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俺のX 2024年8月②

8/6

家で黙祷してから出社した。広島の式典会場、テントがあるとはいえ暑かろうな。

8/7

おじさんたちは新しいことに興味がなくなったわけじゃない。興味はある。ただ、世間のいろんなものごとがアップデート版だったりリメイク版だったりに思えてちゃんと「新しい」とは受け取れなくなっているんだ。「これは新しいことだ」っていうワクワク感が行動のモチベーションだったのに、それが萎んじゃうんだね。

それでいて本当に新しいはずのものごとも、その萎びたフィルターでもって「前にもあったものじゃないのか」とか疑いながら接してしまうので体力を使ってしまうんだ。有り余る体力さえあればゴリ押しできるはずなんだ。
でもね、おじさんには体力がないんだ。がんばれ♡がんばれ♡

長崎市が平和祈念式典にイスラエルを招待しなかったからアメリカとかイギリスとかが不参加の意向ってニュースが。
SNSのオピニオンがほとんど長崎市の決断を支持っていうのはまあそうよね。そんな中でパレスチナとイスラエルを並んで座らせたらいいっていう駄コメントはおもしろかった。

ただこれも順序よく考えないと頭が冷えない。

8/8

昨夜は雷雨に降られながらの帰宅だった。ワーッ東南アジアみたいだ、と水たまり避けつつダッシュで帰って、一息ついてベランダから稲光を眺めながら、そういえば東南アジアって行ったことないな、と思った。

フワちゃんは好きでも嫌いでもなく、元気がよいな、くらいの印象だったけど、今回の件は誤爆だろうがなんだろうが「まあよくあること」とは思えない・容認しづらい心理が俺にもあるな。これをよくあることにしたらダメっていうか。

百歩譲ってタチの悪い冗談の類で、このくらいみんな誰でも言う、もしくは思ってるよね、ということにするとしても、それをみんなに見えるところで公開しちゃったってのがなあ。

誤爆すんなし、ということももちろんだけど、あれが「そういうこと言うのやめなよ〜笑」のツッコミ待ちの冗談だったとしても全然笑えないな俺は。君はどうだ。

なんか掲示板の荒らしみたいだもんね。自分が言われてイヤじゃないのかな。俺はイヤだな。自分が言われてイヤなことは自分も言いたくないな。

8/9

こないだ披露宴やったんすよ。

まえから匂わせてたでっかトピックのひとつがそれなんですけど、入籍はもうちょい前に済ませてまして、いつ書こうかなというところで、まあ別に引っ張ることでもないしいいかなということでひとつ。ありがたい。本当に各方面に感謝です。ありがとうね。今後ともよろしくお願いいたします。

式も披露宴も招待客はお互いに親族だけだったんすけど、めちゃくちゃいいホテルウェディングをぶちかまして、皆さんニコニコなさってて、終わって妻と一緒に高層階の部屋から都心の夜景を見下ろしつつシャンパンとかしみじみ飲んで。さすがに感慨深かった。すごいねえ。

そんで、ぼーっと見下ろしているこの都心が丸焼けになって焼け野原になって――っていうイヤな想像も、もちろんしましてね。もちろんってなんだ。破滅思考な中学生か。まだ現役なのか。おい結婚しちゃってるぞ大丈夫か。がんばれ。がんばるぞ。

でもさ、そういう、脳内で雑にシミュレートした最悪の未来っていうのが、絶対に来ないとも限らないのだということはわかる。わかるでしょう。何が起こっても変じゃない。そんな時代さ覚悟はできてる。そういうことがわかるくらいには大人になった。

で、そんな未来は絶対にイヤだな、というのも結局こうやってここにしたためている間はおっさんひとりの小さな希望でしかなくて、クソ理不尽にいのちを踏みにじってくる戦争であったり災害であったりというのは、自分だけの力では決して避けられないし耐えられない。それもそう。

ただ、イヤだな、という気持ちを持ち続けることはできるし、何らかの方法で、イヤだよ、と伝え続けることができるなら、無理くりこじ開けられる希望の未来っていうのもあるはず。みんなでイヤって思うことで、なんとかこれ以上のことが起きないようにできるはず。そう信じていたいなと思いました。長崎原爆の日です。生きようね。

地震ね。びっくりした。ドトールで作業してたんすけど店内サラウンドであの音がギュイッて鳴るとギュウッてなる。なんか鳴ってから地震が実際に起こるまでの数秒の間に避難したり安全を確保したりとかしなきゃなんだろうけど、本当に揺れるのかが気になって身体を固くしたまま揺れを待ってしまう。美しすぎる正常性バイアス。気をつけろ、死ぬぞ! 生きようね!

8/13

三連休は内祝いの品を選んだり近所の祭りをぼんやり歩いたりした。そりゃもう暑かったですけど、日が暮れてから知らない街を二駅間ほど歩いて気になった飲み屋に入る、っていうのを久々にやって、そういうのはやはり楽しくて、元気なうちは続けたいと思った。こういうのに付き合ってくれる妻でよかった。ありがたいね。

それにしても創作から足が遠のいている。こういうのはもう自分だけで何とかなるようなものでもなく、計画性を持てば持つほど乖離してくる感じもあるし、極限まで自分を甘やかして創作アンテナがバッキバキになる瞬間を待つのがよい。そうか?

そうかな。そうかも。どうだろう……。

ちょっと脳みそが追いつかないくらいにいろいろ起こりすぎてはいるけど「でもこのくらい普通でしょ」みたいに、それこそきれいすぎる正常性バイアスにぐいぐい押し込んでいかないといけないかなと思う。よくないことなんだろうけど、何もしてないのにただアイデアだけ脳内でこねくり回し続けるだけの人になってしまうほうがイヤだね。よくない。まずは日々をこなしたい。こなそう。

本業でやっているECサイトの店長業務。お盆は倉庫が休みで出荷できないので「夏季休暇」ということにしているが、お客さんから来た問合せメールには爆速で返信している。えらいぞ店長。えらいか?

なんかこう、迂回して回り道してそっちのほうが実際には体力使うんですけど、そのほうが精神的にはラクだからついやっちゃうんだ……というようなこと。あるでしょう。

ド直球ストレートなうんこオピニオンを毎回きちんと受け止めてはいられないから、とりあえず投げる人に気付かれないようにぐるーっと後ろに回っていく。そうやって、こっちをぐるーり、あっちをぐるーりやっていると、なんかもうどう歩いてたかもわからなくなって。

とりあえず避けてたらなんとかなった、なあなあでいたら巻き込まれずにすんだ、みたいな経験からそういう後手後手の方法をとるのが常態化している。ラクっていうのも結局のところ、そこまで痛い目をみてないっていう程度だし、ラクなのかどうかっていうとだいぶ怪しいのに。回り道してるからいたずらに体力を使っているし。

余計なことで感情が揺さぶられないようにしている、ともいえるね。ラクだからっていうことよりも、そっちのカロリー消費を極端に恐れている。なぜなら迂回することが既にデフォルトになっているから。

まあでも「遠回りじゃないよ まっすぐな道を 蛇行しているだけ」って大好きなバンドの歌詞にもありますからね。日々のことは基本的に不可逆であるし、ある地点で真っすぐに見えていた道を実際に頑張って踏破したところで、振り返り見るマクロ視点では迂回路のほうが存外まっすぐだった、みたいなこともあるでしょう。逆もまた然り。

何を言いたいかというと、何かしらのフラストレーションが自分の中にかたちを持ち始めていてどうひり出すかを考えないといけない気がしてきたという、そういう話です。

幸い今月末にはめちゃくちゃ久々にライブもあるし、そうやってガス抜いてって残った腹の中の固形物をどうこねくってくか。誰の何の役にも立たないのかもしれないけど、そこを社会とか需要とかと結びつけるポイントみたいのを探すのは、わりとすきよ。

8/14

流通まわりの部門で働いているので倉庫が止まるとほとんどやることがない。いや探せばたくさんあるんだけども、なんかな。気象病かな。台風もくるみたいだし。

「女衒」…最近読んでた吉原関連の本でも出てきてて、なんとなく雰囲気で「にょけい」「じょけい」とか読んでたけど正しくは「ぜげん」らしいです。ぜげんて。読めんて。

普通に読書してるときだけでなくSNSとかでもみんな平気で「それ読めんの?」みたいな漢字を使ってて、あやふやな読み方をしていることがめちゃくちゃある。そのへん仕事柄もあるし気にしなきゃないけないんだろうなということで最近は即ググっている。

でもこの「即ググる」という行為がインスタント過ぎるのかぜんぜん知識が定着せずに「あっこれ前に調べたやつだ!」→「なんだっけ!」となるので俺は本当に勉強に向いていない。

ちなみに女衒も前述の本を読んでるときに調べたことがあったのに、さっき読んでた記事に出てきて「なんだっけ!」となった。のでまたさっき調べた。多分また忘れる。まあいいか都度ググれば。いいのか?

それでいくと「弄る」とか急にみんな使い始めたよね。「貶す」とか。なんか腹に落ちないので自分で使うときはもっぱら「イジる」「いじる」「けなす」ってひらいちゃうけど。なんかこう、1音=1文字のほうがトトトトって舌と頭に心地よい気がするので俺はひらくことのほうが多い。ひらいていきたい。オープンマインドで世間にもひらいていこう。(?)

腹落ち、ということでいえば、読んだら腹落ちできるんだろうなっていう本があって、そういうのって基本的に読後に何からの影響を受けて感情が高ぶって難儀しそうだから躊躇している。

いやいや感情が何も揺さぶられない読書なんて逆に何? というのもわかるけど、ほら中年だから。なるべく低カロリーで日々をこなさないといけないから。『パーティーが終わって、中年が始まる』を読むか読まないかで逡巡している。

試し読みはした。したんだけども、高円寺の安居酒屋で歳の近い友人と飲んでるときみたいな雰囲気で、それがもうね。雑多で濁っていて、ひどく心地よかった。

「俺らってダメだよなあ」とか言い合える時間って贅沢だったんだな、みたいなところは通過してきているはずだし、今更もう

なんかこう、満足感とやるせなさが半分半分、行間ににじんでいて。
何ならまだ現在進行形でもあるというのに、

朝の通勤路で、前を歩く女の子がペットボトルを歩道に落とした。女の子が拾う間もなくボトルは転がりガードパイプの下をくぐって車道へ。あっ、と小さく声を上げる女の子。

そこへ後ろから来た男の子がひょいとガードパイプを乗り越えボトルを拾った。女の子はボトルを渡されてあたふた。「あっ、ありがとうございます」と礼を言いながらも、受け取ったボトルを再び落としてしまう。男の子は笑う。「大丈夫ですか?」

流れで一緒に歩きだす二人。

では問題です。ボトルの中身は何だったでしょう?

「その男の子を殺すための水溶性の毒薬だった」
「ボトルの中身は女の子の尿」


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