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岡本かの子作「さくらんぼ」考察


はじめに


とても短いながら、登場人物が多くて相関関係が錯綜しており、内容がぎゅっと凝縮されて話の外にも時空の広がりを感じさせる作品です。一度読んだくらいだと人物の関係がつかめないところか、台詞が誰のものかもすぐにはわからないところがありますが、紐解いていくとなかなか面白い作品です。岡本かの子自信の生い立ちも反映されているようです。

勝手な解説をつけます。ネタバレになりますので、先に原作を読まれることをお勧めします。なお、朗読用に青空文庫に掲載されたテキストをもとにルビを振って縦書きにしたテキストを用意してあります。

原作


岡本かの子作「さくらんぼ」

朗読用テキスト

岡本かの子


1889年3月1日~1939年2月18日 小説家、歌人、仏教研究家。豪商大貫家の娘として生まれる。
16歳の頃、「女子文壇」、「読売新聞文芸欄」などに投稿を始める。兄の大貫晶川が谷崎潤一郎と親交があったことから、谷崎ら文人の影響を受けるが、谷崎はかの子を評価しなかったとのこと。17歳の頃、与謝野晶子を訪ねて「新詩社」の同時となる。19歳で岡本一平と出会い、21歳で結婚。長男、岡本太郎を出産。
一平の放蕩、芸術家同士の個性の衝突が夫婦関係にも波及。長女出産後、神経衰弱に陥り精神科に入院。
その後、一平は、家庭を顧みるようになるが、長女が死去。かの子は一平を愛することができず、一平の了解のもとでかの子の崇拝者であった学生、堀切茂雄と同居。
かの子と一平は宗教に救いを求め、仏教研究家としても知られるようになる。
(以上、Wikipediaから抜粋編集)

物語りの人物相関図


転載禁止

物語りから読み取れる人物相関図です。みか子が主人公の子どもなのか血縁がないのかは不明です。それによって、主人公が未婚かシングルマザーかの違いが出てて、味わいも変わってきます。

考察


女が男と居るシーンから始まります。女が男の頬をさくらんぼう三粒で叩くところからして、すでに二人が一定期間を共に過ごしおり、二人の関係を新たなステージに移さねばならない状況にあり、それは、女が男に「駈け落ち」の意思を確認しようとするものであることがわかります。

そばで、小さい「みか子」が金魚と戯れています。その姿を見て女が涙ぐみます。「みか子」が女の子どもであったなら、それは、「駈け落ち」により子どもと別れてしまうことを悲しむものととれます。血縁が無ければ、無邪気だった子どものころの自分に重ね、難しい決断をしようとしている自分の辛さを思うものかもしれません。

女の母であるおふくろは、勝手に、娘である女と、町長の息子である農学士との縁談を進め結納まで済ませてしまっています。弟子の酉子(ゆうこ)に稽古をつけながら、さくらんぼうを選っています。よいものはよそにあげるためと言っていますが、その「よそ」とは、町長あるいは町長の息子なのでしょうか。もはや傍目(はため)を気にすることなく、傷んだ(文中では「痛んだ」)さくらんぼうは腹の中に入れてしまっています。現実的、打算的な生き方をしていることがうかがえます。

さくらんぼうと琵琶の会話は、「女」が美しいがゆえにいろいろな男が手を伸ばそうとしてきていることを暗示させています。そして、イーゼルの上の絵が少ししかできていないということで、画家の男が、写生と言い訳をしながら女がピアノを弾いているところに侍り、筆が進んでいない、つまり絵を描くふりをして女と一所にいることを楽しんでいることを伺わせます。

砂川の話は、街も人も速いテンポで変わっていることを暗示させるものでしょう。それはどろどろしたものではなく、水の流れと空気と光線で植物がどんどん育っていくエネルギーとすがすがしい感じを醸し出しています。そのなかで、町長の息子は、農学士として、情緒には頓着なく実利的に物事を見る人間であることが表されています。このような人間の方が将来は金になるだろう。なので、女の母が縁談を進めているのだろうと察しが付きます。他方、そのようなタイプは、主人公の女は嫌いであり、その女の反応ぶりに町長の息子が惹かれていることがわかります。

男は、村の初夏の絵を描きに都会から出てきて、魚屋の2階に下宿しているのか、あるいは、居候していることがわかります。魚屋には16歳になるませた娘が居て、この男に気を寄せています。この男が、女の家で、女の家のさくらんぼを食べていることを知っています。そのため、女の家にいってさくらんぼを盗み男に差し出しながら、男に、あの女のところにいたんでしょう?と詰め寄るが、男はさらりと、そうだと答えています。

男は男で、そもそも描きに来た絵は一枚もかかず、ピアノのそばで静物を描くと言いながらそれすれできていない自分に苦笑をしています。

そんなとき、女は、いよいよ駈け落ちを決心し、家をでても楽譜だけは持って行こうと抱えています。さくらんぼの下をくぐって家を出ようとしているのは、母の目をかいくぐろうとして枝の下の方を身体をまげて歩いている様子かもしれません。枝に触れて、さくらんぼが襟口にこぼれています。

しかし、外に出ると、農学士と魚屋の娘が揉み合っていました。なにが起こっているのか?女は、二人に理由を問いただします。すると、魚屋の娘は、男にたべさせるためにはこのさくらんぼしか食べないためだからという(それが本当にこのさくらんぼが美味しいのか、それともこの家のものだからなのか?どこまでこの16歳の娘が考え理解しているのか?)。一方で、農学士は、お前は男と駈け落ちして出ていこうとしてるだろうから、という意味で、「駈け落ちするころが成就したと思ってさ」と答えます。修羅場感がでています。

しかしながら、なんと、男は呑気に、駈け落ちを断りに来た・・・・

町長の息子は、さくらんぼをさかなに(当時としては明るい)電灯の下で皆(男二人と女二人?十六の娘もか?)でビールを飲もうといいます。なんとものどかで、さくらんぼの果実の味のようにさわやかな結末。のどかな初夏の夕暮れ。これが、岡本かの子の仏教感による救いなのかもしれません。

備考


漢字の読みで「画架」は、朗読したときに聞き手がわかりやすいように「イーグル」と振りました。「画板」は「キャンバス」の方がイメージしやすいですが、そうすると油絵となってしまいます。水彩の可能性があるため「がばん」としました。「五十燭」は「50ワット」と読んだ方がわかりやすいかもしれません。それにしても、今は50ワットは決して明るい電球ではありませんが、当時は明るいイメージだった時代ということですね。

クラブハウスでの朗読

2024年6月19日 こもにゃん

2024年6月22日 こもにゃん


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