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オイディオプス@Bunkamuraシアターコクーン

原作:ソポクレス
翻案・演出:マシュー・ダンスター
翻訳:木内宏昌
美術・衣装:ジョン・ボウサー
振付:シャーロット・ブルーム
出演:市川海老蔵、黒木瞳、森山未來 他

オイディプスを観劇してきた。シアターコクーンが実施している「DISCOVER WORLD THEATRE」の第7弾。ギリシア悲劇の「オイディプス」を英国の演出家マシュー・ダンスターが翻案した。主な出演者はオイディプス:市川海老蔵、イオカステ:黒木瞳、コロスの中心人物:森山未來である。

翻案するとあったので、どうなるか楽しみにしていたが、時代は近未来?シェルターの内部が舞台である。オープニングで警報がけたたましく鳴り響く中、ゲートが開き、防護服を着たコロスたちが入ってくる。それは、放射能を想起させる。ただ、ストーリーはほぼ原作のままであるので、疫病であるという設定もそのままのようだ。そのシェルター2階では、オイディプスとイオカステが暮らしている。場所としては、テーバイであり、オイディプスは国王であるという設定もそのまま。テクノロジーのレベルは現代相当で、動画中継が行われ、ヘリコプターで隣国からの使者が来たりした。

他の演出でオイディプスを観たことがないので、本作のみの感想となってしまうが以下にまとめていこう。

まず翻案の意図がよく分からなかった。いわゆる世紀末感、北斗の拳かと思うほどであるが、それによって観客がその世界に入り込みやすいのか疑問だった。ギリシア神話に世紀末を装飾した形だが、神への信仰は根付いており、予言に翻弄されているのは原作による。他方、外界からシェルターに戻った者に消毒を施す理性もある。テクノロジーが発達した中で、ここまで強い神への信仰が残っている世界観に違和感を感じてしまった。そういう意味でこの翻案が物語を補強する作用はなかったように感じた。

王という概念も謎である。市川海老蔵はスーツにネクタイであり、王や英雄という言葉にそぐわない気がした。原作よろしくオイディプスがテーバイを救ったことになっているが、何からどうやって救ったのか?気になったが解明されることはなかった。(原作であれば、スフィンクスの謎があるが、世紀末にスフィンクスもないだろう…もちろんこの疑問に意味がないことも理解しているが…)

桜の演出も?だった。プロジェクターで日本画風の桜の木が映し出され、シーンによって満開であったり、枯れ木であったりした。オイディプスが外界に出て行く最後のシーン。シェルターのゲートが開き、そこから桜吹雪?が舞い込む演出があった。場面としては盛り上がるが、日本で公開するから桜なのか?という安直さを感じてしまった。

今回の出演者で森山未來以外は初見であった。市川海老蔵のオイディプスは堂々たるものであったし、彼がいなかったら話にならなかったと思うが、前半の推理パートととでも呼ぶべき場面の市川海老蔵の語りを聞きながら、私は古畑任三郎を思い出していた。なんで思い出したか考えてみるに、セリフの言い回しが一因でないかと思う。世紀末感を演出しておきながら、セリフについては今っぽさはなく、割と戯曲そのままの印象。それが浮世離れ感を増し、古畑任三郎が推理を披露している場面を想起させたと思う。市川海老蔵が語る間、周囲でコロスたちがダンス(というかマイム?)をして、心情の可視化?をしていたが、視線が散漫になってしまうと感じた。演者・音楽・照明でさらにダンスがあると、情報過多で観客が感情を想起する余白が無いように思える。可視化は親切であるが、余計なお世話にもなりうる。今回については、過剰であったように思う。

「あの神」に祈る際に神楽鈴(巫女が手に持ってシャンシャン鳴らすヤツ)が用いられていた。これもそれっぽいからという以外、?な感じであった。様式は神道っぽいのに、オイディプスで「あの神」と名指されるものは、一神教のそれである。こういうミスマッチな演出が気になってしかたがなかった。

今作を振り返ってみるに、和風ハンバーグといったところか。ハンバーグ自体(ギリシア古典)は素晴らしく緻密なストーリーである。ただ、そこにおろしポン酢のソース(東洋的なモノ)をかけて、和洋折衷ですと言われても素直に納得できないところがある。個人的な見解であるが、演劇はプロセス、ダンスは結果であると考えている。前者はどう至るかを示し、後者は何が可能かを示す。本作がプロセスを示しているのは、ギリシア古典のそれとしてであって、演出はダンス的であったと感じている。で、そのダンス的、つまり見てわかる演出が私にとっては過剰なモノに映ってしまった。とはいえ、その過剰さがエンタメである面も否定できない。

いつもは小劇場の演劇しか見ないので、舞台美術や有名な演者に驚きつつも、これまで述べてきたような細かい積み重ねが没入感を薄めてきた。感情的なざわつきはなく、都度ツッコミを入れている、ある意味でまれな観劇体験であった。野暮であることは承知であるが、ちょっと書いてみた。

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