細川ガラシャの化粧箱について
細川興秋の真実・髙田重孝著に解説しています「細川ガラシャ使用の化粧箱」を紹介いたします。
細川ガラシャの化粧箱について
『ガラシャの化粧箱』移譲の推移
ガラシャの化粧箱の製作時期について
この檜垣文様の化粧箱の艶やかさから推測・想像できる出来事と言えば、1578年(天正6)8月、織田信長の媒酌にて、細川家居城山城勝龍寺城(京都府長岡京市)において婚礼を挙げた際に贈り物として、父細川藤孝から息子忠興の花嫁、明智十兵衛光秀の三女・玉(後の細川ガラシャ)に贈られた可能性が高い。また、細川玉は、1579年(天正7)に長女・長、1580年(天正8)に嫡男・忠隆を生んでいるので、結婚後2年間の間に、藤孝が細川家の子供を産んでくれた玉に感謝の印として特別に京都の名匠に作らせたと考えている。「檜垣文様の化粧箱」には藤孝だけが使用を許されている「五七桐」をアレンジした「踊り桐」が細川家の本紋の「九曜紋」と共に蒔絵として描かれている。1582年(天正10)6月2日に『本能寺の変』が玉の父・明智十兵衛光秀により起こされていて、玉は丹波の僻地・三戸野へ幽閉されているので、それまでの4年の間に、この「檜垣文様の化粧箱」は特別に誂えて玉への贈り物として作られたと考えている。
ガラシャの自害について
1600年(慶長5) 7月17日、西軍石田三成の兵により大坂の細川邸は包囲され、忠興の正室・ガラシャを人質として大坂城へ連れて行くために強硬策が取られた。
『お霜覚書』によると、
「石田治部少が反乱を致しました年(一六〇〇年・慶長五)の七月一二日、小笠原少斎・河喜多石見の二人が御台所まで参りまして、私(霜)を呼び出して申されますには、治部少(石田三成)の方より「東へ御出発なされた大名方の人質を取る」との風聞を流しておりますが、どうしたものでしょうか、と申しますので、そのことを秀林院様へその通りに申し上げました。秀林院様が言われるには治部少と三斎様とはかねがね仲が悪いのだから、おそらく人質を取り始めたときは初めにこちらに申してくるであろう。初めでないならば他の例もあることだから、一番に申して来たら返答をどの様にするのかを、少斎・石見らが分別いたすようにと仰せられましたので、その通りを私は承りまして両人に申し渡しました。」
「お霜覚書」永青文庫所蔵 熊本県立図書館 (綿考輯禄 巻13 227~231頁)
ガラシャは自分が三成の人質になることを知った7月12日には、ガラシャは既に己の身の振り方を考えていたと思われる。この12日の時点で、すでにガラシャ自身は小笠原少斎の力を借りて自害することを決心していた。ガラシャは自分ひとりが自害して細川家の名誉を守ること、自分以外の者たちは、できる限り細川邸より脱出させること。自害の後は細川邸に火を放ち、全てを灰燼に帰すことを家臣の小笠原少斎、河喜田川石見と稲富祐直と相談して決めていた。したがって、ガラシャの長女・長(21歳)、多羅(12歳) は事前に近くの大坂の教会に避難させている。細川邸には相当な家財があったので、ガラシャは12日から17日以前、5日の間に持ち出せるものはできる限り、伯母の宮川、長女の長、次女の多羅、嫡子・忠隆の妻・千世の持ち物、側室たちの持ち物、細川家の財産、また形見分け品等を事前に整理して済ませ、葛籠(つづら)・長櫃に入れてそれぞれの落ち着き先に密かに運ばせていた。
「同一六日、先方から表向きの使いが参りまして、是非是非、御奥方様を人質にお出しください。もしお出しできなければ押しかけても取る、と申しますので、少斎と石見は、あまりに勝手なことを申す使いですから、この上は我々がここで切腹しても御奥方様をお出し申すことは出来ぬと申しました。それからは御屋敷中の者は皆覚悟を致しました。」
それ以前に、ガラシャは細川邸に居る身内の逃げる先も考えている。なぜなら、嫡子・忠隆の妻・千世に持たせた形見の品を考えただけでも、ガラシャが用意周到に準備を整えていることが判る。17日夜の緊迫した状況下で、現在、熊本の内膳家に伝わっているガラシャの形見の品目が、千世と一緒に輿で持ち出せる品数ではない事を考えてもそれが判る。
おそらく、千世の逃げる先、千世の姉である豪姫(宇喜多秀家)の屋敷に、秘かに逃亡する以前(5日の間)に葛籠(つづら)・長櫃に入れさせ荷車に積んで、相当数の着物、日常品、形見としてガラシャ愛用の「懐剣(関の兼吉)」「六弦の琴」「銀の簪」「宝尽し刺繍腰巻」等を運び込んでいる。そうでなければ、熊本の内膳家にこれだけのガラシャ愛用の品、着用の着物の形見が伝わるわけがない。しかし天草に伝わっている「ガラシャの化粧箱」は、嫡子忠隆の妻・千世には渡っていない.もし渡っていたのなら内膳家にガラシャ愛用の「化粧箱」としての形見品として残されていたはずである。
ガラシャは愛娘長女・長(21歳) に「愛用の化粧箱」を形見に贈っている。次女多羅は当時12歳。おそらくこの他にも長女長にはガラシャ愛用品と長の大事にしていた着物、日用品等を葛籠・長櫃に入れて多数持たせたと考えている。もちろん、長と妹の多羅の使っていた日用品、着物等も、事前に大坂のキリシタン教会に葛籠に入れ荷車に積んで密かに運び込んでいたと考えている。キリシタンである長と多羅には教会が近くて最も安全な隠れ家だった。
ガラシャ愛用の「朱塗りの外箱」と「九曜紋の入った桧垣文様の化粧箱」
『細川興秋の真実』第4章『九曜紋の入った檜垣文様の化粧箱』329~344頁
「天草に残されている長岡与五郎興秋の遺品」の中で、計測した明細を示しているので、そちらを参照していただきたい
(天草市河浦町一町田益田、池田裕之氏様所有)
実測 (九曜紋の紐止めを左右に見て)
上蓋 高さ6㎝ 丸みを帯びた高さ2㎝ 縦36・5㎝ 横42・5㎝
内盆 高さ4㎝ 中寸3・3㎝ 縦34㎝ 40・3㎝
底受 高さ13・2㎝ 縦36・4㎝ 横42・5㎝
九曜紋の紐止め 直径・6㎝
重量 不計測
実際、調査の時に「化粧箱が入った外箱」を持ったが、とても女性が一人で持てる大きさと重さではない。ましてガラシャが自害する時に、長が手持ちで持出させたとは考えられない大きさである。この「ガラシャ愛用の化粧箱」は事前に、ガラシャが愛娘長に指示して、逃げる先(大坂のキリシタン教会) に葛籠・長櫃に入れ荷車に積んで運ばせない限り、動かせるものではないことははっきりしている。
ガラシャは東軍・徳川家康軍と西軍・石田三成率いる豊臣軍の戦いの最初の犠牲者となった。忠興は石田三成の人質収容作戦を利用してキリシタンであるガラシャを細川家から排除することに成功している。
9月15日の関ヶ原の戦いで決着が付き、徳川家康の時代が到来した。
それに伴い、1600年(慶長5)12月には細川忠興に恩賞として豊前一国と豊後の領地が与えられた。丹後12万石から豊前39石への破格の恩賞である。
移封に伴い、細川家は丹後宮津から豊前中津へ移住した。長も妹多羅と共に中津城へ居を移している。「ガラシャ愛用の化粧箱」は母の形見として長と共に中津城へ入った。嫡男・忠隆はキリシタンゆえに廃嫡され、豊前へ行くことが許されず京都に留まることになった。
1601年(慶長6) 8月、中津城に於いて長と多羅は忠興が大坂で行った「母ガラシャの追悼ミサ」を再現してもらえるように願い、忠興は中津教会の司祭セスペデス神父に「ガラシャの追悼ミサ」を執り行うように依頼して、中津教会で盛大に「ガラシャの追悼ミサ」が挙行されている。
1603年(慶長8) 8月29日、ガラシャの愛娘・長が24歳の若さで突然他界した。妹多羅はまだ14歳。ガラシャ愛用の化粧箱は愛娘長に引き継がれて中津城に来ていたが、長の他界後は、そのまま興秋が「母ガラシャの形見」「姉長の形見」として保管所持していたと考えている。
1604年(慶長9)8月、忠興より徳川家康、秀忠宛てに細川家家督相続願いが提出され、3男・忠利が細川家を相続することが決められ興秋の廃嫡が決定される。
10月、興秋(21歳)、忠利の代わりに江戸に人質として使わされる。
11月16日、興秋、小さい将宛に「起請文」を出す。京都建仁寺塔頭十如院に留まる。
「起請文」(松井文庫所蔵・八代市立博物館未来の森ミュージアム寄託)
1604年(慶長9) 11月、興秋は弟忠利に代わって江戸へ人質として送られることになった。興秋は父忠興のキリシタン排除政策のために、8月に藩主の座を弟忠利に奪われ、豊前中津城から追放というべき屈辱をキリシタン故に与えられた。11月末までには興秋は江戸へ向けて中津城を出て、12月に京都建仁寺塔頭十如院に滞在して動かなかった。
興秋は母ガラシャの形見であり姉長が使用していた「化粧箱」を譲り受け、大事に京へ持参していた。
1605年(慶長10)1月2日
興秋(22歳)、京都建仁寺塔頭十如院で出家出奔。
1605年1月2日、付き添いの重臣長岡(飯河)肥後守宗信の諌言を受けて江戸へ向かうことになっていたが突然興秋は出家出奔した。出奔には同じキリシタンである京都にいる養父・興元の手引きがあった。祖父細川幽斎の庇護援助のもと京都洛中で隠棲する。
1605年(慶長10) 興秋は興元と共に京都に滞在。キリシタンである興元、興秋、また1600年(慶長5) 12月に廃嫡されていた忠隆の家族も京都に住んでいた。興元の父・幽斎(藤孝)が彼らの面倒を見ている。幽斎は六千石を支給されていて京都に隠居をしていたので、資金面は総て幽斎が賄っていた。
1605年頃? 興秋(22歳)側室を娶る。(または1606年頃)
関主水(立家彦之進)の娘(興秋の側室はキリシタンと思われる。)
唐津藩寺沢志摩守家老関主水(立家彦之進)は天草佐伊津村金浜城主。
関主水の娘との婚姻の紹介は従兄弟の寺沢藩家臣になった従兄弟の三宅藤兵衛重利と考えられる。三宅藤兵衛重利は、関ヶ原の戦いの後、忠興との間に意見の相違があって細川家から退出している。意見の相違とはおそらくは藤兵衛重利自身のキリシタン信仰の問題と、伯母・ガラシャの細川家からの排除問題ではないかと思考している。興秋は従兄弟の三宅藤兵衛重利の勧めで、唐津藩、天草の佐伊津城城主関主水(立家彦之進)の娘と結婚している。翌年には嫡子「与吉(興吉)」(後の興季)が誕生している。
興秋はこの結婚に際して持参していた母ガラシャの形見である「化粧箱」を妻に贈った。
1606年頃? 興秋(23歳)の嫡子「与吉(興吉)」(後の興季)が誕生する。(家伝池田家文書による)
おそらく1605年から1610年8月の細川幽齋死去前の間に興秋は側室を娶り嫡子「与吉(興吉)」が誕生したと考えられる。(池田家文書による)
いつ興秋の嫡子「与吉(興吉)」が誕生したのか不明。しかし幸せな興秋の結婚生活は長くは続かなかった。
興秋はキリシタンなので、2つの家庭を同時に持つことは禁じられているから、そのようなことはしなかった。また母ガラシャが、忠興の5人いる側室の存在を非常に嫌っていたことを知っていたので、そのような事情もあり、おそらく、最初の関主水(立家彦之進)の娘(側室)との家庭は、嫡子興吉と共に、郷里である天草の佐伊津へ1610年の結婚前には帰したと考えている。その時、側室には興秋の存在を証明する母「ガラシャの化粧箱」を持たせて天草の佐伊津へ帰した。関主水の家臣・中村半太夫が付き添って天草佐伊津へ帰っている。
1610年(慶長15)春頃 興秋(27歳)は父忠興の命令で氏家宗入の娘と婚姻している。父忠興の命令で、細川家から新しい正室の結婚話が持ち上がり、美濃の斎藤道三の重臣・氏家宗入の娘と結婚させられた。
1611年(慶長16)8月6日、興秋(28歳)に長女鍋が誕生した。
興秋が何故、側室である立家彦之進の娘に「ガラシャの化粧箱」を持たせたかということを考えると、嫡子興吉(後の興季)の出生の証拠として持たせたと思われる。
「ガラシャ愛用の化粧箱」には細川家では藤孝(幽斎)だけに使用が許されている「五七の桐」細川家の本紋である「九曜紋」が描かれている。この2つの紋が明確に興季の出生、身分の正統性を語っている。
その時(1610年)以来現在まで「ガラシャの化粧箱」は興秋の細川家の証・証明として、嫡子の興季直系の家系の宝として、長岡家に於いて大事に410年間守り続けられた。
第14代長岡養四郎興敏氏は、昭和になって妻サタ様(奥野保七郎三女)の郷里河内浦一町田益田へ引っ越され、益田の庄屋・池田栄之氏宅の川向うに家を建てて住んでおられた。
妻のサタ様は昭和13年 (1938) 2月26日、71歳で死去された。
第14代長岡養四郎興敏氏の昭和15年(1940)11月15日の死去前(享年74歳)、お世話になった方々に形見分けとして長岡家の家宝が分配された。
「ガラシャの化粧箱」は当時長岡養四郎興敏氏のお世話をした池田栄之氏宅に残され現在に至っている。現在の所有者は池田裕之氏である。
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