【完全版】ゲンロンβ50アンケート回答

田中功起 日付のあるノート、もしくは日記のようなもの

今号から始まった田中功起さんの「日記のようなもの」。作品の作り手が記す文章は、作品を観賞するだけでは得難い自分の体験を深めるフックとなるきっかけが増えるのでとても楽しみです。作品は結果だとすると、日付のついたテキストは経過だと思います。作品に対して、作り手と観賞者が共に客観的な距離を保つとして、作り手が記す文章は、その作品が生み出されていく手触りや生み出した後の変化を残すものとなり、作り手や観賞者の世界を広げるものになると思います。抽象と具体は、今考える必要がある大切なことだと思います。ウィルスのイメージ画像やソーシャル・ディスタンスという言葉のような抽象的なものが蔓延しています。抽象的なものは、一方では具体性がなく分かりにくい側面があると思いますが、他方、具体性と結びついて強い意味を帯びる側面もあると思います。たとえば、ソーシャル・ディスタンスという言葉は、店舗での座席の間引きや2m間隔に貼られた床のマーク等で、具体性を付与され、強い言葉になっています。強さをどう付与されるのかも、個人的な経験による場合と、集団的な抑圧による場合があるのかなとも思います。田中功起さんが記す抽象についての具体的な言葉が、何を生み出すのか、楽しみにしています。

外山恒一+東浩紀 革命はリアルから生まれる

第一部に続いて、第二部も非常に面白く読みました。ゲンロンカフェという実効支配地域が改めて重要だと思いました。「身ひとつ」で抵抗できる場所を守るのは大変なことだと思います。場所や組織があることで、「らしさ」が形成されていく。そこへ観客が「身ひとつ」で訪れ、継続的な経験ができる。SNSで動員されれば、瞬間風速で、大勢の人が集まり、盛り上がるので、何かが変わるように期待するが、「身ひとつ」できた人がそれぞれに変わっていく様子を追いかけることはできない。政治と人民の緊張関係や自由の問題を次回、掘り下げて欲しいと思います。

山森みか イスラエルにおけるコロナ禍

ユダヤ人と聞くと、信仰心が厚いんだろうなとステレオタイプに思い込んでいたが、世俗派・伝統派・宗教派・超宗教派が存在することに驚きました。イスラエルという国は、ユダヤ人の実効支配地域であるのだなと感じました。デモによって主張することが守られていることも興味深い。宗教的な身体というだけでなく、実効支配地域を構成している一員だという自覚があるのではないかと思う。ウィルスに対して、ユダヤ人とアラブ人の「共闘」があるのも守るべき実効支配地域が存在するからではないかと思う。

春木晶子 北のセーフイメージ(2) 多重化するアイヌの肖像

イメージとして描かれた十二人の「蝦夷」の「酋長」は、まるでトレーディングカードのキャラクターのように思えます。恐れの対象を具体的に描画することによって、認識するだけでなく、こちらの物語にキャラクターとして取り込んでしまう。日本らしさの一端が垣間見えた気がしました。

さやわか 愛について――符合の現代文化論 第5回 少女漫画と齟齬の戦略(3)

結婚やセックスが愛情と符号したことで、空虚なものになる。そして、その空虚さを埋めるため、「花より男子」のつくしのように、自分らしくあるという自己肯定に行き着くことは、よくあることだと感じてしまう。次回のテーマとして掲げられた、なぜ一意に解釈したがるのかという問いについて、自分としては心の働きというぐらいしか思い当たることがないが、キャラの自由意志の問題と、どのように関係するのか、楽しみにしています。

星野博美 世界は五反田から始まった 第18回 エッセンシャルワーカー

緊急事態という意味では、戦争もウィルスも似たようなところがある。エッセンシャルワーカーというカタカナで表現して、曖昧なイメージを作り出すということは、現代的なことかもしれない。「不要不急」から「非国民」までの距離が近いというのは、ドキッとする言葉だ。星野さんの話は、戦禍に向かっていくが、現在も禍の時代で、重なり合う部分が、より過去の出来事を自分に引きつけていく。五反田のVRだと思っていたこのエッセイも、社会全体の雰囲気によって、リアリティを帯びてきた気がする。

琴柱遥 『枝角の冠』第3回ゲンロンSF新人賞受賞作――冒頭部分


藤城噓 五反田アトリエから37 コロナ禍に振り返る五反田アトリエでの作品たち――過去の展示企画より

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