ゲンロンβ42 アンケート回答

さやわか 【新連載】愛について――符合の現代文化論                                  第1回 記号から符合へ――『エンドゲーム』の更新はどこにあるのか
 さやわかさんの新しい連載がいよいよ始まった。その布石である『ゲンロンβ39』の論考も面白かったし、ひとり語りのイベントでも、愛について書くことは明言していた。記号から符合へというテーマもクリティカルで、解釈の余地を狭めがちな現在において、重要な論考になりそうな予感がする。
 今回の『エンドゲーム』に対する分析は、一定の説得力はあったと思う。ブラック・ウィドウのアベンジャーズに対する関係性は独特のものだと思う。彼女がアベンジャーズという家族を壊さないように振る舞うことはハブになるだろう。が、コアではないように思える。様々な血縁的家族の物語が紡がれる中で、非血縁的家族の物語の萌芽は重要に思える。同時にアベンジャーズアッセンブリも重要なつながりを示しているとも思う。アイアンマンをはじめとする主要ヒーロー達が退くことによる次世代への継承、つまりは持続性についても考察が必要であろう。
 ジェンダー論としてもMCUのキャラクターは示唆的である。キャプテン・マーベルはあまりに強大な力を持っている。その超越性がヒーローとしての女性の物語の更新を阻害している気がする。それと比較すると、ブラック・ウィドウのアベンジャーズに対する、さらに自分がよりよくなっていきたいという想いは、人間らしい。その人間らしさに好感は持てるが、物語を更新できるヒーローとしての強さがあるのだろうか。自分にはまだ分からない。
 新しい符合を提示できるのか、今後も注目していきたい。余談であるが、15時から開始したゲンロン カフェは良かった(現地には行っていないが)。東さんのひとり語りも突発で実施され、長時間であった。定期的なイベントの積み重ねだけでなく、長く語りたいという熱がこれからのゲンロンカフェの大切な原動力のひとつになりそうな気がした。

東浩紀 観光客の哲学の余白に                                                                          第17回 『カラマーゾフの兄弟』は「軽井沢殺人事件」だった――ドストエスフキーとシミュラークル(2)

 ドフトエフスキーを読んだことがないので東さんの実感を想像することは難しい。が、その上で感想を書く。前回と今回の論考を通して、現実と虚構に対して、二つの体験があると思った。ひとつはぺテルブルクのような、虚構の物語を実在の町で体験する、いわゆるテーマパーク的なもの、もうひとつはスターラヤ・ルッサのように、物語の残骸から想いを馳せる慰霊的な体験だ。
 前者は、その場所に訪れさえすれば、現前するモノを体験することができる。小説を読むことは個人的な体験であるが、テーマパークのライドのように多くの人と同時に体験することが共感性を増幅するイメージがある。後者は、小説や映像による物語はあるが、その世界観をそのまま体現するモノが存在しない。慰霊碑ような象徴的なモノあるいは残骸のような断片があるだけだ。モノがない分の余白は観る者の想像力に委ねられる。それが人々に共感を生み出すのか、よく分からない。人々がその象徴的なモノに集い、時間を共有することで積み上げていくことが必要かもしれない。この論考では、ドフトエフスキーの小説という物語がベースとなっているが、戦争や災害のような個別の体験の集合体の場合、それらを統合して、継承していくことは果たして可能なのだろうか。また、ドフトエフスキーの小説も彼の現実をもとに物語へ昇華しているので、作者–読者、現実−虚構の関係性は複雑である。
 東さんの取り組みは非常に難しいものだと感じるが、だからこそ深まる思考を継続して読めることが非常に嬉しく感じている。

本田晃子 亡霊建築論                                                                                         第4回 《ソヴィエト宮殿》、あるいは透明なガラスの不透明性について

 フルシチョフによるスターリン建築批判は知らなかった。建築自体が権威を表現するという感覚が前近代的な感じがする。スターリンのソヴィエト宮殿に見られるレーニン彫刻の台座的な建築は分かりやすいが、滑稽さも感じてしまう。ただ、建築にはその時代を象徴する要素が組み込まれているのは事実だろう。
 フルシチョフの建築におけるガラスの透明性と指導者と建築家の関係性の不透明性の対比が面白い。そして、後日譚でアメリカのジョン・F・ケネディ舞台芸術センターとして形になったことも興味深い。フルシチョフが脱スターリンを求めた結果、ソ連の象徴としての力が削げ落ち、西側でも活用されうる形態となった。そのことが、ソ連を維持することの難しさの一端を表している気がする。


真野森作 つながりロシア 第10回 ルビヤンカ二番地の記憶

 大テロルという言葉は馴染みがなかった。ググってみると大粛清や大弾圧という言葉も並んでいた。大テロルとそれらの言葉がパッとつながらなかった。それが私とソ連・ロシアとの距離感なのだろう。
 個人の証言というより歴史の証言、それを日本語で読めることは大変重要なことだと思う。ゲンロンβでなければ目に止まることはないと思う。批評誌のような、ジャーナリズム誌のような、エッセイのような、ゆるい集合体であるゲンロンβならではのインタビューであると思う。
 タチヤナさんの語る言葉が突き刺さる。ゴルバチョフへの心酔、スターリンの権力とファシズム、『追いつかないよりは行き過ぎた方がましだ』という時代を読むことで、現在に生きる私がタチヤナさんの実感に近づく足掛かりを得ることができる。
 最後の問いかけに対するタチヤナさんの強い言葉を、私はこうして目にしている。ただ、この強い言葉も加害者側に届かないのだろう。怒りにまかせて、物理的に傷つけると、それは暴力の連鎖を生み出すだけだ。傷つけ合う負の連鎖でもなく、忘却と記憶の分断でもない歴史を紡ぐ言葉は見つかるのだろうか。

星野博美 世界は五反田から始まった 第10回 疎開

 “疎開”は“非難”に近いイメージだった。災害を避けるように爆撃を避ける。星野さんの祖父の手記に書かれていること、星野さんが読み取ること、星野さん父母から聞いたこと。それらが“疎開”という言葉の空間を押し広げ、より切実さを与えている。
 食糧にまつわるエピソードは、複雑な想いを抱いた。牛肉を食べる者と食べられない者、食糧を持つ者と持たざる者、生き残るために考えること。戦時中といっても多層的なのは当たり前なのだが、戦争という言葉の強さがステレオタイプなイメージを抱かせる。
 語り手と聞き手のモチベーションの違いも重要な指摘だ。知りたいという欲求は、後世に残すためには大切だが、人間関係において、ときに煩わしさも伴う。また、自ら語りたいと思うことは伝えたいだけではなく、口にすることで他人の反応を知りたいという欲求の現れではないだろうか。

吉田雅史 アンビバレント・ヒップホップ                                                        第21回 おしゃべりラップ論――エモ・ラップと言文一致

 次回からいよいよヒップホップとは何かに迫る。これまで〇〇のようなヒップホップという論で、ヒップホップがもつ他の表現のエッセンスが散りばめられていたイメージだった。これからはヒップホップのような〇〇、ヒップホップが代表する普遍性に触れてほしいと思う。音楽自体が直接的に感情を揺さぶるものであり、ヒップホップはその一表現でしかないという思いが拭えない。これからの言語化を楽しみに待ちたいと思う。

梅津庸一 展評――尖端から末端をめぐって                                                     第8回 ReFreedom_Aichi について

 あいトリは、祭(フェスティバル)ではなく、政(ポリティクス)になってしまったなぁという感想。この文章に限らず、あいトリについて発信した文章が、自動的にどちらかの陣営に振り分けられてしまう。まるでメールのフォルダ振り分けシステムだ。なんというか無関心をもう少し大事にしたいのだが…

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