【完全版】ゲンロンβ45アンケート回答

福冨渉 『新しい目の旅立ち』訳者インタビュー                                         ――「日本でタイ文学を読むとは」      

 ゲンロン友の会「選べる単行本」サービスで選んでいたので、すでに本書は手元にあり、読んでいる最中である。『新しい目の旅立ち』については、別の機会に感想を書こうと思う。                                                                                                      

 ゲンロンと出会わなければ、タイに関連する作品を目にすることはなかっただろう。プラープダー・ユンはもとより、岡田利規が舞台化したウティット・ヘーマムーンやアピチャッポン・ウィーラセタクンにも興味を持つことはなかったであろう。                                                                                                  

 福冨さんが本インタビューで言ったように、自分も文化的というより、経済的な枠組みで「東南アジア」を捉えていた。地図や社会科で得られる類の知識だ。タイには、2018年から2019年に2回、海外出張で訪れたことがある。その期間中に、前タイ国王の命日があった。黄色いTシャツを着た人が街に溢れていた。海外自体が自分にとっては非日常であるが、さらに海外の非日常を体験をすることも滅多にないので出歩いてみた。街は黄色で埋め尽くされ、前国王の肖像写真が掲げられ、屋外で料理がふるまわれ、広場に人々が集っていた。日本ではあまり体験できない空気感であった。観光してみないと、タイの人々が積み重ねてきた文化や生活が実感できなかっただろう。『新しい目の旅立ち』もそんな実感をもたらしてくれると期待している。

東浩紀 観光客の哲学の余白に                                                   第19回 データベース的動物は政治的動物になりうるか                              ――『ポスト・モダンの条件』出版40周年に寄せて(2)               

 シンポジウムの草稿ということであるが、東さんがいま考えていることがまとまっていて、非常に面白く、考えながら読んだ。ゲンロンに通う前後から人文書を読み始めたぐらいなので、言葉の違いに対する感度が低く、「物語」や「ゲーム」の違いなど、あまり意識したことがない。本草稿を読むことでトークイベントの内容を整理して、さらに深めることができたように思う。                                                                                                                       

 複数のゲーム=複数の政治がどのように成立しうるのか、自分の中にまだイメージが湧かない。複数のゲームと聞いて、最初にスポーツを思い浮かべた。世の中には、多くのスポーツが存在し、新しく生まれてもいる。十分に複数化しているように見える。サークルのような趣味から、サッカーのようなプロリーグ、オリンピックのようなグローバルをベースにしながら、ナショナリズムの物語で正統化されている祝祭。在り方も多様であると思う。

 政治を考えた場合、スポーツほど簡単なモデルに落とし込めないのではないかと思っている。まずはプレーヤーは誰かということ。単純に考えれば、政治家ということだろうが、主権者である国民すべてがプレーヤーだと言うこともできるだろう。一部では、そのような圧力が高まり、個人に高いフェアネスが求められているように思う。次に、複数の政治が成立するとはどのような状態だろう。本草稿では、「一般に政治と呼ばれる活動は、そもそもが、市民と呼ばれる観客を生み出すために続けれらる、大きな言語ゲームなのではないか」とあるが、現在の政治が観客を育てているように見えないし、逆に観客が愛想をつかせて離れてしまっているように思う。

 ゲンロンが実践の場として機能しているのは、観客を育てるという視座を持っていることが主な理由だと思う。単一のルールで持続するためには、勝ち続けることが優先される。しかし、複数化したゲームであれば、それぞれのゲームの間で勝敗を決めることには、あまり意味がない。他のゲームとは無関係に、ゲームとして残っていれば良い。ここまで書いてきてぼんやりと思うのは、それぞれは無関係だけど、面白い複数のゲームがあり、その時々で観客が往来できる状況が実現すればいいなと思っている。

小松理虔 当事者から共事者へ                                                        第3回 対象から離れる共事                                                                                

 小松理虔さんの文章を、東浩紀さんの理論のひとつの実践として読んでいる。ゲンロンβ45においては、「共事」=「ゲーム」、「支援を離れる支援」=「観(光)客」と置き換えて読んでいた。福祉の現場から小松さんが得た考えは大切なことだと思う。それと同時に、文章の中にフッと入り込んでくる小松理虔さんと奥さん・娘さんの話がとても重要なことだと思っている。互いにイライラしたり、させたりすることのある日常。小松さん自身が距離を自在に変えることができない関係性の中で、どのように小松さんの経験が染み出していくのか。

 「回路」という言葉が本稿に用いられているが、自省する回路と他者との関係性の回路の2つがあるような気がする。小松さんは福祉の現場で自省する回路を構築するための体験を積み重ねている。小松さんがこの文章を書くことが、他者との関係性を築く回路になり、私がこの文章を読むことが自省の回路を構築していき、私からまた染み出して、別の誰かとの関係性の中で新しい回路を築いていく。その小さな繰り返しと積み上げが大事なのだと改めて考えた。

星野博美 世界は五反田から始まった                                                       第13回 党生活者2 

 ゲンロン友の会総会での大五反田ツアーには参加しなかったので、4時間近くのツアーの一部でも、この文章で体験できることは良かった。潜伏者としての小林多喜二の小説と、そこで生活していた星野さんの祖父の手記が、同じ時代のそれぞれを写し出す。風俗街や甘味が、今とその時代を繋げている。そのことが五反田という場所に、時間的な奥行きも加えて、まち歩きに新たな感覚をもたらしてくれるような気がする。




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