし、人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるしてくださらないであろう。』 

『主の祈り』はイエス・キリストが語っていたアラム語で語られた。『主の祈り』の最古の写本は1世紀末まで遡ることができ、『主の祈り』の書いてある『一二使徒の教訓』には、主の祈りを示してから、日に三回、主の祈りを唱えるように指示してあり、使徒時代の信者たちが主の祈りをどれほどの畏敬と感謝を持って唱えていたかが推測される。この『一二使徒の教訓』にマタイによる福音書にはない『国と力と栄光はとこしえにあなたのものだからです。アーメン。』と言う栄唱が付加されていて、初代教会の礼拝でこの『主の祈り』はすでに形式化されて用いられていた。東教会でも西教会でも教会組織ができた当初から『主の祈り』は採用されていた。東教会、西教会、両方の教会の『主の祈り』の導入句『わたしたちはあえて言います。(audemus dicere )』と言うラテン語の言葉がその名残をとどめている。

『一二使徒の教訓』に記されている、日に三度『主の祈り』を唱える実践は、後の教会の祈り『聖務日課』の最古の姿を伝えている。朝と晩に教会に信徒が集まり共に祈る慣習も古く、その中で『主の祈り』を共に唱えることは、信者であることの証しとして尊ばれていた。六世紀に修道院聖務日課の形式を定めたヌルシアのベネディクトゥスは、すべての主要な時課の終わりに『主の祈り』を唱えることを定めている。『主の祈り』を唱えることは、中世時代を通じて現代まで伝統的に受け継がれてきた。 

『主の祈り』は、イエス・キリスト自身が教えて下さった祈りの原型であり、人には作ることができない最高の祈りである。キリストによって選ばれて集められ、キリストの弟子としてのお互いを兄弟姉妹と自覚した信徒が集まって教会を形作り、キリストの救いの完成を待望しつつ共に祈る祈りである。『主の祈り』は神の国の福音に支えられて,終末における神の国の到来を待ち望む心を表わしている。また『主の祈り』を唱えることは自分のキリストに対する信仰を公に表わすことでもある。

トリエント式典礼では、司祭が節を付けて唱え『Sed libera nos a malo・私たちを悪より救いたまえ』の箇所のみを会衆が唱和していたが、第2ヴァチカン会議後は、全員で全文を唱えるようになった。 

グレゴリオ聖歌のなかで広く用いられている旋律は二つある。ひとつは祝祭日用、もうひとつは週日用である。 

祝祭日用の旋律(A)の最古の写本は、南イタリアに伝わる一一世紀のもので、非常に古くから歌われていた旋律である。一三世紀には、フランシスコ会とドミニコ会が採用して、広く公に用いられるようになった。祝祭日用の旋律は複雑な詩編唱定型に似ているが、朗唱する際、言葉のほとんどをB音で歌い、曲の終わり近くになってA音が用いられる特徴を持つ。終止音はG音かA音で終わる。
*カトリック聖歌伴奏譜 253~254頁 光明社 

週日用の旋律(B)は、祝祭日用の旋律を簡素にした形を持つ旋律で、最古の古い写本は一二世紀中期のカルトゥジオ会の写本の中に書かれている。
*カトリック聖歌伴奏譜 306~307頁 光明社 

あとひとつの旋律(C)は九~一三世紀に作られた旋律(*トロープス付)の『主の祈り』(F-LA 263, f.138r~138v)で、主の祈り自体の本文が非常に単純な旋律の定型に付けられていて同じ装飾音(メリスマ)が各小節の終わりに出てくる形を持っている。既存の週日用の『主の祈り』の旋律に自由な変奏を用いた旋律と思われる。 

*トロープス Trope
中世において、既存の斉唱聖歌、ことにミサの通常文聖歌と固有文聖歌に挿入されたテキスト、テキストと旋律、あるいは旋律。一般的にその部分は独唱者に割り当てられた。トロープスには地方色が色濃く反映される傾向が強かった。 

原典はGRADUALE TRIPLEX 八一二~八一四頁 『Cantus in Ordine Missae Occurrntes』、V. AD RITUS COMMUNIONIS、 TONI ORATIONIS DOMINICAE、AのPater Noster 。原曲の初めの音はG音。 

ロレンソ了斎は祝祭用の旋律(A)の「主の祈り・Pater Noster」に伴奏を付け、それが段物の『山田流一二段』に相当する。

*カトリック聖歌集 二五三~二五四頁 光明社 ヘ長調。はじめの音はF音。 

『みだれ』の原典は一七七九年(安永八)『箏曲大意抄』に記されている『みだれ』を、宮崎まゆみ氏が五線譜に訳した楽譜(便宜上二拍ずつ区切っている)を、四拍ずつ一小節として書き直した。また宮崎まゆみ氏の書かれている楽譜の最初の音はE音なので、『みだれ』本来の五の音・G音から演奏できるように3度高く全曲を書き直した。 

出典:筝曲<みだれ>に関する一考察、宮崎まゆみ著
   山田流箏譜 乱輪舌 中能島欣一著 
   生田流筝曲 みだれ 宮城道雄著 邦楽社刊行 

ロレンソ了斎はどの旋律の『主の祈り・パーテル・ノステルPater Noster』を用いたのだろうか? 三種類の旋律と『十段』を合わせようとしたが、『主の祈り』のラテン語分節からも旋律の小節数からも和声からも合うことはなく『十段』は違う曲だと解った。 

では『十二段』ではどうだろうか?『主の祈り』は(A)の『祝祭日用の旋律』を使用したが、『十二段』は段ごとに小節数の数が違うので、一番少ない『二段』の一二小節、『初段』の一三小節と二拍、『五段』の一四小節と一拍、『11段』の一五小節と二拍、多い小節数を持つ『三段』の一八小節、以上の五種類の小節数を『主の祈り』一曲の基本小節数とした。その法則に従うと『主の祈り』を二回繰り返す段は、三段、六段、七段、八段、九段。三回繰り返す段は一〇段と一二段となり、見事に『主の祈り』の伴奏譜としての『一二段』が姿を現した。 

この結果から、『主の祈り・パーテル・ノステル』のために、ロレンソ了斎は伴奏譜として一二種類の段物を作曲したと考えられる。数多い伴奏譜が存在するのは、『主の祈り』は日々のミサで唱えられるためで、そのミサでの『主の祈り』を唱えるためにそれだけ多くの一二種類の伴奏譜をロレンソ了斎は作ったと考えられる。 

短い一回唱えるための、一段、二段、四段,五段,
二回唱えるための五種類、三段、六段、七段、八段、九段、
三回唱えるための二種類、一〇段、一二段。
 

『十二段』と『主の祈り・Pater Noster』との音楽の構成関係

曲の構成表
『十二段』                『主の祈り・Pater Noster』初段、14小節(13小節+2拍)        1回
2段、12小節、                1回
3段、24小節(12小節+12小節)   2回繰り返し
4段、18小節、             1回
5段、15小節(14小節+1拍)      1回
6段、23小節(12小節+11小節)    2回繰り返し
7段、23小節 (12小節+11小節)         2回繰り返し
8段、26小節(14小節+12小節)      2回繰り返し
9段、23小節(12小節+11小節)        2回繰り返し
10段、40小節(14小節+14小節+12小節)  3回繰り返し
11段、16小節(15小節+2拍)        1回
12段、35小節(12小節+12小節+11小節)  3回繰り返し

 十二段の各段はばらつきが多く、旋律に対しても、ラテン語分節に対しても一定の法則を持っていない。しかし曲の小節数からある一定の区分け方が見えてくる。

 

一回のみ
*小節数の多い少ないにかかわらず各段に対して主の祈りの旋律を一度だけ歌う段。
二段一二小節、初段一四小節(一三小節+二拍)、一一段一六小節(一五小節+二拍)、四段一八小節。 

二回繰り返す段
八段(一四小節+一二小節)、三段(一二小節+一二小節)、六段(一二小節+一一小節)、七段(一二小節+一一小節)、九段(一二小節+一一小節)、 

三回繰り返す段
一二段(一二小節+一二小節+一一小節),一〇段(一三小節+一三小節+一三小節)

 『主の祈り』の小節数の配分の仕方に一定の法則は見いだせないが、もしロレンソ了斎が聖書に記されている数字の神学的意味を知っていたとすると、その数字の神学的意味合いから配分したと考えられる。多用されている基本の一二は象徴的に一二弟子を表わしていて『主の祈り』はキリストがまず一二弟子たちに最初に教えた祈りである。一一はユダの裏切りによって一二弟子から一一人になった数。一三は神の与えたもう一〇の掟(モーセの一〇戒)と位一体の結びついた数字。一四は神の完全数七の倍数。一八は三位一体を表わす三の倍数。 

『一〇段・みだれ』は『主の祈り』に合わなくはないが、和声的にも納得できない個所が多くあり、『一二段』と『一〇段』』を比較した時に、より和声的にも合い調和が取れている『一二段』を選ぶ方が音楽的に的確な選択と思われる。 

『一〇段』の曲の構成表(生田流 一〇段を使用)
初段22小節、(11小節+10小節+2拍)、2回繰り返し
2段28小節、(14小節+14小節)、2回繰り返し
3段26小節(13小節+13小節)、2回繰り返し
4段19小節、1回のみ、
5段36小節、(12小節+12小節+12小節)、3回繰り返し、
6段25小節、(13小節+12小節)、2回繰り返し、
7段24小節、(12小節+11小節+2拍)、
8段40小節、(10小節×4回)、4回繰り返し、
9段23小節、(12小節+11小節)、2回繰り返し、
10段29小節、(14小節+14小節+2拍)、2回繰り返し、

 

キリシタン初期の文献に見るグレゴリオ聖歌の記録

『当修道院に居住する日本人の同宿たちは、昼間は来訪者たちに「日本語とその文字で書かれた本」によってドチリナ(教理)を教え、夜、アヴェ・マリアの時刻に、つづいて、パードレ(神父たち)と共に、我ら一同はパーテル・ノステル、アヴェ・マリア、クレド(使徒信教)サルヴェ・レジナの祈祷(オラショ)を行い、また、航海者、特に日本に来る司祭と修道士のため、パーテル・ノステルを一度唱えたのち、ラダイニャス(聖母連禱)をともに唱えていた。』
*一五五五年九月二〇日付け 豊後(大分)発 ドゥアルテ・ダ・シルヴァ修道士書簡。一六・一七世紀イエズス会日本報告集 第Ⅲ期第一巻 二一四頁

 『かつまた教会の国と当地方の発展のため、パーテル・ノステルとアヴェ・マリアを三度唱える』『我らが死者とともに修道院を出る前に、私は留まって少し祈り,三度パーテル・ノステルを称えると、キリシタンも唱和し、墓所においても死者を葬る前に同じことをなす。』
*一五五五年九月二三日付け 豊後(大分)発 バルタザール・ガーゴ神父書簡 
一六・十七世紀イエズス会日本報告集 第Ⅲ期第一巻 一八二~一八三頁 

『彼らに(教える際に)とる順序は以下のようである。ミサを聴いた後、毎日交代で一人が唱えて他の者が応誦するが、キリストの教えに内主要なもの、すなわちパーテル・ノステル、アヴェ・マリア、クレド、サルヴェ・レジナをラテン語で、また、デウスの十誡と教会の掟,大罪とこれに対する徳、ならびに慈悲の所作をかれらの言語で唱えるに止める。』
*一五六一年一〇月八日付け 豊後(大分)発 ジョアン・フェルナンデス修道士書簡
一六・一七世紀イエズス会日本報告集 第Ⅲ期第一巻 五〇頁 

『当時、我らの同僚たちの司祭館では、キリシタンたちに信心を教え、彼らがデウスのことを喜ぶように導くために、一日の七度の聖務日課の時間に合わせて、七回、ちいさな鈴を鳴らす習わしであった。それを聞くと、司祭館にいる全員は聖堂に参集し、一人の少年が大声で主の御苦難の物語の一ヵ所を朗読する。そしておのおのは、その御受難を追想しながら、当地方のために「パーテル・ノステル」を五回、「アヴェ・マリア」を五回唱えて祈った。そしてこれは多年にわたってキリシタンの間に広まり、いろいろの地方で彼らは自分たちの家で同様のことを行った。』
*ルイス・フロイス著『フロイス日本史』第六巻 大友宗麟編I 第一七章(第I部一九章)一七三~一七四頁 

『当地では一定の時間に鈴が鳴らされ、キリシタンたちに、お祈りをし、ついで「パーテル・ノステル」と「アヴェ・マリア」の祈りを五度唱える合図がなされますと、理性を働かせ得る大人たちが跪いて敬虔に祈りをささげるばかりでなく、まだ理性を欠いていると思われる幼児たちも同様にいたします。あるキリシタンは私に次のような話をしてくれました。彼は先日、自分の幼い娘を一人の異教徒の家へわずかばかりの酒を買いにやらせたのですが、その時、店の人が酒の量を量っていた時、たまたまお告げの鈴が鳴りました。その少女は合図を聴きますと、ただちに酒瓶を置いて跪き、両手を合わせて祈り、『パーテル・ノステル』を五回、『アヴェ・マリア』を五回、終わりまで祈ってしまうまでふたたび立ちあがりませんでした。異教徒たちはそれを見て驚嘆し心を打たれ、そして申しました。『キリシタンたちは子供たちまで良い習慣を教えているのだから、彼らの神以外に神はあり得ない』と。そこまでがコスメ・デ・トーレス師の言葉(の引用)である。』
一五六一年に豊後、および下の諸地方で生じたことについて
*ルイス・フロイス著『フロイス 日本史』第六巻 大友宗麟編I 第二一章(第I部三〇章)二一三~二一四頁

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?